ゆめ、うつつ
琴音につづいて入った部屋は、かすれたようなざらつきのなかに、ほのかな甘みをふくんだ空気がみちていた。
結と夏帆は言葉をうしなう。中央に長机がおかれた空間は、その独特の香りのもととなっている古書たちの占領下にあった。スチールの本棚にぎっしりとならんでいるだけでも相当の数があるが、
「ようこそ、文芸部へ」
午後の日差しをうける背のひくい町並みを切りとったサッシの窓を背景に、琴音がまぶしい笑顔をみせた。
朝、登校して顔をあわせた三人の話題は、当然ながら玉響の花のことだった。
物語の続きを心待ちにする思いを交換しながら、結は昨日の夜に思いあたった気がかりについて話した。三人で一冊の本を読んでいれば人目につくので、読書に集中できないのではないだろうか。
結の言葉をきいた琴音は、いい場所があると自信ありげに応じた。一抹の不安をかかえながらも、それよりおおきな楽しみがあるおかげか、時間はまたたく間にすぎ、やがておとずれた放課後、結と夏帆がいざなわれたのが、この文芸部の部室であった。
いま用意するね、と椅子を並べはじめた琴音に結がたずねる。
「あ、あのね、泉さん」
「なあに?」
「いいのかな。わたしたち、文芸部じゃ、ないけど……」
「大丈夫。部活があるのは木曜日だけだから、ほかの日は誰もこないの。それにもし誰かきても、本をよんでるんなら大歓迎だから」
「ほ、ほんとに?」
「うん。部長も副部長も、……というか部員は三人しかいないんだけど、みんな物語が大好きなの」
「それなら、よかった」
彼女の左右にすわる。遊園地に入る直前のように視線をかわしたとき、結はわすれていたことを思いだした。スクールバッグから今朝もらったものをだす。
「こ、これ。読むときに、つかってもらっても、いい……?」
「すごい、
目をほそめた琴音が、本についていた
あらたなページがめくられる。眼鏡のおくの瞳が真剣な光をおびる。つづられた文章が読みとかれ、すんだ声によって物語として織られていく。
変化の瞬間を知覚することはなかった。夢におちるときとおなじように。ただひとつだけかわらなかったとおもえるのは、よどみなく本をよむ琴音の声だけだった。
理解はおくれて追いついてくる。顔をみあわせた結と夏帆が琴音に呼びかけるまでにも、顔をあげた彼女が最初の言葉を発するまでにも、ゆっくりとみっつ呼吸するほどの時間を要した。
「ここって、本の、……なか、だよね?」
「うん。本のなかに入れるんだった、ボクたち」
「なんかあたし、すっかりぬけちゃってたみたい、そのこと。一瞬わからなかったの、どうしてこんなところにいるのか」
「泉さんも?」
「え? じゃあ水上さんも? 綾里さんは?」
「わ、わたしも、わすれてた、みたい……」
「変なの。昨日あれだけおどろいたのにね」
三人は顔をみあわせて笑いあった。夢のなかでおこったことを、なんの抵抗もなく受けいれるのとおなじように。
「ここ、どこだろう」と夏帆が周囲をみまわす。
正面に黒板を配したひろびろとした部屋だ。
「あたしたちがかよってる学校? 物語のなかで」
「それかな、やっぱり」
「あ、そうそう。昨日おばあちゃんに玉響の花のことをはなしてたらおしえてもらったんだけど、あたしたちの学校ね、むかしは高等女学校だったんだって。ひいおばあちゃんがかよってみたいなの」
「高等女学校。お嬢さまっぽい感じがするね、なんだか」
「あたしがちいさいころになくなったから、ほとんどおぼえてないんだけど、ひいおばあちゃんはね、お嬢さまっていうか、ぴっと背筋がのびてる感じの人だった」
「いいね。かっこいいひいおばあちゃん」
「ありがとう。それでね、ほんとにいたみたいなの。アメリカからきた英語の先生。ひいおばあちゃんがならってたって」
「ミス・ウィリアムズ?」
「の、モデルになった人かなあ。ひいおばあちゃんが女学校にかよってたのって、この本にかかれたころだから」
「じゃあいまの泉さんは、もしかしたらひいおばあちゃんかもしれないね」
「……どうしよう。なんかあたし、どきどきしてきちゃった」
扉のひらく音がする。三人がむけた視線のさきには、あおい瞳をもつ女性の姿があった。
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