翡翠
自転車をはしらせる。ちかづく夕暮れなどものともせずに立ちこめた、夏の
住宅街をぬける道だ。少々入りくんでいるものの、はじめてきたときはどうしてあれだけまよったのかが不思議なくらい、目にうつる景色は、すっかり日常になじんでいた。
瑠璃のあおい瞳を思いうかべる。
銀の
ひとつ角をまがったところで、ひとりの女性の後ろ姿が目についた。
ながく、うつくしい黒髪だ。そして、おなじくらいに印象的なものがあった。彼女の装いである。
ゆったりとした着物の上着はさわやかな緑の薄物で、下にかさねた薄紅梅がすけて
住宅地でみかけるには実にふさわしくない、平安時代の姫君をおもわせるような服装である。それにもかかわらず、本人も擦れちがう人も、まったく気にとめた様子がない。かんがえるまでもなく、不自然かつあやしいことこのうえなかった。
総合的に判断して決定する。みなかった振りだ。ちいさくうなずくと、自転車をこぐペースをおとさず、通りすぎようとした。
ふわり、とやさしげな薫りがかおる。つい振りかえりたくなる衝動をこらえたそのときであった。
「そこの
高貴な響きをおびた声だ。反射的に自転車をとめてしまう。やはりか、という予定調和を感じつつも、このまま
「気づかぬ振りをしても無駄じゃ。きこえておろう? 我が声が」
おそかったようだ。観念して振りかえり、おもわず息をのんだ。
目の力がつよい、おだやかに
一度深呼吸してから、違和感しかない
「えっと、なにかご用……でしょうか……」
「うむ。用がなければ呼びとめたりせぬぞ。ひとつたずねたい。この付近に瑠璃琥珀堂という店があるのじゃが、しらぬか?」
「わ、わたし、いま
「そうか。もしやとはおもったが、やはりそのとおりであったか。しからば同道しようぞ。旅は道連れじゃな」
上機嫌で歩きだした女性の背中をながめた。多少横柄だがいやな感じはない。けれども、また何かに巻きこまれてしまったのではないかと気が気でない、というのが正直な心もちであった。
「どうした? はやくまいれ」
振りむいた女性に手招きされ、結は、自転車をおして隣にならぶ。さきほどよりもはっきりと、やさしげな香りがした。
ほどなく到着した瑠璃琥珀堂は、普段とかわらぬ落ちついた
自転車をとめた結は、女性とともに前庭をぬける。わずかになみうったガラスのはいったドアをひらくと、カウンターには瑠璃と琥珀の姿があった。
おぉ、と破顔した女性は結のわきをぬけ、店に入って数歩すすんだあと、手にした
「……えぇと、なんじゃったか。
「瑠璃と琥珀だ。店の名前にあるだろうが」と、琥珀が目をほそめる。
「なるほど、そういうことじゃったか。つかわぬ名はわすれるな。――よし、ではあらためて。来てやったぞ、瑠璃、琥珀」
「実に横柄だな。もうすこし積極的にこい。仮にも店主だろう」
「そういわれてもな。我もなかなかに多忙ゆえ」
「まあいい。で、どうした今日は」
「期待の新人に会いにきたのじゃ」
「新人もなにも、結がこの店にきてもう三ヶ月になるが」
「ほぅ、結のいうのかそのものは」
「そのものも何も、いまお前が一緒にいるのが結だが」
ふたりから視線をむけられた結は女性にお辞儀をした。
「こ、こんにちは。綾里、結です……」
「やはり
女性に数秒おくれて結も首をかしげる。琥珀がため息まじりにいった。
「お前はまだ、きめてない」
「おぉ、そうであったか。さらば名をきめておかねばな」
なんだこの茶番は、と向けられた視線を意にも介さず瑠璃と琥珀をみた女性は、
「瑠璃と琥珀。玉から名をとったか。さらば我は、……
「翡翠か。まあ丁度いいのではないか?」
「ちがうぞ琥珀。翡翠様じゃ」
「様までが名じゃ。さあ、つつしんで我をよんでみよ。翡翠様、と」
「なんだ。様をつけてよんでほしかったのか。あいかわらず頑是ないな、翡翠様は。これで気がすんだか? 翡翠様。たりないのであればもう一度呼んでやるぞ、翡翠様」
「……其方、我を小馬鹿にしておらぬか?」
まあまあ、と割って入った瑠璃が笑みをうかべた。
「いろいろ願いはあるでしょう、翡翠様にだって。それがたとえ、びっくりするくらいどうでもいいことだったとしても。でもそれをとやかくいったら翡翠様がかわいそうよ。ねえ、翡翠様」
「くぅ、そこまでいうのであれば翡翠でよいわ。この性悪どもめ」
「いい名前だとおもうわよ。で、早速なんだけど、翡翠」
「なんじゃ?」
「翡翠も店番をしてみるといいわ」
「店番とな。この我がか?」
「そうよ。今までやってこなかった分までしっかりと」
「瑠璃、もしかして汝……何かおこっておるか?」
「いいえ。すこしも、まったく、これっぽっちも。じゃあよろしく、あたしも琥珀も夜までもどらないから」
「お、おい。瑠璃」
「さあいくわよ琥珀。愛くるしい少年たちが戯れあう、まだみぬ傑作をさがしに」
「いや、私にはその趣味はない」
「じゃあ、しぶいおじさんたちが
瑠璃は引きずるように琥珀を連れて、カウンターのおくにあるドアの向こうにきえた。翡翠と結は、顔をみあわせる。
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