源氏の物語

 朝露をまとった若葉をおもわせるあおい瞳をもつ女性は、結たちにきづくと顎をひいて息をすった。

 ミス・ウィリアムズ、この町にすむほとんどの人にとって、欧米人とは銀幕のむこうの存在でしかなかった当時にあって、県下でも初めての米国人の英語教員である。

「どうしたのですか、みなさん。もうすぐ最終下校時間ですよ?」

「ごめんなさい。みんなで本をよんでいたら、夢中になってしまいました」

「そうでしたか。ですが、あまりおそくなってはいけません。くらくなるまえに家につけるように学校をでなさい。いいですね」

 琴音のいらえに、ミス・ウィリアムズは流暢りゅうちょうな日本語でこたえる。

 二十代なかばの彼女は生徒たちに、そのきっちりと結いあげた髪同様の、一切の隙のない教師然とした態度をくずさないことでしられていた。

「はい、わかりました」

「気をつけて帰ってください。では」

 にこりともすることなく、ミス・ウィリアムズはきびすをかえした。

「――あの、ミス・ウィリアムズ」

 すんだ琴音の声で、彼女は歩みをとめて振りかえる。

「なんでしょうか」

「お聞きしたいことがあるんですけど、いいですか?」

「ながくならないようでしたら、かまいません」

「どうして先生は……、日本にこようと、おもったのですか?」

 ミス・ウィリアムズが動きをとめ、かすかな緊張がみちる。だが、つづいた声は、それまでより幾分かやわらかなものであった。

「あなたがたの年齢のころによんだ、物語の影響です」

「物語、ですか……?」

「いまでもおぼえています。なにげなく入った書店で、源氏の物語、という耳なれないタイトルの本をみたときに、なぜかつよく心ひかれたこと。そして家にかえって本をひらき、とてもおどろいたことを。

 恋物語としても十分すぎるほどにおもしろかったのですが、それ以上に、めぐる季節をいつくしむ暮らしやうたみかわす習慣、自然と調和した都市の景観、そうしたものの美しさにつよく心をうごかされました」

「……源氏物語だったんですね」

「ええ。とても幸運な出会いでした」

 おおきくうなづいて、琴音はひとなつこい笑みをうかべる。

「あたしも大好きです、源氏物語。あの作品の恋愛の部分が心にせまるのも、ゆたかな文章や描写にささえられているからこそですよね」

「そのときよんだのは英訳版でしたが、千年という時間をこえて、登場人物たちの息づかいや彼らの暮らしを、すぐそばに感じた気がしました。

 私は日本文化の研究の道をこころざして、日本からきた教授のいる大学にすすみました。そうしてある日、英語教員をさがしている日本の高校があるという話をきいて、飛びついたのです。どうしてもこの目で、そのうつくしい国をみてみたいとおもいました」

「でも赴任されたのがこの町だと、先生のみたかったもの、みられませんでしたね」

「最初はすこし残念におもいましたが、きてすぐにこの町がすきになりました。重なりあう山の稜線りょうせんや斜面にひろがる棚田も、入りくんだ海岸線やいだ海も、そして山のうえで日差しにかがやくしろいお城も、どれもとてもうつくしいです」

「よかったです、先生がこの町をすきになってくださって。あの、もうひとつ、ききたいことができました」

「なんでしょうか」

 ミス・ウィリアムズは、みどりの瞳をほそめた。それが、彼女のみせたはじめての微笑みであることにも気づかず、琴音は質問をつむぐ。

「どの場面がすきになったんですか? 源氏物語の」

「雲居のかりさんがお父さまのもとへ引きとられるとしった夕霧さんが、彼女にあいにいく秋のよるの場面です」

「『雲居の雁もわがことや』、ですか?」

「よくご存知なのですね。そのときは彼らと年がちかかったこともあるのでしょう。もどかしくて、せつなくて、何度も読みかえしました」

 あ、あの、とふたりのあいだに、消えいりそうな声が差しこまれる。結の緊張した表情があった。

「お邪魔してごめんなさい……。泉さん、それって、どんなお話……?」

「ボクもきいてみたいな」

 ふたりから視線をむけられてうつむきかけた結を、夏帆がささえる。やわらかな表情でほほえんだミス・ウィリアムズが口をひらいた。

「夕霧さんと雲居の雁さんという幼なじみのお話です。夕霧さんが十二歳で、雲居の雁さんが十四歳。お祖母さまの家でそだてられた従姉弟同士のふたりは、いつしか心を通いあわせるようになります。

 あどけなさののこるふたりの恋は、お祖母さまの家では公然の秘密のような扱いになっていましたが、ある日、雲居の雁さんのお父さまにしられてしまうのです。続きはわかりますか? 泉さん」

「はい。雲居の雁さんのお父さんが頭の中将さんで、夕霧さんのお父さんが光源氏さん。ふたりは大の親友でしたが、自他ともにみとめるライバルでもありました。

 丁度そのころ、帝のお妃さまをめぐる争いで源氏さんにやぶれた頭の中将さんは、雲居の雁さんを東宮さま、皇太子のお妃にとかんがえていました。よりにもよってそんなときに、雲居の雁さんと夕霧さんのことをしってしまったものですから、頭の中将さんは激怒して、彼女を家に引きとると宣言したんです」

 大変よくできました、といったミス・ウィリアムズが物語の続きをかたった。


 彼女と引きはなされてしまうことをしった夕霧は、屋敷のものたちがねしずまったころあいをみはからって、雲居の雁の部屋をたずねた。

 ところがそれまで鍵がかかっていたことなどなかった障子が、かたくとざされている。祖母からきかされたとおり、叔父は本気で自分たちの仲をさこうとしているのだ、彼は彼女と自身とをへだてる仕切りに、力なくもたれかかった。

 寂然しん、とした秋の夜、庭にふいた風が竹にさえぎられてそよめく音にまじって、わたっていく雁たちの声がかすかにきこえる。思慕をつのらせる夕霧の耳朶じだに、不意に、可憐かれんな音色がふれた。

「雁たちも私とおなじ気持ちなのかしら」

 すこしまえに目をさました雲居の雁もまた、夕霧とおなじく不安な思いをかかえており、きりぶかい空をわたっていく雁に、自身の姿を重ねあわせたのだ。

「ここを開けてください」

 すぐそばにいる愛しい人とあえないもどかしさに、おもわず夕霧は呼びかけた。まさか彼が障子のむこうにいて、独りごとをきかれるとはおもってなかった彼女は、おどろきと恥ずかしさに布団で顔をかくす。

 だが、それきり言葉はとぎれた。うわさずきな乳母たちがねむる場所の近さが、ふたりから声をうばったのだ。

 もし彼女たちを通じて、ふたたび雲居の雁の父親に自分たちのことをしられてしまったら。おたがいに身じろぎすらできないまま、沈黙のなかに、せつない時間だけが降りつもっていく。

「さ夜中に 友呼びわたる 雁がに うたて吹き添ふ おぎ上風うわかぜ

 ままならぬ思いを目のまえにひろがる秋の夜の光景にたとえ、夕霧は、一首の歌を詠んだ。


「この場面、何度よんでも胸のおくがきゅっとなります」

 ゆめみるようにつぶやかれた琴音の言葉に、ミス・ウィリアムズがふかくうなずいた。

「道ならぬ恋がおおくえがかれた作中にあって、ふたりの恋はなにひとつうしろめたいことがなく、とても純粋です。そんなふたりが、到底さからえない力で引きさかれそうになるからこそ、そのいじらしさが胸をうつのだとおもいます」

「……いじらしい。そうですね、ふたりは、とてもいじらしいです。ぴったりな言葉です」

「ええ。お祖母さまの計らいでようやくあえた場面でも、こいしいと思ってくださいますか、という夕霧さんの問いかけに、雲居の雁さんはちいさくうなずいてこたえることしかできません。ふたりはまだまだおさなく、そして不器用です。だから親のきめたことにさからったり、上手に立ちまわったりすることはできないのです」

「でも、だからこそ、ふたりの恋は、こんなにせつない」

 ふたりのやりとりをきいているうちに、結の心にきざしたものがあった。

「わたしも……、よんでみようかな、源氏物語……」

 結にむけられたミス・ウィリアムズの瞳が、やわらかな光をたたえていく。彼女は、ごく自然に結の手をとっていた

「ええ、ええ。是非、そうしてみてください」

「は、はい」

 そのあたたかな感触にとまどいながら返事をする。ぎこちなく笑みをかえそうとしたとき、教室にチャイムの音がひびいた。

 おどろいた表情で手をはなしたミス・ウィリアムズは、居住まいをただして背筋をのばすと、ひとつせきばらいをしてから口をひらく。やや上気した頬は、隠しきれないままで。

「と、に角、……おそくならないうちに家におかえりなさい。よろしいですね」

 すばやく背中をむけると彼女は教室をあとにした。三人は顔をみあわせる。ミス・ウィリアムズがのぞかせた素顔を思いうかべながら。

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