一幕:鬼さんこちら(供養版)
ただただ、僕は幽かに生きゆく者たちの声をきくだけだ。
それは夏の暑い時分のことだった。辺りでセミが所構わず鳴き喚き、少しでも刺激しようものなら羽音をぶんぶんと響かせて顔面に向かって飛んでくる、そんな頃のことだ。
「……あっちぃ」
最高気温37度、湿度は60パーセントをゆうに超える。盆地特有の蒸し暑さだ。自転車立ち漕ぎし坂道を上る僕の額には玉のような汗が流れ、それが照った太陽の光を存分に吸収する黒のアスファルトにぽたり、またぽたりと落ちる。傾斜角度は大きい。先ほどから必死に漕いでいるのにちっとも上った気持ちにならない。噴き出た汗を拭い、これだから日本の夏は嫌いだと僕は独り言つ。苦し紛れに視線を上げれば陽炎が揺らめき立っていた。
薄手のTシャツと適当に選んだ七分丈のジーンズに身を包んだ僕はただのありふれた高校生だ。街に出かければこんな高校生は五万といるだろう。しかしそんな僕にも他人とは少し異なる点がある。言うなれば秘密だ。僕には、大っぴらにできない秘密があった。
いつからそれがあったかだなんて忘れてしまった。きっと物心がつく前にはあったはずで、しかしそのことを周りの人間に言うような僕では無かったことを覚えている。そのことは僕には至極当然のことであり、周りの人間が出来ると信じて疑わなかったのだ。だから言わなかった。
しかしあくる日、――これについてはきちんと記憶している、小学校の入学式から幾日かたったある日のことだった。その日僕は仲の良い友達とサッカーをして遊んでいた。泥だらけになった服、すり切れた膝小僧、僕がふとボールを受け取った時、それは見えた。校庭に植えられた木々の隙間、視界の端で燻るその存在。明らかに現代のものでは無い古めかしい装束をしている人間だった。仰々しい傷がついた黒の鎧と、頭の両脇だけを残したぼさぼさの髪型、腰に刀を差した男性。その人間は酷く虚ろな目をしていた。黒の目がやけに大きく、頭部には折れた矢が突き刺さっており、またどす黒い血が身体のそこら中に飛び散っていた。そのため僕は思わず、ひっ、と情けない声を出してその場に座り込んだ。なにぶんそのような姿をした者を見たのは初めてで、恐ろしくなった僕は腰が抜けてしまったのだ。どうしたどうした、と近寄ってくる級友たちは何も気にしていないようで僕はそれに敬意すら抱いたことを覚えている。僕は震える声で「あそこにお侍さんがいるでしょ? 驚いたんだ」と言えば級友たちは僕を笑い飛ばして言った。「そんなもの居ないよ。何を言ってるんだ」と。その日、僕はそれ、つまり幽霊が見えるのは普通のことでは無いのだと理解した。その日からもともと口数が少ない僕はますます口数が少なくなったように思える。
幽霊、といってもただそこに存在しているだけの幽霊であれば大して問題は無いと悟ったのは、中学に上がるころだったか。自身が普通では無いと気づき、自分が見ているものに対して過敏になっていた。しかし彼らは人を無暗に攻撃する存在では無いと分かってからは、いつもどこか怯えながら過ごしていた僕の気は随分と楽になった。
見えていても彼らを無視していればいい、見えていないふりをしていれば彼らとてちょっかいは出しては来ない。しかし極まれに、彼らは生きている人間、此岸に居る人間を彼岸――つまりこの世では無い場所に誘おうとする。並み大抵の者は誘われることは無い。しかし心が病んでいたり、この世に飽き飽きしていたりするような者は簡単に誘われてしまう。
彼らは手招きするのだ。こちらへおいで、と。幽霊が見えてしまうせいであるからか分からないけれど、僕はそのような場面に数多く遭遇してきた。彼らは手を招いて生きている人間を呼び寄せる。そして暗い夜のように深い闇の中へ引きずりこんでいく。残念ではあるが、僕はそこから戻って来た人間をまだ知らない。
そのことはさて置いて、なぜ僕がこんな絵に描いたような真夏日に汗水たらして坂道を上っているかと言えば、せっかく夏なんだし夏っぽいことをしようぜ、という友人の提案が始まりだった。
残りの高校生活もあと半分を切った。来年に受験を控える僕らに残された時間は少ない。彼に言わせれば、この二年生と言う一番高校生らしいことが出来る期間に何もしなくてどうする、ということらしいが、この坂を上っている時点で彼が言う夏らしくて高校生らしいことの検討はついている。街を一望する小高い山のてっぺんにあるのは、その発言をした彼の、お祖父さんが住職をするお寺である。そしてお寺であるということで例に違わずお墓がある。彼の言う夏らしいことというのは百発百中、肝試しのことであろう。なんと罰当たりな、と思うし、幽霊が見えてしまう僕にとっては最早自ら死地に飛び込むようなものだ。しかも彼は僕が幽霊を見えることを露見させてしまった数少ない友人であり、彼の方もそれを知りながら僕を誘ってくるのだから相当質が悪い。
最初は断るつもりでいたものの、彼はもう既にお祖父さんの方に話を通してしまったらしい。彼のお祖父さんは真面目な方であるから、彼も肝試しをするためにお寺に行くとは言っていないのだろう。差し詰め、お寺の中やお墓を掃除するために友達を連れて行くとでも言っているのか。ちょうどお盆も近いこの時期だ。寺を掃除することに時間もかかるし、無論人手も居る。彼のお祖父さんもきっといい労働力が増えた、程度に思っているだけなのだろうなあと思う。
上へ行くにつれて緑が増え、酸素が薄くなっている気がした。ここ数年整えられていない木々の枝は道路側へなだれ込み、土砂崩れ防止のためのコンクリートに群がる草はこの暑さのせいで萎びているようにも見えた。対してアスファルトの隙間には雑草がここは俺の陣地と言わんばかりの強情さで居座っている。
この小高い山に来る人間は限られる。お盆ともなれば車が頻繁に行き交うが、まだお盆には早い。そのため道路には自転車を漕ぐ僕一人しかいなかった。夜ともなれば、カブトムシやクワガタを獲りにくる親子も多いと耳にするが、採集するにしては日が高すぎるのだ。
僕は思わずため息を吐いて、真っ青すぎる空を見上げた。そうすると汗がしとど流れ落ちてくる。Tシャツの袖でそれを何度か拭い、暑すぎると思わず呻いた。山頂に近づいていくら空気が薄くなり、気温が下がったように思えるものの、殺人的な太陽の暑い日差しは変わらない。太陽が真上に近い位置にあるせいで、大きな日影もないのだ。そこでふと、もう少し坂道を上ればトンネルがあることを思い出した僕は、そこでいったん休憩しようと必死に足を動かした。
ミンミン、というセミが煩く鳴く声が鼓膜に突き刺さる。カーブを何度か曲がり、あともう少しだ、と自らを奮い立たせて漕ぐこと数分。全長二百メートルもない小さなトンネルの入り口が見えてきた。根っからの文化系の人間で体力には自身のない僕は、もう自転車を漕ぐことを諦め手で引いた。太ももが腫れているような感覚がする。明日は筋肉痛だろうか、と茹だる頭で考えながらトンネルの入り口に立つ。
カーブ注意、速度を規制する看板が灰色で古めかしいコンクリートに張り付いている。入口からは涼しい風が舞い込んできた。僕はトンネルの端まで自転車を引き、その冷たい壁に自身の背をつけた。
はあ、と一息吐いて深呼吸を繰り返す。喉に冷たい空気が当たって心地よい。そのまま何回か繰り返しそろそろ休憩も終わりにして向かおうかと思い、トンネルの出口の方を見やれば、遠くの方でぼんやりとした白い人影が揺れたのが見えた。誰かいるのだろうか。そんな疑問を持ちながら、僕は奥へと進んでゆく。
トンネルの内部には少しばかりの電灯があるだけで、とても静かだった。ぱちぱちと景気が悪そうに点滅する白の蛍光灯の音と、僕が自転車を引く音だけが辺りに木霊す。
徐々に暗闇に慣れた目が、そのぼんやりとした人影をとらえた。ボブで黒髪の女の子。夏らしいワンピースを着て両手を後ろで交差した女の子は、僕が近づいてくるのを見ると瞳を輝かせたように見えた。
「――こんなところでどうしたの? 迷子かな?」
女の子の所まであと五メートルといったところか。僕がそう切り出すと女の子は楽しそうに笑いながら駆けだした。おいおい鬼ごっこをしているわけじゃないんだぞ、と僕は自転車を引きずってその女の子を追った。
というのもこの山は地形的に迷いやすく、虫を採集に来た子供が道を外れて迷子になってしまったという事件が度々あるのだ。森に入るための脇道が無数に存在するこの山は、子供たちのかっこうの遊び場でもあった。しかし鬱蒼と茂る山林が視界や足を邪魔する。大人でさえも、この山の内部に入ればたじろいでしまうほどだ。ましてや子供などなおさらである。それに加えてこの女の子は軽装で何も準備も無しにここに居るようだし、もし迷ったならすぐに衰弱してしまうだろう。しかもこの年頃の子供がこんな所に一人でいるのはおかしい。きっと親とはぐれてしまったのだ。彼女の親も心配しているだろう、送り届けるか連絡をしなければ、という妙なお節介心が僕にはあった。
跳ねるように駆ける彼女の背を負う。時折僕の方を振り向いて確認しては、また駈け出すのだから勘弁してほしい。ワンピースの裾が揺れる。僕はいつまでこの鬼ごっこに付き合わされるのだろう、と既に疲れ切っている体に鞭を打つ。
トンネルの出口が見えてきた。女の子がそのほど近くでにこにこ微笑みながら待っている。もう少しだ、トンネルを抜けるとむわり、と夏の青っぽい草の匂いと熱気が体を包み込んだ。
ああ眩しい、太陽の光を片手で遮る。あっ、と声が出そうになるのを必死に堪えた。同じ日の中に立ち、再び彼女を見て僕はようやく理解した。
大音量で鳴き喚くセミの音がずっと遠くで鳴っているような感覚にとらわれる。夏の溶けるような暑さも感じない。今僕は確かに、外界から固く拒絶されている気がした。
不自然にそこだけ真新しいガードレール。そこにはまだ萎れていない花や封がなされたままのお菓子が丁寧に供えてある。そしてそこに佇む彼女は半透明で、先が透けて見えた。彼女は僕の腕を引っ掴み、ガードレールの方へ向かう。もちろん実体などないのだから、本当の意味で持つことは出来ないのだけれど。それで彼女の気が晴れるのなら、と僕はついていった。
不意に、確か数年前にここで事故があったと思い出す。変則的なカーブのこの場所で、ドライバーは安全確認を怠ってガードレールに衝突。ドライバーは無事だったものの、同車の助手席に座っていた七歳の女児は死亡。ニュース番組でも新聞でも大々的に取り上げられたその記事を僕は今でも覚えている。
女の子は僕の袖を引っ張り、その崖の下を眺め見る。ここだよ、こことでも言うように指さす。僕に屈むように言って少し背伸びをして、そして手を筒状にして、まるで秘め事を言うかのように恥ずかしげにその言葉を囁いたのだ。ねえ、一緒にいこう、と。僕はその切り立った崖を、どこか遠い場所を見るかのように眺めた。剥き出しの岩肌に、細長い木や背の低い木が所々生えている。ここで彼女は亡くなったのだろうか。どんな気持ちだったのだろう。やはり悲しかったのだろうか。自分一人だけが取り残されることは。だから、彼女はこうしてこの場に残って、一緒にいく人間を探しているのだろうか。
僕の足はすでに動いていた。一歩、一歩と踏み出してそのガードレールの先へ向かおうとする。その隣で、彼女は微笑みながら裾を揺らしていた。このまま僕がここに飛び込めば、彼女は満足するのだろうか。空が青い。絵に描いたような、均一な色をした空だ。今にもシアンの絵の具が流れ落ちてきそうだった。このまま身を任せたのなら、きっと心地いのだろうな。シアンの空に抱かれながら、僕の体は真っ逆さまに落下していく。空気の抵抗を感じながら落ちてゆき、――つま先がガードレールにカツンとぶつかった。そうだ地面に、墜落する。ただそれだけだ。はっと我に返り、首を横に振る。一瞬吸い込まれそうになった自分を否定するためだった。
「ごめんね、君とは一緒にいけないんだ」
半透明な彼女の頭を撫でて僕は自転車に跨る。一気に夏の煩さがぶり返してきた。深く呼吸をすれば、生ぬるい空気が喉を撫でる。感覚が戻って、ああ生きている、僕はそう素直に思えた。
次のカーブに差し掛かる、その時ちらりと後ろを見てみた。その空間には不自然に新しいガードレールと、花とお菓子があるだけ。あの白いワンピースの女の子は忽然と消えていた。
**
あれから何週間か経った頃か。お盆に入り、僕も父とともに墓参りに向かう途中だった。
父が運転する車の助手席に乗り、件の山のてっぺんにあるお寺を目指す。比較的古い墓が多くあるそこに、僕の母方の祖父母の先祖代々続く墓がある。先日のことがあった以上、僕だってあまり近寄りたくない場所ではあった。しかし毎年行くことが通例になっているため、今年だけ行かないというわけにはいかないのだ。
日は未だ東に近い位置にある。木っ端早い時間帯と言うこともあり、車どおりはおろか人通りも少なかった。窓の外では緑色の葉がカサカサと揺れている。窓を閉め切ってクーラーをつけているためその風を感じることは出来ないが、それなりに涼しいのだろう。きつい上り坂とカーブが続く道を真剣な表情で運転する父の横顔をバックミラー越しに眺め、僕はどこか現実感が抜けたような気持ちで外を見た。あの日と、ぞっとするほど同じ状況だった。
「……どうした春日、妙に浮かない顔をしてるな」
父がおもむろに口を開いた。バックミラー越しに僕の表情を盗み見たであろう父は、すぐに前に視線を戻していた。
「……どうして分かったの」
「何年お前と一緒に居ると思ってるんだ、分かるに決まっているだろう」
年相応の皺を刻んだその顔。その眉間に皺が寄る。これは少し照れている時の表情だ。僕も父も、互いに生まれたときから十数年飽きるほど顔を見合わせているのだから、相手の表情から心の内を読み取ることはもう手馴れたものだった。
「この前、神崎のお祖父さんのところに泊まりに行った時に、ここで見たんだよ」
僕がバツの悪そうに言うと父は頷いた。父は僕が要らないものまで見えてしまう体質であることを知っていた。そして幸運にも、僕の体質をよく理解してくれたし、僕が普通の生活を送れるように色々と手を尽くしてくれた。残念ながらそれが実を結んだことは無かったが。
こういったことを父に面と向かって話すのは初めてかもしれない。僕は忙しい父を困らせるような行動はしたくなかったし、父の方も深く踏み込んではいけないと自然とこういったことを話題に出すのは避けていたのかもしれなかった。
「多分、何年か前にここの山で事故に遭って亡くなった女の子だと思う。……そこで、魔が差しそうになった。寸でのところで引き止まることができたけど」
ぐるりと急なカーブを曲がる。体がそれにつられて、外側へ外側へと押し出される。速度制限の黄色い看板が遠くからでも目に付く。あのトンネルが徐々に近づいてくる。あの中に白い人影が居たのなら、そう要らぬ想像をしてしまうのだ。
「……お前は知らないかもしれないが、先日、ここで男の子が亡くなったそうだ」
僕は思わず父を見た。車はどんどんと進み、やがて暗いトンネルの内部に突入する。父は電灯も少なく暗いその中をよく目を凝らして見つめている。
「ガードレールの外側に飛び出して亡くなったらしい。不自然な亡くなり方だとは書いてあったが、虫かごや虫取り網を持っていたから虫集めに熱中した結果誤って転落したと、新聞に書いてあったよ」
父はそのまま言葉を続ける。あの白い影は見えなかった。
「……正直に言って、お前じゃなくて良かったと思ったよ。帰ってきてから妙に後味が悪そうな顔をしていたから気になってはいたんだ。その記事を見てお前が、死ななくて本当に良かったと思った」
トンネルを抜ける。そのほど近くのガードレールを見れば、花とお菓子が供えてある。助手席から少し身を乗り出して僕はその光景をじっと見ていた。車はその場所から離れ、カーブに差し掛かる。いつまで目を凝らしても白い影は見えなくて、あの女の子は無事に向こうに行ったのだろうかとぼんやりと考えた。帰りは反対側の道から帰ろうか、と父に話しかけられ僕はただ頷く。
幽かに灯る きづ柚希 @kiduyuzu
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