#3 別世界

 事態が、全く把握できていなかった。

 覚悟を決めてここに来て、大仰な意識で教室の扉を開けたから、肩透かしを食らったというのもないわけではない。

 けれど、何より大きいのは、一週間近く続いてきた僕らのこの秘密の時間が、脆くも崩れ去ってしまったという事実だ。

 そのせいで、動揺が収まらない。…いや、僕ごときが動揺していい問題なのかすらも定かではなかったが。


 目の前に広がっている、虚無の空間。

 そこにいるはずの人影が、かけらも感じられない。

 窓も固く閉じられ、桜を散らした風が無造作に窓を叩くのみ。西陽も、僕のことなど見てはくれなかった。


 机の上に置かれた本は丁寧に並べられていた。

 机の横に掛けられているはずのバッグは、もうどこかへ行ってしまったようだ。


 不意に、不純な淡い期待が、頭を過る。

 …この本を読んでいれば、いつか彼女が戻ってくるのではないか。


 そんな不確実な期待に身を委ねて、一番手近な本を手に取る。

 また、全く違う文庫本だった。

 窪美澄の『ふがいない僕は空を見た』だった。


 僕は、なんだか怖くなって、本を元通りに戻す。

 そのまま、逃げるように教室を後にした。

 …ハラリと落ちたメモには気づかずに。




『今日1日だけ、時間をください。明日は、またここで待っています。

 月島桜子』



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 逃げるようにして、家にたどり着く。

 玄関を押し開ける手にも、あまり力が入らない。


「……ただいま」


 思ったよりも弱々しく掠れた声が出た。蚊の泣くような、というほどの小さな声ではなかったが、それでも相当の疲れを自覚するには十分だった。

 身体的なものではない。

 だから、寝ればどうにかなるものでもない。けれども、寝て忘れてしまわないと僕が壊れてしまう。


 僕の声に応えるものはいない。強いて言うならば、面倒くさそうに応える妹の声がわずかにリビングの方から聞こえてくるだけだ。

 今日のこの状態からしたら、こうである方が助かる。残念ながら僕は傷口に塩を塗られて喜ぶようなドMではないからだ。


「……」


 昨日よりもずっと静かに、薄暗い階段を上る。

 いや、確かに言うならば静かにしか上れないという方が正しい。足にも、精神的な疲れが影響してきているようだ。

 いつもより重い部屋の扉を開けるなり、ベッドに倒れこんだ。けれど、今日は眠れそうにない。

 手首をおでこに乗せて、仰向けになる。

 天井の白が、目を焦がしてしまいそうだった。思わず、目を瞑る。


 もう何も考えたくない。

 どうして、とか。

 どうしたら、とか。

 そんな余計な考えを追い払うように、体を起こし机に向かう。

 けれども、勉強しようとする僕の頭には彼女の顔が浮かんで離れなかった。

 そんな僕の勉強が捗ることもなく。

 ただ焦りだけが、僕の神経を逆撫でしていく。

 ただ、時間が流れていく。


 そんなとき。


「…お兄ちゃん?」


 扉がノックされるとともに、妹が控えめに部屋の中の様子を覗いてきた。


 苛立ち紛れに言葉がきつくなる。


「…なんだよ」

「ご飯。…食べよう」


 ああ、もうそんな時間か。

 見上げた時計は、もうゴールデンアワーを指していた。

 シャープペンシルから手を離す。

 ゆっくりと立ち上がった手にも、力はない。


「ねえ」

「ん?」

「その、えっと…大丈夫?」


 妹は僕の顔色を伺いながら、遠慮がちに聞く。顔にも真剣味があって、手の先をいじりながら聞いている。


「…なにが?」

「いや、だからさ…なんかお兄ちゃん最近変なんだもん。先週のはじめぐらいになんか機嫌いいなって思ったらさ、ここ2日、…なんか元気なさそうだし」

「…わかるか」

「うん…。だって、家族だもん」

「……」


 家族、か。


「まあ、お兄ちゃんにも色々あることくらいわかるから。今はご飯」

「…そうだな」


 こういう家族特有の距離感は時々ありがたく感じる。無駄に詮索してもらいたくないとき、いやコミュニケーション能力の高い奴なら軽々こなしてくるのだが、そういうときにちゃんと身を引く。しかし引きすぎることもなく、本当に大変なときは受け止めてくれる。この絶妙な距離感が、僕に安心感をくれる。なんとも言えない、この暖かさ。だから僕は、この家に帰ってくるのだろう。


 妹の後をついて下の部屋へ降りていく。

 その背中に、声をかける。


「…なんか、ごめんな」

「え?なにが?」

「いや、だからさ、心配かけちまったな、ってさ…」


 ここ数日、謝ってばかりだ。

 色々な人に心配かけて。

 情けない。


 けれど、妹は僕よりもずっと大人だった。


「…いいの。だから言ってるでしょ?家族だ、って」

「そうかもしれんけど…」

「いいったらいいの!お兄ちゃんがしっかりしてたら私が困…じゃなかった、世界がぶっ壊れちゃうから!」

「なんでだよ」

「なんででも!だからいいの!」

「ああそうかよ」


 なぜかぷりぷりと怒り始めた妹の後をついていく。思わず、くすりと笑ってしまう。

 いつの間にか、僕を覆っていた暗い霧は晴れたみたいだ。


 …やっぱり後でちゃんと感謝しとかなきゃな。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 夕食をペロリと平らげた後、すぐに風呂に入って寝る準備をした。とは言っても、もう10時を大きく回ってしまっている。

 倒れこむようにベッドに横になる。


「……」


 まだ眠気もあまりなかったからか、寝付けない。

 こうして無理して寝ようとすると、…ほら月島さんのことを思い出してしまう。思い出したくないというのはひどく自分勝手な話だが、ただどんな悪夢よりもあの時の悲壮な顔と声は、ずっと僕の脳の奥に焦げ付いて離れない。

 一つ小さくため息をついて、部屋の外へ出た。



 二階の廊下は、とても静かだった。

 母が帰省していていないというのに加え、父は単身赴任で遠く岡山の地にいる。先月末には家に桃ときびだんごが大量に届いた。今でも若干残っている。

 夜になると、まだ床は冷たくなる。

 ひんやりとした感触が、足を伝う。

 目指すのは、右奥の扉。

 女子を体現したような部屋。


 軽く、2度ノックする。


「…なあ、結。…起きてるか?」


 年頃の女子中学生だからまだ起きているとは思うが、一応確認だ。

 すると、思った通り部屋からはっきりとした声が返ってきた。


「うん、起きてるよ。どうしたの?」

「いや、ちょっと聞きたいことあってな」

「聞きたいこと?」

「…うん」


 これは妹だから聞けることだ。

 妹がモテ女で、年頃の女子中学生で、…僕の妹だから、聞ける。


「…なあ」

「……」


 ゆっくりと間をとって、口を開く。



「もし。もし、の話だけどさ、お前だったら、仲いい奴に知りたくないことしつこく聞かれたら、どう思う?」



 返答を待つ。

 妹も真剣な質問だとわかったのか、真面目に考え込んでいるようだ。

 この間は、今まで妹と話してきた中で一番長いだったと思う。それはさながら、時が止まってしまったかのように。


 長いこと待って、ようやく声が聞こえた。


「…うーん、どうだろ。まあでも、仲良くてもそうじゃなくても、プライベートなこと聞かれるのは、…ちょっと嫌かも」


「…そう、だよな…」

「けどさ、それが、…どうしたの?」

「……いや、なんでもない」

「…そう」


 それきり、再び会話が途切れる。

 本当に僕を心配してくれているのか、切なそうな息遣いが扉越しにでもわかる。


「でもさ、たまには相談して?そうじゃなくても、ほら、話聞くくらいならできるから」

「……」

「…だから、あんまり、無理、しないでね?」

「…わかってる」


 心配させないように気丈な声を出そうとしたが、口から出てきたのは弱々しい声。

 しくじったな。…また、彼女のことを思い出してしまった。


「…おやすみ、結」

「うん、おやすみ。お兄ちゃん」


 足の先は、完全に冷え切っていた。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 結局昨夜はなかなか寝付けなかった。

 記憶がなくなったのは2時を少し過ぎたくらいだったから、多分そのあたりに寝たのだろう。

 鏡を見なくても、目の下のクマは自覚できる。


「おう、海斗おはよう」

「…ああ、おはよう」

「…どうしたお前」

「…なんもねえよ。ただ寝不足ってだけ」

「勉強のしすぎでか。アホかよ」

「…そうっぽいわ」


 実際アホではあるからな。


「体は大事にしろよー」

「はいはい、ありがとう」


 話もそこそこにして、自分の席に着く。

 ふと、後ろの方を向く。


「……」


 月島さんは、今日も本を読んでいる。僕のことなど眼中にない、といったように。

 ふうっ、と苦い感情を吐き出す。


 いや、これが普通なんだ。

 こうやって、僕は取り巻きに混じって外からただ見ているだけが。

 ガラスの中に展示された最高芸術を、ただ感心しながら見ているだけが。

 彼女からは石ころとか風景の一部くらいにしか見えていないような。

 こんな世界が、普通だったんだ。

 なにを勘違いしていたのだろうか。たったの一週間くらい一緒に話していただけなのに。

 僕は平凡で。

 彼女はダイヤモンドで。

 その彼我の天賦の差に、何故しがみつこうとしたのだろうか。


 これが、普通なんだ。


「……」

「……」


 最後にちらりと振り向くと、目が合ってしまう。

 気まずくなったわけではないが、劣等感からすぐに目をそらす。

 春の香りが、窓から割って入ってきた。


 もう、これで最後だから。

 目を瞑る。


 なぜだろうか、僕をとらえた彼女の眼差しには、決意がにじんでいた。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



「起立。…礼」

「「「さようなら」」」


 今日も6限の授業があっという間に終わって、終業の時間になった。

 それぞれ、部活の準備を始めだした。


「海斗、帰ろうぜ」

「…うん」


 ちらりと月島さんの方を見る。


「……」


 相変わらず、読書に勤しんでいるようだ。

 ちなみに、今日読んでいるのは橋本紡の『流れ星が消えないうちに』だ。

 ああやって本を読んでいる月島さんにお節介な感情を抱くのも、今日で最後だ。


「…海斗?」

「…ああ、ごめん。じゃ、帰ろうか」

「おう」


 後ろ髪を引かれる思いで、教室を後にした。


 …最後まで、彼女は彼を見ていたのに。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 今日は久し振りに我が親友と帰宅。


「そういやさ、月島さんって最近彼氏できたらしいな」

「…へえ。………………え!?」

「どうしたお前。知らなかったのか?この俺でも知ってんのに」

「…いや僕あんまそういうの疎くて…」

「いや疎いもクソもみんなこの話くらいしかしてねえぞ、最近」

「そうなの!?」


 いかに僕の魂が抜けていたかがよくわかる。

 それにしても誰なんだろう…。…いいなあ。


「その彼氏ってどんな奴なの?」

「いや、彼氏が誰とかは分からんらしいけどさ…」

「え?」


 どういうことだろう。

 彼氏が誰だかわからないのに彼氏ができたらしいって…。



「なんか聞くところによるとさ、ここ最近ずっと放課後教室に残って誰かを待ってるらしいんだよな。月島さんに気に入られるなんてそいつすげえな」



 ……。

 …………。

 ………………。


「…と…。…か…と…」


 …僕の、ことだよな?


「…海斗?」

「はッ!?」

「どうしたお前。ホント疲れてるんじゃないのか?」

「…ごめん、マジでそうかもしれないわ…」

「家帰ったらお前ちゃんと寝ろよ」

「そうするわ…」


 でも、もし僕がそんな風になれたんだったら。

 …もしそうなら、どんなに楽しかっただろうなあ。


 いや、だからもう忘れると決めたじゃないか。

 それに、もう何日かしたらその噂も嘘だってみんな気づくだろうし。


「はぁ…」

「どうしたん?」

「いやなんかさ、…僕とは絶対関係ない話だなって」

「はははっ、なに言ってんのお前…。今更何当然の話してんだよ」

「そうだけどさ…」


 本当に高嶺の花だ。僕ら凡人なんて目じゃない。


「…あ、駅ついた。じゃあな」

「うん、じゃあね」


 最寄りの駅に着く。

 彼はここから電車に乗って家に帰る。僕は家が近いので徒歩だ。


 駅の高架下をくぐって、反対側に出る。

 すると、突然差していた陽の光が陰っていく。

 空を見上げると、厚い雲がせり出してきていた。一雨来そうな天気だ。

 心なしか雨の匂いもする。

 家を目指す足は、図らずも早くなっていた。


 …家に着いたら何しようかな。

 ここ最近家に着くの遅かったから不思議に思われるかな。


 まあいいや。もうなんでも。

 いつも通りの生活に戻るだけ。ただそれだけだから。


 悲しくは思う。

 思うんだけれど、僕がしがみついていいところではないんだ。

 そう自分に言い聞かせていると、なんだか本当に悲しくなってきた。


 初めて彼女が僕に話しかけてくれたあの日。

 嬉しくって、舞い上がっていたあの日。

 色々といじられて、それでも楽しく話していたあの日。


 思い出していたら、キリがない。

 それだけ、僕は放課後のあの二人きりの時間が大切だった。

 でも、それをぶち壊したのは、…誰でもない、僕なんだ。

 最近ずっとこんな悲壮な気分になってて、本当に悪い気はするけれど、でも僕の自傷の気持ちは途絶えない。


 やっぱり、僕じゃなきゃよかったんだ。

 明日からは、また大衆の中に戻るだけ。



 その時だった。



「佐藤くん!」



 公園を突っ切っていた僕の鼓膜を震わせたのは、聞き慣れた、あの美しい声だった。

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