お願い

 とりあえずその人は幽霊でもなんでもなく、しばらく水も食事もとっていないかわいそうな女性だった。水分と食べ物ということで、両方を兼ね備えたカップ麺を渡してみたら、あっという間に平らげてしまった。しかしここからが普通ではなかった。申し訳なさそうに目を伏せながら、

「お見苦しいかと思いますが、もっといただけないでしょうか」

と、さらなる食べ物を求めたのだった。

 食べ物がほしいと苦しんでいた人を前に、我慢なさいと制するのはなんだかかわいそうだから、言われるがままカップ麺に湯を入れて与えた。麺が戻る間もなく食べようとするぐらいのわきまえのなさで、そのまま何もしなけらばバリバリ食べ始めてしまうところだった。

 それが三杯も繰り返され、特大カップの四杯目をすするところでようやく並の人のペースで食べるようになった。三杯目までの怒涛の際にはいくら声をかけても麵をすするのをやめてくれなかったが、落ち着きつつあるこのタイミングであれば話をしてくれるかもしれない。

 普通ならここで相手の名前やら身の上を聞いてあげるのは人ってもものだろうが、あろうことか、俺はその食欲を的にしてしまった。何も考えず、

「どうしてそんなにがつがつと」

と口走ってしまったのだった。

 うっかり漏らした言葉に彼女はフォークを置いた。

「すみません、はしたない姿をお見せしてしまいまして。かれこれ一か月、ちゃんとした水も食べ物も食べられませんでしたもので」

 一ヶ月。目の前の女性はさもよくあることのように口にした。体がその言葉を受け付けなかった。

「今なんと」

「一か月、ちゃんとした食べ物を食べていなかったものでして。普段は執事のルキンソが持ってきてくださるのですが、まったく姿を見せなくなってしまいました。ですから、かりそめの水とかりそめの食べ物を生み出して何とかしのいでいたのですが、さすがに限界が来てしまいまして」

「かりそめのって、食べ物にかりそめも何もないんじゃないですか」

「魔法で生み出すのです、実際に作り出すことができる人は少ないと聞きますが」

「いや、魔法って、そんなありもしないことを」

「ほう、さようでございましたか」

 女の目が俺に突き刺さる。ごく数分前まで食事に飢えて死にそうな顔をしていたとは到底思えなかった。目を合わせただけで心臓をわしづかみにされたかのような、すくみあがる思いをもたらす。彼女の体のどこに一瞥するだけで物怖じさせてしまうような力を秘めていたのか。

 彼女は自身が這い出してきた扉を見やり、それから反対側の、窓の外に目をやって、

「さようでございますか」

と再び口にした。

「あなた様、お名前をうかがっていませんでしたね。わたくしはアーロという名前でございます」

「あ、えっと、フルタニです、古谷光宏」

「フルタニ、フルタニミツヒロ……」

 アーロさんが俺の名前を口にした直後、ほんの少しほほ笑んだのを見逃さなかった。獲物を見つけた悪役が気持ちを抑えきれずにやりとするような、そんな感じだった。

「フルタニ様、あなた様にお願いしたいことがあります」

 心臓をわしづかみにしてきた。

「まず、納得はしていただけていないと思いますが、わたくしはあなた様の世界の人間ではありません。おそらくは、あちらの扉を境に行き来ができるのでしょう。あの扉の向こうはわたくしの居室です。そしてこちらは、あなた様の居室、そうですよね?」

「ええ」

「これも何かも縁、思し召しでしょう。あなた様にお願いしたことが三つございます」

「お願いしたいこととは」

「一つ目、一か月前から姿の見えないルキンソの様子を確かめたく。二つ目、わたくしには姉がいるのですが、その様子を確かめたく。三つ目、わたくし、マーテットイのカナーニに行きたいのです。ついて来てはくれませんか」

 普通なら仕事があるとか就職活動中だからとか理由をつけられて、ごく数十分前に出会った人の願いを断ることもできたろう。いや、そうしなければならなかったに違いない。にもかかわらず、俺は、まだ無職だし、と考えて、しばらく仕事とか追い掛け回される類から離れてもいいかな、と考えて、よくも考えずにアーロさんの願いをかなえることにしたのだった。

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