第5話 空の高さを識る
地上へと向かうエレベーターの中は終始沈黙に包まれていた。
真っ白な壁に覆われ、外の様子も見ることが出来ないエレベーターの内部。時折がたんごとんという音と、微かな呼吸の音がする他は音と言う音は何もない。十名ほどの僕と同じくらいの年齢の人間が、皆緊張した面持ちで立つ。もちろんそこには吉野も居た。彼はこの調査にあたってのリーダーでもあり、地下への連絡通達係でもある。
昨日は簡単な打ち合わせだけで終わり、今日に備えて皆帰途についた。第五層に居を構えている僕は、おいそれと帰ることが出来る時間でも距離でもなかったので、昨夜は第一層にある実家に泊まった。家族は第一層に返ってきたことを至極喜んでいたし、また僕の自室も出て行ったときそのままだった。
そして今日。身体検査をしてから向かう。全員に異常が無いと分かれば、あとはとんとん拍子に進んだ。最終ミーティングを経て、僕らは地上へ向かうエレベーターに乗り込む。向こうの生態系を壊さないように、病原菌を持ち込まないようにと、僕らは念入りに消毒がなされた。そのためか仄かな消毒液のにおいが内部に充満している。
エレベーター上部の1Fと表示された文字盤をぼんやりと眺めていれば、「地上まで20メートル」と言う聞きなれた女性の声が内部の放送機から聞こえた。そろそろか、と身構えれば徐々に速度が減衰していくのが分かった。体が下に下にと引きずられていくような感覚。それから何秒かした後、重力ががっしりと僕にのしかかる。エレベーターのケーブルが、がたんと音を立てた。そして完全に停止した後、何ともいえない陳腐な音が地上に着いたことを知らせる。
「……開けるぞ」
エレベーターは自動ドアでは無く、手動式のドアが取り付けられている。そのハンドルを、この調査のメンバーの中で最も屈強な青年が回し始めた。
油が足りないような音が辺りにこだます。ハンドルを回すごとに、外の景色がゆっくりと見え始める。最初に感じたのは、日の眩しさ。僕らの正面から日が差しているらしい。あまりの眩しさに、僕は腕で顔を覆った。他の者も同じようにしているようだった。
やがてハンドルを回し切る。果敢にも最初に腕を取り払ったのは吉野だった。すげえ、と感嘆の声が漏れている。それに続いて他の者も声を上げ始める。
今まで嗅いだことも無い匂いが鼻先に掠める。消毒液のにおいなど上書きしてしまうほどの主張の強いにおいだ。一体何の匂いだろう、と考えていれば「いつまで目つむってるんだよ」と急かした彼の声音が真横から聞こえた。
「すげえ、あの写真は本当だったんだな。……きれいだ」
腕を取り払い、ぎゅっと閉じていた瞼を徐々に開けた。白の光が視界いっぱいに広がる。それに目が慣れると、周りの景色がぼんやりとだが認識できるようになった。さんさんと満ち溢れる太陽の光、そして一面を覆う黄色い何か。
すげえな、とっても綺麗、先に行ってみよう、そんな声が耳に届く。まだ視界が朧げだ。僕は目を擦って、それを捉えようとした。
「なあ春樹、これって一体何の花なんだ?」
かすかに花の甘いようなにおいがし、鼻先に粉っぽいものが付着しているような感覚に囚われる。地平線から昇る太陽をバックに、その花々は咲き乱れていた。エレベーターの中にもしだれかかろうとする勢いだ。指ほどありそうな太い茎と黄色い小さな花が連なっている花弁部分が、僕の方向に向いていた。背丈は胸ほどまである。その花弁を僕はじっと見つめ、そこでようやく気が付いてしまった。
「……セイタカアワダチソウ」
キク科アキノキリンソウ属。川岸や荒れ地に群生して生える非常に生命力が強い植物だ。先端が尖っている披針形の葉で、まとまった鮮やかな黄色い花を咲かせる。開花時期は9月から11月。ちょうど開花時期が僕らの調査と重なったらしい。そして生息地域は、先の時代の地域の区分でいえば北アメリカである。
「春樹? ……あっ」
僕がぽつりと呟いたその単語に、彼は訝しげに首を傾げる。注意力が逸れたのだろう。持っていた書類が風に煽られて宙に舞ってしまった。
「術式【春のつむじ風】、対しょ……」
彼が術式を言いかけて、思わず口を詰むんだ。「通信エラーです。現在システムの使用は出来ません」と僕の右耳に女性の声が鳴り響いている。それは彼の耳にも届いているはずだ。
「すっかり忘れてた。ここじゃ術式は使えねえもんな」
彼がバツの悪そうな顔をした。
先の人たちの跡がくっきりと残る。踏まれ茎がひしゃげたセイタカアワダチソウの上を、吉野は慎重に歩き、上でどうにか引っ掛かっていた書類を捕まえた。ほら早く行こうぜ、と促され僕もまた足を踏み入れる。
存外に高く、鮮やかな黄色は視界を埋め尽くそうとする。先に行った人たちの頭がかろうじて見えるほどで、この植物が抜けた先に何があるかだなんて、僕にはまったく見当が付かなかった。
「この先には海があるらしい。だからこんな変なにおいがするんだな」
吉野は今度は書類を逃がさぬよう、しっかりと握っているようだった。強く生ぬるい、べたつく風が吹く。吉野は自身のぱたぱたと広がってうるさい横髪を抑えながら呟いた。
「……にしても、きれいだよな。こんな咲き乱れてる花を見たのは初めてかもしれない。なあ、春樹もそう思うだろ?」
「……ああ、」
自分の背丈ほどもありそうな、高い花に囲まれながら吉野は屈託なく笑った。
きれいなんかじゃない。ここにあるのは負の遺産だ。僕は半ば呆然と目の前に広がる風景を見ていた。そして分かってしまった。あの生物学者がどうして農耕・自然エリアに、あの第五層に執着したのか。そして、何故あの地下都市を彼が「箱庭の楽園」と称したのか。
あの第五層、六層は日本だ。彼が望んだ日本の風景。僕はてっきり、あの生物学者の住んでいた日本は僕が住んでいた第五層と何ら変わらないものなのだと思っていた。
たくさんの自然に囲まれ、田園風景が視界いっぱいに広がる。遠くには山が見えて小川が煌めきながら流れている。そこには多種多様な生物が居て生態系がある。春には雪の中からフキノトウが顔を出し、ほどなくして稲を植える。そして春も終わるころには僕らは桜を愛で楽しむ。夏にはセミが鳴き喚き、うんざりとするような暑い日々が続く。夜には蛍が空を浮遊し、僕らはそれを目で追ってしまう。秋は実りと紅葉の季節だ。様々な果物が実り、カエデやイチョウが紅葉する。秋の終わりには稲も黄色く色づき、僕らは嬉々としてその実りを祝うのだ。冬は雪がしんしんと降り続ける。マツに降り積もった雪を蹴落として、落ちた雪を見てげらげらと笑い合う。そして白い息を吐きながら、ストーブの前に体を寄せ温める。
でも違うんだ。このセイタカアワダチソウに囲まれた光景を見て、僕はそう思った。僕が思い描いた光景が、この地上で見られていたとは到底思えなかったのだ。セイタカアワダチソウは日本原産の植物では無い。動物や植物に限らずそういった種を“外来種”と呼ぶ。外来種の流入経路は様々だ。鳥と共に移入したり風に乗って運ばれてきたり。だが一番の原因は人間が運んだ貨物の中に紛れ込んでいたり、靴底に種が付いていてそのまま異なる土地で芽を出したりすることが多いと文献で見たことがある。
ここがこれだけ侵されているのなら、第五、六層のような風景は地上の日本には無かったのではないか。きっともっと他の場所、――山や川岸に行けばその差は明確なものになるだろう。植物だけでは無い。きっと生態系も大きなダメージを受けているはずだ。事実、ここでは外来の種に、日本固有の種は負けている。先の時代の彼らの周りにあったのは、日本の植物や動物だけでは無かったのではないか。きっと侵食されていた。日本から遠く離れた異国のものたちに。
先の時代から日本は侵されていた。鈴本春一はその事実に絶望したからこそ、第五層のあの場所に執着した。そこは従来の日本。外来種に侵されていない日本だ。理想的な形、地上では体現しえなかったもの。
「――なあ、春樹どうしたんだよ。さっきから全然喋ってねえじゃん」
吉野が心配そうにそう言った。
彼は日本を作った。地下に、あの箱庭の中で。そこにありったけの“日本”を詰め込んで丁寧に蓋をした。そこに日本らしい区画を作り上げて、僕らの心にここが日本だと教え込んだ。だけど蓋を開ければこの光景だ。外来種に侵食された土地。最早ここは日本であって日本では無い。皮肉なことにあの忌まわしい地下の方がずっと日本らしい。
「……僕の、負けだなあって思ってさ」
一度壊してしまった自然は、本当の意味で戻ることはない。外来種が移入してしまった場所は、人間が手を尽くし除去しなければもうずっとそのままなのだ。この場所のように。元あった生態系に戻るはずなどない。あるのは人間の手によって汚された土地だけ。
それを、少なくとも僕は知らずに生きていた。地上には地下よりも豊かな自然があると信じていた。人間の手が加わっていない、ありのままの自然があると少なくとも僕は思っていた。でも違う。人の手によって外来種が運ばれた土地は、人が管理しなければ侵食され在来種は死んでいく。この光景がそれを如実に表している。
「――いや、僕ら、かな」
あの箱庭の中で飼いならされた僕らは、果たしてこの地上で生活できるのか。書類を飛ばしてしまった吉野は、開口一番に術式を唱えた。閉鎖的な空間である地下でこそ出来るが、地上にあのシステムを輸入することは今の技術では難しいだろう。今や術式は、地下都市に住んでいる人間すべてが自らの生活をより良くするために用いている。誰もが頻繁に使っている。そんな中で僕らは、術式が使えない地上で暮らすことが出来るのか。恋い焦がれる太陽があったとしても、それは難しいことなのでは無いか。僕ら人間は、洗濯機を一度使えば手洗いの苦労を味わいたくないと考える。ストーブの暖かさを知れば火鉢なんて使いたくなくなるだろう。それと同じだ。人間は楽を求めて、技術を発展させてきた。今更その技術を捨て、僕らは地上で暮らせるか。
足裏の感触がさらさらとした砂状のものに変わっていく。根がしっかりと張っていた土と比べると、足が掬われてしまいそうになる。僕が慎重に歩きながら前を見れば、セイタカアワダチソウの隙間から、徐々に視界が開けた空間に向かっているのに気が付いた。ざあっと紙と紙が擦れるような、そんな音が何度も何度も聞こえる。
そうしているうちに視界が開けた。さくりと地面を踏めば、そこはもうただ広い空間。波がうねり、砂に打ち付けられてゆく。大きな水たまりだと思った。日の光が反射して、深い青と橙のグラデーションが表面上にできていた。概念上では知っている。“海”という場所だ。
低い場所ではまだ星が無数に瞬いている。薄い月が空にぽつりと浮かんでいる。空が高い。手を伸ばしても絶対に届きそうにない。海は地平線の彼方まで続いていた。最果てまでたどり着くまで、一体どれだけの時間がかかるのだろう、と僕はぼんやりと考える。
「……こんなに、広いんだな」
その後に、変な感じがすると吉野が囁くように言った。
空の高さも海の深さも忘れてしまった。おかしな話だけれど、広すぎるこの世界に妙な居心地の悪ささえ感じていた。地下世界はあまりにも優しすぎた。地下に順応しすぎた僕らは外で暮らすことなど出来やしない。僕らが箱庭の住人でしかないことを、まざまざと見せつけられているような気がした。
了
終焉 きづ柚希 @kiduyuzu
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