0ページ目:桜の香りに心惑わされて
#1 高嶺の花
彼女の秘密を知った時の話をしようか。
半年前の話になる。
確か、桜の舞う季節だったと思う。
その日は、何にでも平凡な気質であったが故に、勉強も人並み程度にはやる僕が、珍しく教室に忘れ物をして取りに帰ったという、今となってはそれがただの運命だったとしか思えないような、そんな日だった。
運命、というのは大仰かもしれない。けれども、その日がもしなければ、今僕は彼女と付き合ってなどいないわけだ。そういう意味では、運命とか奇跡とかを信じてみるのも、案外悪くないことのような気がした。
とにかく。
とにかく、僕としては不本意ながら教室に戻ってきたわけだ。
そこで、彼女を見つける。
「…あ、月島さん…」
「……」
彼女は、机に頬杖をついて窓の外を眺めていた。
やはり麗しい。横顔のその端正さ、写真にして飾っておきたいくらいだ。
しばらく僕は惚けていたが、幸い彼女はこちらの様子に気づいた風でもなかった。
窓が開いていた。
僕は気付かれないように、そうっと自分の机に向かう。
僕の机は彼女の2つ前の子の左隣だ。彼女の目に入る位置ではある。
だからこそ、彼女の黄昏の邪魔をしないように、精一杯の忍歩きをする。
目的の教科書を素早く発見した僕は、急いで教室を後にする。
…いや、しようとした。
声が、かけられたのだ。
「…ねえ、佐藤くん」
「ひゃっ、ひゃい!?」
「…どうしたのよ、そんなに驚いて」
声をかけてくるなんて思ってもみなかったんですよ。
それにしても、恥ずかしい。第一声がこんなに上擦ってしまうなんて。
彼女が、ゆっくりとこちらを向く。
ふんわりと、意地悪そうではあるがどこか純真な笑みを湛えた顔は、西から輝きを受けていた。
…美しい。
いや、見惚れている場合じゃないだろうに。
「いや、それより…、どうしたの、月島さん?」
「…何よ、何か用事がなくちゃあなたに話しかけちゃダメなの?」
「いえとんでもございませんそんなこと…というよりそもそもこの私めに話しかけていただいていること光栄にございます」
「……。いいんだよ?そんなに硬くならなくても」
「あ、いや、硬くなってるというわけでは…」
「なってる。…私、そんな人じゃないんだけどな…」
「……」
見たことのない顔だった。
窓の外を見る、憂いを帯びた顔。
さながら、日頃の扱いに嫌気がさしているような。
「…なんかごめん」
「いいの。もうなんか慣れっこだもん」
「でも、どうしたの?突然…ホント僕みたいな人に話しかけて」
「特に何かあるわけじゃないの。あるわけじゃないんだけど…」
「…?」
風が吹いてきて、カーテンをなびかせる。
彼女の言葉は、続かない。
疑問符を浮かべて待てど待てど、言葉は吐き出されてこなかった。
改めて、といったように彼女がこちらに向き直る。
「少し、私の愚痴というか…、話を、聞いてくれる?」
∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵
……。
………。
…………。
「…それでね、なんか先生が私の方見て笑うの。…珍しいな、って。私だって間違えることくらいあるのに。ねえ?」
「…いやなんか僕が簡単にそうだね、って言っちゃいけない気はする」
「なんでよ、いいじゃん。私だって人間だよ?それをまあ、まるで私がサイボーグかなんかみたいにさ…。ああもうムカつく!」
「…なんか大変だね…」
「大変、いやまあそうなんだけど…」
「僕なんて先生に顔すら覚えてもらえることなんてそうそうないよ?」
「…なんか、ごめんね…?」
「謝らないで…」
それから数十分。
話すことなんてどうせすぐ尽きて気まずい感じになると想像していたが、いや意外や意外、彼女も案外話せる人だった。
話せる人、という言い方をするのも、彼女にとっては失礼なことかもしれない。けれど、これほどに柔和な笑顔で駄弁られるような人だとは想像だにしなかった。
「あははははっ…」
「なに、なんか僕の顔についてた…?」
「いやね、さっきは謝られたのに、今はこっちが謝ってるなって思ったらさ、…なんか楽しくなっちゃって」
笑顔が、再び西日に輝く。
…またひとつ、彼女に惚れてしまった。
「…どうしたの?」
「い、いや、なんでも…」
ない、と言いかけて、言葉が詰まる。
不意に、あまいかおりが近づいて来たからだ。
「…でも、顔、赤いよ?」
…某ゲームで回避率が下がるのにも、十分納得がいった。
数瞬遅れて、少し飛び退く。
「び、びっくりした…。顔覗き込まなくたっていいでしょ」
「いいじゃん。減るもんじゃなし」
「減るよ!主に僕の純粋成分が!」
「……。純粋なの?」
「え、なんですかその間」
「ううん、なんでもない、なんでもないよ?」
「逆に傷つくからやめて」
どこからどう見てもまだ純粋だろうが。彼女いない歴=年齢だし。
いやまあ、確かに、エロ本漁って読んだりはしている。
確かに、女子更衣室だって覗こうとして、天使と悪魔の大戦争が起きたこともある。
確かに、近くの家で女性用の下着が干されているのを見て興奮したりもする。
でもこういうのは一般的な好奇心であって…。
はいすいませんでした。僕に純粋さなんてありませんね!ごめんなさい!
「…結論は出た?」
「結論?何の?」
「いやだからさ、純粋かそうじゃないかっていう…」
「ああもういいよ!僕は純粋じゃないです!ド変態の不埒者です!」
「あはははは…。さ、さすがにそこまでは言ってないよ」
いや言っただろう、それに近いことくらい。
彼女はケラケラと可笑しそうに笑う。
そうやって笑う仕草の中にも、普段感じている美しさの片鱗のようなものが見られる。
やめてくれ。また惚れちゃうだろうが。
こうしてひとしきり僕をからかった後、満足したのか、彼女は立ち上がった。
「あー、面白かった!…あ、もうこんな時間!私帰んなきゃ」
「え?」
言われて、時計を見る。
短針は5を少し過ぎたあたりを指している。
ただ教室に教科書を取りに戻ってきただけなのに、気づけば一時間弱も話し込んでいた。
「うわ、今日は勉強諦めるか…」
「なに言ってんの。ご飯食べてから時間あるでしょ。やんないと、置いてかれるよ?」
「あなたは僕の母親か」
「ふふっ、違うわよ。…けど、私じゃないんだから、ホントに置いてかれちゃうよ?」
「嫌味ありがとうございます」
何も言い返せないのが余計に腹立たしい。でも仕方ない、事実なんだから。
彼女は学年1位。
僕は学年193位。200位ラインの当落線上だ。
彼我には圧倒的な差がある。覆せない、何かがある。
この何かが、彼女を神聖視させる一因ともなっているのは、容易に想像がつく。
そんな彼女と面と向かって話せてる僕って…、あれ?超恵まれてね?
僕がささやかなありがたみを噛み締めていると、彼女はもう身支度を終えて教室を出ようとしていた。
そして、去り際。
こちらに向き直って、はにかんだ。
「じゃあね、今日はありがとう。…また、今日みたいに喋ってくれると、嬉しいな…なんてね」
月島さんマジ天使。
この時間を独り占めしている僕ってば、罪だなあ。許せ、クラスメイトたちよ。
「…いや、僕の方からお願いしたい位なんだけど…」
「うん。じゃあまた明日。お喋り、しようね…」
…彼女の笑顔が若干翳ったのは、上機嫌な彼の目には入らなかった。
∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵
興奮したまま、家に帰り着く。
「ただいま」
靴は、いつも通り3人分計10足が並んでいる。母親のと、僕の。あとは、年頃の妹のだ。
僕の帰りを待っていたのか、台所から慌ただしい足音が近づいて来る。
このスリッパの音は、間違いなく母だ。
「おかえり、あ、早速なんだけどお使い行ってきてもらっていい?」
ほらビンゴ。…いやだからといって何かあるわけではないが。
買い物か。スーパー若干遠いんだよな。
「…めんどくさいって言っても無駄でしょ?」
「あら、わかってるじゃない。じゃあこれ、買ってきて」
「はいはい」
「返事は一回でいいの」
「…ぁい」
返事もそこそこに、家を出る。
いつもならネチネチと駄々を捏ねるところだが、何たって今日の僕は機嫌がいいのだ。これくらいはちゃんとやらないと。神様が愛想尽かしちゃうかもしれないし。
今日は何だか不思議だ。
この時期なら少し寒いくらいの夕方の風も、どこか暖かく感じる。
道端のクローバーの花の小さな黄色も、視界に映り込む。
とにかく、今までに見たことがないくらい、世界が色に満ち溢れていた。
…ただ月島さんと話しただけなんだけどな。
それだけでこんなに世界が変わって見えるのなら、もし、もし万が一…付き合うことになったら、どうなるんだろうな。
朝。
彼女の『起きてよ』という優しい声で目を覚まし。
昼。
彼女が作ってきた弁当で、二人木陰でご飯を食べ。
夕。
帰り際に寄ったショッピングセンターで楽しく買い物なんかして。
夜。
彼女とラインでトークして、眠くなったら『おやすみ』っていうボイスメッセージが届いて。
休日。
駅前で待ち合わせして、隣町の遊園地でカップルっぽくイチャイチャして。
妄想は止まらない。
でも、本当に万が一…いや兆の一くらいの可能性で、そうなったとしたら。
…どんなに、楽しく笑っていられるだろうか。
想いが、高まる。
∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵
夕食は、ハヤシライスだった。
こういう食べ方をする人も多いと思うが、僕には最近になってマイブームになった、ハヤシライスにチーズをのせて食べるやり方で、ガツガツと食べていく。
ものの10分ほどで皿が綺麗になり、シンクで水に浸ける。
「食べるの早いわね。今日何かあったかしら…」
さすがにいつもより早く食べた僕を怪しく思ったのか、母が首を傾げる。
「何言ってんの。お兄ちゃんがこんだけ早いってことはさ、どうせアニメ見るからかなんかだからでしょ」
失礼な妹だ。
いいだろうアニメ見るくらい。あれは日本が誇る一大文化なんだからな。
「お前こそ何言ってんだ。勉強だよ勉強。やんないとテストもそうだけど、授業に置いてかれちゃうぞ」
「うわ、勉強ガチ勢だ…。そんなんだから童貞なんでしょ」
うるさいな、知ってるわ!
といつもなら言い返して喧嘩になっているところだが、あくまで今日の僕は冷静。
「そういうお前も勉強しないと彼氏と同じ学校行けないぞ?いいのか?」
「うっさいわね…。関係ないでしょ!?」
「あーはいはい。そうですね関係ないですよ。てわけで部外者は帰ります」
「ああもうむっかつく…」
こんなに可愛くない妹があってたまるか。こっちから願い下げだ。
リビングを出て2階へ上がる。
階段上がってすぐ左手が、僕の部屋だ。
机の上には昨晩の勉強の跡が残ったまま。
その山に、たった今持ち帰ってきた教科書がある。
あれだけ言われたからには、やってやろうじゃないか。
机に向かうと、自然と集中力が湧いて、それはしばらく解けることはなかった。
∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵
風呂上がり。
勉強がキリよく終わったころには、11時を大きく回っていた。
濡れた髪をバスタオルで乱暴に拭きながら、ベッドに腰掛ける。
僕は、風呂に入って歯を磨いたらすぐベッドに入るタイプの人間だから、もう寝る準備は整っている。
バスタオルをタオルハンガーにかけ、カーテンレールに吊るす。
部屋の電気を落とすと、暗闇を破るように枕元で充電していたスマホが光を発した。
急いで駆け寄って手に取ってみると、ゲームの通知だった。
半ば肩を落として、スマホを閉じる。再び、暗闇が包み込んだ。
仰向けになる。
いつ振りに、こんなに暖かい気持ちで眠るのだろうか。
…明日が、楽しみだなあ。
∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵
ああやって話すようになってから、一週間と少し過ぎた。
「おはよう」
「ん?ああ、お前か…。おはよ、ふああー…」
今日も僕の友達は気の抜けたあくびをする。
みんなも、仲のいい友達と固まっては昨日のドラマの話で盛り上がっているようだ。
みんなは、何も変わっていない。
自分の机に荷物を置いて、彼女に悟られないようそっと顔色を覗く。今日読んでいる本は三浦しをんの『舟を編む』だった。
…しかし、そっとやった甲斐なく目が合ってしまった。
やばい、と思いつつ、少し会釈する。
すると、優しい笑顔を浮かべて、彼女も会釈を返してくれた。
美しい。
ただその一言だけが彼女を修飾することを許されているかのような、そんな気分がした。
笑顔だって、破壊力抜群だ。ややもすれば鼻血すら出てしまうかというほどだ。みんなに見せてあげたい。守りたい、この笑顔。
誰の日常も変わらず平常運転の中で、僕の人生だけが—正確に言えば彼女のもそうかもしれないが—、違う方向へと変わり始めているようだった。
そして、この日の午後、僕は彼女の異変に気づくことになる。
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