#2 繊細

 午後。

 いつもと同じように彼女の元を訪れる。

 建前上はまた教科書を忘れたということにしておいたので、一緒に帰る友達に不審がられることはなかった。


 いつもと同じ時間。いや、少し遅いくらいか。

 今日は日差しが少しだけ強かったから、汗臭くないかと制服の臭いを確かめる。…微妙だ。

 いいか。少しくらいなら彼女もわかってくれるだろう。


 できるだけ汗をかかないように廊下を早足で歩いて、教室にたどり着く。ここ一週間、これほどまでに教室に着くまでの廊下が楽しく感じられたことはあっただろうか。誰が言うまでもなく、これは反語だ。


 扉に手をかけて、ゆっくりと開ける。

 まず、彼女の姿が目に入る。

 今日は、いつもの席に本を読んで座っていた。

 時折、風でなびいたカーテンの隙間から西陽が差し込んで、彼女を印象的に照らしている。

 いつもと変わらない、美しさ。

 いつもと変わらない、強い憧れ。

 そんな感情の中、僕は声をかけた。


「ごめん、月島さん…。遅くなっちゃった」

「…大丈夫よ。本も少し読めたし」

「……」


 普段とは少し違う雰囲気を纏っている彼女に、違和感を拭えない。


「それより、座らないの?立ったままだと疲れるわよ?今日は話すこといっぱいあるんだから」


 相変わらず可愛い。

 ただ、違和感の正体は、僕にでもすぐにわかった。


 外見には何の変化もない。亜麻色の綺麗な髪も、つぶらで優しい瞳も。

 …まるで、また別の誰かが、月島さんの皮を被って出てきたかのような。


 そこまで親しい仲ではないにせよ、こうして話す相手ではあるから、一応聞いてみる。


「…なんか、変わった…?」


 少し、表情にまた翳りが出る。

 今日の彼には、目に入ったようだ。


「…あら、分かるのね。ま、当然かしら…」

「…当然?どういうこと?」

「いいの。あなたは知らなくてもいいことだから」

「左様にございますか…」


 そういう風に言われると、強く出られないのが僕だ。

 こういうとき、ふとクラスの中心にいる、あの山崎くんだったらどうするだろうかと考えてしまうのも、僕だ。


「そんなことより。時間、なくなっちゃうわ」


 …こんなときにも、月島さん可愛い、なんて思ってしまうのも、紛れもなく僕だった。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



「月島さんってさ」

「……」

「いつも、違う本読んでるよね?」

「そうね」


 日頃気になっていたことを聞いてみる。


「あれさ、どうやって選んでるの?」

「どうって?」

「いやだからさ、例えばジャンルとかさ、作家さんとかさ…。いつもなんか違う人の本読んでるじゃん?」

「そのことね…」


 彼女は、少し窓の方を向いて俯いた。

 どうやら、僕は地雷を踏んでしまったようだ。

 後悔に苛まれていると、彼女が口を開いた。


「…単に、気分よ」

「…え?」


 思ったよりもずっと軽い答えだった。

 気分…?


「そのままよ。その日の気分で選んでるだけ」

「あんないっぱい家に本あるの?」

「…そうよ」

「すげ…」


 やっぱり高嶺の花だな。お金持ちでもあるのか。

 それとも、家が本屋さんとかだろうか。それだったら頷ける。

 僕が驚いているのを見て、彼女は不思議そうにこちらを見る。


「そんなに驚くことじゃないわよ。全部買ってるわけじゃないんだから」

「そうなの?貰ってるとか?」

「…ま、そんなところかしらね」

「それでもすごいなあ。僕だって読んでみたいもん」

「…それだったら、いくつか持ってくるけど」

「マジ!?超嬉しいよ、月島さん!」

「……。…喜んでくれるならよかったわ」

「あ、ごめん…」


 少し、熱くなりすぎてしまった。

 いや何、タダであれだけの本を読めるなら嬉しいことこの上ない。

 それに、…明日以降も月島さんと話ししていられるし。


「…そんなに本、好きなの?」

「いや、まあなんていうか、…好きです」

「そうなんだ。意外」

「意外って何ですか意外って!僕だって本くらい読みますよ!」

「ふふっ。ごめんなさいね、つい」

「……」


 からかい癖は昨日と一緒だった。

 少し雰囲気が変わったと前述したが、いやほとんど変わっていなかった。変わったのは口調くらいだろうか。

 いや、昨日よりも大人びている印象は強い。

 昨日のがとちおとめくらいの感じだとするなら、今日のはマスカットといったところか。


「…あの」

「どうしたの?」

「時間、大丈夫なんですか」

「え?」


 話し込むうちに、いつも別れるのと同じくらいの時間になってしまった。

 大丈夫だろうかと彼女の様子を伺う。


「…今日は、いいの」

「…心配しなくてもよかったですか」

「ええ。でも、…ありがとう」

「……ッ」


 ここまで素直に感謝されると逆にやり辛いというか…。いや元から十分やり辛いんですけどね?ええ。


 ふと彼女の顔を見ると、疲れの色が滲んでいた。

 聞くべきではないとわかっていても、口からついこぼれてしまう。


「…なんか、無理してない?」

「……」


 返答はない。

 伏せられたままの彼女の目を真剣に見つめながら、沈黙が破られるのを待った。

 夕に染まる静寂。

 わずかに唾を飲む彼女の仕草までもが、克明に焼きついた。


「…そう、見えるの?」


 たっぷり2分ほど待って、ようやく静寂は破られる。


「まあその…何となく、だけど」

「そう…」


 雰囲気が変わった云々以前の話だ。

 疲れの色を覆い隠して生きていけるのは、達者な演者くらいだ。そうでなければ、どこかに必ず色濃く滲み出てくる。


「…まだ私もお子様、なんてことなのかしらね」

「……」


 お子様、ね。

 僕も、そうなのかもしれない。

 だって、こんなときにも、月島さんが愛しいのだから。

 わがままな人間だ。


「…大丈夫よ。心配いらないわ」

「いらなくなんてない!」

「……!」

「あ…」


 大きな声を張り上げ過ぎてしまった。

 自分の行為に、自ら驚いてしまう。

 こんなに声を上げるなんて。


「確かに、昨日今日じゃ話せるようなことじゃないかもしれないけど…」

「…だから、心配いらないって…」


 彼女の言葉を遮って、なお続ける。


「でも、それでもさ!」


 確かに。

 僕でなくたって、彼女の挙措には一々眼を凝らすだろう。

 僕でなくたって、彼女のことに詳しい人はたくさんいるだろう。

 僕でなくたって、彼女が悩んでいたら手を差し伸べる人はいるだろう。

 僕でなくたって。


 でも、僕でなきゃ、できないことだってあるはずなんだ。


「せめて僕の前では、僕の前だけでいいからさ、」

「……」

「…ありのままの、普通の月島さんでいてよ…」


 吐き出してほしい。

 愚痴も。妬みも。痛みも。辛さも。

 僕含めたみんなに高嶺に祀り上げられた、いかようにもなるだろうその苦しみも。


 本当に昨日今日で作り上げたこの程度の仲でそうしてくれなど烏滸がましいにも程があるなんてこと、僕が一番分かってる。

 でも、こうして放課後二人きりで話せるんだから。

 誰も口を挟まない、この空間が準備されているのだから。

 これまでただ遠巻きに見ていることしかできなかった、そんな僕の、精一杯のだった。


 再び、静寂が訪れる。

 気温も高くないのに、額を汗が滲んでいく。

 不意に風がやんで、カーテンは固まってしまった。

 この空気を換気してやりたい気持ちがあっても、何ものも僕の思惑にそぐわない。

 ただ、答えをじっと待つのみ。


 彼女は、悩みに悩んだ末に。


「…ごめん、なさい」



 若干震えた声を残したまま、手にバッグを持って、教室を飛び出していってしまった。


「つ、月島さん…」


 やはり、僕でなかったら。

 山崎くんだったら。


 …良かったのに。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



「…ただいま」


 あのまま、僕は家にやっとの思いでたどり着いた。

 本当にたどり着いたという感じで—いや表現的には漂着したというのだろうが、とりあえず、帰途のことは何ら覚えていない。


 ただ今日もいつも通りに、僕の帰りを知って台所から母の騒がしい足音が近づく。


「おかえり海斗。早速なんだけどお使い…」

「今日はごめん。疲れた…」

「え?ちょっと海斗?…ああ、もう」


 恨み言を吐いた母の横を通り抜けて、階段を足早に上がる。

 部屋の扉は何も悪くないので、八つ当たりはためらって、いつもよりもなお丁寧に閉める。


 バッグを机の脇に無造作に放って、ベッドに横になる。バッグには悪い気がしたが、それ以上気にできるほど僕の精神は頑丈ではなかった。


「『ごめんなさい』か…」


 別れ際の彼女の最後の言葉を、何気なくつぶやく。

 僕の願いが届かなかったのか。はたまた、僕のそれが邪魔なのか。いやそれとも、僕にはわからないという拒絶の意思の表れなのか。

 全てが僕に当てはまっているような気がして、逃げるように目を瞑る。


 何もかも忘れ去ってしまいたい。

 何もかもなかったことにしてしまいたい。

 何もかも、夢であってほしい。


 惨めさ、悔しさ、悲しさ。

 あらゆる負の感情が、僕の精神を擦り減らしていった。


 落ちていく。

 深く暗い、海の底へ。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 ゆっくり、目を開く。

 厚手のカーテンを閉めていなかったからか、外の暗闇が部屋の中をも飲み込んでいた。

 枕元の電波時計が差す時刻は午前3時27分。

 どうやらそのままご飯も食べず、風呂にも入らず、僕は眠りに入って行ってしまったらしい。


 少しだけ片付けられた机の上には、ラップがかけられた昨日の夕食が置いてあった。

 一緒に、小さな一枚の紙切れが。



『疲れた時にはちゃんと寝なさい。

 起きたらご飯もしっかり食べて、風呂にも入っておくこと。

母さんより』



 そういえば、昨夜から母は法事で帰省するんだった。深夜バスで大阪へ行ったらしい。

 先週くらいに言われたことを思い出して、辟易する。あのときはあの程度のことで浮かれてたなあ。


 当然ながら、用意されたご飯も5時間ほど経ってしまっていたので、もれなく冷めてしまっていた。

 ご飯を温めるために、お盆を持って居間に降りる。


 温めている間、先々週録画したアニメを見た。

 よくある、異世界転生モノのアニメ化バージョンだ。

 最終回も近づいたこの回では、主人公がヒロインの運命を命を賭けて変えてやろうと決意する。そうしてこれが最終回につながっていくのだが。


 アニメを見るか、ゲームをしていれば、気は紛れた。

 勉強は、する気になれない。

 しようとするたびに、彼女の顔が出てきて集中できなくなるだろうことはやらなくてもわかる。

 だって、僕は。

 これでも僕は、彼女が好きなんだから。


 電子レンジが温め終わりを告げると、僕はすぐに飯を駆け込んだ。少し水分が逃げていてパサついてはいたが、食べられないわけじゃない。


 急いで食べ終わると、すぐに風呂に入って、もう寝てしまおうとベッドへと潜り込んだ。


 睡魔は、いつもの何倍も早く訪れた。

 ゆっくりと意識が落ち着いて、僕は再び眠りについた。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 次の日。

 昨日あんなことがあったから、終日授業に身が入らなかった。

 国語の授業では音読で指名されても、どこを読むかわからなくて聞き返し、怒られた。

 数学ではもう勉強した範囲だったのに小テストで1問も正解できなかった。

 あとはどうにか持ち直したが、昼休みに担任に呼び出され説教までされた。たるんでる、だの、しっかりしろ、だのと、耳にタコができるくらい聞かされた。

 とにかく、今日はひどかった。


「海斗、お前今日なんかおかしくないか?」

「……」


 もはや、マイペースな僕の親友にも心配される始末。かつて経験したことのないくらい調子を乱されている。


「海斗?」

「…ああ、ごめん、大丈夫だと思う。…多分ね」

「多分てお前」

「まあ心配すんなってことだよ」

「…そうかい」


 僕自身の問題だから、心配してもらうようなことではない。

 …僕にしか、解決できない問題なんだ。

 誰も、電子レンジみたいに甲斐甲斐しく僕らの仲を暖めてくれる人などいない。

 だから、今日は、僕からすぐに謝るんだ。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 放課後。

 いつものように、一人誰もいない廊下を歩く。

 蛍光灯がチカチカと明滅している。

 外は雨が降り始めて、湿っぽい空気が漂っている。


 足取りは決して重くない。それどころか、早く会わなければと使命感のようなものに突き動かされて、若干早足ですらある。


 早足のまま、教室の前にたどり着く。

 扉の磨りガラスからは、中の様子を窺い知ることはできない。

 ゆっくりと、息を吐く。覚悟は決まっていたはずなのに、ここに来て少し尻込みしてしまいそうになる。

 頬を二度三度叩いて、気合を入れ直す。


 そして、扉に手をかけて…。


「…なんか、昨日はごめ、…」


 彼女は、そこにいなかった。

 僕が欲しがった、数冊の本を机の上に残したまま。

 僕が一番見たかったのは、僕が一番欲しかったのは、彼女のどんな時も美しい、その笑顔だったのに。


 失意のまま、立ち尽くす。

 呆然自失の僕に意識が戻ってきたのは、数分後だった。

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