冠婚葬祭、人生の節目を飾る行事には、往々にして花が捧げられます。
時に、二つの人生を交える夫婦を祝うために。
時に、一つの人生を終えた故人を送り出すために。
古来より、土葬されたと思しき遺骨の周りには、大量の花が添えられていたと言います。
遺体の保存や処理にとって種々有利な科学的要因を見出すことはできますが、それが本質だとは思えないくらいに、人と花の繋がりは深いものです。
つまり、それは科学的合理性に裏打ちされた行為では無く、文化的に装飾された行為でもなく、むしろ人間が持つ原初的な――感情の根っこから湧き出す――衝動に基づく行為なのではないか。
死や出会い、門出といったイベントに立ち会う時に、人は自然とそうしたくなるのではないか。
一度、そんな風に考え出してしまえば、次にこう問わざるを得ません。
――――ならば、どうして人は花を捧げるのか、と。
本作「御伽術師・花咲か灰慈」は、それに一つの答えを示している作品ではないでしょうか。
花とは、植物が次代へ命を繋ぐために咲かせるモノ。
一つの人生が終わった時、残された遺灰に花を咲かせる――――残された者が前に進む為の区切りとして”葬儀”を捉えるなら、その構図はあまりにも自然に、根本的に繋がるものでしょう。
『花咲か爺』という誰もが知る題材を用いて、短い分量の中でそれを描かれたことは、ひとえに見事な着眼点・技量だと言わざるを得ません。
命散り、花が咲く。
その意味を問い直したくなったあなたに、オススメの一作です。
なんの変哲もないただの高校生がよくライトノベルでは活躍しているような印象が持たれがちだし、実際そう供述している主人公は少なくなさそうだが、この桜庭灰慈少年は決してそういうことではなく、花咲かじいさんを祖先とする第15代花咲師で、なんと人間国宝だそうだ。
では花咲師はなにができるのか。
昔話を紐解けば推測もたやすいが、灰を花に変える能力を持つ。
ではそれを用いてなにをするのか。
彼らのもっとも大きな仕事は"花葬(はなはぶ)り”。
火葬されて残った遺灰を美しい花に変えるのだ。
だがその花は常に葬儀にふさわしく、適切な美しさで咲くわけではない。
弔いの気持ちを持たず、死を冒涜する人間関係では、どんなに艶やかに咲いた花も、単なる溢れた絵の具のようなものでしかない。
単なる灰を咲かせるのではなく、そこに残る人の気持ちを咲かせようとする 灰慈と、彼を取り巻く人々の息遣いが、繊細な文章とともに伝わってくる秀作である。
(必読!カクヨムで見つけたおすすめ5作品/文=村上裕一)
様々なもの――役目を終えた炭や、皆に見守れながら最後の姿を見せ終わった命――が燃え尽きた後に残る「灰」。それを文字通り最後の「はなむけ」として可憐な花に変えるという、御伽噺の頃から続く不思議な伝統技能「花咲師」。
でも、その後を継ぐこととなった桃色の髪の少年は、自身の目標を見いだせず、ただその日を暮らす事のみを追いかけ続けていた。
そんな彼が出会ったのは、やたら気が強くて棘がある、でもどこか見捨てることが出来ない雰囲気を醸し出す1人の少女。
やがて、その出会いが、幾つもの後悔、「花咲師」と言う重荷、そして美しき花々へと続く事となり……。
「命」、それもその終わりと言う、ともすれば慎重に扱う事も強いられるであろうテーマを、花咲かじいさんの持っていた不思議な力のように、切なくも美しく、そして丁寧に描いた作品。ですが、1つの美しき花が咲くためには、幾多もの出来事、幾多もの辛さを乗り越えなければなりません。
懸命に生き、何かを残すことが出来た命のために舞う、奇跡の力。
今、この世界を生き、この作品を出会うことが出来た自分たちもまた、彼らから得る事が出来る何かがあるのかもしれません。