#9-1 明るい

 積雪で交通機関が麻痺したというニュースを先週聞いたような気がするのは、多分僕の生活があまりに変わりすぎたからなのだろう。

 そのまでは、こんなに身だしなみに気を使ったり、朝早く来て誰かと待ち合わせたり、母親に変な心配をされたりすることもなかったのだ。大きな変化といって差分ない。

 今日も今日とて、窓ガラスに映り込む自分の姿を見ながらネクタイを整えて、姫君の到着を待ちわびていた。


「おはよ」


 凛と澄んだ声とともに肩を2、3度叩かれ、僕は振り返る。こうして僕の肩を叩くのは、もう彼女しか考えられない。


「おはよう、桜子」

「ふふっ」


 満足げに笑う彼女。当然のことではあるけれど、今朝も美しい。

 そんな彼女のバッグには、先日買いたてのキーホルダーが存在感を主張している。


「佐藤くんは、…つけてないの?」

「いや、…うん」

「どうして?」


 心配そうな、いや悲しそうな声音に聞こえた。

 こうやって心配させているうちは、僕もまだまだダメなのかなとも考えてしまう。

 慎重に、少し恥ずかしさを隠しながら、僕は首を横に振る。


「なんて言うか…はずれて失くしたらとか思うとさ、…怖くて」


 僕は臆病なのだ。

 彼女との思い出が、一つとて消え失せてしまうのに怯えるくらい。


 彼女は、僕の独白を黙って聞いて、それから可笑しそうに笑った。

 どうにも恥ずかしくなった僕は、頬を掻きながら目をそらす。彼女の言葉を待つまでの数瞬間が、異様に長く感じられた。


「…怖いの?」


 結局ひとしきり忍び笑ったあとで、彼女が念を押すように、意地悪な目をして、僕に聞いた。

 しばらく堪え難い沈黙にさらされていた僕の口をつく言葉は早口気味だ。


「ま、まあ、怖いって言うか、…どっちかって言うと嫌だって感じかな」


 さらに正しく言うならば、不安だろう。

 こういった交際が初めての僕にとっては、何気ない日常も皆一様に輝かしい思い出の一ピースになるのだ。だからこそ、失くしたくない。


 彼女も、一度瞑目してから、微笑んで小さく頷く。


「…私も」


 くすぐったそうに目を細めるその横顔は、朝の光をいっぱいに受けてほんのりと赤く染まっている。その胸中を計り知るのは、たとえ現代文の読解の出来もあまり良くない僕であったとしても、あまりに容易なことだ。


 少しの沈黙の間を、風が吹き抜ける。


「…とりあえず行こうよ」

「うん」


 僕が歩き出そうとすると、すぐに呼び止められた。


「あ、ちょっと待って」

「なに?」


 ゆっくりとこちらに近付いてきて、手のカバンを脇に置いて、両手を胸元へ伸ばしてきた。

 この時間にこの辺りの人気はそう多くない。

 近付いてきて目を閉じたらつまりそういうことになるんですけど…ッ?

 

 しかし、僕がそんな風にドギマギしたのも虚しく、彼女はネクタイに手を伸ばした。


「ちょっと曲がってる。だらしないの」

「……」

「…はい、できた」

「ありがとうございます…」


 僕が気になっていたのは、ネクタイどうこうではなく心拍が聞こえてやしないかということだけだったから、少し間延びしたふうになってしまった。


「…じゃ、行こっか?」

「あ、うん」


 そうして、二人肩を並べて歩き出す。

 話すことといったら、どんな本が面白いとか、昨日のテレビはどうだったとか、そういうごく普通の話だ。

 でも、これでいいんだ。


 梅雨前の空が、透き通るような青に染まっている。

 太陽の陰で、どちらからともなく手が重なった。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



「おはようございます」

「「おはよう、月島さん」」


「……ぅっす」


 彼女はクラスみんなに向かって挨拶する。

 それに対して、クラス中から応答がある。

 これが、最近になってからの朝の風景だ。

 元来友達もあまり多くない上に、それに彼女—僕(たち)にとっての女神様と付き合っているという事実も相乗効果を十二分に発揮して、挨拶する相手のそういない僕は、会釈程度はせざるを得なくなった。居心地の悪さは相変わらずだが、もう慣れ始めている自分に半ば驚愕している。


 そんな視線から逃げるように、ちらりと僕は親友の方を見る。

 この瞬間を待ちわびていたかのようにすぐ目があって、手招きされた。


「…?」


 あの日以来避けられてきたから、こんな時になんだろうと怪訝になりながら、彼の元へ向かう。視線は相変わらずまとわりついたままだ。


 程なく彼の元へたどり着く。が、逡巡しているのか、要件も話さないままむすっとしている。


「…どうしたんだよ」


 いたたまれなくなって、僕の方から話しかける。

 そうして、ようやく彼は口を開いた。


「…悪いんだけどよ、ちょっと手伝ってくんね?」

「…は?」


 自分でも思った。

 気の抜けすぎた声だなあ、と。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 同日、昼休み。


「ごめんね、なんか巻き込んじゃって」

「大丈夫だよ」


 僕らは、かの親友とともに昼ごはんを食べようと机を囲んでいた。

 今日は母親お手製の冷食弁当である。半分くらいが冷凍食品なので、母親とはなかなか言い辛いかもしれないが、作ってくれるだけありがたい。

 僕ら2人は声を合わせて、彼は少し遅れて、手を合わせる。


「「いただきます」」

「…いただきます」


 ほとんど戸惑い気味の彼の表情を意に解することもなく、目の前の弁当に箸を伸ばす。

 半ば呆れたような、それで本当に意外そうな声を出して、彼が話題を作る。


「…お前ら、ホントに付き合ってんのな」

「…そんなに意外?」

「噂は九分九厘嘘だと思ってた」


 ためらいなく言い切る我が親友に、言いようもない悲しみを覚えた。


「そ、そんなに?」

「冗談だよ」


 彼は目をこちらに向けずにそう軽く言った。

 クラスで騒ぎ立てている連中より、少しばかり感情の彫りが薄い彼がそう言う風に言っているだけでは、本当に冗談として言っているのか、はたまたそれも嘘であるのか、あまり見当がつかない。しかしどちらにせよ、側から見れば僕の立ち位置が弱いのは当然のことらしい。くそ。


 口の中の小さな生春巻きを飲み込んだ桜子が、今朝のことについて尋ねる。


「それで、今日私たちはなんで呼ばれたの?」

「そうだな。お願いしたいことがあってな」


 そこまでは知っている、と僕らは頷く。

 そして、彼はそんな僕らの顔を見比べ——ることもなく、桜子の方に目を向けた。


「特に、女子のことよくわかってらっしゃる貴女あなたにお願いしたいんだ」

「わ、私?」

「ああ」


 意図があまり判断しかねるようで、少し不安そうに彼女は僕に目をやった。なんでもいいんだけど、その表情カオいいですね。


 いや、しかしだ。

 改めて考えると何か変だな。

 僕も呼ばれてたような気がするのですが?


「あれ、僕は?」

「あー、うん。…お前はもういいかな」

「ええっ」


 まさかの戦力外通告に、僕は驚きを禁じ得ない。

 なぜかわからないけれど、どこからかピリッとした空気が感じられる。


「つまりあれか、僕は桜子のダシってことか?」

「ま、そうなるな」


 悪びれることもなく言われて、むしろ気が落ち着いてきてしまった。

 いわゆる虚無感のようなものに陥った感覚だ。あ、そうですか、みたいな。


 そんな僕の様子を不憫に思ってか—絶対にそんなことはないが—、彼はあえて言い直すように続けた。


「お前より月島さんのが間違いなく役に立ちそうだしな」

「…どういう意味?」


 その言い方に含みを感じたのか、彼女は聞き返す。

 彼女の言葉尻の雰囲気を感じて、彼が言い直した理由を悟った。


「いや、なんていうか…」


 言いにくそうに、彼は言葉に詰まる。


 少し経って、意を決したように—少し声のトーンを下げて、彼は言った。


「…3組にさ、大野ってやついるだろ?」

「大野、陽奈さん、だよね?」

「そうそう、そいつ」


 大野陽奈といえば、今まさに僕の真隣でモグモグとご飯を頬張っているこの女神様—もとい、月島桜子様と並んで、この学年の“二大高嶺の花女子ツートップ”と呼ばれている御方である。当然—独断と偏見しかないが—、桜子様の方が上である。高さで言っても、エベレストとマッターホルンくらい。どっちにしろのままであったら関わることもなかっただろう。

 そんな人と我が親友にどんな関係があるのか、全く見当がつかない。あったとして…、気になってるとかか?


「…その子が、どうにかしたの?」

「あいつ俺の幼馴染なんだけどな、」

「お前あの人の幼馴染だったの!?」


 予想の遥か上を行く答えに、思わず大きな声が出る。思わずというのは声だけではなく、思いっきり立ち上がってしまってもいた。

 男女問わず周りから奇矯を見る目が刺さり、反射的に椅子に座り込む。

 視線が痛い。


「お、おう…。そうだけど…」

「…ご、ごめん…」


 親友も、若干引き気味である。


「話、続けるぞ?…それでな、あいつの誕生日がもうすぐなんだが、…今年、何プレゼントしたらいいのかわかんなくてな…」

「まさかとは思うけどさ」

「ん、何がだ?」

「…毎年、プレゼントしてるの?」

「…しきたりみたいなもんだよ」


 あくまで習慣だったというのを強調するように、彼は目をつむった。


 …なんだよ、僕と月島さんよりもずっと昔から親密じゃねえか。ふざけんな。勝手にグアムあたりで挙式してこい。


「お前…人のこと言えねえじゃねえか」

「わりいわりい」


 全く反省の意図も感じられない返答に、益々苛立った。


 僕のそんな気持ちを制するように—いや、どちらかと言うと脱線し始めた話を本題に戻すために、桜子が口を開く。


「それで、私に?」

「そういうことだ。頼む。一緒に考えてくれないか」


 彼は珍しく頭を下げた。


 …ああ、確かに。

 そういうことなら僕よりも月島さんの方が確実だな。


 僕は内心で納得して、彼女の方を伺う。


「うん、そういうことなら、協力するよ。ね?」


 なぜか、僕に同意を求める。


「…え、僕も?」

「当然でしょ?…」


 一度言葉を区切ってから、彼女は屈託なく笑う。



「…私の、なんだから」



 …全く。

 この人は、人を乗せるのが上手いなあ。

 どうせ荷物を持たされるだけなんだろうけど、協力したくなるじゃないか。


「…了解しました、様」


 諦めたように、僕は言う。

 これからは、彼女と一緒にいる時間がきっと増えそうだ。

 そんな予感は、僕の職務放棄めんどくさいの意思を完全に吹き飛ばした。


 …まあ、二人きりではないけれど。


「…こいつらうぜえな。イチャイチャしやがって」


「なんか言ったか?」

「な〜んにも」

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