こばしりに階段をおりる。朝の日差しのなかに、リズミカルな音がひびく。

 最後の一段をとばす。かるい浮遊感ののちに両足で着地すると、ふくらんだ制服のスカートがしぼむより早く、廊下にある扉のひとつをひらく。みじかい髪をはずませて、事務机やスチール製のロッカーがおかれた部屋をよこぎり、奥のドアをあけた。

 あかるい光とともに、こおばしい香りがあふれる。着替えのために離れたわずかな時間のあいだに、部屋にみちていた香りがわかるようになることが、いつもながら不思議に感じた。

 いってきます、と結は銀の厨房ちゅうぼう機器がひしめきあうキッチンに声をかける。みっつの笑顔がそれぞれにこたえた。養父母の智宏といと、そして研修生の坂元だ。焼きあがったばかりのパンのようにふくらんだ気持ちを胸に、扉をしめた。

 パン屋の朝は早く、そしていそがしい。

 この家にくらすようになって、くらいうちから働いている彼らをみたとき、なぜかその景色がとてもあたたかくみえた。自分から切りだして手伝うようになってからふた月ほどがすぎ、このあわただしい時間が、一緒に食卓をかこむのとおなじくらいに大切だときづくころには、日がのぼるまえに起きだす生活も、すっかり日常になっていた。

 急ぎあしで住居部の玄関からでると自転車の前籠にかばんをいれ、足元によびかける。

「眞白、おいで」

 のばした腕をつたって自転車に飛びうつった眞白は、籠に入ると鞄を手がかりに、後ろあしでたって頭をだした。その姿につい、笑みがもれる。

 そらいろの自転車をおして通りにでる。みなれた朝の景色に今日は、一箇所だけちがう部分があった。

 陽光のなかにたたずむ女性がいる。うるわしい金の髪とあおい瞳、微笑みにいろどられた端正な顔立ちやモノクロームの出でたちは、ありふれた町並みを一枚の絵画にかえる。

 挨拶をかわしたあと、瑠璃は優雅な足取りでちかづいてきた。

「昨日はごめんなさい。おどろいたでしょうね、すごく」

「え……? な、なにか、謝っていただくようなこと、ありましたっけ。小久保先生なら、よくしてくれましたよ?」

「そうみたいね。三人とも気にいられたみたいでよかったわ。それとは別なんだけど、そうね、いまこうしてあやまるのも身勝手ね」

 首をかしげる結に笑みでこたえた瑠璃が、再度くちをひらく。

「きちんと説明したいんだけど、時間がたりないわ。これから学校でしょう?」

「あ、はい。そうです」

「じゃあ、てみじかに用事だけ済ませておくわね。玉響の花はおもしろかった?」

「はい。わたし、はじめてです。あんなに本が、おもしろいって、おもったの」

「それはよかったわ。ちょっとハードルはたかいけれど、皓月は文章もうつくしいから」

「……実は、泉さんに、よんでもらったんです。すごく、むつかしかったから」

「あの子の読みきかせなら、すごくよかったでしょうね。夏帆ちゃんもたのしめてた?」

「はい。今日も放課後に、みんなでよむことに、なりました」

「今日もよむのね。じゃあ、あたしから結ちゃんにプレゼント」

「え?」

「これなんだけど、どうかしら」

 差しのべられた瑠璃の指先には、いつの間にか銀のしおりがあった。透かしぼりになった唐草模様が、朝日をあびてきらめく。

綺麗きれい……。でも、いいんですか?」

「ええ。結ちゃんがあの本をよむなら、あげようとおもってたものだから」

「ありがとう、ございます……」

「手のひらをだしてくれる? 直接てわたすのが大切だから」

「こ、こうですか?」

「ええ、それでいいわ。じゃあ、この栞はいまから、結ちゃんのものよ」

 栞を結の手にのせながら、瑠璃はひとことずつ丁寧につむいだ。繊細な細工が枝葉をひろげたような、手のひらから何かが通じたような感覚をおぼえて、まばたきする。

「玉響の花をよむときにつかって。どこまで物語がすすんだか、ちゃんとおぼえていられるようになるから」

「は、はい。わかりました。……大切に、つかいますね」

 やわらかな日差しのなかで、瑠璃がほほえんだ。すこし特別な朝は、夢のつづきのようで現実味にかけていたが、手のなかには、銀の栞のたしかな感触がある。

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