茶を沸かす

 体に力を取り戻した時、俺はまだ馬車の中にいた。しかし車内にはアーロさんはいなくて、馬車が走っているときの車輪の音や馬の声もなかった。はてさて、目的地に着いたのはどれほど前だったろうか。馬車が止まって、ケイサとアーロさんが話をして、それからアーロさんが馬車を離れた時。俺の感覚ではとてつもなく長い時間が経っているように思えた。

 正面の壁に目を向ければ、俺を気遣ったメッセージが書かれていた。宿はないから町のはずれで野宿する、と。外に出たすぐのところでやっているから出てくるといい、と。それぞれ筆跡が異なるところ、手分けして書いたのであろう。

 戸を開けようと手を伸ばすと、ひどい筋肉痛のような痛みに動きが止まった。おぞましいから闇から走って逃げたわけではなかったが、心では必死だったから、もしかしたらそのせいかもしれなかった。心が受け続けた痛みが筋肉痛として現れたのかもしれなかった。

 扉を開けてタラップを降りるときもまるで自分の体ではないかのようなぎこちなさだった。足元は雑草が茂り、踏みしめれば青い匂いが湧き上がってきた。あたりを見渡すのも辛い。どこにアーロさんたちがいるのか探すにも痛みと戦わなければならなかった。

 野宿の拠点は馬車から降りた側の反対側にあった。太ももに鞭打ちながら歩み寄ってみれば、火のない焚火が入り口に向くようにしてテントが張ってあった。いや、はたしてテントと呼んでよいのか。布一枚を地面に置いて、一片を重しで止めて、もう一方を支柱で持ち上げるという姿。とりあえず布をかぶせて柱でちょっとした空間を作った、という感じだった。

 その一つを前に、アーロさんがしゃがみこんでいた。

「すみません、準備をしていただいたようで」

 しゃべるにも痛くてたまらなかった。

「フルタニ様、動けるようになったのですね。よかったです」

「はい、何とか。まだ全身が、痛くて、痛くて、馬車からここに来るのもやっとですが」

「それは大変ですね。さあ、こちらへお座りください。わたくしの手におつかまりください」

 アーロさんの手を取り、どこから持ってきたのか分からない丸太に腰かける。アーロさんのペースで丸太へ導かれているせいで、あらゆるところから悲鳴があがる。自然と眉間に力が入ってしまうが、アーロさんの親切である、それを痛みに止めてしまうわけにはいかなかった。

 大仕事だった。ただ丸太に座るだけだが、腰を落ち着けた俺の体は何も受け付けなかった。これ以上は全く動けない。右脚も左脚も右腕も左腕も、どこもかしこも動くのを拒否している。さすがにアーロさんが親切で持ってきてくれたカップも、

「ご厚意はありがたいのですが、まだ手をまともに動かすには難しくて」

と拒むしかなかった。

「しかし、アーロさんは平気なのですか。あの後、目も見えなくて、耳も聞こえなくて、体も全く動かなかったのですが。途中からアーロさんが俺を揺すっていたので、俺よりも早く回復したのですよね」

「確かに目と耳ははじめは不能になりましたが、すぐに元通りでしたよ。今のあなた様のような全身の症状もありませんでしたし」

「全くなかったのですか、微塵も」

「はい、アデル様、アデルさんの言うには『敏感』なのだそうで」

 どこかどう敏感なのか。

「そのあたりは話してもらえませんでした。何か知っているみたいでしたが、笑って、それで終わりでした」

 アーロさんが隣に腰掛けた。俺に手渡そうとしたカップを包み込むように持って、それを口に運んだ。横顔の輪郭に沿って湯気が立ちのぼる。どこにも湯を沸かせるような熱はどこにもない。薪は灰を生してもはや消えてしまっているようだった。

 きっと魔法の類だろう。手から力が伝わって、力が飲み物を温めているのだろう。湯気の激しさから考えると、猫舌には辛いぐらいの温度と想像した。

 ぼんやりとそう考えながらアーロさんはを眺めていたが、一方でアーロさんはカップの湯面を見下ろして、ややあってから、目を丸くして俺を見るのだった。

「そうなのですか」

「なんのことですか」

「今の、その、フルタニ様が私の手が飲み物を温めているのだとおっしゃっていたことです」

 心を読まれたらしい。

「火がないのにそんなに湯気が出ているものですから、そう思ったのですが」

「わたくしはてっきり、そういうものと思っておりました。手に持てば自然に温かくなるものではないのですか」

「少なくとも俺の知っている常識ではありえないことですね」

「では、冷たい飲み物が熱々になるのは自然ではないのですか」

「ぬるくなるのはありますが、熱くなることはないと思います。人肌以上には温まらないですよ」

「そうだったのですか。少し驚いています」

 少し驚いている、とは小さく言い過ぎだ。ついさっきまで気にも止めていなかった飲み物を興味深そうに眺めているのだから。好奇が過ぎたのか、カップの中身を沸騰させたり落ち着かせたりを繰り返しているのだから。恐る恐るカップのヘリに口をつけて、

「あア、フルタニ様の言う通りのようです。お茶を自由に温められます」

と満面の笑みで言い表した。

 アーロさんの楽しげな顔。アーロさんと関わり合って初めて目にした。思い返してみれば苦しそうな顔ばかりを見てきた気がした。空腹の時の顔、ルキンソを弔ったときの顔。館で話しをした時は、そういえば、アーロさんが笑っていた。しかし目の前の笑みは館のそれとは比べ物にならなかった。

 目が輝いていた。強い眼差しだった。

 アーロさんは俺と会話するのを忘れて温度をいじるのに夢中だった。沸騰寸前まで温度を上げては下ろしてをずっと繰り返していた。温めることに興味が薄れたときには、逆の変化、冷やすことを繰り返した。湯気が見えなくなっているところ、温度を下げることができている様子だった。アーロさんの視線はカップから離れない。あまりに集中しているせいだろう、息をするのを忘れた挙句に咳き込むことが何度もあった。

 とにかく頑張っている姿を眺めていたら、肩に走る痛みにびっくりした。反射的に振り返ってしまったものだから、首筋から耳の裏にかけて引き裂かれるように痛かった。

 ケイサが立っていた。

「お、体の調子はどうだい旦那」

「おかげさまで、全身激痛で動くのも辛いです」

「そりゃそうだろうな、旦那は人並み以上に敏感だからな」

 アーロさんが言っていた、『敏感』。

「その『敏感』って、アーロさんも聞いたと言っていました。どういう意味なんですか」

「その通りだよ、フルタニ君の体は魔法に免疫がないのだよ。免疫がないのだから、そりゃあちょっとした魔法を被曝しても体がダメージを受ける」

「魔法を被曝するなんて、そんなことされた覚えないのですが」

「しただろう、あたしのびっくり玉、思いっきり光らせて爆音を出すためにしこたま力を込めたのだから」

「それじゃあ、俺はケイサに攻撃されたってことですか」

「悪い言い方しないでくれよ、あれがなかったら今頃飲み込まれていたさ」

 俺の耳元で、

「アーロの前ではあたしはアデルだ」

というささやきの追い打ちがあった。

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