「まじめな話は似合わない」

ここにいたるまでまともな話をしていない気がする。

いや、様々な問題と自分なりに真摯に向き合ってきたつもりなんだけれども、いかんせん僕の性格が適当すぎるので本当にこんな事しか書く事がないんだ。


だって実際にしんどいのは姉であって、僕じゃない。

その僕がどれほど手術が大変そうだったかだとか、普段の生活で嫌な思いをしているだとかそんなことをさも自分が体験したように書いた所でそんな文章に何の意味もないし、書かれた姉もいい気がしないだろう。

はたから見ているだけの人間に、何がわかるのよ、つって。


だからこそ僕にできることは、性同一性障害を持って生まれたとしてもそれなりに楽しく生きている人間が少なくとも一人はいる、という事を誰かに伝えることだと思っている。

例え家族に受け入れてもらえなかったり好きな人に振られたりしたとしても、それくらいなら性的マイノリティじゃなくても経験している人はいる。

その悩みを軽く扱っているわけではない。悩みの重さや深さは、傍目には分からないのだから。

海外の文献では高校生の自殺企図数を比べた結果、性的マイノリティとそうではないグループで分けた時に性的マイノリティの方が3倍~4倍高い数値が出ていたり、自殺率が一般に比べて6倍とも言われていたりする。


ただ同性愛や性同一性障害で悩んでたり、いや、それだけじゃない。いじめられたり、勉強ができなかったり、病気をもっていたり、貧乏だったり、家族が糞だったり、仕事がきつすぎたり、振られたり、そんな理由で明日にでも死のうかな、とか考えている人がいたら、その人達に考え方次第で意外となんとかなるもんだ、とは伝えたい。


だからといって、死ぬな、とは言わないし言えない。

そこまで考えて抜いて、死ぬ方が楽だと思ったんなら死ねばいい。

けれども、どうせ死ぬならそのまえにいい思い出の1つや2つ見つけてから死んでも遅くはないと僕は思う。


僕が不安神経症になったとき、こんな不安な状態が続くくらいならいっそ死んだ方がましだと思って、マンションのベランダから飛び降りようとした事がある。

その時、どうせなら死ぬ前にタバコを一本だけ吸おうと考えた。今さら健康に気を使ったって意味ないし。

今でもその情景は覚えている。

夜の12時頃で、家族は皆寝ていた。マンションのベランダからは阪神電車の高架とその高架を走り抜ける貨物列車、まばらに車が通過している国道43号線が見えていた。

鞄に入れていたセブンスターを取り出して、火をつける。

灰皿代わりにしていた缶コーヒーの空き缶に灰を落とし、また口に持っていく。

吸い終わると空き缶の中に吸い殻を突っ込み、立ち上がる。


ちょうどその時だった。

お尻のポケットに入れていた携帯電話がなった。ポケットから取り出したその携帯は、暗闇の中で明るく画面だけが光っていて、その光の中には彼女の名前が浮かんでいた。

僕はちょっと迷ったけれど、とりあえず携帯にでて、少し話をした。

他愛もない話だ。家の帰ってお風呂に入っていただとか、猫の話だとか、そんな本当に他愛もない話。

その電話が終わった後、僕の中から死にたいという感情はどっかに消えてなくなっていた。


本当に死というものはいつやってくるかわからない。

死ぬ気になればなんでも出来るだとか、死ぬ勇気があるくらいなら立ち向かえだとか、他人は本当に無責任な事をいう。

自分で死ぬというのは、タイミングが9割を占めているということが、どれだけ説明しても理解できないのだ。

あー死んだ方が楽なのかな、と、ふと考えた時、ちょうど死ねるタイミングだったら簡単にベランダから飛び降りたり、電車に飛び込んだりすぐに出来てしまう。

だから僕は死ぬななんて気軽に言えないし、死にたければ死ねばいいと思う。タイミングさえあえば、すぐに死ねるだろう。


だけど、タバコを一本吸うだけでもいい。ビールを吐くほど飲むんでもいい。お気に入りのAVを見てオナニーするのでもいい。風俗にいってもいいし、食べきれない程のピザ、違うな、ピッツアを注文してもいい。買ってまだ読んでいない本があれば読まずに死ぬのはもったいないし、録画して見忘れた映画をみてからでも遅くはない。買ったまま組み立てていないプラモデルはないか?プラモデルじゃないけど、レゴから出ている有名建築シリーズはおすすめだ。特にフランク・ロイド・ライトの落水荘。これは高いお金を払って組み立てる価値がある。


昔やりたかった事、し忘れてた事をしてもいい。


僕はまず携帯の中のエロイやつの処分をしないことには死んでも死にきれない。

「故人が生前から好きだった動画で見送りたいと思います」とかいって、喘ぎ声が流れる葬式なんかまっぴらごめんだ。

泣き声に混じって鞭の音がしているなんてどんな羞恥プレイだ。それで喜ぶとでもおもっているのか。もし思っているなら、僕よりも僕の事を良く知っている。

泣き声じゃなくて鳴き声が広がっていってしまうぞ。


なんにせよ、取りあえずいい思い出を胸に抱いてから、行動を起こして欲しい。

しんどいまま死ぬなんていうのはあまりにもばからしい。


僕の場合、奥さんからの電話以降急に死にたいとは思わなくなったし、今のところ幸せに暮らしている。

買ったまま読んでない本もまだまだあるし、封を開けてないウィスキーも押し入れにいっぱい入っている。家には点滴を毎日しなきゃいけない猫もいるし、いきなりだっこをせがんでくる猫もいる。僕の顔を見る度逃げ回る猫も夜中になれば急に甘えてきたりもするし、もう一匹は何を考えているかわからない分こっちで考えて相手をしてあげなきゃいけない。

僕にとっては、奥さんや猫が日々まともに暮らしていけるための日にち薬になった。

あのとき僕が死にたいと思っていた気持ちは、例えてみれば「へそのごま」のようなものだった。

気にしすぎると何をしてても気になるし、いつの間にか気にもならなくなっている。


姉にとって、家族の存在が薬になったのか、はたまた毒になっているのか今はまだわからないけれど、いつか姉の処方箋に、母や弟、友人の名前に僕の妻の名前、それにもちろん僕の名前も入ってることを望んでやまない。


終わり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

例えばそれは、へそのゴマのようなもの。 足の裏太郎 @teramoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ