銀幕

 扉をひらいた琴音にうながされて部屋に入ると、ざわついた放課後の空気がとおざかった。

 そしらぬ顔をした部室に若干の居心地の悪さをおぼえながら、結は夏帆とともに中央の長机にスクールバッグをおろす。振りかえると琴音の満面の笑みがあった。

「ああ。今日一日、本っ当にこの時間が待ちどおしかった!」

 はずむような足どりで結たちのところまできて本を取りだした彼女に、夏帆が応じる。

「他人とはおもえない子がでてるしね」

「うん。でもそれよりミス・ウィリアムズがすき。あんな先生が英語を教えてくれたらいいのに」

「池永先生が落ちこむよ、それきいちゃったら」

「それはだって、ほら、お話の登場人物だし」

 まあね、と応じた夏帆は、ながめのまばたき程度にとじたまぶたをひらくと

「ミス・ウィリアムズってさ、かなり具体的にイメージできるよ。多分こんな人だろうなって」

「それわかるかも。さらにいうと小顔ですらっとしてる感じ」

「だね。たれ気味の目に綺麗きれいな形の眉で」

「隙をみせないようにむつかしい顔をしてることがおおいんだけど」

 笑うと人なつこい感じ、とふたりの声がそろった。

 結は、ミス・ウィリアムズが思いがけずみせた、たのしげな表情を思いだす。

 普段はそれを覆いかくして教師の顔をくずさぬ責任感の強さや、とおい異国の地で生活する気苦労は、どれほどの重さかと想像しながら。

「結はどう?」

「え? な、何?」

「ミス・ウィリアムズのイメージ。何かある?」

「あ。えっと……、ひだりの目のしたに黒子ほくろがある、とか?」

 その言葉で夏帆と顔をみあわせた琴音が身を乗りだす。

「泣き黒子。ありそう! ……でも、どうしてこんなにこまかいところまでイメージがおなじなのかな」

「たしかに不思議だね、そこまでくわしくかいてあるわけでもないのに」

「似たようなイメージの女優さんとか?」

「そういうことかもね。具体的に誰かは思いつかないけど」

 女優の名前をいくつかあげるふたりをみながら、結はおもう。

 ミス・ウィリアムズの印象がおなじということは、ふたりはすべてをわすれているわけではないのだ。三人で物語のなかに入りこんでいることをはなせば、もしかしたら思いだすのかもしれない。

 いい考えのようにおもえて息をすってみる。けれどもそれが声をむすぶことはなかった。


 にぎやかな声にまざって、結たちは通りへと出てきた。

 満足げなざわめきと夕闇との波間にただよう百年まえの景色は、心ぼそさと郷愁のまざった色あいに心をそめる。

 誰からともなく顔を見あわせた三人は、ほぼ同時にそこが本のなかであることを思いだした。安堵あんどと、宝物のような秘密を共有しているという連体感で笑みをかわす。

「映画をみたんだっけ、ボクたち」

 ひそめられた夏帆の声に琴音がこたえる。

「うん。一番おとなしい子のお父さんとお母さんにさそわれたの」

「一番おとなしい子か、なるほど」

 ふたりからやわらかな視線をむけられた結は、ちいさく首をすくめかけたが、不意に緊張した表情になった。

 お父さんとお母さん。何気なくしめされたその言葉は、児童養護施設でそだった結にとって、特別な意味をもつ。

 おおきな瞳は、まえをあるくふたつの背中にくぎづけになった。ちいさな手に力がこもる。息をつめて様子をうかがう。

「いや、三日分は笑わせてもらったな。あのボクシングときたら……」

 中折れ帽子の男性が肩をふるわせると、となりをあるく着物姿の女性が応じた。

「私は最後の場面かしら。花売りさんがふれた手の感触に気づいたとき、じーんときちゃって――」

「――あ」

 聞きなれたふたつの響きが耳朶じだをうった途端、声がこぼれた。

「どうしたの? 結ちゃん」

 振りむいた女性はおおきく波うたせた髪をサイドへながしてゆるくまとめた髪型で、やわらかな色あいのしまお召しの着物との組みあわせが、おっとりした雰囲気をよく引きたてており、男性のかっちりとした仕立てのスーツと中折れ帽子という出で立ちは、ハンチングにコックコートという見なれた服装とは違ったが、面倒見のよさと人なつこさがざっくりと削りだされた容姿に、洗練という新味をそえていた。

 ふたりが両親としてこの場所にいたことは、じんわりと心をあたためたばかりか、目がしらまであつくさせる。結はあわてて首をふり、気をまぎらわせた。

「な、何でも……、ない」

「そう?」

 小首をかしげたいとと視線をかわした智宏がいう。

「結、映画はどうだった?」

「……おもしろかった、すごく」

「そっか。そんならよかった」

 目尻にしわをよせた智宏は結のとなりをみた。

「夏帆坊たちは?」

 おもしろかったけど、ボクは女の子だし、坊なんてよばれる年でもない、とひくくなった夏帆の声に、よそいきの琴音の声がつづく。

「とてもおもしろかったです。本日はお招きくださって本当にありがとうございました」

「そんなにかしこまらなくていいって。こっちこそ礼をいわないとな。いい友だちができたお陰で結が毎日たのしそうだって、いととも話してたんだ」

「そうなのよ。ふたりともいつも結ちゃんとなかよくしてくれてありがとう」

 いとの笑顔とともに、五人のあいだになごやかな空気がみちる。

 よし、じゃあうまいものでも食ってかえろうと智宏が歩きだした。

「おじさんとおばさん、こっちでも全然かわらないね」

 夏帆がすばやく結に顔をよせる。物語にえがかれた約百年まえの景色は、ついさきほどよりずっと、打ちとけた表情にみえた。

 数分の距離をあるいて、一行は商店街にでる。

 煌々こうこうと街灯がそそぐ通りには、その日最後の呼びこみをいそしむ声と家路をいそぐ姿が行きかっているが、エンターテイメントここにあり、と声だかに主張する電飾をまとった映画館にくらべれば落ちつきさえ感じられた。

「ミス・ウィリアムズがいる」

 動くものをみつけた猫のような夏帆の声で、琴音があたりを見まわす。

「え? どこどこ」

「あそこ。時計屋さんのところ」

「ほんとだ」

 商店が軒をならべるゆるやかな登り坂のずっと先の方に洋風の店舗があり、そのちかくに遠目にもあざやかな金色の髪をもつ女性の姿があった。ほとんどの女性が和服の街並みにあって、洋風建築の時計店のそばをあるく彼女の洋装は、見たばかりの洋画の一場面をおもわせる。

「アメリカからいらしたっていう先生かしら」

 振りかえったいとが結にたずねた。

「うん。……あ、あのね、いい先生、すごく」

「みんな先生がすきなの?」

 三人分の肯定をうけた彼女が笑顔になる。

「ねえ智宏さん。ウィリアムズ先生を夕飯にお誘いしてみるのはどうかしら」

「そりゃいい。飯は大勢でくった方がうまいにきまってるしな」

 思いがけない提案とそれに応じる声に、結たちはふたたび笑顔をかわした。

 坂道をくだってくるミス・ウィリアムズとの距離は、またたく間にちぢまる。

 表情がわかる程度の距離までちかづいたところで、結は首をかしげた。うつむき気味で早足に歩みをすすめる彼女の表情は、学校にいるときよりずっとかたくみえる。

 ふたりと視線をまじえたのちに、琴音が息をすった。

「ミス・ウィリアムズ」

 わずかに体をこわばらせた彼女は顔をあげ、生徒たちの姿に気づくとすぐに背筋をのばす。

「今晩は、みなさん」

 そう応じた声は、普段どおりのミス・ウィリアムズのものであった。結たちをみた刹那にもらした、わずかな安堵など微塵みじんも感じさせないほどに。

 智宏といとの息のあった連携によって、丁重に食事の誘いを辞そうとしたミス・ウィリアムズの受け手は絡めとられ、それからほどなく、結たちは一軒の洋食店のテーブルをかこむことになった。

 帝都から公演におとずれる役者たちも舌鼓をうつという料理は、評判にたがわぬ味わいで、食卓をともにするものたちを自然と笑顔にする。

 いとは緊張と警戒の抜けないミス・ウィリアムズにさりげなく寄りそい、日本の伝統文化に興味があるという言葉にかさねの色目について応じたことをきっかけに距離をちぢめ、食後のコーヒーがはこばれてくるころには、大学やその所在地であるマンハッタン、米国の暮らしなど、学校では口にすることのなかった話題について話すほどに、彼女の雰囲気を打ちとけたものへかえていた。

 送っていくという申し出を辞退しようとしたミス・ウィリアムズはふたたび見事に説きふせられ、二台のタクシーに分乗した一行は、それぞれの家へとむかった。

 いとさんとマーガレットさん、名前で呼びあうようになった二人や智宏と同様に、子どもたちだけがのる車にもたのしげな声がみちたが、夏帆と琴音がおりてタクシーが一台になり、最後にミス・ウィリアムズを送りとどけて結たち家族だけがのこると、車内には客がはけたばかりの劇場のような静寂がのこされた。

 車窓をながれる百年まえの夜は、結がしる夜よりずっとくらく、そしておおきい。

 一緒にいるのがこの人たちでよかったと安堵しながら、後部座席から助手席の智宏の後ろ姿をたしかめ、隣にすわったいとをみた。あのミス・ウィリアムズと、初対面にもかかわらず別れ際に立ち話をするまでしたしくなるという離れ技をみせた義理の母親は、むけられた視線にきづくと笑みで応じる。

 なぜかそこに、わずかなぎこちなさがあった。結の反応にきづいたのか、こまったような色合いを笑顔にまぜたいとは、逡巡しゅんじゅんののちに姿勢をただし、そしてふかく息をすう。

「智宏さん、結ちゃん。話しておきたいことがあるの」

「どうした?」

 降りむいた智宏の声も、かたい響きをおびた。

「商店街であったときね。マーガレットさん、すこし様子がおかしかったでしょう?」

「そうだったか?」

「何かをこわがってるみたいな、そんな感じがしたの」

「……お母さんも、そう、おもった?」

 さらなる意外な鋭さにおどろく結に応じる声は普段どおり、ながれる大河のごとくゆったりとした口調である。

「ええ。最初はね、真面目な方だからかしらって、おもったの。県下でも初めてのことでしょう? アメリカからおまねきした先生が赴任されるのは。自分の国の代表として、はずかしくない行動をしないように、気をぬけないでいるのねって」

「うん。ミス・ウィリアムズはね、背筋がまっすぐなの、……いつも」

「そうなのね、やっぱり。でもすこしお話ししてみて、ぴんときたの。それだけじゃないはずって」

「どうして、そうおもったの?」

「何となくかしら」

「……何となく」

「それでね。生真面目な方ってなかなか人をたよることができないでしょう? だから、ちょっと強引にきいてみたの」

「ご、強引に?」

「ええ」

「どんな、風に……?」

「何かお困りですかって」

「えっと、……それだけ?」

「そうね」

「……それで、おしえてくれたの?」

「言いにくそうにしていらしたけど」

「そっか……」

 結は思いだす。まわりの顔色をうかがってばかりいる自分とは正反対のこの夫妻が手をのばしてくれたとき、知りあってからそれほどながい時間を共にした訳でもないのに、いつの間にか距離がちぢまっていたことを。

 だがつづいた言葉は、あたたかくふくらみかけた心に、ひやりとした感触を挟みこんだ。

「マーガレットさんね。ここ数日、しらない男の人に後をつけられているみたいなの」

「え……?」

 結の声がもれたのと智宏が目をほそめたのは、完全におなじタイミングだった。

 とざされた空間に先ほどとは違う静寂がみちる。窓の外の夜が、密度をましたような気がした。

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瑠璃琥珀堂綺譚 望月結友 @mochi_u

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