持ちかえれるもの

 チャイムがひびく。顔をあげた結は一瞬、自分のいる場所がどこかわからなかった。

 琴音の声がきこえる、鐘の音にまじって。理解はおくれて追いついてきた。スチール製の棚から本があふれだしたこの部屋がどこであったか、そして、直前までみていた木造の校舎はどこであったか。ちいさく吐息をもらす。

 ミス・ウィリアムズがそそくさと教室をあとにする場面の朗読をおえた琴音が、満足そうに目をほそめてしおりの位置をかえた。銀色のかがやきは、それがゆずられたときのことを結に思いださせる。

――どこまで物語がすすんだか、ちゃんとおぼえていられるようになるから。

 茶目っ気にみちたあおい瞳につげられた言葉の意味を、ようやく理解する。確かにおぼえていた、どこまで物語がすすんだのかを。

 それなら、と本の世界のことをふたりと話そうとした声よりもわずかに早く、本をとじた琴音がつぶやく。

「なんか……、ミス・ウィリアムズと源氏物語のことをはなすこの女学生さん、とても他人とはおもえない感じ」

 琴音の言葉が、心に細波さざなみをたてた。口をつぐんだ結に気づかず、夏帆がうなずく。

「ボクもそうおもった」

「水上さんも? どんなところでそうおもったの?」

「一見おとなしそうなのに実は行動派、……っていうか結構無茶なところ」

「え? あたしって、そんな感じ?」

「いろんなところ、訪ねあるいてたんでしょ? その本をさがして」

「うん。ま、まあ……」

「最後には本をもってる小久保先生にまで辿たどりつくんだから、すごいとおもうよ」

「ほめて、……くれてる?」

「もちろん。本にでてきた彼女も泉さんとおなじで本がすきだけど、それよりも行動力があるところ、すごく似てるとおもう」

「あたしがみてもチャレンジャーだなぁっておもうけど。そっけないミス・ウィリアムズにいきなりプライベートなことをきいたりとか」

「偏屈って評判の小久保先生と自宅をたずねるのも、そんなにかわらないとおもうよ」

「あのときは、必死だったから……」

「彼女もさ、源氏物語をよんで日本にくることをきめたってきいちゃったら、もうどの場面がすきかまで聞かずにはいられなかったんだろうね」

「おかげでミス・ウィリアムズの素顔にちかづけたんだから、よかったのかな」

「うん。意外とかわいらしいひとみたいだね、ミス・ウィリアムズ」

 夏帆と琴音の話をききながら、結は食いちがいに気づいていた。ふたりは、いままでとおなじく、本のなかのことをおぼえていない。自分だけなのだ。物語のなかから、記憶を持ちだせたのは。

「――大丈夫?」

 きづけば夏帆と琴音の瞳がむけられていた。うん、と応じながら結は、帰りによるべき場所の景観を思いうかべていた。

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