2 ツァンテルブーリオ巡礼

そこに誰かいたか

 ルキンソを弔った後は、館の一階でアーロさんと語らった。俺は聞き手に回って、アーロさんが自身に尽くしてくれたある執事の話をする。断片的な物語、アーロさんが持つ所々の思い出。幼いころに親から叱られて夕食を抜きになった時にこっそり食事を分けてくれた話。初めての魔法。魔法が使えるようになったことをルキンソに伝えた話。魔法の発言が親に知られてしまって、怒られているのか八つ当たりされているのか分からないがひどいことを言われた記憶。元々の生家から遠く離れた別邸であるこの建物に移動する車中のこと。確かそのような内容を話した気がする。

 正確に覚えていないのは、アーロさんが途中で持ってきた酒のせいでひどく酔ったかもしれなかった。あるいは、あまりに強烈なエピソードが続いて頭が言うことを聞かなくなってしまったかもしれなかった。少なくとも、館の一室で眠りにつこうとしたときには、全身に心地よいだるさがあったのだけは確かだった。

 ベッドに入ったのは明らかだった。その前に窓を開けて換気したのも確かだった。だが、気付いた時には床に倒れていた。頬と床との間に埃っぽい粒粒さは全くなく、ひんやりとした感じは気持ちがよかった。体を起こしてあたりを見渡せば、開け放ったはずの窓が閉まっていた。

「やあやあフルタニ君、ようやくお目覚めだね」

 声がした。子供の声色だ。

 声の主はどこだ。声は扉のほうから聞こえた。しかし振り返ってみてもそこには何もなかった。奇妙なのは、扉が開いていることだった。

「そんなところに突っ立っていないで、こっちに座っておしゃべりしようよ。数年ぶりなのだから」

 声はベッドの上の小人からだった。最初にベッドを見た時には誰にもいなかったし、そもそも、部屋の中で何者かが息をひそめていた気配すらなかった。それはベッドに腰かけているわけだが、床に足が届かない様子で足をぶらつかせていた。その足に靴を履いておらず、かといって床に靴が転がっているわけでもない。小さな足。小さな体つきにまとうタキシードが幼齢な印象を後押しする。

なんだこいつ、という言葉が自然に口から漏れ出てしまうのだった。

「全く失礼な野郎ね。どうしてアーロはあんたがいいといったのやら」

「どういうこと、ですか。あなたは何者なんですか、それに、今まで会った覚えはないですよ。アーロさんとの関係は」

「質問を何個も言うんじゃないの、あたしは一人だけなんだから」

 少女がベッドから飛び降りると、勢い余ったのか、少しばかりよろけた。俺に向かってにぱっと笑って見せた。そうしてから俺を正面に直立した。わざとらしく一歩を踏み出した。

 少女がどんどん迫ってきた。少女の背は徐々に伸びていった。胸が発達し、一歩近づいてくるにつれて、腰はくびれ、脚が伸び、目の前に来た時には見上げなければ女性の顔を見られないほどの背丈となっていた。

 女は人差し指を俺の顎先に添えて、くいっと持ち上げた。否応がなしに視線が合ってしまった。切れ長の目が見下ろしてきている。人を推し量るような、目をそらしては負けてしまいそうな目力だった。

「あたしのどこが子供だって? この艶やかさいっぱいの体のどこが?」

「いやだって、はじめは小さな女の子の姿だったじゃないですか」

「ああ、今度はこんな姿でどうだ」

 瞬きの一瞬で、女性が男性になった。筋骨隆々スキンヘッドで、図太い声。張り裂けそうになっているタキシードには鳥肌が立った。背中から末端めがけて身震いが走った。

「うげエ、やっぱり男の姿になるのはやっぱりいやだね、寒気がする」

 くるりと背を向けた瞬間に身長がぐっと縮まり、最初目にしたタキシード少女へと戻った。ややあって、ふわり浮かび上がり、俺と視線を合わせた。

「とまあ、人間ではないのだよフルタニ君、よく分かったかね。あたしはケイサって名前さ。陰ながらアーロのことを今まで守ってきた、いわば守護者ってところ。フルタニ君とは、君の知っている言葉で言う携帯電話で話をした間柄ではないか」

 仕返しとばかりに答えを連射してきた。目まぐるしい性別の変化にまだついていけていないというのだから、言葉をつらつら並べられても到底理解できるはずもなかった。

 まずは名前。ケイサ、と言った。本名なのか略称なのか偽名なのはさっぱり分からないが、どうでもよい。

 ケイサはアーロの守護者である。守ってきたと自称している。真偽判断しようがない。

 ああなんだ大したことないじゃあないかと、ようやく思考が追い付いてきたところで、ケイサの言っていた一言に気付いた。

 携帯電話で話をした。

 ケイサは俺とスマートフォンで話をした、と言った。

 頭の中で何かが爆発したかのような目まぐるしい変化を感じた。急に頭の中がまっさらにされて、次の瞬間には記憶の再構築が終わっているかのような。呼び起された記憶は人生のどん底の時期の朝だった。

「やめてくれ、頼む」

 ケイサから後ずさった。体の中であの上司の声が反響する。俺の心を刺す声は減衰せず常に体の中を跳ね回り、ぐさリぐさりと穴ぼこだらけにした。刺し傷から激痛がほとばしる。刺さらなくとも、かすったところだって痛かった。

 一瞬だけケイサの顔をとらえた。しかしどんな表情であったかは全く分からなかった。ただ認識できたのは、ケイサがまるで俺が思い出したくない記憶の権化であるように思えた点のみだった。

「やめてくれ、もう思い出したくないんだ、やめてくれ」

 火とならざるものが見えないよう手のひらをそれに向けて視界を遮った。後ずさりする脚は止まらなかった。背を向けて逃げれば早かろうものだが、権化に背中を向ければそれこそ死んでしまいそうだった。

 後ずさりの一歩に床の感覚がなかった。ぐらりと体がよろけて、そのまま転落する。へそのあたりから鳥肌じみた感覚が膨れ上がった。

 落下中の姿勢をどうこうしようなんて考えられなかった。もみくちゃになりながら落ちる。いつしか周りは黒だ。闇なのか、黒く塗りつぶされた世界か。分からない。分かることは二つだけ。逃げられた、という安堵。もう死んでしまう、という恐怖。

 ああ、死ぬ。根拠はないが確信があった。

 だがその瞬間、俺はベッドのへりから足を投げ出しているのに気付いた。腕もベッドからはみ出していて、ひんやりとした空気をまとっていた。体を起こせば節々に痛みがあり、目を向けた先では窓が開けっ放しになっていた。

 ああ夢か、と簡単な言葉で片づけられればよかったものの、それができなかった。言いようのない不気味さを感じていたのである。夢にしてははっきりと覚えているし、内容に実感があった。ぼんやりとした世界ではない。明らかにケイサはそこにいたし、俺は会話した。アーロさんを守ってきたという彼女はかつて、携帯電話で俺と会話したのだと。

 俺の手が震えているのに気付いたのは不思議な出来事を思い返している最中でのことだった。一方の腕でもう一方を抑え込んでも震えは止まらなかった。夢のような、しかし絶対に違う何か、俺の腕は言葉にできない恐ろしい出来事を知っていて、それで震えているのであった。

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