玉響の夢

「実は折りいって、皆様にお願いがございます」

 神妙な声音とともに、忙太はすがるような表情をうかべた。

「皆様とあたしは、ついさっきあったばかり、ということにしてはいただけませんでしょうか」

「どうして?」と琴音が首をかしげる。

「皆様とあえた喜びですっかり失念しておりましたが、琥珀さんから、皆様をみつけたらすぐに連絡するようにいわれていたんです。琥珀さんも皆様の身随分とを案じておられましたから、言いつけをまもらなかったとしれると、一体どのような大目玉をくわされるやら、わかったものではありません」

「そんなにこわい人なの? 琥珀さんって」

「ええと、その……、まぁ、おっかないです、ちょっと。……いえ、すごく」

「すぐ連絡できなかったのは、水上さんにきかれてあなたたち化生のことを説明したからでしょう? ちょっとは脱線したかもしれないけど」

「ええ。……まぁ、そうなのですが」

「あたし、琥珀さんならそのくらい、わかってくれるとおもう」

「そうでしょうか……」

「うん。はじめてあったとき、話のわかる人なんだろうなって感じたから」

「たしかに、そのとおりですね。琥珀さんは道理をよくこころえられたおかたです」

「でしょう? 正直に本当のことをいった方がいいわ。そんな人にうそをついたりしたら逆効果よ」

「しょ、正直に、ですか……」

「きちんと話せば、きっとわかってくれるわ」

「……本当に、そうでしょうか」

「もしおこられたら、あたしも一緒にあやまるから」

 視線をおとした忙太は、やがて顔をあげ、まっすぐに琴音をみた。

「わかりました。勇気をだして正直に話してみます」

「一緒にがんばりましょう、忙太さん」

「ありがとうございます。琴音さん」

 手を取りあうふたりをみて、夏帆が結にいう。

「すっかり打ちとけてるし。なんか泉さんって、すごい人なんじゃないかな」

「――あ。ご、ごめんね。きいて、なかった……」

「どうしたの?」

「な、なんでもない」

 結は笑顔をつくろうとしたが、うまくいかなかったのは、自分でもよくわかった。琥珀の名前をきいたときから、心がこわばっていた。

 聞きおぼえのあるすずやかな音色が耳朶じだをうつ。音のした方をみると、忙太が帯から根付をはずし、印籠と一緒にさげていた鈴をならしたところだった。

 じきに別の方向から、よく似た音韻おとないが応じる。結が振りかえると同時に、すぐそばの日陰になったつじからはかま姿の女性があらわれた。待ちあわせ場所にくるような何気なさで。

 視線をむけられた途端、全身に緊張がはしる。背がたかくりんとしたたたずまいが、少女の急変で騒然となる病棟でみかけた後ろすがたと重なりあう。

「すまなかったな。こちらの不手際で随分と不安な思いをさせてしまった」

「べ、別に、そんな、こと……」

 言葉につまった。琥珀の瞳にうかんだ不思議そうな色に、胸がいたんだ。

 何かいわなければとあせるほどに、言葉は擦りぬけていく。からまわりする思考を、夏帆と琴音のもらした驚きの声が断りきった。

 二人の視線は、琥珀の後ろからあらわれた、小山のような大男にくぎづけだった。あからんだ肌の巨漢はみじかい手足を緩慢にうごかして歩みをすすめ、結にきづくと、両目の間隔がひらいた馬面の顔にほうけた笑みをうかべ、のっそりと手をふる。

 夏帆が驚嘆の表情をうかべた。

「あれも、知りあい?」

「う、うん。馬助さんっていうの。すごく、おっとりしてる人……」

 そうみたいだね、と彼女が云いおえるより早く、しろいものが馬助の背後から飛びだす。

「ベイビーっ!」

 たかだかと跳躍しながらそれが発した雄叫びは、結の手前に両膝をついて着地し、両腕をひらいて仰けぞった姿勢のまま数メートルをすべったのち、彼女の手をとるまでつづいた。

 呆気あっけにとられる結たちのまえで数秒の沈黙をたもった彼は、存在しない前髪をはらったあとにやんわりと手を握りなおす。

「すまないベイビー。僕としたことが、ついぶしつけな行動にでてしまった。やっと君にあえた喜びで」

「……はぁ」

「だがたったいま、もうひとつ謝らなければならないことができた。君がこころぼそい思いをしていたというのに、不安にくもった瞳をみた瞬間、そこにたたえられた陰り、――いうなればそう、二万由旬ゆじゅんの地底にあるという無間地獄むけんじごく深淵しんえんにもまさる色合いに心をうばわれ、それをのぞきこみたいという衝動をいだいてしまった。……なんてことだ。君の美しさは、こうもたやすく僕の理性を剥ぎとり、胸の奥底にひめた欲望に火をともしてしまう」

「そう、ですか……」

 完全な無表情で夏帆がたずねる。

「これも、知りあい?」

「う、うん。まあ……」

「失敬だな。僕はこれ扱いされる、ような……」

 憤慨した様子の骨蔵の声は、ふたり分のひややかな視線にきづくと、ただちに溶暗ようあんしていった。がっくりと肩をおとした彼は、この世の終わりの到来をたしかめるように、結をみあげる。

「ベイビー。……ひとつたずねてもいいかな」

「な、なんでしょう」

「もしかして僕は、天上界に迷いこんでしまったのかい?」

「へ……?」

「だってそうだろう。ここには君のほかにも、こんなにうつくしい天使たちがいる」

「……て、天使、ですか?」

「そうだよ。天使だ。だって彼女たちは、あれほどまでにうつくしい。ああ……、なんてことだ。つまり僕は、君をさがしているうちに天にめされてしまったということか。だが後悔なんてないさ。こんなにうつくしい天使たちを目にすることができたのであれば。さあ、この命を差しだそう。僕の魂を未来永劫みらいえいごうこの場所に留めればいい。それから天使たち、すまないがこのあわれな僕にせめて名前を――ぐわっ」

 背後から伸びてきた手が、骨蔵の頭をわしずかみにするなり、あらあらしく引きよせる。

「しっているか? 骨蔵。私は気がみじかい」

「こ、こここっ、琥珀さんっ?」

「その気がみじかい私を、さきほどから世迷いごとで邪魔をしている愚かものがいる。さて、私はつぎのふたつのうち、どちらの行動をえらぶべきだろうか。ひとつめ、ただちにその愚かものの頭蓋をくだいて、さっさと用件をすすめる。ふたつめ、ただちにその愚かものが口をつぐみ、さっさと用件をすすめられるようにする。折角だ。ひとつお前の意見をきいてやろう。どうおもう? 骨蔵」

「いっ、いでででででっ!? ここっ、琥珀さんっ! 頭がっ、頭がっ!」

「なんだ、意見なしか? では、手っとりばやそうな前者にするか」

「たっ、ただちにその愚かものはっ、口をっ、つぐむとおもいますですっ!」

「本当にそうか? その愚かものがこれ以上私をいらつかせるようであれば、この手にもうすこし力がはいってしまうかもしれんぞ?」

「そそっ、そのようなことは決してっ、おこりえないとっ、て、天地神明にちかってっ!」

「なるほど。そこまでいうのであれば、後者を採用するのもわるくはないかもしれんな」

「ありがとうございますっ! 琥珀さんの慈悲でっ、その愚かものも悔いあらためるとおもいますっ!」

 琥珀の手がゆるんだ瞬間、骨蔵はすさまじい勢いで飛びすざり、馬助のうしろにかくれると、こきざみな振動音を立てはじめた。数秒おくれてきづいた馬助は、彼が身をひそめた尻のあたりをきながら、「骨蔵おぉ、かゆぅいぃ」とつぶやく。

 肩をすくめて吐息をもらした琥珀は、結の方へ手をのばした。突然のことに反応できずにいる結の頭をなでる。

「こころぼそかったろう、すまなかったな」

「あ、あの……、わたし……」

 あたたかな感触だった。不安になるたびに、幾度となく勇気づけてくれた手のひらだった。こわばっていた体や心から、するりと力がぬける。

 結に微笑みかけてから、琥珀は夏帆と琴音へ視線をむけた。

「ふたりにも迷惑をかけた。お前たちが本をよむのは明日以降になると瑠璃がみこんでいたせいで、このとおり対応がおくれてしまった。まったくあいつのやることはいつも詰めがあまい。忙太もご苦労だったな」

「そんなっ、あたしはただ、結さんたちがっ、心配でっ!」

 飛びあがった忙太をみて琥珀が苦笑する。

「なんだ、どうした?」

「そ、その……」

 口ごもった彼は琴音にうながされ、おおきく息をすうと、いきおいよく頭をさげた。

「すす、すみませんっ。結さんたちにあえたのがうれしくて、ついつい話しこんでしまって、琥珀さんに連絡するのがおそくなってしまいましたっ!」

「そんなことか。想定内だ、気にやむことはない。結たちが不安にすごす時間をみじかくしたお前の働きの方がよっぽど価値がある。馬助も骨蔵も、よくやってくれた」

 琥珀の言葉で表情をあかるくした忙太と笑いあったあと、琴音が手をあげた。

「あの、きいてもいいですか?」

「なんでもきいてくれ。巻きこんでしまった以上、納得がいくまで説明しよう」

「ありがとうございます。ここは、どこですか?」

「察しはついているだろうが、『玉響の花』にえがかれた世界だ。適性のあるものがあの本をよむと、ここをおとずれることになる」

「適正、ですか?」

「そうだ。適性のないものは、普段とおなじ読書体験をするにすぎない」

「あたしにも、その、……適正があったってことですか? 綾里さんにっていうならわかるんですけど」

「物語に敬意をもち、えがかれた世界をあるがままに受けいれようとする姿勢。またとない適正だ」

「……なんか、すごく……、うれしいです」

 顔をほろこばせる琴音をみた夏帆が首をかしげる。

「ボクはそういうの、なさそうですけど」

「お前にも適正がある。猫たちとの関わりを通じてやしなわれた素養がな」

「猫たちって、……猫神社の?」

「そうだ。人と猫、そして現世と本の世界、そのどちらにもあるのが、あわいだ。人と猫の間をしるお前にも適正がある」

「話がむつかしいですね、忙太がいっていたとおり」

「言葉とはそうしたものだ。どれだけつくしてみたところで、発した側の意図と受けた側の解釈が、完璧に一致することはない。だが、理解とは、内側からおとずれるものだ。地におちた種がめぶくようにな。それがよい土壌であったとしても、ふさわしい季節のおとずれを要することもある」

 むう、と腕ぐみした夏帆から、琴音が話を引きつぐ。

「それで、どうやったらここからでられるんですか?」

「簡単なことだ、めざめればいい。お前たちはいま、夢を共有しているような状態だからな」

「目をさますっていっても、……あたしたちいま、おきてますし」

「いま、めざめさせてやろう。そろそろいい時間だ。目をさまして家にかえれ」

 胸のたかさまで両手を持ちあげた琥珀は、三人をみまわした。

「お前たちをおこすまえにひとつ、教えておこう。この世界から持ちだせるものはすくない。めざめたとき、夢の記憶が曖昧になるのとおなじでな」

「え? それってどういうことですか?」

「またくればわかる。玉響の夢だ、ここにえがかれているのは」

「あ、ちょ、ちょっと――」

 琴音が云いおえるより早く、琥珀がうった拍手が響きわたった。


 結はまばたきをする。かたむいた陽射しのなか、ちかくを駆けぬけていった子供たちの声や足音のなかに、手をたたく音に似た響きがまざっているような気がしたのだ。夏帆をみると、彼女もまた、不思議そうな表情をたたえていた。

 朗読をおえた琴音はみじかく吐息すると顔をあげ、こわごわと口をひらく。

「ど、どうだった……?」

「なんだろう。不思議な感じがする。とおいところから帰ってきたときみたいな」

 はじめておとずれた場所をみるようにあたりをみわたす夏帆の言葉に、結がうなずいた。

「わ、わたしも……。あのね、なにかに夢中になってたときとか、……こんな感じ、するかも」

「ああ、そういうことか。夢中になってたんだね、ボクたち」

「それって、……おもしろかったってこと?」

 不安そうな琴音に夏帆は笑顔でこたえる。

「すごくおもしろかったよ。結は?」

「おもしろかった。わたし初めて、こんなに本に、……夢中になったの」

「よかったー!」と琴音は声をはずませて、

「あたしも、すごくおもしろかった、ちょっとよんだだけなのに」

「この公園、ずっと昔からあったんだね。ほら、最初のあたりの――」

 結の声をきっかけに、関をきったように言葉があふれた。にぎやかだったころの街の様子や、米国からきた英語教員の上品な佇まい、それらを実際に見てきたように話はつきない。

 三人分の話しごえに、ミュージックサイレンの調べがかさなった。顔をみあわせると、誰からともなく笑いがこぼれる。

 そろそろかえらないと、という夏帆の言葉で、三人はベンチから立ちあがり、公園をあとにした。みなれた町並みと、小説にえがかれた景色が重なりあう。このあたりにあったという駄菓子屋の店構えまで、思いえがくことができた。

 結は立ちどまって公園の方へと振りかえる。なにかを忘れてきたような気がしてならなかった。

「どうしたの?」と夏帆がとなりにならぶ。

「あのね。なんか、ほんのちょっとまえに、すごくいいことが、あったはずなのに、思いだせないの。……それがなんだったのか」

「え? 結も?」

「か、夏帆ちゃんも?」

「なんだろう。すぐそこまででかかってるのに」

 まぶたをとじて眉間に指先をあてていた夏帆が、瞳をひらく。

「玉響の花に、関係あった気がする」

「あ、うん。なんか、そんな感じ。じゃ、じゃあ、また本をよんだら――」

「――思いだすかもしれないね。泉さん、明日の放課後ってあいてる?」

「うん。今日のつづきなら、あたしからお願いしたいくらい」

「じゃあ、また明日だね」

 約束をかわした三人の話題は、ふたたび小説にもどった。あるいているのは物語とことなるしずかな商店街だったが、自分たちのすがたが、冒頭の場面にでてくる女学生たちとにているように思えてならなかった。

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