「過去はいつでも現在に繋がっている」
初めてあった姉、この時はまだ戸籍上も身体も男のままだったので、実際は兄だが。兄は服装や髪型で女性らしく魅せていた。
あと、女性ホルモンの注射の影響か胸が少し大きくなっていた。
元々兄は女らしい(といってしまっては語弊が少しあるがしかたない)体型をしていた。身長は160㎝くらいしかなかったし、足のサイズも23.5㎝だった。顔の作りもはっきりしていたし、細身だったので高校時代から女性物の服を着ていた。
ただ高校時代は女装とかではなく、身体のサイズにあう服が女性用だったというだけだ。
この話をするためには、僕の家庭環境の話を少ししていた方がいいのかもしれない。
我が家は一時期母子家庭だった。
僕が3歳、兄が5歳の時に両親が離婚し、僕たちは2人とも母の方についていく事になった。
というか、より正しく表現するならば父が出ていった、という事になる。
離婚してしばらくは、週末毎に父の引っ越したマンションに泊まりにいったりしていたのだが、いつの間にかそれが2週間に1回になり、月に1回になり、最終的には行かなくなってしまった。
最後に泊まりにいった日ことは、全然覚えていない。
だから、もしそれが4歳くらいのときであれば、僕は本当の父親とかれこれ28年間会っていない事になる。それだけの時間会ってないとなると、果たしてそれが父親なのかも怪しいくらいの期間だ。
両親の離婚の理由はよくわからない。
僕が成人してから聞いた話が本当であれば、父の癇癪や躁鬱がひどくなり働かなくなったから、というのが理由らしい理由だった。
ただ、本当の所はわからない。あるときから父のマンションには別の女性がいたし、
よくよく考えればその女性がマンションにいるようになってから、僕たちは父のマンションに行かなくなっていた、気がする。
まあそんな事を今更言ったってなんの解決にもならないし解決したいとも思わない。
世の中には白黒はっきりできない事の方が多いし、はっきりさせない方がいい事もある。
美輪明宏の性別と美川憲一の性別は一緒かどうかで奥さんと喧嘩し、3日間会話がなかった経験から勉強した僕なりの真理だ。
そんなこんなで、しばらくの間母子3人で暮らしていた。
母は法律関係の事務所に勤め、僕と兄は保育園に通うようになった。
今でも鮮明に覚えているのは、原付に3人で乗って保育園から帰ってきたこと。
今考えれば危ないのは当然の事、法律上も多分アウトだ。
母もそれは分かっていたと思うけれど、まあ仕方なかったのだろう。
母の原付は真っ赤なスクーターで、ミッキーマウスの立体シールが貼られていた。
その真っ赤な色が僕にはとてもかっこよく見えていて、今でも一番好きな色だ。
それから数年後、兄が小学校に入るようになり僕は保育園に一人でいなければならなくなった。
いや保育園だから、もちろん先生達もいるし友達もいるから厳密には一人じゃないし兄とはもともと学年が違うから同じ部屋で過ごしていたわけでもない。
でもそれまでの短い人生の中で、家族が周りに誰もいない状況を味わった事がなかったので、それはとても心細かった。
僕の身体は人一倍小さくて、周りの同年代の子に混ざりにくかった、というのもある。小さいのに人一倍って、変な感じがするけれど、まあいいか。
母と一緒に保育園から帰るときにはいつも、近所に住んでいるおばあちゃんの家によってから帰っていた。
小学校には共働きの家庭の為に、児童ホームというものがあった。これ、今でもあるのかな。兄はその児童ホームに通っていて、時間が終わるとおばあちゃんの家で面倒を見てもらっていた。
おばあちゃんの家から兄をピックアップし、三人で家へと戻るのだ。
休日になると、母は色んな所に僕と兄を連れていってくれた。
牧場だったり、植物園だったり、博物館だったり。
多分、片親であるがゆえの寂しさを感じて欲しくなかったからだろう。
僕も兄も、そんな母に今でもとても感謝してる。
夏休みになると、2週間ほど琵琶湖で過ごすような生活もしていた。
ふとした事で母が仲良くなったロッジのオーナー夫婦の家兼店に、僕たち2人を預かってもらっていたのだ。
夏休みになると、母は僕たち2人を琵琶湖まで送り、また仕事をするために家に戻っていった。
この頃の事は、今でもよく覚えている。
ロッジは琵琶湖でウィンドサーフィンをする人たちのたまり場みたいになっていて、毎年色々な人たちが僕達の相手をしてくれた。
沖の方までサーフボードに乗せていってくれたり、観光客用のバナナボートに乗せてくれたり、ジェットスキーで走り回ったり。
この話を聞いて母に対して無責任じゃないか、と思う人がいるかもしれないが、僕もそう思う。でも楽しかったから、それでいいのだ。
僕と兄は、朝になると乾ききっていない水着を手に取り、琵琶湖へと向かっていく。
朝の琵琶湖は、なんとも言えないくらいに綺麗だった。
打ち寄せて来る波はとても静かで、波打ち際の水は透き通っている。
沖の方に目をやれば水面に反射された朝日が目を差し、
まぶしさに目を顰めると、ゆらゆらと揺れるブイのシルエットがかすかに浮かぶ。
昨日の足跡は波のせいかほとんど残っていない。おそるおそる水に足をつけると、とても冷たい。その冷たさを我慢し、すこしずつ沖へと向かう。僕と兄の足跡が、だんだん水を濁らしていく。
そうやって、僕たちの一日は始まっていった。
おなかが空けばロッジに戻り、おばちゃんにカレーかきつねうどんを作ってもらう。
僕は琵琶湖にいる時、カレーときつねうどんしか食べていなかった。
兄は、ラザニアかドリアしか食べていなかった。
子供の味覚は何とも面白いものだ。
同じものが続いても、ぜんぜん飽きない。
コレを書いていて思ったのだが、地味に兄の食事の傾向も女っぽい気がする。
おなかが一杯になると、また兄と琵琶湖に向かう。
夜になればサーファーのお兄さんが、虫の採れるスポットと虫の取り方を教えてくれた。
朝早くに兄と2人で、前日にサーファーと一緒に仕掛けた罠を見にいくのだ。
好きなものを食べ、好きな事をする。
僕はその頃結構なアトピー体質だったのだが、一年のうちここで過ごす2週間だけは肌がすべすべになっていた。そりゃアトピーも軽くなるよな、と今になって思う。
母が迎えに来ると、嬉しい反面とても悲しくもあった。
僕の夏休みは、琵琶湖で始まって琵琶湖で終わっていた。
家に帰ってからの残りの夏休みは、ほとんど休みという感じがしなかった。
たしか学校が休みの間は児童ホームも開いてなかったか、時間が短かったかで、
僕と兄はおばあちゃんの家で残りの休みのほとんどを過ごしていた。
そんな感じで僕は幼少期を過ごした。
その時には、兄にそんな兆候があったかはどうかは全然分からなかったし、僕たちは比較的仲良く過ごしていたように思う。
僕が小学3年生で兄が5年生になった頃、母の再婚が決まった。
再婚相手にはすでに何度か会っていたので特に不安感はなかったが、兄は少し違うようだった。
兄は昔から責任感が強くて母や僕を自分が守らなければ、と考えていたらしい。
そんな中で母が再婚する話を聞き、再婚相手にあまりいい感情を持っていないようだった。
多分母を取られるとでも思っていたのだろう。だから最初から2人目の父と兄とは折り合いが良くなかった。まあ、2人目の父があまりいい人間ではなかっただけかもしれない。
ちなみに僕は2人目の父と折り合いがよかった訳でもなく、かといっていがみ合うような状態でもなかった。とにもかくにも、なあなあで過ごしていた。根本的にごますりが巧いのかもしれない。
そんなこんなで、2人目の父とは結婚する前から4人で一緒に出かけたり、相手の家に遊びにいったりもしていた。見た目は怖めで、どちらかと言えば無口な人間だった。そして、とてもゲームが好きだった。
先に言っておくと、母はこの人とも離婚している。
先ほどあまりいい人間ではない、と書いたが、2人目の父は、どちらかと言えば自分勝手であまりしっかりしていなかったにも関わらず、他人には結構厳しい、という面倒くさいタイプの人間だった。服装に対してのこだわりがとても強く、自分の稼ぎに見合わないような買い物もよくしていた。ブーツといえばダナーかアイリッシュセッターしか履かない、当時爆発的な人気を博していたエアマックス95を色違いで2色持ち、ジーンズはフルカウントかRRLしか認めなかった。
話を戻そう。
こうやって、僕たちの新しい生活始まった。
引っ越した先は、前の住所からそれほど遠い場所ではなかったけれど、空気も悪く、治安もそんなによくないような場所だった。駅前で賭博をしていたり、靴を片方だけで売っているような場所ほどではなかったけれど。
ただ、今までの人生の中では此処が一番長く住んだ場所でもあるので、今でもとても愛着があるし、電車でこの辺りを通るだけでなにか心が締め付けられるような感じがする。
当時住んでいたマンションはすでに売られていて、周辺の雰囲気は様変わりし、よく通っていた駄菓子屋もつぶれていた。それでも僕が長い間住んでいた場所には変わりなく、ちょうどいい感じの木の棒を拾って削り、友達とダイの大冒険ごっこをした公園はまだあるし、宴会していた浮浪者と言い争いになった駐車場もまだあった。
母が再婚したそのときには、僕の弟がすでに母の胎内にいた。
まあ、いまでいう出来ちゃった婚、あ、授かり婚だっけ、まあ、どちらでもいいや。だった。
僕と弟は9歳離れていて、兄と弟は11歳離れている。
もう弟は24歳になっているのだけれど、僕の中では未だに小学生のままでストップしているイメージだ。顔を合わせればジュースを買ってあげたくなるし、お年玉を渡した方がいいのか毎年悩む(結局あげないけれど)。
弟は弟で、僕を昔から兄とは思っておらず、同い年くらいの友人とでも思っていたんじゃないだろうか。
そういえば、こないだ結構いい感じのダウンを奥さんに買ってもらって実家に自慢しにいったんだけれど(僕はいいものを買ってもらうと実家に自慢しにいくクセがある)次に実家に言った時、弟が僕と同じダウンを着てにやにやしていた。
殴ろうかと思ったけれど、僕よりも似合っていたので帰ってから枕をぬらしたのはここだけの話だ。
母と弟、2人目の父の3人で、京都に観光に行った時の話だ。
弟はその頃4歳になったばっかりで、お土産屋さんにあったプラスチックの刀を買ってもらってご満悦だった。
その店を出る時、弟が急に慌てだしたらしい。
「これ、僕だけだったらお兄ちゃんが欲しがるから、もう一個買わなきゃ」
と母に言ったのだ。
その時、僕はもう13歳である。
プラスチックの刀より、SUZUKIのカタナに興味があるお年頃だ。
しかし弟はがんとして譲らず、母に2本目の刀を購入させたと。
その刀で、僕が痣だらけになったのは言うまでもないだろう。
刀で弟と一緒にはしゃいで棚のガラスを割ってしまったことも、もっと言うまでもないだろう。
そして、そのままの関係性で、今に至る。
兄は、中学高校と結構モテていた。はずだ。
高校は違う所にだったのでよくわからないが、
中学時代にはわざわざ家にまで女の子が遊びにきたことがあった。
何か紙袋を持って、兄に連絡も入れずに。その時ちょうど兄は家におらず、お引き取り願ったのだけれど。
わざわざ家まで女の子が紙袋をもってくるなんて少女漫画の中でしか見た事がなかったのだが、帰ってきた兄にその女の子の話をすると、興味がなさそうにふーんとだけ言った。
なんだかその女の子がかわいそうで、僕はその女の子の少し緊張したような表情と、か細い声で名乗った名前を今でも覚えている。
そう、それだけモテていたにも関わらず、兄には彼女と呼べるような女の人の陰がなかった。
ただ、その頃は中学生で付き合った事ないなんて当たり前だったし、別に違和感を覚える程のものでもなかった。
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