其時そのとき、おれはハッと息を呑んだ。

「そうだ――団子坂文吾だ」

 おれの視線は、中黒の隣に座る黒根カルマの横顔に吸い寄せられていた。

 寡黙にミルクを呑む仕草、痩せた頬、爛々と光る鋭い眼差し。

 気の所為ではない。少しずつ、そして次第に理解してきたおれは、異様な感覚に胸を掴まれた。

「似ている。その男、写真で見た団子坂文吾の若い頃に瓜ふたつだ」

 中黒はにやりと嗤って酒臭い息を吐いた。

「瓜ふたつってのは、一寸ちょっと違うな、壱岐いきぃ」ヒヒヒ、と奴はいやな嗤い声を上げた。「此奴こいつは、団子坂文吾そのものさ」

 中黒の眼は、真っ赤に血走っていた。到底、正気とは思えぬ程に。

「全体、如何どううことだ?」

「授賞が終われば大々的に明かそうと思っていたがね、此奴は只のそっくりさんじゃあない。極秘裏に入手した団子坂文吾の毛髪や歯からDNAを採取し、培養再生したのがこの黒根カルマさ。大急ぎで成長促進させたから、頭の中身はからっぽで読み書きさえもまともにできんが、そんなもんはゴースト・ライターとスポークスマンを立てれば善いだけの話。大事なのは団子坂文吾とおなじDNAを持つ、と云うこと。『団子坂文吾の再来』――正に看板に偽りなし。如何どうだ? 団子坂賞を団子坂文吾の生まれ変わりが獲るってんだから、話題性は抜群だろう!」

「クローン作家、か……!!」

「世界初の試みだ、マスコミがこぞって集まるぜ! これぞ正に、二十一世紀の文学だ!」

 中黒の高笑いにおれは戦慄した。やるに事欠いて、其処までするか。新しもの好きだからって、幾らなんでも限度がある。最早、中黒は団子坂賞のために、生命倫理さえもあっさり踏み越えて了ったのである。

「驚きに声も出んと見える」中黒はさも愉快相に云った。

 自信満々の奴の顔を見て、おれはぷっと噴き出した。

「何だ? なにが可笑しい」

 湧き上がる笑いを必死で堪えながら、おれは神子を指さした。

「中黒――そろそろ教えてやるよ。この娘を何処から連れてきたかをな――青森県は下北、恐山さ」

「恐山?」中黒は片眉を吊り上げた。「あの有名な霊場か」

「そうさ。神子みこ、見せて遣れ。おまえの真実ほんとうの才能を!」

「いいんだべが。この店、人が多いたって」神子は気弱げに場内を見回す。

「構わん。この衆目を前に見せて遣るンだ。受賞前の善いデモンストレーションになる」

「わかったた、わんつか時間貰いますよ」

 神子は黒縁眼鏡をはずし、思いのほか整った美貌を覗かせた。更にポケットから数珠を取り出し、手を掲げる。

 矢庭に黒髪をふり乱し、頭を下げ、そしてブツブツと呟く様に経文を唱え始める。嗚呼、その姿のなんと神秘的なこと! ミステリアスな女性が男をもっとも惹きつけるのなら、彼女ほどミステリアスな女、ほかにいるか? 地下のバーなのに、何処からともなく生温なまぬるい風が吹いた。電氣ブランのグラスに、波紋がみるみる広がっていく。

「何だ?」面食らった中黒が声を上げる。「おい、壱岐、一体全体、何なんだ、その女は!」

「まだわからんのか、中黒」

 おれは終いに抑えきれず、狂った様に大笑いした。バーの雰囲気がみるみる凍りついていく。

 喧騒は消え失せ、ただならぬ神子の狂態に、否応なしに酔客たちの視線が集まる。

 不意に、傍にあった照明が、火花を散らしてブツリと切れた。

 薄暗くなった場内に、不快な経文が響き渡る。

 ヒタリ、ヒタリと、誰も歩いていないのに、跫音が耳に直接響いて聞こえた。

 慄く中黒は、堪らず席から立ち上がる。

「何の心算つもりだ、虚仮こけおどしを! 全体、何が起こってるってンだ!」

「口寄せ――だよ」

 おれは真顔に戻ってそう答えた。

「恐山のイタコが使う降霊術だ――神子は自分の身に、死者の霊を降ろすことができるのさ」

「莫迦な」中黒は吐き捨てた。「そんな非科学的なことが。いまは二十一世紀だぞ! そんな前時代的な迷信が――」

「この店は――『ルンペン』かのう……」

 俯いた儘、搾り出す様な低い声で、神子はそう呟いた。それはあきらかに、女の声ではなかった。老い、酒で咽喉を焼いた、男の声だった。

 やおら顔を上げた彼女の眼つきは、別人の様に鋭い。

わしが生きていた頃、このバアにはたしか二度ほど来たことがある――酔った儂は巫山戯ふざけけてほれ、そこの壁に、ちいさぁく、『D』の文字をペン先で彫りつけたんじゃよ――どれ、いまも残って居るかのう?」

 神子が指さす壁のほうを、中黒はゆっくりふり返り、そして眼を瞠って震えだした。

 其処にはたしかに「D」のアルファベットが彫り刻まれていた。その痕跡はまちがっても昨日今日ついたものではない。何十年も前に刻まれた、年月の重みを明瞭はっきりと湛えていた。

 中黒は、神子に怯えた眼を向けた。

「莫迦な。そんな。あんた、真逆まさか――」

「その真逆さ。団子坂文吾、御本人だよ」

 子供に云いきかせる様に、おれは云った。

「彼の霊を憑依させた。まさに『憑依的な天才』と云う訳さ。経験と老成をかさねた団子坂がこれからどんな小説を書くのか、文藝に携わる者として見たくはないかね? 急逝した所為で未完となった世界文学史上最高傑作と謳われる『軍隊アリ対オオアリクイ』も、神子の能力を以ってすれば、容易に完成させることができる。話題性も作品の出来も申し分なし、これが神子の才能だ!」

「き、汚え。あんまり、卑怯だ。本物の団子坂を連れてくるなんて!」

「この世界はゴースト・ライター当たり前の世界だとか云ってなかったか、中黒?」ふふふ、とおれは笑った。「ゴースト・ライター。くっくっく」

 おれは勝利を確信した。クローン団子坂と云うのは、たしかに盲点だった。新しもの好きの中黒ならではのアイデアだ。だが、所詮そんなものは劣化コピー。話題性と実力、新人作家の若さと大家の経験を兼ね備えた一ツ積神子の敵ではない。

 今回許りは、文学の伝統を重んじたおれの勝利だ。古きよき文藝の復興をめざしたおれに分があるのはあきらかではないか。あと、おれは彼女を愛している。文句あるか。

 そのとき、不意に店のドアが開け放たれ無粋な一団がかまびすしく階段を駆け下りてきた。

 貧相な店の内装をカメラのストロボが白く照らし出す。眩しい光はおれにとっては、まるで祝福そのものに見えた。

 ピンクのスーツがはちきれんばかりに丸々と肥った女性リポーター。彼女に続くのはテレビ・カメラ・クルー、そして大勢の新聞記者たちだった。

「終いに! 終いにたったいま、第一〇〇回団子坂賞受賞者が決定致しました! このバーです、この店に受賞作家がおられると聞いております!」

女性リポーターがテレビ・カメラに向かって甲高い声でそう叫ぶ。

「結果が出たか。一体、どっちだ……」そう洩らす中黒の顔からは、先程迄の余裕はもう消えて失せている。

「クローン団子坂か。それともゴースト団子坂か」おれはリポーターに詰め寄った。

 併し突進する脂肪の塊はラガーマンのようにおれたちを蹴散らし、ヒールをかつかつと鳴らしながら店の奥にテレビ・カメラを誘導した。おれたちは彼女が一体なにをトチ狂ったのか、直ぐには理解できなかった。

 彼女がマイクを向けた先、店のいちばん奥のテーブル席には、悠然と煙草の煙をくゆらせる、小さな後ろ姿があった。

「全国のみなさん、おわかりでしょうか? かれこそが今回の受賞作家、ナイル川次郎さん、若干七歳です!」

「なっ、何だとおおおおおー!?」おれと中黒は声を揃えて叫んだ。「もう作家の低年齢が売りになる時代はとっくに終わったんだぞ! 何でそんな子供に――」

 耳まで脂肪で詰まっている女リポーターは、おれたちの野次などまるで意に介さない。新聞記者たちはナイル川次郎の後ろ姿に質問をつぎつぎ浴びせかけた。カメラ・クルーたちがかれの周りを取り囲む。

「世界初の快挙ですが、ご気分は如何ですか、次郎さん!」

「なにかひとこと! なにか! 次郎さん!」

「お願いします、次郎さん、受賞の喜びを一言で!」

 新人とは思えぬ泰然とした構えでナイル川次郎はゆっくりと賛辞の声にふり返った――そしてにやりと笑ってカメラに白い歯を見せた。毛深い子供だった――顔じゅう真っ黒だった。おれと中黒は、開いた口が塞がらなかった。奇人変人ぞろいの団子坂賞候補者のなかにあって、今回の受賞者は――最早、人間でさえなかったからである。

「ウッキー!」

 リポーターのマイクに答えたかれは、テーブル上に毅然と立ち上がった。

サルであった。英国紳士よろしく、ダブルのスーツを着こなし煙草を咥えたチンパンジー。

 女リポーターはテレビ・カメラに向け熱弁をふるった。

「皆さん、御覧戴けましたでしょうか? 長い団子坂賞の歴史のなかで、終いにホモ・サピエンス以外の霊長類受賞者の誕生です! これは勿論、文学史上初の快挙、いまわたしたちは歴史的瞬間に立ち会っているのです! ナイル川次郎さんは手話で二〇〇〇語の語彙を操る天才チンパンジー! 猿まわしと猿の友情を描いた感動巨編『人生猿芝居』で第一〇〇回団子坂賞をみごと受賞致しました――――!」

 ヒロポンでも打ったかのようにリポーターは昂奮していた。顔を紅潮させ、汗を大量に噴出させながら、彼女は身振り手振りを交えて必死でおサルさんとコミュニケーションを図ろうとする。そのすべてに次郎さんは「ウッキー」だの「ウキッキー」などといちいち深い思慮をまじえながら答えるのだった。

「負けた」脱力の余り、おれはがくりと膝をついた。「完敗だ……」

 しかし、ライバル中黒は流石さすがに百戦錬磨のプロであった。直ぐに気を取り直した奴は力強く立ち上がり、携帯電話に向かって声を限りに叫んだのである。

「おい、おれだ! つぎの候補者をいますぐ探すんだ、ああーっと、そうだな、こんどは鸚鵡おうむがいい。世界初、小説を口述筆記できる鸚鵡を探すんだ! 早く! 早くしろ!」

 それを聞いたおれも、こうしちゃおれんと立ち上がった。携帯電話で自宅で寝ている部下を叩き起こして怒鳴りつける。

「パンダだ。いますぐ四川省に飛んで小説を書けるパンダを探して来い! いるわけない? いなけりゃ書ける様、無理矢理調教するんだよ、使えん奴だな! ああ? そんなことしたら中国と国際問題に発展するウ? 戦争になってから心配しろ、阿呆!」

 同時に携帯を切ったおれと中黒は競い合う様に外套に袖を通した。

 茫然と立ち尽くすクローンとゴースト、ふたりの団子坂文吾御大が、恐る恐るおれたちに問いかける。

「あの、おれたちはどうしたら……」

「知るか! 文学はもう死んだんだよ、け!」

 おれと中黒はふたりの巨匠を蹴り飛ばし、釣りはいらぬと勘定を投げ、ドアを鳴らして我先にバー「ルンペン」をあとにした。小説を書けるパンダを部下に探させているあいだに、同時進行でおれはカナダはロッキー山脈に飛ぼうと考えていた。なにしにってお前、小説の書けるビッグ・フットを探しにに決まってるだろこのボンクラ。

 文藝誌編集者に、安息の日などない。おれと中黒は終わりなき悪夢のように、夜の街を何処までも、何処までも、大笑いしながら走り続けた。(了)



2006年、原稿用紙換算35枚

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ブンガク・イズ・デッド D坂ノボル @DzakaNovol

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