森を行く

 『御者』の準備はえらくのんびりで、準備が整ったのはかなり時間が経ってからだった。待ちくたびれて外に出てみれば、すでに馬車と馬はいるのに御者本人が見当たらないありさま。登ってゆく太陽を見上げながら、当たり障りのない話をアーロさんとしていた。会話が温まってきたところでようやく、アドルと名乗るケイサがどうして御者として現れたのかを問おうとした。ケイサが現れたのはその時だった。

「いやいや、すみませんねえ、ご婦人様旦那様を運ぶのが役目だっていうのに」

 そういって現れた御者には悪びれる様子は見られず、へこへこと頭を下げるだけだった。

 馬車の中に乗り込めば中は非常に狭かった。座る場所が向かい合わせにあるところ、四人乗りなのだろうが、右肩は馬車の壁に、左肩はアーロさんにぶつかってしまうありさまだった。はす向かいに座りなおせば肩と肩とがぶつかることは解決できるものの、改めて座りなおすというにも車内が狭すぎた。一回降りてからでないと座りなおせないが、馬車はすでに動き始めていた。止まってくれとお願いしたが、どうも聞こえていないらしく、無視された。

 しかし、聞こえていないのであれば好都合、ケイサのことを気にせずアーロさんに問いかけることができる。

「アーロさん、御者なんてどう見つけたのですか? お抱えの御者がいるようには見えなかったのですが」

「それがですね、昨日の晩に訪ねてこられたのですよ。ちょうど旅路の移動方法を考えていたところだったので、ちょうどよかったです」

「ですが、怪しいと思いませんか。なんとなくですが、まるで狙いすましたかのようではありませんか。想像で話をしますが、御者が家々を回って仕事を探すというのは、あまり考えづらいと思うのです。そんな面倒なことをするなら、どこかに拠点を持って、依頼したい人がそこにやってくるようにすればいいのに」

「申し訳ありません、そこら辺のことはよく分からないのです。ただ、『御者がいないような地域を回って人や物を運んでいる』とおっしゃられていたものですから、そういうものなのでしょうと思ったのです」

 アーロさんに一般論をたずねてしまった。アーロさんに一般論を問いただしたところで意味はないが、俺に御者の一般論が何たるかを知っているわけではないが、問いたださずを得なかった。相手はアドルと名乗るケイサだ。俺の前に現れたかと思えば、その翌日にはアーロさんの前にも姿を現した。更には、アーロさんに対しては正体を隠していると見える。あの精霊は何を考えている? 俺らに何をさせようとしている?

 急に黙り込んだことが不安にさせてしまったらしい、アーロさんが前かがみになって俺の顔を覗き込んだ。

「やはり、よろしくないことをしてしまったのでしょうか。まさか、アドル様は悪だくみをしているのですか」

「それは分からないですが、ちなみに、御者が来なかった場合はどうするつもりだったのですか」

「それは、まずは近くの町まで歩いて行こうかと思っておりました。途中で森に入るので、おそらく大きな動物がいるでしょうから、頼んで乗せてもらえればなおよろしいかなと思っていました」

「確か、アーロさんの地図では、近くの町までかなり距離があったかと思いますが」

 頭が途端に痛くなってきた。ケイサが何をしたいのか分からないと考えている一方で、アーロさんは動物の背中に乗って移動できればよいと考えている。常識から解放されているというべきか、常識が通用しないというべきか。むしろ俺が持つ常識がこの世界では通用しないというべきか。

「まだ幽閉されていないころ、森の中に遊びに行くときは必ずある熊と遊んでいたのを覚えています。きっと彼ならいろんなところに運んでくれると思うのです」

「熊と遊んでいたなんて、家族が見たらたまげるのではないですか」

「ですので、遊んでいるのを見られてから、森に遊びに行かせてもらえなくなりました」

 それからは口数が少なくなった。道が変わったのだろう、ごとごとと馬車がひどく揺れるようになったからだった。下から突き上げるような揺れ方をきっかけに、俺は扉の窓越しに外を見た。見えるところ一面に幹が伸びている。空は木の葉で覆い隠されて、奥に見える空間は薄暗かった。窓とはいえ、ガラスが入っているわけではなく、単に穴が開いているような代物である。つまりはそこから除けば顔に外の空気が吹き込んでくる。やや湿り気を帯びた空気は冷たく、吸い込めば鼻の中に新芽が萌えたような匂いである。いくら吸っていても心地よかった。

 しかし、いくばくか経っても変わらない景色には少しばかりの不安がよぎる。次の町にはいつたどり着けるのだろうか。いつになったら景色が変わり、町の景色を目の当たりにすることができるのだろうか。

 アーロさんの言っていたことを思い出した。アーロさんはここを歩いて向かうと言っていた。地図を見て分かっていたが、改めて実際の道を進んでみれば、それが到底なしえるとは思えない行脚であることは確信にたやすかった。休みなしに馬を走らせても抜けられない、まるで自然の迷宮に迷い込んでしまったかのような錯覚にさえ陥るのだった。

 横でいつしか、アーロさんは寝息を立てている。壁に頭を傾けて、胸がかすかに上下する。口元に少しばかり唾液が粒になっているところ、起きているときのアーロさんとは違った印象でほほえましかった。アーロさんのほうへ顔を向けているせいか、外からの新鮮な空気のにおいではない、甘い匂いがした。これがアーロさんのにおいなのだろうか。

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