この小説の妙味を語る上で私はこのストーリーの本題に触れざるを得ないし、この行為は短編であることの味わい(それはきっと家畜肉に似ている)を私より後にテーブルにつくだろう読者諸君に対して大きく減じてしまうことになるでしょう。だから私はなるべく密やかに、バーに佇む小柄な女の様にそれを成し遂げたいのだけれどもその願いはきっと叶わない。だから賢明な貴方はこのレビューを読み進める前になるべく速やかに『フォルカスの論理的な死』を読了して欲しいのです。私たちの日々には夥しい数のToDoが積み上げられているけれど、それでも尚この話を読む為に費やされる10分には多大な価値があるから。
以下、レビュー本文
俯瞰から見たある世代に対する語りの対象として主人公である『私』を覗き込む読者の視点が揺らぐように構成された章立ては白眉の出来映えです。『培養肉で育った世代』である『私』は、秘密クラブで饗されるビーフステーキを『本物の』と何気なく形容します。このシーンは再読する私たちにとって大きな意味を持ちます。何故なら彼女は『本物』であることをそもそも知らないし、結局はその価値を認められないのだから。“ニトベの言っていることも、フォルカスがなぜかたくなに培養肉を拒んだかも、どうしてもわからなかった。”と『私』は独白しますが、その後には“肉が食べたかったわけではないのだ。もっと別の何か。それはわからなかったけど。”と結ぶことでニトベ氏が述べるような『本能の補完』について以外のナニカを彼女が納得したかったこと、それを私たちに訴えています。
表題にある通りフォルカスが『論理的』な死を迎えたのは果たして何時でしょうか。一読するにあたっては、そのタイミングは『私』のパートナーが購入した人造の猫(この点ではフィリップ・K・ディック的と云えるかもしれません)を彼女が本能的に認められないその時点にあるかの様に思えます。ただ、技術革新によるモラルの変遷というSFテーマの中でごく繊細に語れる飼い猫との喪失の物語は、きっともっとごく早い段階でフォルカスは『論理的に死んでしまった』ことを私たちに伝えています。それは作中で『最初の世代』を代表するパートナーの言と、『現在時制のモラルの中で語るしかない旧世代』を代表する初老の刑事とのやりとりとの対比で鮮やかに描き出されている。
結局のところ、『私』が『本物の牛のステーキ』を通じて知りたかったのは死について、別れについてだと云えるのではないか。私はそう感じました。『最初の世代』である彼女にとって食肉とは、不可解でかつ荘厳な尊重されうるべき何かであるべきだった。フォルカスはその尊厳の裡に『眠るように』死ぬべきであった。その幻想が、『胃に溶けてしまった』一切れの肉とともに消え、方解石のように確固たるシンボルとしての意味合いを喪ってしまった。これは私たち『旧世代』もまた如何に死に対して無自覚であるかを、筆者が『私』を通してまるで家畜肉の様に複雑な味わいで伝えているのではないでしょうか。
いずれにせよ何等かのSFオムニバスに取り上げられ得るクオリティの素晴らしい小品です。伊藤計劃に似た凄みがあり、きっと皆さんのお口にも合うでしょう。
でもちょっとなんか寂しい、というか、腹が立つ、というか、もやもやとする、というのはなんなのかというと、この世界の選択における間違い、あるいは危険性、について理屈をつけようと思えばつけられる、けどそんなのは理屈にすぎなくて、みんながそうであるべきと思ったら理屈なんてたいした意味はないし、「そうであるべき」の対立軸が「そうではないべき」、という訳でもなくてそこには勾配があるはずだけど、まあめんどくさいから二色くらいで塗り分けますねみたいなことがオッケーかどうか、普段ぼーっとしてると無批判のまま俺はがつっと塗り分けてしまっているなあ、みたいなことを考えてしまうからかもしれないし、全然違うのかもしれません。とにかく面白かったのでそれでいいですね。面白かったです。