エピローグ

 店の外に目をやると、もうとうに陽も落ちていた。これからが、この街のほんとうの貌が顕れる時間だ。ザックーム市場スークのほかの商人たちも、そろそろ店を開けはじめている。ぼくは大きく息をつき、客のほうへ向き直った。

「話が長くなってしまったね、でも、旅の土産話ぐらいにはなっただろう?」

 客はその獣じみた眼光を瞼に閉ざし、二度、深くうなずいた。

「ダブウの墓の在り処を、教えてくれないか」慄える声で、客はいった。

「墓をけっして荒らさないと、約束するなら」

「荒らしたりなど、するものか」客は貌を歪め、ふいにぼろぼろと涙を流しはじめた。そして懐に入れていた右手を出した。

 そこには、札束が握られていた。

「ダブウは――いや、は、おれの兄なのだ。屍体売りに身を堕としてまで、幼かったおれや妹を養い、守ろうとしてくれた、誇るべき兄なのだ。これではまったく足りないだろう、だが、少しでも兄に恩を返そうと、必死に貯めた金がこれだ」

 その札束は汗と埃にまみれ、擦り切れていた。どれだけ苦労して、どれだけの年月をかけて貯めた金か、想像するのは難しくない。ぼくは、客の心がけにつよく胸を打たれた。

「親方に貰った肉切包丁クファンジャルを売ってね」起ち上がり、ぼくは店の棚に手をかけた。「それを元手に、別の商売を始めたんだ。クファンジャルはいくらで売れたと思うね――きっかり、九六〇万ディーナール。なんともいえない話だろう? 親方は生きていた頃からもう、貯めた金の全額を、弟子であるぼくに預けてくれていたのだ。じぶんの身に、なにか起こったときのためにね」

「大事な、ものだったろうに」

「クファンジャルを手放すのは、ぼくにとってもつらかった。だけどぼくにはまだあれを持つ資格はない。なに、じぶんの力で稼げるようになったら、いつだって買い戻せるさ」

「兄が世話になった」客は袖で涙を拭いた。「あんたみたいな弟子がいて、兄はほんとうに幸福だっただろう」

 ぼくはかぶりを振った。「世話になったのはぼくのほうだ。ぼくは親方になにもしてやれなかった」

 ぼくは酒瓶を二本、客に差し出した。

「こいつを持っていくといい、代金はいらない。親方の墓に一本、供えてやるといい。親方の好きだった酒だ。もう一本は、あんたが呑んでくれ。いいぶどう酒だろう、これほどの上物は、ほかの店じゃ手には入らない」

「ほかの店では――だって?」

「闇酒屋ザイドといや、都じゃ知らぬ者はいないよ。地下の冷凍庫は温度設定を変えて、いまじゃ屍体でなく、酒瓶でいっぱいだ」

「あんた――」

 ぼくは視線をはずし、客の言葉を遮った。

「屍体売りを廃業することが、親方の供養になるとは思っていない。だけど、親方が生きていたら、きっとそうしろといってくれた筈だ」

 客はそっと頷き、そしてぶどう酒を受け取った。

「あんたがじぶんで考え、じぶんで選んだ道だ。だったら、たとえどんな道を選んだところで、それはきっとあんたにとって、いちばん正しい道なんだと思うよ。あんたが選んだ道なら、それがどんなものであれ、死んだ兄はよろこんでくれると思うよ。ほんとうに正しい生きかたは、だれも教えてくれないだろう。聖典クルアーンにも、書かれていないだろう。じぶんでみつけるしか、ないのだから」

ぼくは客に墓の在り処を教えた。礼をいい残し、かれは足早に店を出た。

 ぶどう酒のように赤い扉が音を立てて閉まるのを見届けたぼくは、椅子にかけて息をついた。

 いやなことを思い出してしまった。だけどそれでも、思い出さなければならないことだってある。

 ぼくは窓の外へ視線をやった。世界が終わったかのような静寂と闇がそこにあった。月や星の明かりもすべて吹き消され、希望を照らし出すものは、もはやなにもない。ただ、欲望を煽るザックームの店たちの明かりが灯っているだけだ。

 片手のラフマーンは――頭部に六発の銃弾を受けながら、どういうわけか、命を取りとめた。いまも病院で療養中だけど、今後、意識が戻るとは到底思えない。

 ラティーファは、取り戻した邪眼のせいで家を追われた。だけど彼女はぼくが思うよりずっと強い少女だった。彼女はいった。

「ザイドさん、青い瞳の邪眼のあたしにしか、できない仕事を見つけました。互いに理解し合えず憎みあっている、わたしたちの国と『自由の国』が互いに理解し合い、手を取り合うための橋渡しになれないかと思うんです。わたしはどちらの国の血も半分ずつ受け継いでいる。わたしが『自由の国』を理解し、かれらにわたしの国のことを知ってもらう楔になります。お金を貯めて、学校に行こうと思うんです。そして『自由の国』へ行って、『自由の国』の語学を学ぼうと思うのです」

 彼女は振り返って言葉をついだ。

「ザイドさん、夢物語だと笑っておいででしょう? 少なくとも、すでにジブリールは画を通してそれをやってみせたんですよ。かれの画のなかでは、『自由の国』の写実性とわたしたちの国の色彩やスーフィズムがみごとに調和し、融け合っている。絵画のなかでそれができるなら、わたしたちにも、できない道理はないはずじゃありませんか?」

 ラティーファの手元には、二枚の肖像画がある。ジブリールが描き遺したものと、この画だけは人手に渡せないと、マジッドのアトリエから持ち出したもの。ぼくは彼女に二枚の双子の肖像画をみせてもらったことがある。どういうわけか、二枚めの肖像画の少女の目からは、血の涙が引いたように描かれておらず、その表情はこころなしか、儚くも晴れやかだった。

 大統領ハイヤームは政権の座を追われた。ぶどう酒の製造と販売はふたたび禁止されるようになった。とうぜんのように闇酒稼業に手を染める者がこぞって現れ、いまでは商売がたき同士の殺し合いも珍しくない。

 ハイヤームに替わる新大統領ファイザルは悪い政策といい政策を公約に掲げ、国民に歓迎された。悪い政策は、闇酒屋の撲滅に力を注ぐべく警官を増員させる、というもの。いい政策は、戦火で廃墟となった多くの町を復興させるべく人びとを国で雇うこと。すでにスィフルの町にも、少しずつ、人びとが戻りつつあるらしい。

そしてぼくはきょうも、こうしてザックーム市場スークで店を開いている。

あれから二年が経ち、ぼくは十五歳になった。希望を持って生きるにはあまりに年老いすぎてしまったが、絶望するのにはまだ若すぎる。ぼくはこの生業で、生きられるところまで生きようと思う。じぶんの命に価値があるとはいまでもまったく思わない、だけど、それでも親方や両親が命がけで守ろうとしてくれた命だ。ぼくはかれらの気持ちに、できるかぎり応えたい。生き残った人間が、死んだ人間のためにできることがあるとすれば、ただ、せめてかれらの想いを無にしないように努めることだけだ。

 ぼくは開店の準備に取りかかった。そしてふと、さっきの客のことが頭をよぎった。

 あの客はぶじ、親方の墓に辿り着けただろうか――ぼくは窓の外にふたたび目を向けた。

 星も月も消えたいま、かれを正しい道に導くものはなにもない。ザックームの店たちの灯りは、かれを惑わし、迷わせるだけだろう。

 何処か遠くで銃声が鳴り響いた。ぼくは、胸を痛ませた。

 店の外で男と肩がぶつかったなら、じぶんの指の数を確めたほうがいい、かれにそう忠告してやるべきだった。この街じゃ、心臓でさえ、掏られないって保証はどこにもありはしないのだから。

 かれの無事を、せめて神に祈ろう。神などいないことをだれよりよく知っていたとしても。

 夜の闇に呑まれぬように。

 迷路のような裏通りに足を踏み入れぬように。

 死者の行列に紛れぬように。

 世界の終わりに影を摑まれぬように。

 気をつけたまえ、客人。


 ここは世界の果て――悪徳の都、バビロン。(了)


(2005年、原稿用紙換算269枚)

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屍体売りは語る D坂ノボル @DzakaNovol

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