第20話 地下墓地

 その日、初めてぼくは知った。兵隊墓場の裏手には、地下へと降りる洞窟が広がっていた。永遠に陽の射すことのないその奥に、簡素ながら、いくつもの墓石が並び――ぼくとラティーファは、そこにっていた。

「ダブウはな、解体して売った屍体のために、ここに墓を作っていたのさ」

案内してくれた墓守ラシードが、そう教えてくれた。そしてかれは立ち止まり、ランタンの円い光でひとつの墓石を照らした。

 そこには「ジブリール」と刻まれていた。

 ラティーファは墓石のまえに、声を上げて泣き崩れた。

 この青い隻眼の少女は、ジブリールの墓をさがして、彷徨っていたのだ。ジブリールの右手を、かれのもとに返してやるため、ただそれだけのために。

 一年半前、親方はジブリールの邪眼を受け取った翌朝、信頼できる配達屋にジブリールの邪眼と最後の画を託した。少女はぶじ邪眼を受け継ぎ、光ある世界の美しさとジブリールの才気に感嘆したという。その肖像画には、ジブリールの少女への最大限の愛と敬意が余すところなく描かれていた。

 だけど光を手に入れたその夜から、少女は奇妙な夢をみるようになった。町が焔に包まれ、建物が崩れ、瓦礫の山が積み上がっていく夢。少女には、それが何処の風景かわからない。燃える屋台。泣き叫ぶ子供。錆びついた戦車の残骸。崩れた建物の向こうに覗く、ブルーと白を配色させた礼拝堂マスジドの円屋根。伸ばせばその手に触れられそうな夢。それは夢というにはあまりに真に迫るものだった。

少女はジブリールに夢のことを相談したかった。もしかしたら予知夢かもしれない。ジブリールとじぶんに、なにかの危険が迫っているのかもしれない。だけど、肝心のジブリールの行方は、杳として知れない。少女にひとことも残すことなく、かれは何処か遠くへ、姿を消してしまっていた。

 少女はいつかまたジブリールに会えると信じていた。だけど一年半後、それが永遠に不可能なことを知ってしまった。新進気鋭の天才画家、マジッド・ムワッファクの描いた肖像画を、偶然、新聞記事で目にしたのだ。じぶんがジブリールから託された肖像画と、まったくおなじ、双子の画。そのとき、少女はすべてを理解した。じぶんの受け継いだ碧眼こそが、ジブリールのものであることを。かれの命ともいうべき右手を売り払ってしまったこと、ジブリールがじぶんのために犠牲になってしまったことを。

 ほどなくして、マジッド・ムワッファクの自殺の報が届いた。せめてジブリールの右手をジブリールの墓に返そうと、少女は病院を飛び出した。

 アルヤルの村でマジッドの墓を暴き、少女はジブリールの右手を取り戻した。だけど、肝心のジブリールの墓の在り処がわからない。手がかりをさがして、マジッドのアトリエがあったジナーザの街へ。そこには、マジッドの遺した一枚の肖像画と十一枚の風景画があった。

 少女は息を呑んだ――その風景画に描かれていたのは、夢で何度も目にした戦火に燃える町の光景とまったく同じだったからだ。少女は理解した。ジブリールの生前、眼に焼きついたもっとも凄惨な光景。焔に包まれ、まばたきするごとに崩れ去っていく故郷の町並み。少女の夢の正体こそが、ジブリールの故郷だったのだ。ジブリールの右手に記憶が残っていたように、少女が受け継いだジブリールの邪眼にも、ジブリールの記憶が残されていたのだ。

 邪眼の記憶を辿り、運命に導かれるように、ラティーファはジブリールの故郷、スィフルの町に行き着いた。そこで同じように運命に導かれた、ぼくと親方にめぐり会ったのだ。

 ラティーファは墓前にジブリールの右手をそっと返した。ついにこのとき、彼女はようやく宿願を果たしたのだ。そして、できうることならば――受け継いだ邪眼も、かれに返してやるべきではないか、と考えた。少女は慄える指先を、じぶんの青い左眼に近づけた。

 ぼくは少女の手を制した。

「ジブリールは」ぼくは溜息をつき、そして言葉をついだ。「じぶんの代わりにあんたに幸せになってもらいたい、といっていた。やつは生まれながらに幸福になれないさだめだった、だから、あんたにすべてを託したかったんだ……」

 少女はぼくをじっと見つめた。心のなかを見とおすようなその美しく青い隻眼は、同時に彼女の心のなかも覗けそうなほど透きとおっていた。ぼくはその眼をとおし、彼女の心に届けるべくまっすぐ言葉をついだ。

「ぼくたちは、ジブリールの右手のおかげで助かった。かれの右手に宿る拳銃自殺の記憶の残像のおかげで。でもそれだけじゃないと、ぼくは思うよ。ジブリールの右手はわかっていたんだ、きみがラフマーンに撃たれたことを。そのことに憤って、きみを守ろうとして、ジブリールの右手はラフマーンに銃を向けたんだ。かれは死んでなお、愛する人を守ることを、愛する人を幸福にすることだけを考えつづけていたんだ」

 ラティーファはそっと視線を墓石に戻し――そして深くうなずいた。

「わたしは常に、かれとともに在るのですね――」

 ラティーファはジブリールから受け継いだ青い隻眼を細め、涙を拭いて微笑んだ。彼女はこのとき、きっと、邪眼とともにジブリールの遺志をも受け継いだのだ。ぼくも彼女につられ、小さな安堵の笑みを溢した。

「坊主には、こっちだ」

 墓守ラシードはジブリールの隣りの墓石をランタンで照らした。

 ぼくは声を失った。そこには「アフマド」「ハディージャ」ときざまれていた。

「坊主が金を貯めて、買い取る約束だった屍体だろう?」墓守ラシードは静かにほほえみながら、いった。「坊主から金を受け取るまでもなく、ダブウはちゃんと埋葬していたんだなあ――あいつ、この二体の屍体は、ひとかけらも、売っちゃあいなかったよ」

 それまでがまんしていた涙が、ぼろぼろと溢れ出した。言葉にならない嗚咽が洩れた。親方に、ひどい罵声を何度もぶつけた。最後まで、なにもしてやれなかった。そして、もういまでは――、その親方に、謝ることさえできないのだ。

 人の命が貴いなんてのは、たちの悪い迷信だ。現にこの国では、まいにち大勢の人間が戦場で死ぬ。ほとんどの死は、その生と同じくなんの価値もないもので、だれも気に留めすらしない。

 ぼくの親方の死も同様だ。かれは死んで当然の男だった。最低の人間だった。かれが死んで泣いた人間より、嘲笑った人間のほうがずっと多いだろう。かれは悪夢のような人生を生き、悪夢のような死を死んだ。ぼくをかばってだ。ぼくがこの手で、かれを殺したも同然なのだ。

「ダブウは、坊主に感謝していたよ」墓守ラシードは、ぼくの頭をくしゃくしゃとなでながらいった。「坊主をみていたら、屍体売りになるまえの血で汚れていないころのじぶんを思い出す、ってな。あいつが屍体売りになったのも、坊主ぐらいの歳だった。あいつが初めて売った屍体は、戦争で死んで帰ってきた、じぶんの父親の屍体だった。身よりもなく、金もなく、幼い弟や妹がいたあいつは、じぶんの心を殺し、手を血で汚し、父親の屍を解体して売ったんだ。あいつはそのとき、一生許されざる罪を背負った。その日からやつは、神にも見放された。かたぎの仕事について、ささやかな幸福を摑む希望を捨てたんだ。だけど、世界のだれも許さなくても、おれはあいつを許してやりたい。あいつは、悪いやつじゃ、なかったよ。一年半もずっといっしょにいたんだ。坊主にも、それがわかるだろう」

 ぼくは無言でうなずいた。

 ぼくも親方も、世界に見放された人間で、頼れるものは金だけだった。手を血で汚しながらでしか生きられない人間も、この世にはいるのだ。けっして外の世界と相容れない日陰の世界で、ドブの水をすすって生きるしかない人間も、この世にはいるのだ。

 ごめんなさい。ごめんなさい――ぼくは必死で涙を拭った。

 涙で霞んでいくすべての墓石には、祈りの言葉が刻まれていた。


 ――平安あれ


 親方は、神を信じていなかった。祈りの言葉は、かれなりの、死者への敬意だったのだろう。かれらの死への敬意ではなく、かれらがそれまで生きてきた人生に対しての。それが善人であれ悪人であれ、かれらがそれぞれ懸命に生きて死んだことに、親方は敬意を払ったのだ。

 ぼくは涙を拭いながら、親方の屍体を白布に包み、両親の墓の隣りに埋葬した。そして墓守ラシードと、ふたりで屍体に土をかけた。

 ぼくのベルトには親方からゆずり受けた肉切包丁クファンジャルがランタンの灯にきらきらと応えていた。ぼくは親方に生きていくことの厳しさを教わり、ひとりで生きられる強さを育てられた。そして、これからの生き方を選ぶのは、ほかでもない、ぼく自身の役目だった。肉切包丁クファンジャルの柄に彫りこまれた蛇の眼は、ぼくを見守ってくれているようにみえた。

「ジブリールとかれのおかげで、わたしはすべてを取り戻したんだわ」新しく立てられた親方の墓標のまえで、ラティーファはそっとこうべを垂れた。「美しい朝も、夕暮れも。月の光にきらきら応える冷たい水の流れ、砂漠の道しるべとなる星ぼしの心強さも。光と色のある世界、それはジブリールがいっていたとおり、目でみる音楽」彼女はその青い左眼を濡らしながらいった。「わたしは、あなたに感謝します――ダブウ」

 それは親方が耳にする、客からの初めての感謝の言葉だっただろう。

 ぼくたちは永遠の夜の底に沈む洞窟から外に出た。そして世界の眩しさに、思わず目を細めた。地平線のかなたから、長い夜の終わりを告げる、朝陽が滲み出していた。

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