「脱線こそが人生だ」

母が離婚を決めた時、弟は16歳になっていた。

弟は家から歩いて10分ほどの高校に通っていた。


その時僕は既に役者の夢を半ばあきらめており、夜型の生活から昼型に生活リズムをかえていた。その反動で自律神経失調症になり、なんとかその状態から復帰し派遣のバイトを始めた頃だった。

この自律神経失調症の厄介な所は、一概にどんな症状がでるのか分からないことだ。

僕がかかったのは自律神経失調症のなかの不安神経症というものだったのだが、

自分の症状を確認しながら、すぐにこれが不安神経症かもしれない、と思った。

そして、このときほど僕は自分の読書経験を有り難いと感じた事はない。


不安神経症に関する知識を事前に僕の頭に植え込み(その他の余計な知識も含め)、窮地から救いだしてくれたのは大槻ケンヂだった。

大槻ケンヂは、僕が高校生のころにはサブカルの代名詞みたいな存在だった。

そんな彼のエッセイ、オーケンののほほん日記。

そこに、彼が経験した不安神経症やそれにどうやって対処したのかが記されていた。


僕は高校時代に演劇部に所属し、卒業後もその道に進もうとしていたことは前に書いたが、演劇とサブカルチャーはおすぎとピーコみたいに切っても切れない関係だ。

そして、演劇を志す人間はどこかおかしい。

これは、象の鼻は長いとか氷は冷たいだとかと同じくらい、当たり前のことだ。

演劇をしている人間もしくは志している人間で自分は普通だという人がいたら教えて欲しい。

そう言われてわざわざ教えにくるような頭のおかしい人間が、演劇人だ。


演劇に対してのピーコであるサブカルチャー。

そのサブカルチャーを牽引していたのが、大槻ケンヂだった。


僕が高校生だった頃、宮藤官九郎も阿部サダヲもまだ有名ではなくて(関西だから関東の事はよくしらなかった、というのもあったかもしれない)、今でも覚えている劇団といえば劇団新幹線、キャラメルボックス、惑星ピスタチオ、転球劇場、リリパットアーミー、南河内万歳一座、ナイロン100℃みたいな状況で、その時は個々の役者にフィーチャーするよりも、脚本の方の話をしている方が多かった。まあ、ナイロンは関東の劇団だったけれど主宰のケラリーノ・サンドロビッチと大槻ケンヂが学生時代から仲がよかったみたいで、よくエッセイにその名前が出て来ていたので知っていただけなんだけど。


その時の僕たちといえば、その劇団の誰の演技がすばらしい、みたいな話はほとんどせずに、どの劇団の脚本がすばらしいか、みたいなことばかり話していた。


役者を語らず脚本や劇団名だけで話をする。


これは野球チームを選手個人ではなく監督の良さで話し合う、みたいなコアな楽しみ方では断じてなくて、単に金がない高校生の見栄の張り合いみたいなものだ。

舞台を見るたびに各地へ行って3000円を払ったりができないので、脚本を読む事で何となく舞台を想像して見たつもりになって話をしていた、ということである。

金がないから舞台を見れず、脚本のみと向き合わざるをえなかったのだ。


そんな中、僕がはまったのが、当時リリパットアーミーを主宰していた中島らもだった。

アルコールとドラッグ、その周囲にいる頭のおかしい人間、脚本の面白さ、エッセイの奥深さとしょうもなさ、小説の中に感じるナルシシズムと儚い美しさ。その全てが好きだった。


そういえば高校当時、リリパットアーミーに所属していた山内圭哉という役者がとても好きで、僕はその髪型を真似した事がある。

その髪型とは、弁髪である。

簡単にいえばラーメンマン、もしくはラストエンペラーの幼少期のそれで、僕は高校の卒業式に合わせてその髪型で登校した。

いや、実際にその髪型にしたのは卒業式の前々日で、前日の全体練習の時にその髪型で出席したのだが。


卒業式前日、練習に参加している卒業生全員がパイプ椅子に座り、体育館の中は卒業を控えた期待感と別れの悲しさが入り交じった独特の雰囲気だった。

その時僕はまだニット帽をかぶったまま(公立であまり頭の良くない学校だったので、規則がゆるかった)だった。

体育館のステージから学年主任が拡声器で僕の名前を呼び、続けてこう言った。


「おい、そろそろ始まるから帽子とれ!」


その拡声器から流れ出た声に合わせ、僕は帽子を取った。

帽子の中に隠れた弁髪が、ちょこんと顔を出す。

さっきまでざわついていたはずの体育館が、いきなり静かになった。

永遠とも思える静寂が体育館全体を包んだ。

何秒たったか分からない。

5秒だったのかもしれないし、20秒ぐらいだったのかもしれない。

ただ、その時僕が味わった比類なき静けさは、あれから20年弱経った今でも経験した事はない。

その静寂を破ったのが、再度拡声器から再度聞こえてきた学年主任の声だった。

またも僕の名前をつげ、


「おい、帽子かぶれ!」


と言った。その後、僕は別室に呼ばれ、高校生活最後の日に親の呼び出しを食らう事になったのはいうまでもない。

卒業式当日、僕の後頭部には、弁髪の名残である直径約4センチ、高さ約2ミリの黒い芝生が生い茂っていた。


また話がズレた。


不安神経症が落ち着いた後、大槻ケンヂの他の書籍もまた読むようになった。当時はほとんど流し読みしていたようなものだったし、金はあんまりなかったが、時間だけはたっぷりあった。

1980年代、僕が生まれた時期から始まった狂的なバンドブームの話があり、大槻ケンヂが所属していたバンド、筋肉少女帯のエピソードも何度か書かれていた。

モテようと思ってバンドを始めた話から、その時代の頭のおかしい人たちの話やブルマを履いてステージで演奏していた話。

そこに描かれていた世界は余りに自分勝手で煩雑で、僕が生きている時代と同じものだと思う事ができなかったし、バンドマンにはなりたくはないな、いや、なりたくてもなれないんだと思わせてくれた。

僕にはどう頑張っても観客にうんこをなげつけたり、舞台でげろを吐いたり、はいからうどんに天かすをいれるなという叫びだけで出番を終わらせたりできないからだ。

そしてこれだけ普通な僕には、やっぱり演劇で生活する事も難しいんだろうな、というきっかけも与えてくれた。


とその時には思っていたが、今になって考えてみるとこれだけ特殊な人間はそう多くないし、今最前線で活躍されている役者さんやバンドマンの方々も普通の感覚を持っているのが大半なんだと思う。単に僕には、努力と根性と情熱と気力と才能と運がなかっただけなんだろう。

というかさらに考えたけれど、売れてるっては事はそれだけのもん持っとるんだから普通じゃないだろうが、糞が。


そういえば、母の離婚の話でした。


その時既に弟には兄が姉になった事がばらされていて(弟の小学校卒業とともに)、近隣住民の間でも普通に兄の話題が出るようにもなっていた。

弟は特に気にするようなそぶりもなく、立派な課長になるために高校生活を満喫していた。


僕はその時不安神経症から大分たちなおり、リハビリをかねて派遣で働いていた。

だだっ広い工場で延々と真っ白い板を磨くだけという、別の意味で精神を病んでしまいかねない仕事だった。


工場で真っ白い板を磨き終わり、疲れた身体を引きずりうちに帰ると、母が僕を呼んだ。

鞄を部屋に置き、リビングに向かう。

冷蔵庫からビールを取りだし、母の向かいに座った。

母は一度ため息をつき、決意してこう言った。


「あんな、私、離婚しようと思うねん」


母のその言葉に、僕の頭は真っ白になった。

まるで、今日工場で磨いてきた板の様に真っ白に。


と、本当だったら書くはずなんだろうけれど、ショックでもなんでもなく別に頭の中も真白にならなかった。

やっと決めたんか、といった感じだった。

以前から家族関係は徐々に険悪になってきており、僕は無責任ながらも母に離婚を勧めていた。

その度に、でも弟の年齢が、だとか、別れても住む場所が、だとか何かしら理由をつけて延期していたのだが、

「さっき煙草代少ないとかいうてぼやいてたんやけど、あんなんと一緒に暮らしてる理由もうないんとちゃうか。別れた方が楽やろ」

と弟が母に離婚を勧めた事で、決意したようだった。


ただ弟の通っている高校は家からほど近かったので、弟はどうするのか、どこに引っ越すのか等の話をしなければならなかったので、

2人目の父には内密にして、離婚に向けた行動を取るようになっていった。


そして、ここから、僕と兄はまただんだんと近づいていくようになる。

近くなる、といっても、距離的に近くなるだけだけれど。

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