第4話 辺境

 そうこう考えているうちに、頭も体も洗い終えてしまった。疑問を浮かべながら、僕は風呂場から上がってタオルに手を伸ばした。そして冷えないうちに体を拭き、手早く着替える。頭にタオルを被りながらわしゃわしゃと水分を拭っていると、「春樹ぃ……」という何ともしみったれた声が玄関の方から聞こえてきた。

「なんか郵便屋の女の子にもみくちゃにされた……」

「ああ郵便屋が来たのか。そりゃあ僕に毎月のように手紙を送る第一層の男がここに来てたら、色々と言われるに決まってるよ」

「まず第一層ってどうなってるのかって聞かれて、そこからマシンガンから出る弾のように言葉をばんばん放ってくるんだよ……」

「最初の質問何て言ったの?」

「区画整備がなされて、白い建物がたくさん立ってる面白味もない街。雑草なんて一つも生えてないし。ここの方がよっぽど良い、はっきりと四季が感じられるしって言っておいた」

「夢を壊すような解答ありがとう」

 確かに第一層は無機質な建物がずっと続くエリアだ。

 街路樹がぴしっと誂えたようにまっすぐ立っていて、舗装された道路は広く車は等間隔にそこを走っている。人々は同じ衣服を着せられたロボットのように道をただ単調に歩いている。街の中心から外れれば、それなりに緑があるけれど、全ては人間によって均されたものだ。自然に出来たものではない。

 僕はぶるぶると震える彼を適当にいなしながら、とりあえず玄関から追い出した。「えーお腹すいたー」と何とも未練がましい声が聞こえるが、それを無視して押し出す。

 今日の僕の予定と言えば、その名前を朝一番に叫びながら飛び起きたイガアザミの観察をするということだ。

 吉野にかなり狂わせられているような気がするが、僕は絶対にこれをしなければならない。というのも、二、三日前にその花の群生する場所に行ったところ、蕾が柔らかくなっていたのだ。そろそろ開花の時期であるに違いなく、枯れてしまう前にさっさと見に行きたいと思っていたのだ。

「せっかく朝一番に来たのにこの冷たさ」

「……吉野が勝手に来ただけでしょ」

 冷たいやつ、と横で唇を尖らせた吉野に、僕は深いため息を吐いた。ため息を吐くごとに幸せが逃げてしまうという話が本当ならば、僕の幸せ度のメーターはゼロを通り過ぎてマイナスに振り切っているに違いなかった。

 僕は扉をしっかりと施錠をし、温室の方に向かう。厚手のボトムを履いているおかげか、雑草たちの葉が当たる痛みはあまり感じなかった。太陽がだいぶ高い位置に昇っている。もう花は既に開花しているだろうか、とぼんやりと考える。

「……そんな急いでどこに行くんだ? 午後の打ち合わせにはまだ早すぎるだろ」

「イガアザミの観察をしに行くんだよ。別についてこなくてもいいから」

 隣でまじまじと見られていてもやりにくいだけだし、と付け足して温室の扉を開けた。迷うことなく奥のしなびたソファが置いてある場所へ行き、壁にかかった白衣を羽織り革のカバンを肩にかける。空になっている試験官、採集のために使うピンセットなどを手あたり次第に白衣の内ポケットの中に詰め込み、カバンには机の上に転がっているペンや用紙などをしまい込んだ。

「俺も暇だし行くわ。そのナントカアザミってどこにあんの?」

「イガアザミな。エレベーターの近くにあったからそこに行こうと思って。途中の林でナンキンナナカマドの観察もしたい」

 イガアザミ、とは山野や水はけのよい土地に生えるキク科の多年草だ。薄紫のふさふさとした花弁が特徴的なこの花は、この日本の中でそこまで珍しいと言える花では無い。第五層と第六層の自然エリアの中には多くの生息域があるはずだ。次いでナンキンナナカマドは丸っこい葉を持ち、一枝に三つから四つの赤い実をつける種だ。ナンキンという言葉は先の時代にあった都市を示す言葉では無く、小さいものや可愛らしいものにつく接頭語であるそうだ。主に山地に生えるものではあるが、観賞用として庭先などで育てられることも多い。

 こういった植物の観察こそが僕の仕事と言うか、日課のようになっている。この第五、六層にある植物を見て回り、昔の記録と照らし合わせ比較をする。天候不順や野生動物の増減によって、多少の個体数は変わるものの、大幅な減少増加は今のところ見られないというのが僕が導き出した結果だ。

「エレベーターにすぐに行けるってわけか」

「途中でパン屋さんがあったような気がするから、朝ご飯でもなんでも買っていけばいいし」

 エレベーターとは、第一層から第六層を繋ぐ乗り物のことで東西南北に設置してある。創業当初から政府が管理しており、一日に十数本運行している。ただし各階層を行き来するためには証明書が必要である他、別途に手続きをしなければならない。これは各階層の住民数を制限するためである。非常に手続きに時間や労力がかかるため、正直に言うとエレベーターの利用頻度という物は通勤目的で使われるもの以外はかなり低い。

「了解。……しっかしここって本当にド田舎だよな。おんなじ日本に住んでるのかたまに疑いたくなる」

「自然維持のため、一応は食料生産のための階層だからね。そうなるのは仕方がないよ」

 けもの道を通り、門を抜ければ真正面は田んぼだ。木製の電信柱が連なり、砂利道が続く。茅葺き屋根が所々見える。そして小高い山々が僕らを囲むように配置されている。先の時代の写真でも見たことがある、典型的な田舎の風景だ。

 僕はブーツを履いていたから特段気にならなかったけれど、靴底が薄いスニーカーを履いていた吉野は顔を顰めながら歩いている。きっと石がゴツゴツとしていて歩いていて痛いのだろう。あちらでは舗装されている道しか無いから、この感覚は慣れないものであるとだいぶ前に聞いた。それか日頃の不摂生が祟って足つぼが刺激されて痛いのか。このまま健康になってしまえ、と僕はほくそ笑む。

「あー、くっそ痛え。……何笑ってんだよ。痛えから草の上歩くわ」

 彼はわざわざ田んぼのあぜ道の方に寄って、そこを歩き始める。見境なく雑草が生えているが、その中でも狗尾草、俗にいう猫じゃらしが彼の膝の辺りで戯れている。ふと空を見上げれば随分と低く感じた。これは本物の空では無いけれど、そう見えるように演出がなされているのだ。稲穂も黄色く色づいている。そろそろ収穫の時期だろう。実を食べてしまう害虫であるイナゴがびょんびょんと視界の端で跳ねている。去年はイナゴが大量発生して家の壁にびっしりついていたな。稲への被害も甚大だったと聞く。今年はそうでは無かったらいいけれど。

 遠くで近所の、――といっても何百メートルか離れているけれど、おじいさんおばあさんが大きな機械を使って畑を耕している姿を見つけた。それに手を振ればあちらも振り返してくる。横では吉野が遠慮がちに頭を下げていた。そんなとき、唐突に吉野が話を振って来た。

「お前さ、ロボが撮って来た地上の写真見たか? 黄色い花が一面に咲いてるやつ」

「そんな眉唾物……」

 彼が言っているのは政府からは公開されていない、今現在ネットで出回っている写真のことである。正直に言って信ぴょう性がかなり低いものであるし、地上へと続くハッチは政府が厳重に管理しているため、そう簡単に一般人がおいそれと写真を撮ること、何かに撮りに行かせることなど出来るはずもないのだ。だから僕は“眉唾物”と言った。政府から情報が流出するはずも無いし、というか情報があるのなら地上に赴く学者の僕らに情報を開示するはずであろう。僕は質の悪いいたずら写真だと思ったので、そういった写真は一切見ていないのだ。

「俺見たんだけど、すげえんだよ。一面黄色い花でさ、それが地平線まで続いてるんだよ。何て言う花なんだろうな。お前なら分んじゃねえの?」

「黄色い花って言われてもな……。ウンランとかワダンとか……?」

 どちらも秋ごろの日本に生える植物だ。ウンランはいくつかのまとまった淡い黄色の花を一つの房に付ける花で、ワダンも小さい花を一つの房にいくつもつける。ただワダンの方は花の色がかなり濃い黄色だ。どちらも海辺や砂浜に咲く花で、この地下都市が位置する場所も砂浜からほど近い場所であると聞いたので、きっと吉野が言っている写真が本当ならば、そういった昔から日本にある植物が至る所に生えているのだと思う。

 さくさくと地面を踏みながら、僕らは田園風景の中真っすぐ道なりに進む。半径10キロメートル、端から端まで歩くにしてもかなりの距離があると僕も感じる。しかしながら実に不便なことに、この第五層では階層内を循環する公共バスの本数がかなり絞られているので移動手段は専ら徒歩か自転車ということとなる。

 第一層だともう少し移動が便利なのだけれど。それもこの階層の人口数が他の階層と比べかなり少ないことが原因だ。人口が少なくなれば、当然付随するサービスは少なくなる。もともと農業は機械化が進んできている。植物は屋内で完璧な天候コントロールの下育てることが出来るし、家畜を育てることにもビルの内部を利用する時代になっている。つまり、この自然・農業エリアに人間が多くいる必要が無い。加えて農業人口は減少し続けているし、人間の必要性が無くなりつつあるということで人気も無い職だ。ゆくゆくこの第五、六層は上層の人口増加を分散させるために潰されてしまうのではないか、と不安に思ってしまう。

 花の会話から大した話題も無いまま10分は時間が過ぎただろうか。途中、安っぽいアーケードがかかっているこの階層内で一番栄えていると言ってもよい商店街(といっても終始閑古鳥が鳴いているような場所で、あるのは食料品店と散髪屋、雑貨屋程度だ)を通り過ぎた。季節外れの風鈴の音が響いてくる。100メートルも連なっていないそこから暫く、車が通れる程度に舗装されたアスファルトの道路を進んでいくと、ちょっとした林が見えてきた。田畑、一般住宅のど真ん中にぽつんとある林だ。赤い鳥居が目に付く簡易的な神社がこぢんまりと建っている。

「ああここだ。ちょっと待っててもらえる? 写真撮るから」

「おう」

 その林の中、一株だけあるナンキンナナカマドの写真を遠くから、と少し近づいた場所から撮った。ちゅんちゅんと雀がその赤い実をつばみに羽を羽ばたかせている。地面には実がいくつも零れ落ちていた。綺麗な実を一房拾って、白衣のポケットに入っている試験官の中に落とした。

 そこからさらに進んだエレベーターの、つまり壁の付近にも行き、同じように写真を撮り、花を一房採取した。もちろん朝食をとるために先ほど言ったパン屋に寄り遅い朝食をとりながら話していれば、すぐに時間が過ぎるものだ。コーヒーを片手に停留所でエレベーターが下りてくるのを待つ。

「……なあ聞くけどさ、お前って第一層に帰って来るつもりは無いのか?」

 ぽつり、と彼が言った。それはどのようなつもりで言ったのだろう。

 空の色をした壁。今日の空は低く見えるのに、実際に壁の近くまで近づけばどこまでも高く続いているように見える。それの一部が徐々に開き、やがてエレベーター一台分の隙間が空いた。エレベーターが運行するときのみ開かれるのだ。下から上昇してきたエレベーターが透明なガラスの中に見えた。乗客は、いない。

 ふかふかとしている地面の上、僕が一歩を踏み出せばその体重分だけ土が沈んだ。赤茶けた停留所のざらついた看板、遠くまで続く田園風景。鼻先で濃密な土の匂いがした。

 身の周りの人には、第一層に戻って来いと何度も言われている。ここ最近はぜんそくの発作も起きていない。だからこそ、色んな人に言われている。早く戻ってこい、と。僕のこの能力がここで埋もれてしまうのは惜しい、せっかく“S”のIDを持っているのだから、きっとそのような理由だと思う。でも僕はここでの生活も案外いいと思っていて、だけれど第一層で暮らしたいと言う思いを捨てきれずにいる。

「……悪い、今の質問は無しな」

 プー、と間抜けな停車の音が鳴った。ぱかり、と扉が開き僕らはそれに乗り込む。

 僕の真横に立つ彼は、どこか寂しそうな悔しそうな安堵したような、でも全ての感情が入り混じったような表情で唇を引き結んでいた。透明なガラスの反射している彼の表情を見ながら、僕もまた口を閉ざした。エレベーターでの会話は無かった。

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