玉露

 やっぱり怒っておるではないか、とつぶやいた翡翠は、表情をあかるくして結をみる。

「まぁよいわ。あらためて自己紹介じゃの。我は翡翠、この店――えぇと、なんじゃったか。玻璃はり黒玉こくぎょくでたしか……」

「る、瑠璃と琥珀です」

「そうそう、その瑠璃琥珀堂の店主のひとりじゃ、一応は」

「一応、なんですね」

「店は瑠璃と琥珀にまかせっきりじゃからな。あまりおおきな顔はできぬ」

 上品にわらった翡翠に目でうながされて、結は一憂した。

「わ、わたしは、綾里結です。……高校一年で、三月のおわりから、このお店でアルバイトをしています。それからこの子は、眞白です」

 差しのべられた手に飛びついた眞白は、結の腕をつたって肩にのぼり、みじかい鳴き声をあげる。

「結と眞白か、おぼえたぞ。ふたりともこれから、よしなにたのむ」

 ところで、と笑みをけした翡翠は、

「あるばいと、とは何であろう」と首をかしげる。

「あ、あの、……ほんとにご存知ないですか?」

「うむ、存ぜぬぞ」

「えっと、働かせてもらってるんです、このお店で。学校のないときとかに、ちょっとだけ」

「なんとなんと、結は学業の傍ら、労働までこなしているということか」

「ろ、労働っていうほど、大袈裟おおげさなことじゃ、ないですけど……」

「いやいや。みあげたものじゃな。まだ年端もゆかぬというのに」

「でも、わたしもう十五歳ですから。しっかりしないと」

「ん? いま、何ともうした?」

「その……、しっかりしないと、って」

「そこではない、そのまえじゃ」

「もう十五歳ですから、のところですか?」

「……結、其方そなた十五か?」

「はい」

「まことに?」

「そ、そうです、けど……」

「随分と小振りなのじゃな。てっきり十一、二かとおもうておったわ」

「うぅ……。云わないでください、気に、してるんですから……」

 自分の頭に手をおいて結との差をはかった翡翠は、ぐるりと周囲を一巡した。たしかめるように、あるいはさめが獲物をねらうように。

 どれ、とのびてきた翡翠の両手は、なぜか結の胸におかれた。目をみひらいたまま硬直した彼女をよそに、その感触をたしかめて満足げにうなずく。

「ほぅほぅ。なるほどなるほど。……たしかにこれは十五じゃ」

 そのまま数秒の時間がすぎたのち、ようやく結は胸をかばってしゃがみこんだ。

「ひ、ひゃあぁっ!」

「もうすこし食べた方がよいの、さすれば身長もおのずと相応になるじゃろう」

「なななな、なな、何するんですかっ!」

「発育を測定したのじゃが?」

「そっ、そこで、測るものじゃ、ないですよねっ?」

「いや? 我は測るぞ?」

「だって、個人差、あるじゃないですかっ!」

些事さじじゃ、そのようなこと。我ほどになれば、個人差を除外することなど造作もない」

「ぜぜ、絶対、うそですっ」

「ほほぅ? うたがうなら証明してやろう。結、其方は九月うまれじゃな?」

「……わたし、三月生まれです」

 目をほそめた結としばらく見つめあったのち、翡翠は咳払せきばらいをした。

「さすがの我でも測定が不十分じゃったかもしれぬ。どうやら測りなおしてみる必要が――これ、またぬか」

 身の危険を察した結は、翡翠が話しおえるより早く逃げだしていた。

 瑠璃琥珀堂にはふさわしくない、にぎやかな足音がひびく。ところどころにおかれた飾り棚やテーブル席を利用して、あまり早くはない逃げ足をおぎなう結を、両手をうごめかせながらも足どりだけはあくまでも優雅に、翡翠が追いかける。店内を数周したあと、花の模様の寄せ木張りがほどこされたテーブルをはさんで向きあった。

「さあさあ、もう一度測定させてみよ。さすれば正確に当ててみせようぞ」

「い、いやですっ、絶対っ!」

「ならば教えてやろう。実はな、発育だけではなく、今日の運勢どころか明日の天気までわかる」

うそつかないでくださいっ!」

「なかなかにさといな。じゃが、あおい果実を測定するまたとない機会。のがすわけにはいかぬ」

「そそ、そんなにさわりたいなら、瑠璃さんや琥珀さんのを、さわればいいじゃないですかっ」

「おろかな。彼方あなたらの乳などうに触りあきたわ」

 強引に翡翠が距離をつめようとして、結がにげる。無益な徒競走が収束するまでには、しばらくの時間を要した。


 ふたたび静けさを取りもどした瑠璃琥珀堂の店内には、ゆったりとした時間がながれている。まだ警戒をとけずにいる結をのぞいて。

 カウンターに入って要領よく支度する翡翠に対して、スツールにすわった結は、彼女がちかづくたびに体をひいた。

「いい加減、落ちつかぬか。折角我が手ずから茶をいれてやろうというのに」

「だ、だって……」

 翡翠の手を行くさきをおった結の目は、ならべられた道具に行きつく。茶碗ちゃわん茶托ちゃたく、急須くらいはわかったが、急須に似た形でぼってりとした素焼きの道具やピッチャーのような器など、見たことのないものがおおい。

「あの、お茶をいれる道具って、こんなに沢山たくさん、あるんですか?」

「よりよくあじわおうとするならば、それなりに必要じゃな、道具も手間も」

 翡翠は、ぽってりとした急須のような道具に水をはると、七輪に似た器具にかける。

「たとえばこのボーフラは湯をわかすのにつかう。無論薬缶やかんでも湯はわかせるが、煎茶せんちゃに金属でわかした湯はあわぬのでな。そのためだけの道具が入用になる。じゃがなにより、こうして手間暇をかけていれる茶は、なんともいとおしいとはおもわぬか?」

「わかるような、気がします」

 結がぎこちなく微笑ほほえみをうかべたのち、店内にはようやく心地のいい静けさがみちた。

 素焼きの湯沸かしがひかえめな音で沸騰をしらせると、翡翠はそれを急須にそそいで時間をおき、さらに茶碗についで待ち、最後にピッチャーのような形の湯冷しにうつす。

 しっとりとした光沢こうたくをたたえたすず茶壺ちゃこをひらくと、ゆたかな香りがひろがった。竹をわった茶量で急須にいれ、さました湯をそそぐ。

 午後のできごとを思いおこせるほどの時間をおき、両手で包みこむようにもった急須で、丁寧にまわしながら最後の一滴まで注ぎわけおえるころには、結の心もふんわりとふくらんでいた。湯のなかをたゆたう茶葉のように。

 翡翠にうながされて、こぶりな茶碗を口元に運ぶ。慎重にひとくち含んで、目をみはった。

「これって、……お茶、ですか?」

「そうか、玉露は初めてか」

「玉露って、いうんですね……」

 もう一度あじわう。やはりしっているお茶の味ではなかった。舌触りはとろりとやわらかく、ほとんど感じられない渋さの代わりに、うまみと甘みが混ざりあってゆたかにひろがる。

「おいしいです……、すごく」

「それは重畳じゃ」

 翡翠がついやしてくれた分とおなじくらいに、時間をかけて丁寧にあじわう。いつの間にかペースに引きいれられてしまうところは、瑠璃琥珀堂の主人らしいとおもえた。

 ひとみをほそめて微笑んだ翡翠がそれまでより身近に感じられて、気づけば口をひらいていた。

「る、瑠璃さんって、おこるとあんな感じ、ですか?」

「あれは機嫌がわるい程度じゃな。なかなかにおそろしいぞ? 本気でおこると」

「……本気でおこらせたこと、あるんですか?」

「あるぞ、それはもう数多あまたな。無論琥珀も例外なく。まあ、これに関してはお互いさまかの。付き合いがながくなればいさかいのひとつやふたつあって当然じゃ」

「ながいんですね、瑠璃さんや琥珀さんとのお付き合い」

「姉妹のようなものじゃ、ここまでくると」

「なんか、いいですね」

「いいことばかりではないがの。こうしてこきつかわれることもある」

 さきほどより親密に笑みをかわす。今度はずっとよくしった茶の味にちかい二煎にせんを飲みおえるころに、ふと思いあたった。瑠璃や琥珀と姉妹同然にしたしいというこの人物なら、ずっと心の中でつかえていることについて、何かしっているのではないかと。

「あ、あの翡翠さん」

「なんじゃ?」

「えっと、その……、琥珀さんは、……こわいですか?」

「琥珀か?」

「は、はい……」

 翡翠の目がむけられる。琥珀の瞳ともまたちがう色あいをみていると、吸いよせられるような錯覚をおぼえる。

「一番やさしいな、我ら三人のなかでは」

「そ、そうなんですか?」

「言葉使いや態度は無愛想じゃが、とても慈しみぶかい。しらぬか?」

「……わかる気が、します」

「うむ」

 満足げにうなずいた翡翠が、笑みをうかべた。我ながら単純だとおもいながらも、結は、心のおくでよどんでいた琥珀に対する恐れが、霧散していくのを感じていた。

 ちいさくうなずく。つぎ彼女にあったときは、笑顔で挨拶あいさつしようと心にきめて。

「あ……」

「今度はどうした?」

「すっかりわすれていました。瑠璃さんに、ききたいことがあったのに」

「意外と粗忽そこつものじゃな、期待の新人は。まあ、ちょっちゅう店をおとずれることをわすれる我に、いえた義理もないが」

 何度目かの笑みをかわす。おなじタイミングでのんだお茶は、胸のおくをあたためた。

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