出立の日

 震えていた手はアーロさんが部屋にやってきてからもしばらく続いていたが、話をしているうち、いつの間にか収まっていた。

 話しをしているところで不思議だったのは、ケイサという存在をアーロさんが全く知らないことだった。精霊なるものについてはごく普通のことのようにとらえていたが、アーロさんのことをよく知っているようだ、と話をしてみれば、そんな人とはあった覚えがない、と答えたのだった。

 気持ちが落ち着いてきたところで風呂に入っていないことに気付いた。頭に手をやれば髪の毛がべとべととまとわりつき、体の動きに合わせてシャツの襟元が開けば、汗のにおいがむわり拡散した。

 風呂の申し出をしたところ、風呂とは何でしょうか、と問われて困ってしまった。どうやら水浴びの習慣はある様子だったので、道具を用意してもらって水浴びをした。明け方の水だからだろうか、水は凍る寸前化のように冷たかった。それを裸になって浴びるというのは、湯に慣れた身にとっては少々辛かった。シャンプーやボディソープの類はない、あるのは固形石鹸で、さらに泡立ちが弱いときた。あまり文句を言えるとは思えないが、こんなところで元々の暮らしの便利さを痛感してしまうのだった。

 水浴びを終え、服を着替えたた後は、エントランスロビーに来るよう言われていた。言われるがままロビーに向かえば、頑丈そうな旅行鞄を両側に置いたアーロさんがいた。

 アーロさんが着替えていた。

 ずっと見てきたドレス姿とは打って変わって、動きやすそうな服装となっていた。ふくらはぎまで覆うブーツには複雑なステッチが模様を形作っていた。ブーツから飛び出すのは紺色のタイツ、そして腰回りには白い巻きスカートのようなもの。上着はまるで学ランのような、詰襟のジャケットだった。上着も紺色で、上下の紺色に挟まれた白いスカートが印象的である。

 ロビーに入ってきた俺には、しかし気付いていない様子だった。何やら万年筆と手帳を手にして考えているのか、集中しているのか、顔を上げる様子はなかった。もしかして待たせてしまったのかもしれない、手持ち無沙汰になって何か始めてみたら集中してしまって、タイミングの悪いところで俺がやってきたのかもしれない。

 申し訳ない気持ちを持ちながらも歩み寄ると、ようやく気付いたのか、アーロさんが俺を見た。

「準備は整いましたか」

「すみません、待たせてしまったようで」

「とんでもございません。すぐにいらっしゃってしまったらフルタニ様に道中ご迷惑をおかけしてしまいます」

 アーロさんは首を横に振りつつ、手帳の紙面を俺のほうに見せた。手のひらサイズの見開きには細かな線があって、普通に見るだけでは何が書いてあるのか分からないほどだった。目を凝らして、顔をぐっと近づけてみて、そこまでしてやっとそれが地図だと分かった。正確なのかどうかはともかく、まるでパソコンで作ったかのような図だった。しかし、貧相な風呂事情のこの世界にパソコンなるものは存在しうるのだろうか。

「地図を書きました。まずはツァンテルブーリオまで行ってみましょうか」

 よく見たら、空中に万年筆が浮かんでいて、まさに誰の手も触れずにキャップが閉まろうとしていた。これも魔法の一種ということか。

「次は、わたくしの姉を訪ねることですね。ですが、大変申し上げづらいのですが、姉がどこで何をしているのか全く分からないのです」

「それは、理由を聞いてもかまいませんか」

「わたくしは幼くしてあの塔で過ごすことになってしまいましたから、今はどんな容姿なのか、どんな職に就いているのか、見当がつきません。幼いころの記憶を頼りに屋敷の中の痕跡を辿ろうとしてみましたが、全く意味がありませんでした。ルキンソから話が聞ければよかったのですが」

 荼毘を前にむせぶ姿が頭に浮かんだ。咄嗟に故人の話となってしまったことを謝ろうと思ったものの、アーロさんの言葉を思い出して踏みとどまった。ルキンソの死によって彼は自由となったのだ。もちろん理解者を失った悲しみはあるだろうが、彼の行動を不憫と言ってしまう彼女である、役目を終えたことを悲しいとは思っていないだろう。

「では、どうやって探しましょうか。まずは近くの町まで移動しますか」

「はい。地図に書き込んでいますが、このような旅路で向かおうと考えております」

 地図に横断する線が記されていた。左手がわの隅っこに『始点』とキャプションのついた丸があり、そこから線が始まる。いくつかの丸を通過して、途中地図を縦に分断する、おそらく山を表しているのだろう、その図を突っ切る。そのあともいくつかの丸を通って、最後に大きな丸が塗りつぶしてあった。

「最後の丸がツァンテルブーリオ、この辺りでは一番大きな都市と聞いています」

「かなり長い道のりに見えますが、どれぐらいかかるのですか」

「申し訳ありません、わたくしも分からないのです。もしかしたら御者様なら分かるかもしれません」

 初めて聞く登場人物だった。ルキンソ、アーロさん、そして俺。ルキンソが死んでいることすら気付かないのである、どうしてこの屋敷に御者がいると言えようか。それをどうしてアーロさんが知っていると言えようか。

「あア悪い悪い、寝坊してしまった。出発はもうしばらく待っていてくれ。ゆっくりと茶でも飲んでいればいい」

 背後からの声に耳を疑った。

「御者様、ちょうどお尋ねしたいことがあったのです。ここからツァンテルブーリオまではどれぐらいの日数がかかるものなのでしょうか」

「ちょっと待ってください、あんたは」

「それって急ぎかい。そうでなければ早いところ準備したいのだけれど」

「急ぎというほどではないので、準備が終わってからでかまいませんよ御者様」

「悪いね。それとさ、御者様っていうのはやめてくれないかな。アドルって言っているじゃないか」

「失礼いたしました、アドル様」

「本当は『様』もつけてほしくはないんだがなア。まあいいや、そっちの旦那もよろしくな。アドルだからな」

「いや、あんたは」

「アドルでいい、分かったな?」

 大人の女性の姿をしたケイサがいた。

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