1 扉

訪問者

 アパートの一階、隅の一室。傍らのキャリーバッグから手を放して、ポケットをまさぐる。キーケースにも収めていない裸のカギをノブに挿し込んだ。

 この前まで住んでいた部屋は会社が部屋を借り上げたものだった。仕事を辞めた以上住むことはできない。こういうところだけは前にいた会社は早くて、すぐに部屋を明け渡せ、とまだ正式に退職していない時期から圧迫してきた。正式に退職をしていない上に次の部屋を探している最中だと反論すれば、部屋にいるなら仕事に出てこいとむちゃくちゃだった。連日のやり取りにやる気をごりごり削られて、今度こそ体が危ないと思ったものの、ちょっと先にあるゴールを思い出して何とかやり過ごした。

 疲弊した心身で見つけた部屋は、大学のころに暮らしていたところに近い場所だった。見ず知らずの場所では右も左も分からずそれだけで疲れてしまうと思い、見覚えのある街なら大した負荷にならないと考えたのだった。

 深井ハイツ、一〇六号室。

 俺は新しい部屋のカギを開けた。

 扉を開けると真新しい建物のにおいが鼻いっぱいに広がる。玄関に一歩踏み入れればすぐ横に洗濯機が鎮座して、廊下を挟んでコンロとユニットバスへの扉とが向かい合っている。奥には開けっ放しの段ボールがローテーブルに上に鎮座している。引っ越しの片づけはおおむね終わっていたが、整理の途中で忘れ物に気付いて外に出ていたのだった。あの会社のことだからすでに処分してしまったかもしれないと半分あきらめの境地で向かったものだったが、幸い大家さんが確保してくれていた。実際、会社は捨てようとしていたらしい。あの会社には二度と貸すものか、というのは大家さんの弁だった。

 キャリーバッグを抱えて廊下を通り抜け、居間で中身を出した。ローテーブルの段ボールは床に追いやって忘れ物を出していった。俺が忘れたのは飛び道具としてはいささか重い辞典がいくつか、英語で書かれた書籍がいくつか。エスペラント語の文法書。どれも大学のころに使っていたもので、大学から離れた今でもどうにも捨てられないものだった。いわゆる思い出の品である。ところどころが破れていて、辞書の小口には手垢で変色した後がくっきりと残っている。ちょっと前までの仕事では仕事に追いかけ回されるばかりで何かが身についた実感は全くなかったが、当時は辞書を調べていろいろ考えて、発表した後の身についた感は相当なものだった。美化された記憶かもしれないが、とにかく当時は頑張ることが楽しかった。

 ばたん。

 突然の音に心臓が跳ね上がった。思わず声も上がってしまった。耳がその後の静けさをとらえれば、心臓はもとの位置に戻ってきて、何かが落ちたか倒れた音だと気付いた。冷静に考えればどうってことはない、辞書も書籍も重量級のサイズだから、床に落ちればそれなりの音がするものだ。

 しかし、テーブルを見やっても彼らが消えた様子はないし、かがみこんで床を見てみても、そこには置きっぱなしの雑誌を除いては何もなかった。では、何が倒れたのか。

 ぐっと身を固めて、静けさに身を溶かした。車が近いところを通り過ぎる音、風に葉が揺れる音、隣の住人が壁に何かをぶつけた音、腹の虫が鳴く音、バイクが遠くで走っている音、上の階の住人が床に落ちた音。どこかにおかしな音はないのかとあたりを探し回った。じっと自分の身から出る音を意識から追い払って、ひたすらにソナーに徹する。

 再び、腹の虫が鳴った。

 時は夕方、そろそろ夕食時。でも俺は大して腹を空かせているわけではない。どちらかというと荷物に取りに行った心労で寝てしまいたいぐらいだった。実際、腹からぎゅるぎゅると訴えが起きているわけでも、胃がぺったんこになっているような感覚もない。

 何の腹の虫がなったのか。急に心がざわつく。この部屋は事故物件ではなかったか。このあたりの土地にいわくはあったか。前にいた部屋から『何か』を持ち帰ってしまってはいないか? あの会社の犠牲者は少なからずいそうだから、最後の問いかけはシャレにならなかった。

 耳が腹の虫をとらえた。

 台所のほうへ目を向ける。塗装がはがれてボロボロの扉が台所への視線を遮っていた。その瞬間、後悔と好奇とがないまぜになって身を包み込む。見るべきものではないものを見てしまったかもしれないという後悔と同時に、その扉が白くないことに興味を持ってしまったのだった。この部屋の扉は全て白いのだ。おそらくは赤い色で塗られていたのだろうが、ほとんどがその色を失っており、残っている色もかなり色あせている。遺跡から出土した遺品のような雰囲気だった。この部屋にあるまじき姿、連想するものといったら四谷怪談のお岩さんに代表するような人型のそれだが、扉もどうやら『何か』として現れるらしい。

 扉がかすかに動いた。ギギ、とさびついた蝶番の音がした。続いて布の擦れる音。頬に汗が流れるのを感じた。あごに触れればやけに冷たい汗だった。いつの間にか冷や汗をかいていたのである。そう、俺は気付いたのだ。扉があるということは、そこから何かが出てくることに。

 現れたのは人の腕だった。肉付きはよくない、叩けば簡単に折れてしまいそうに感じられるほどだった。

「誰か、誰かいませんか」

 そしてしゃべった。

「お願いします、誰か、誰でも、いいですから、お水と、食べ物を恵んで、くださいませんか」

 扉の陰から這い出してきたのは頬のこけた赤毛の女だった。

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