第19話 アサド
むかし、アサドという名の少年がいた――墓守ラシードは煙草臭い息を吐きながら、そう語り始めた。
アサドは、寡黙ではあったが、躰は逞しく、腕っぷしも強かった。年長の子どもと殴り合いになっても、その大きな眼が涙に濡れたことなど一度もなかった。けんかに負けて、這いつくばっても、その両の眼は、力強く相手を睨みつけて、離さなかった。町の子どもたちは、運よくけんかに勝てたとしても、アサドのただならぬ眼光に、背すじに冷たいものを感じた。やがてだれもが口ぐちにいった。「アサドにだけは、手を出すな」――と。
アサドに母親はなかった。その面影も、ぬくもりも知らなかった。十かそこらの、幼い少年だ。母に甘えられない淋しさは、如何ばかりだっただろう。だけど、アサドはその淋しさにさえ、涙することはなかった。アサドはその名を手にしたときから、けっして泣くことを潔しとしなかったのだ。
「おまえに
アサドは無言でこくりとうなずいた。獅子のように強く、誇り高く。かれは幼いながら、父親の期待に必死に応えようとしていた。アサドの父親は、兵士だった。アサドが生まれたときすでに、父は予感していたのだろう。じぶんがいつか、家族のもとを去らねばならないことを。飢狼のように双眸を光らせ、家族の笑顔も人のぬくもりもわすれて、戦場の血に濡れなければならないことを。
「その日がきょうだ」
父はそういって、アサドの頭をくしゃくしゃと撫でた。戦場に向かうとは思えないような、やさしい笑顔だった。ほんとうに、このやさしい父に、人を殺すことなどできるのだろうか。そう思えるような笑顔だった。父親は起ち上がり、ついに子どもたちに、その広く大きな背を向けた。
「弟や妹のめんどうを頼んだぞ――アサド」
その声は
アサドは十歳という幼さで、ふたりの子どもたちの父親代わりになったのだ。幼く小さな弟と妹もまた、長兄であるアサドを父のように慕い、頼ってきた。街の子どもたちにいじめられては兄に助けを求め、食べるものに事欠いては兄に乞い、夜の悪夢に影を引かれては怯えて兄の腕を摑んだ。
アサドは愚直なまでに、父の言葉に忠実だった。黙々と幼い弟と妹の世話をした。父の残した金がすぐに底をつくと、庭園跡地まで出向き、靴磨きの仕事をして弟と妹に食べものを買い与えた。子どもながら商才があるとみえ、値段の動きを鋭く見抜き、水や果物を仕入れては、それを売って利益を生むこともあった。仕入れの金さえ工面できない日は、なるべく遠くの町まで出かけ、物乞いをすることもあった。だけど、アサドはけっしてそれだけは、弟と妹にまねをさせなかった。かれらに惨めな思いをさせることだけは、してはならない。父なら、おそらく、そういうだろうと思ったからだ。
食べるものも着るものも、そのほとんどを弟と妹に与え、ぼろを着て穴の開いた靴を履き、アサドは町で働きつづけた。都全体が焼け落ちそうな夏の日に、汗を流し、息を切らして、必死に働いた。それでも、子どもたちが必要な食べものを得るのは、けっして簡単なことではなかった。
兄弟はみな、痩せ細っていた。戦火の影響で給水が滞り、猛烈な暑さのなか水の確保が難しいことも、かれらをさらに容赦なく弱らせた。ついに幼い妹が病に仆れ、その頼りなげな小さな肩を慄わせると、不足がちな薬を買うため、アサドはさらに働かねばならなかった。三人の幼い兄弟の生活は、まさしく、絶望の陰のなかにあった。
そんなとき、戦場の父から一通の手紙が届く。
「アサド、元気でやっているか。父さんは、もうすぐ家に帰れそうだ。おれはおまえに謝らなければならない。幼いおまえに、ほんとうに苦労をかけてしまった。泣きたいこともあっただろう。弱音を吐きたいこともあっただろう。だれの目も気にせず、甘えたいときもあっただろう。だけど、おまえはそれを我慢した。子どもらしく嗤うことも、子どもらしく泣くこともせず、唇を噛みしめ、ただ強く、誇り高くあろうとした。おれの期待に、応えるために。幼い弟と妹を、不安にさせないために。すまなかった。長く留守にして、苦労をかけた。おれが家に帰ったら、もう金のことは心配しなくてもいい。たくさんの敵兵をやっつけた。数えきれないほどの敵兵を、父さんがやっつけたんだ。きっとたくさんの勲章と報酬を貰えるはずだ。おまえを学校にも行かせてやれる。おまえは頭がいい。勉強さえすれば、きっといい仕事に就けるだろう。せめてこれからは、おれに父親らしいことをさせてくれ。おまえは立派だ。ほんとうに立派な男だ。おまえはおれの誇りだよ。もうすぐだ。おれが帰るまで、もうしばらく、幼い弟と妹を助けてやってくれ――」
読み終えたアサドは昂奮に鼻息を荒くした。もうじきだ。もうじき父が帰ってくるのだ。あの、強く頼れる父が。いままでずっと、じぶんが目標としてきた父が。必死に涙を堪え、アサドはまたきょうも仕事のために家を出ようとした。蓄えは、少しも残っていなかった。躰のすべてが、疲れと痛みに軋んでいた。だけどそれがなにほどのことがあろう? いままでこの暮らしに堪えてきたのだ。どうしてこれからも堪えられないことがある? そしていまはなによりも、希望が赤々と輝いているではないか。
アサドはよろこび勇んで扉を開け放った。
不吉な黒い疾風が、アサドのうしろへと吹き抜けた。紫色の夜明け空の下、黒い服を着た、痩せた男が立っていた。頬はこけ、そのまなざしは鴉のように冷たかった。
「坊主がアサドかね」品定めをするように眺めまわしながら、黒い服の男はいった。
アサドは訝りながら、いつものように、無言でこくりとうなずいた。
「この家だそうだ。持って来い」
黒い服の男は引き連れていたふたりの人夫に声をかけた。人夫は白い布にくるまれた大きななにかをどこからか運び、投げつけるようにアサドの眼前へと差し出した。
「坊主の父さんだ」
黒い服の男は無愛想に白い布を少し剥いで、中身を覗かせた。
アサドは息を呑んだ。父の蒼い貌は、恐怖と絶望に引きつっていた。アサドが知っている、強くやさしい父の貌ではなかった。片眼はすでになく、そこには無数の蛆が蠢き、競い合うように父を喰らっていた。
「こっちは政府からの死亡告知書だ。坊主の父さんは多大な戦果を残した英雄だ、というようなことが書いてある。まあ、それはなんだっていい。死んじまったらおんなじだ。でもなあ坊主、すこしも悲しいことはないだろう?」黒い服の男は白布を戻してにやりと嗤った。「この国では死は別れではない。神の審判の日に、また会えるのだからねえ」
アサドはその場に力なく膝をついた。影に脚を引き摺られたように。悲しみ。絶望。そんな言葉では追いつかない。それはかれが生まれて初めて感じる暗黒であり、星ひとつない闇だった。躰が重くなり、息がしだいに乱れた。貌からは血の気が引き、指先からも力が抜けていった。
そして――アサドは、生まれて初めて、声を殺して泣いた。
「なあ、坊主。そこで相談があるんだ」
黒い服の男は、かまうことなく言葉を投げかけた。
「金に困るだろう、坊主。父親がいないと、暮らしは成り立つまい。なあ? 幼い弟や妹もいる。病に仆れて、苦しんでいるそうじゃないか。なあ? 坊主。そうだろう?」
黒い服の男はその場にしゃがみ、アサドの肩をぐっと摑んだ。そしてアサドに貌を近づけ、屍体臭い息を吐きながら、言葉をついだ。
「これはおれの最後の親切だ。兵士の屍体を買いたがっている金持ちがいる。紹介してやってもいい……どうだ? その代わり、金はおれと坊主で山分けだが……」
瞬間、沸き起こった激しい怒りにアサドはその小さな胸を灼いた。燃えるような熱い涙に濡れた両の眼を上げ、黒い服の男を力いっぱい睨みつけた。
涙に曇って映るのは、屍のように冷ややかな眼だった。まるでその皮膚に血など流れていないようだった。黒い服の男は、他人の死など、なんとも思っていやしない。他人の悲しみなど、なんとも思っていやしない。かれが考えているのは、金のことだけだ。じぶんがなにかを得るために、他人の絶望を利用することだけ。
憎んでも、憎みきれない男だった。だけど――たしかに、男は正しかった。この世界を生き抜くために、かれは当然のことしか、いっていないのだ。アサドには、たしかに選ぶ余地などなかった。幼い弟を食わせ、病身の妹に薬を買い与えるには、なによりもまず金が要る。そしてアサドに金に換えられる財産があるとすれば――それは白布で包まれた父親の屍だけなのだ。
黒い服の男は、まったく賢い男だった。だからこそなおさら、憎しみを押し留めることができなかった。
「いくらだ」
懸命に感情を殺し、涙を拭い、アサドはそう吐き捨てた。男の冷ややかな貌から、けっして眼を逸らすことはなかった。その眼はもう、女々しく泣いてなどいない。嗤っていた。弱みをすこしでもみせないように。じぶんのほうが売り手なのだという意思表示のために。それは、少しでも、ほんの僅かでも品物を高く売ろうとする――狡猾な商売人の眼つきだった。
「ぼくの父さんの屍体に、あんたいったい、いくら出すつもりでいるんだい」
そして血が出るまで、アサドは強く、強く歯を食いしばった。
だれよりも敬愛していた父親の屍体――それこそが、アサドが売った、最初の屍体だった。
屍体売り――かれの生涯を呪うことになる、忌まわしい商売の始まりだった。かれは良心と誇りとともに、父から貰った
そして、その日から――かれはみずからを
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