取り囲むもの
馬車に戻ったころには陽が沈みかけてあたりが暗くなり始めていた。
アーロさんは寝ていた。まだ寝ていたのか、と思ったけれど、壁の言葉に追記がされていた。『分かりました。デートの話を後でお聞かせください。アーロ』と筆記体でつづられていた。
アーロさんはそのまま眠らせたままでの出発となった。返信には話をしてほしいとあったが、話したところで気持ちのよい話ではないだろうし、気持ちのよさそうな寝顔を見れば、起こす気も失せるというものである。
客室の中は天井に吊るしたランタンで少しばかり熱くなっていた。ケイサだった。どこからともなく明かりを二つ取り出して、一つは御者席の横のかぎ爪に引っ掛けてもう一つを俺に渡してきたのだった。馬車に乗り込んでしばらくは腕で抱え続けてずっしりとした重みに耐え続けていたが、我慢の限界に天井を見上げたところにちょうどよいフックが顔をのぞかせていたのである。
ランタンが発する熱気から逃げるべく、顔を窓際に寄せた。闇夜に冷えた空気が唇を乾かした。外はもはやほとんど物が見えない程に暗くなっていた。いつの間にこれほどまでに暗くなっていたのか。ついさっきまで半熟玉子のような夕陽を眺めていたと思うと、辺りの闇が日没によるそれとはまた異なった、もっと不気味な色合いに感じられた。
そう、何かおかしい。
今までに感じたことのない強烈な違和感に鳥肌が立った。目の前に広がるのは闇夜でそれだけを切り取ればよくあるものだが、なんでもないような光景にも関わらず、一体どうしたのか、心臓がバクバク脈打ち収まるところを知らない。
むしろ鼓動は激しく、早く。
早鐘が打たれる。顔が熱くなってきた。
「しっかりつかまっていろ」
ケイサの声が客室に届くのと、馬車が大きく揺れたのはほぼ同時だった。車輪が地面の穴にはまったような、下へ落ちる衝撃とは正反対だった。何かが下から上へ突き上げるような衝撃。心臓が止まりそうになった。
俺は客室の前に手をついて衝撃をやり過ごしたが、隣のアーロさんは無防備な状態で突き上げを受けてしまっていた。壁に預けていた上半身が一瞬持ち上がって、再び壁に戻ってゆく。反動に任せるまま激突する。鈍い音が痛かった。
再び上半身が持ち上がったが、馬車の衝撃はなかった。表情を失って呆然としていたが、たちまち眉間にしわを寄せて頭に手を当てた。自身の身に何があったのかを悟ったらしかった。
しかし、口から出てくるのは、目の前にある痛みよりもずっと寝ていたことに対してだった。
「ずっと眠ってしまっていたのですか、わたくし」
「それよりも大丈夫ですか。 強く頭を打っているように思えたのですが」
「それはその、確かに痛いですが、何が起きたのか全く見当がつかないものでして」
「それは俺も同じです。急に馬車が揺れまして。何か突き上げるような感じの」
「なんだか嫌な予感がいたします。何が、と言われると答えられませんが」
アーロさんも不安を口にする。この状況がどこかおかしいと考えているのが俺自身だけではないことには一種の一体感を覚えるが、結局は違和感がより確実なものとなっただけだ。状況が好転したわけではなく、むしろ悪化したといえる。杞憂で終わっていればよかったのだ。
「アーロさんもですか。実は、俺もなんだかおかしいと」
「フルタニ様もそうお思いですか。何ででしょうね、ちょっと待ってください」
頭に置いていた手を壁に添えた。目をつぶって何かをつぶやいている様子だったが、何を口にしているのかは全く聞こえなかった。ややあってから目が開かれると、身を乗り出して外を見始めた。
「あア、なんていうこと」
珍しくアーロさんが大声で嘆いた。外に違和感の答えがあるのは間違いない。アーロさんがしているように窓に顔を押し付けて外を見た。しかし、ランタンのわずかな光が漏れ出ているのが分かる程度で、何が存在しているのか、その姿すら捉えられなかった。
ケイサの大声が響いた。アーロさんの声で気付いたのだろうか。
「お二方、ようやく気付いたかい」
「アデルさん、これは一体何ですか」
「この連中に名前なんてないよ。名前を付ける価値もない」
「この邪悪な力はただ事ではないですよね。どうしてこのようなことが起きているのですか」
「アルデュイノースの御子による庇護がなくなったから、いろんな汚れがたまっていてね。それがこうして連中の形を作って、あたしたちを襲っているわけだ」
襲っている。ケイサの言葉に俺は慌てて顔をひっこめた。まさに今、馬車が襲われている。襲撃。顔を外から見えるところに残しておくとナイフなり矢なりが飛んでくるかもしれない。隠れているべきだ。
しかしアーロさんは外にくぎ付けになっていて、窓がなければそのまま飛び出してしまいそうなほどの食いつきっぷりだった。敵の視界から引き離すべく、俺はアーロさんの肩に手を置いてこちら側を向かせようとした。しかし、予想外なほどにアーロさんが強く反発して、びくともしなかった。
「そんなに窓に近づいていたら危ないのではないですか」
「分からないです。でも恐らくは、フルタニ様が気にされているようなことはないかと思います」
「俺には暗すぎて外で起きていることが分かりません。何が起きているのですか」
「群れです。どう伝えれば分からないのですが、地面を這う闇がわたくしたちの馬車を取り囲んでいるのです。うねりながら、わたくしたちに迫ってきています」
すぐには思い浮かべることができなかった。しかし頭の中で一つの像が結ばれれば、たちまちおぞましい光景が広がった。
一面の真っ黒な波。
ぽつんと取り残された馬車一台。
波が大きくうねる。
大きく口を開けた暗黒が馬車を飲み込もうとする。
波紋のように鳥肌が広がった。相変わらずアーロさんは外の様子を見続けている。世にもおどろおどろしい光景をどうして捉え続けられるのだろうか。
「ずっと見続けていて大丈夫なのですか」
「ひどく疲れますが、見続ける分には大丈夫です」
「ですが、疲れてしまっては後々に障るのではないでしょうか。ここはいったん見るのを止めてみては」
「いえ、それはできないのです。なんと申せばよいのでしょう、見続けることは確かに恐怖なのですが、見入ってしまうというのでしょうか、どんどん吸い寄せられていくような感覚に陥ってしまうのです」
アーロさんは何を考えているのであろう。どこからそういう感覚が湧き上がってくるのだろう。
「わたくしだって、今思っていることが信じられないのです」
心を読み取られたらしい、アーロさんが振り返って俺に言った。
「初めての感覚なのです。もちろんこうやって外に出たことがないからかもしれませんが、見たくないのに見てしまうのです。好奇心が抑えきれないのかもしれません」
「それならば俺がはっきり言いましょう。何があるか分からないから戻ってください。変な興味は身を滅ぼしますよ。今すぐ窓から顔を離して、大人しくしていましょう」
「いいこと言ったぞ旦那、ちょいと手間取ったけれどもようやく間に合った、黙って目をつぶってな」
横から突如としてケイサの声が割り込んだ。
「今すぐに」
と御者が叫んだが、それと同時に轟音と閃光があたりを包み込んだ。タイミングが遅すぎる。俺もアーロさんもまともに光を見て、大音声をもろに耳に受けた。
耳が痛い、目が痛い。耳鳴りもひどくて、視界は目をつぶっている感覚はあるのに真っ白に明るかった。問題はそれだけではなかった。体が全く言うことを聞かないのである。手も動かせない、顔を横に振ることもできない、口も開けない。息をするのも苦しかった。
強烈な耳鳴りが落ち着いてくるとアーロさんの声が聞こえ始めた。
「声は聞こえていますか、目は見えていますか。どういたしましょう、反応がありませんわ」
アーロさんが俺の体に触れる感覚はある。触覚は残っているのは分かったが、しかし、どうしてアーロさんはすでに身動きが取れるようになっているのだろうか。
アーロさんが体を揺すってくる。
どんなに俺を触りまくっても一向に体のコントロールは戻ってこない。耳だけは復活したが、視界はまだ真っ白だし、体の自由も奪われている。きっとケイサが仕掛けた何かが原因だろう。闇に対抗するための手段だろうか。仮にそうだとしたら、ちゃんと効果はあったのだろか。
確認する手段はなかった。とにかく、アーロさんに心配をかけながらも、腕に力が入るのを待つばかりだった。
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