ルキンソを空に散らす

 館の中に足を踏み入れてすぐ、おかしいことに気付いた。鍵のかかっていた観音開きを何事もなかったかのように開けた後、途端に異臭が鼻をついたのだ。

「何か腐っていますわね」

 廊下は広く、そして遠く闇に収束していった。左右に重厚な扉が並び、その間にも調度品があった。金ぴかに輝いた派手さはなく、むしろ木材ばかりの、しかし観音扉よりもより重厚な雰囲気をたたえた、静かにも相手を圧倒してしまう雰囲気を漂わせている。

 絵の飾っていない額縁は特に象徴的だった。高度な彫刻がされているわけでも、額縁そのものが複雑な形をしているわけではなかった。三つ、芽が生えているのである。下の縁から小さな芽が二つ、そして左側の縁からは芽とは言い難い一本が萌えているのである。細いながら一本の幹が額縁の上部に達していて、枝がいくつも伸びている。枝には鮮やかな葉が茂っていて、風もないのに揺れている。

「それ、わたくしの絵が入っていたものですわね」

 アーロさんが言った。三つ目の扉を開けて中の様子をうかがっているところだった。

「この場所を歩くのはだいぶぶりですが、そうですよね、わたくしの肖像画は外されてしまいましたか」

「それは、幽閉される前ですか」

「ええ、あの塔へ向かった時ですわ。その時にはこんな芽が生えてはいなかったはずですが」

 俺は返す言葉を失ってしまった。どうして分からなかった。この廊下から塔に至る道は一本、幽閉へと巡るルートである。何も考えないで使う言葉ではなかった。どう言葉を返せばよいのであろう、さも何も気にしていないようなアーロさんの言葉が余計に胸に響く。

「そんな気にすることもありませんわ、もうわたくしは外におりますもの」

 俺の思っていることを見越してアーロさんは口にした。ちょうど俺が額縁から目をそらして横にある扉を開けた時だった。客室と思わせる、天蓋付きベッドと小さな衣装タンスだけの部屋だった。

「心を読む魔法もあるのですか」

「これは魔法ではありませんよ、どちらかといえば、魔法を使うための資質とすべきでしょう」

「資質なのですか」

「ええ、忌むべき力、わたくしを閉じ込めた力」

 アーロさんが扉を開けると、途端に吐き気を催す腐敗臭がむわっと広がった。反対側の扉に立っている俺でさえ怒涛のようにせりあがってくる胃に口を押えなければ耐えられないというのに、より近いところにいる彼女は少しばかり眉をひそめるのみで、微動だにせず中を見つめるのであった。

「あるお方から教えていただきました。心を読めるようになると、世界が見えるようになる、と。さらにこうも続けられました。世界が見えるようになれば、世界を変えることさえできてしまう」

「言っていることがよく分からないのですが」

「わたくしもかなり幼いころの話ですゆえ、世界という言葉が何を示していたのか、遠い記憶の彼方へと過ぎ去ってしまっております。ですが、わたくしはその言葉にすがったのです」

 アーロさんは俺のほうに一瞥を向けたのち、部屋の中に足を踏み入れた。乾いた足音が四つあって、再び静まり返った。

「あなた様も、お仕事をおやめになっているのでしょう」

「それもまた、心を読んだのですか」

「もはや読んでいません。その人と会えば大概のことは読まずとも読めてしまいます。読もうと思っていないのにもかかわらず読めてしまう、理解できてしまうことはもはや『読む』といってよいのでしょうか」

 俺はどのような言葉を返せばよいのであろうか。否定するにも、肯定するにも、材料がない。心を読める、ということが実感できないからだ。心を読むなんて思いつくとしても心理戦のような駆け引き、いわばあてずっぽうと想像の産物である。

「答えを求めるような言葉を使って申し訳ありません」

 部屋から、布のこすれる音がかすかに聞こえた。アーロさんは何をしているのであろうか。しかし、あまりの臭気に近づく気になれなかった。

「ただ、これによってルキンソが相当苦しんでいるのを知っていました。それはもう何年も、わたくしに対する謝罪の思いと、状況を打開できないルキンソ自身の無力さをののしる思いを。今もルキンソの思いが心に響きます。どうやら、食事を届けようとしたときに倒れたようですね」

 物音は依然として続く。

「今倒れたって言いました?」

「はい、すでに死んでしまっております。わたくし、ルキンソに火の弔いをしたいので、少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか」

 アーロさんは部屋に倒れている遺体に対して、あなたのお役目は終わりました、と声をかけていた。火の弔いというぐらいだから、その場で火をつけてしまうのだろう。家に燃え移りそうな気もするが、そこはきっと魔法の力で何とかしてしまうのであろうか。どちらにせよ、アーロさんはあまり気にしていないのだろう。もうあなたは自由ですルキンソ、と上ずりがちな声を聞くと、俺自身も辛く感じてきた。一か月以上前に死んだ使用人とようやく再会し、別れを告げているのだ。

 ふいに訪れた沈黙が痛い。

 ややあってから、何語か分からないつぶやきが流れ始めた。いや、そもそも言葉なのか。言葉とも異なる旋律の類か。聞けば聞くほど胸が締め付けられる物寂しい調べは、それがアーロさんのルキンソに対する最後の言葉なのは想像にたやすかった。

 ぶわっと部屋から光が漏れ出た。追って熱気が迫ってきた。光の中に黒い影が一つ浮かび上がっている。ひざまずく人の姿だ。炎の揺らぎが光のムラとなって壁に投影されて、時折床の近くに一本の棒が浮かび上がる。おそらくはルキンソの姿だ。俺はその時、初めてルキンソの姿を目にしたのだった。

 光は徐々に弱まった。壁に映し出される部屋の様子は次第に見えづらくなってゆくが、ルキンソがそれにつれて薄くなってゆくのが分かった。薄くなり、所々その形が欠けてなくなる。使用人の体が焼き尽くされて消えようとしている。

 しまいには光が収まり、何も見えなくなった。火の弔いがなされる前の状況に戻ったというのに、どうも落ち着かない感覚に陥った。俺にとっての何かは何も失われていないのに、アーロさんの執事が失われたというのに、さも自分自身の大事なものが失われてしまったかのような、穴が開いてしまった感覚。

 アーロさんが出てきた。顔には涙の筋が残っていて、目の縁に沿って涙が残っていた。手に握られた片手鍋には白い粉が小山を築いていた。アーロさんは一言も言葉を発さずに俺を通り過ぎて、塔へと向かう道を歩いてゆく。黙って葬列の後をついてゆく。足取りは重く、一歩一歩を忘れないように踏みしめているかのようだった。

 生きる額縁を過ぎ、開け放たれた観音開きが徐々に大きくなる。

 痛い。息をするのも苦しい。暗く沈んでしまった気持ちをどうにか変えたい。しかし耐え忍ぶほかに手だけはなかった。俺は部外者であって部外者でない。ルキンソという人物を灰でしか知らないが、アーロさんの執事で、アーロさんが最初に探したいと願った人物である。

 扉と階段との間にある通路でアーロさんは立ち止まった。石の柵に鍋を置いて真っ白な灰を見下ろした。口をぐっと閉ざしたままアロンソを見ている姿には、はじめは沈痛そのものといった印象だったが、しかしすぐにそれが誤りだと気付いた。

 アーロさんがほほ笑んでいたのだ。

「いままでありがとうございます。これからは、自由に、行きたいところへ行くのです」

 柵の外に鍋を掲げた。途端に突風が吹き荒れた。強烈な一撃は体までもを持っていこうとするほどのもので、とっさに柵につかまって踏ん張らなければ転落しかねないほどだった。普通でない暴風に聴力を奪われる中、あっという間に目の水分を持っていかれる中、何とかアーロさんの様子を確認すると、微動だにせず風を受け止めていた。あたかもアーロさんの周りだけ風が起きていないかのよう。そしてまっすぐに目を向けている先では、ルキンソが風に乗って空高く舞い上がっていた。

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