かんぬき

 簡単に荷物をまとめた俺の異世界体験は極めて簡単だった。なにせ扉を開けて部屋に足を踏み入れるのみなのだから。ほんの数歩である。異世界に入った途端空気ががらりと変わることはほとんどなかった。気温が気持ち低く感じられたものの、劇的な変化は全く見られなかった。

 部屋の中央に立ち止まってぐるりと三百六十度を見渡した。飾り気のない部屋だった。壁の石材は隠れる気配すら見せない。目につくものはベッドにクローゼットに本棚、化粧棚ぐらいだった。家具の表面は深い飴色を呈していて、わずかな光にもてらてらと輝く、安物とは程遠く感じられた。

 そう、異世界は昼間のように明るかった。俺の部屋は夕刻にさしかかって、外は茜色に移り変わる頃合いだった。時差の類なのだろうか。この世界の住人たるアーロさんは全く気にしていないことを考えると、大したことではないということか。

 アーロさんは何をしているかというと、本棚の横にある小さな扉と相対していた。腰ほどの高さしかない小さな扉は部屋に備えられている家具とは打って変わって塗装だったりコーティングされていたりする見た目ではなく、木材そのものが露出している。ざらざらの表面で、劣化によるものか、木目に沿ってくぼみがいくつかあって、ささくれも見受けられた。何より印象的なのは扉から生える針金の輪である。いびつな丸を形作る針金はその扉が素人による立て付けと思わせた。

 しばらく扉を見下ろしていたが、すっと腰を下ろして視線を合わせるなり、扉に手をかざした。上から下に、手を一度動かしただけ。

「かんぬきは二本、朽ちている様子もないわね」

 驚くべきことがおきた。俺の目から見ても扉があるだけで扉の反対側にかんぬきがあることを見分けることはできない。手をかざしたところで分かることは何もないだろう。だが、アーロさんはそれをやってのけた。直後、かざした手を横に払うと、向こう側から硬いものの転がる音があった。もう一度手をかざしてみてから、

「ちゃんと外せましたわ。やはり、ちゃんとした食事はとらなくては駄目ですわね。フルタニ様のおかげです」

と言ったのだった。扉をちょんとつつけば、、蝶番の金切り声とともに扉が動いた。小さな出入り口から外をのぞき込めば、二本の太い棒が転がっていた。これが魔法というものなのか。絶対にできっこないことを簡単に実現してしまう、これが魔法なのか。かりそめの食べ物、は信じがたいところがあったが、目の前で起こったことを考えれば、信じるほかなかった。アーロさんは魔法使いだ。

「それが魔法ですか」

「そうですわ。まあ、わたくしもこうやってこのかんぬきを抜くのは初めてですが」

「やったことがないのにできるものなのですか」

「わたくしも魔法のすべてを知っているわけではありませんが、わたくしがやろうとしたことで失敗したことはありません」

 アーロさんはそう言いながら扉をくぐった。体を横によじりながらの脱出でスカートやら髪の毛やらが引きずられて、綿ぼこりを一つ巻き込んだ。扉の向こうに隠れた彼女は、髪の毛を気にしているのであろう、

「あら、なんて大きな綿ぼこりですこと」

と言っているのが聞こえた。

 彼女の後を追って俺も扉と外壁のへりに腰かけた。目の前に迫る石壁を身をかがめてやり過ごし、屋外に降り立った。視線が壁と同じ色合いの足元から、石柵、そして外界の景色へと移った。そこは地上はるか高く、眼下の木々がつまようじほどの大きさしかないほどだった。

 見晴らしがよい。柵から身を乗り出して景色を眺めてみれば、真下のあたりは芝生のような質感が広がっていて、それが遠くになるにつれて木々にとって代わった。芝生に生えた木がいつしか林となり、林の中で池がきらきらと輝いた。林の奥に目を細めれば、白みがかった先に山脈にもとれる山の連なりがあった。

「なかなかの美景だと思っております」

 声のあったほうに振り返れば、アーロさんがかんぬきを拾い上げているところだった。耳障りな音とともに戸を閉めてかんぬきをかけて、そうしてから言葉を続けた。

「ですが、わたくしはこの景色が嫌いです」

「それはどうして、なんでしょう、見飽きたからですか」

「あながち間違っていません。わたくしはもっといろいろな場所を見たいのです。ですが、ここに幽閉され続け、見ること叶わずにこの齢になってしまいました」

 幽閉、という言葉。

 魔法のインパクトが強くてはっきりと意識していなかったが、考えてみれば確かに部屋を出入りする扉は普段から出たり入ったりをするためにできているようではなかった。外からかんぬきをかけられるようになっていることを考えれば、内側から開けたり閉めたりができるつくりはなっていないのは明らかだった。あの針金は、本来は存在しなかったものなのだろう。扉ができた後、アーロさんが住むことになってくっつけたのだろう。

 しかし、アーロさんには魔法がある。

「魔法で扉を開けてしまえばいつでも出れたと思うのですが」

「幼いころはこれが当然のことだと思っていましたし、いろいろ分かるようになってからも、ルキンソがわたくしの周りの一切を世話してもらっていたので」

「ではそのお方にお願いすれば」

「そうするとルキンソは決まって本を持ってくるのです。父君の言いつけで外に出すことはできないですが、外のことが書かれたものであれば言いつけに含まれておりませんで、と決まって。本棚をご覧になったでしょう、あれはほぼすべてルキンソが持ってきたものです。でも、ある時、同じことを口にしたら、ルキンソったら、何度も何度も、申し訳ございませんって謝罪の言葉を。あまりに不憫で、それ以降そのようなことを頼んだことはありません」

 アーロさんは左手の階段を見下ろしていた。下りの長くて急な階段はでこぼこした坂のようだった。その先に短い通路があって、それが巨大な建物の観音開きの扉に突き当たった。

 巨大な建物、塔と同じ白い色合いの邸宅だった。しかし石材の白さとは異なり、絵にかいたような白さだった。漆喰で塗り固められているようだった。アーチ状の窓が規則的に並んでいて、窓の奥は暗くてよく見えなかった。美しい白さと対照的な不気味な雰囲気が、どこか幽霊屋敷を思わせた。

「では、ルキンソを探しましょう。ルキンソはこの別荘のどこかに私室を持っているはずです。部屋を一つずつ改めましょう。運悪く館に姿がなかったら、そうですね、その時に考えましょうか」

 アーロさんが階段を下り始めた。俺も後を追い、石柵に手をかけて急坂を下るのだった。

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