お帰りアーロ

衣谷一

プロローグ

ある朝の出来事

 こんなことがあった。

 いろんなことが嫌になっていたある朝、電話があった。仕事が始まる時間はとうに過ぎていた。

 携帯電話のバイブレーションが耳元で聞こえて、会いたくもない上司の顔が浮かんだ。誰のせいで身動きが取れなくなっているのかを知らないで、上司は出社しない俺を嬉々として責めるのだ。

 延々と着信が続く恐怖を感じて恐る恐る手を取った。画面には『クソ山下』の表示があった。

 耳を当てた。

「えっと、つながっている? もしもし、聞こえていますかア? フルタニ・ミツヒロ君聞こえていますかア?」

 聞いたこともない女性の声だった。

「あの、誰ですか」

「おお、ちゃんとつながっているね。よしよし、よしよし。アーロちゃんだったりアーロ君だけど、とにかくよろしくね、ほら、あんたも」

 遠いところで、『よろしくお願いします』と少年のような声が聞こえた。

「あの、一体」

「おいポンコツ、何のために現場に入れたと思っているのだ」

 俺は女声に問いかけたつもりだったが、帰ってきたのは耳にしたくもない上司の声だった。激しい攻撃だった。電話なのに上司の臭い息が吹きかかってきていた。あまりに臭くて吐きそうだった。どっくんどっくんと動悸がきつくなって、血が上って顔がほてってきた。絶えず続けられる罵声、恐怖。

 前の仕事のことはあまり思い出したくない。だが、この不思議な一瞬だけは日常から切り離された特異な一点だった。

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