φ

 3年前の冬のある晩、酒場でアル中のおっさんは僕にこう言ったのさ。

「俺は、こんなはずじゃなかった。大学だって本当は行けたのに家が貧乏で行けなかった」

 僕はまだシラフだったけれど、会話に乗ってやった。

「おっさん、それは違うね。うちの親父は同じ境遇だったが一度たりともそんな愚痴こぼした事が無いさ。成績は確かにオールAだったのを盗み見て、僕は聞いてやったんだ」


『なんで、あんたは自分の為に生きる事を選ばなかったんだい?』

 僕の親父は少し考えて、首を振った。

『行けたのは事実で、行けなかったのは嘘だ。行きたければどんな手段選んででも行っているさ。つまりはね、それほども行きたくはなかったんだ』

 本心かどうかは知らない。ただね、それほどもってとこが憎いだろう?


「そうかも知れないな、俺は行かなかった。いや、本当は自分がダメで行けなかったのかも知れない。想い出はいつだって美化しちまうからな」

 僕はグラスに残っている焼酎を一息に飲み干した。

「そう、今のあんたはグズでマヌケな負け犬野郎だ。矛盾に目をつむって前向きなフリしてるだけの奴らの方が余程ましだ。何故そうまでして生きる?俺ならそんな自分にはオサラバだ」

 だけど、アル中のおっさんは一つだけいい事を言ったのさ。


「それはな、物語にはプロローグとエピローグが無いとつまらねぇだろ?ジェームスディーンやマリリンモンローなんか最高潮でカットアウトして伝説になった。

 奴ら、最高にカッコいい人生だが、最高につまらない人生だと思わねぇか?」

 僕は、いたって抽象的なモノの例えは苦手なので黙っていた。

 二杯目からの焼酎にはいつもキュウリを頼んでいるのに、店の主人が間違えて梅を勝手に入れやがった事に、少し腹を立てていた。

「プレスリー、奴みたいに俺はなりたい。自分を愛してブクブク太って最高に醜い顔で死んでいったが、奴の人生には、喜怒哀楽、起承転結、春夏秋冬、そのどれもが揃っていて、目を背けたくなる程に最高さ」

 おっさんは続けた。

「俺は、実は、エピローグを結構楽しんでるんだよ。悲しみなんて客観が漂わせる幻だわ」

 僕は言ってやった。

「じゃあ、おっさんの人生に夏は在ったのかい?」

 おっさんは黙って遠くを見つめながら冷酒を飲み干した。僕は昔から大人のこの大人な素振が嫌いだ。

 僕がやってもいつまでたっても似あわねぇ。


 僕が三杯目を飲もうか迷い始めた頃、おっさんはようやく口を開いた。

「笑っちまうぐらい、冬、だな。生き続ける事が償いであり生き甲斐さ」

 外は恐ろしいくらいに冷え込んで、街には今年初めての雪が、見知らぬ二人も寄り添わずにはいられないぐらい斜め42°綺麗に吹き付けている。

 僕は店の主人に、おあいそを告げてからおっさんに向き直る。

「冬の後には、春」

 おっさんは笑った。僕も笑った。いきなりでもやり直しがきくのが人生だ。そう、人生はレースだ。


 人は、聞きたがる。

「Why,"φ"?it is easy.(何故、属さない。楽しいのに)」

 僕は言う。

「I cann't possible to "φ".(属せないだけだ)」


 おっさんは、この秋に死んだ。身内なんて誰一人居ない。自ら属すのを拒絶した惨めな最期だった。

 結局、おっさんに春が来たかどうかなんて知らないし、知りたくも無い。

 ただ、その顔の暖かい春色に、僕にしては珍しく考えるよりも先に頬を水滴のようなものが伝染した。

「何故?」

「淋しくなんかない。ただ、属さないだけだ。僕は、属さない。

 プロローグとエピローグに包まれて、ただ、君が存在すればそれでいい」


 ボクハ・キミタチヲ・アイシテイル

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トウロウ 安里 夜 @masa_longshot

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ