かつては日本文学新人賞の最高峰として破格の権威を誇っていた団子坂賞も、いまやイロモノ作家量産工場に成り果てていた。

 若者の文学離れ及び未曾有の出版不況が進むと共に選考基準の腐敗が進み、作品の藝術性なぞ二の次三の次、作家の出自プロフィール容貌ルックスと云った話題性けで授賞作が選ばれる様になっていたのである。

 その先駆けが第九〇回に受賞したセンター街ラブ子の「109人のいかちいギャル男」であった。十七歳という若さとギャル風の風貌、歯に衣着せぬ無軌道な言動でマスコミの注目を攫ったセンター街は世論に圧される形で団子坂賞にノミネート。作品もまた、全編通してギャル文字と絵文字丈けでひと小説書ききったという何とも云えぬ力作で、選考委員の誰も解読できぬまましかし……これはこれで斬新かもしれぬ」と云うノリ丈けで受賞したと云ういわくつきの作品であった。毀誉褒貶が渦を巻き、話題が話題を呼んで同作は空前のベストセラーを記録。そのセンター街ラブ子を世に送り出した編集者こそ誰あろう、我が積年の宿敵、中黒だったのである。

 書き手の若さが話題性になると踏んだ各出版社はベルト・コンベア式に若年作家を続々デビューさせた。その意図を汲んだ主催も積極的にそれらを授賞候補にノミネート。続く第九一回は案の定、十四歳の女子中学生、TIECOチエコによる「厨房ですよ」、第九二回は十二歳の現役小学生、潮田しおた正太郎しょうたろうによる「楽しかった運動会」、続く九三回は更に下がって九歳の女子小学生、板池いたいけ真央まおによる「さかあがりができたよ」が夫々(それぞれ)受賞。特に潮田の「楽しかった運動会」は「まるで卒業文集から切り出してきた様な等身大の小学生のリアリティ」等と、選考委員から的のはずれた絶賛を送られた。

 作家の低年齢化傾向がひと段落したところに登場したのが問題作「青春バリアフリー」を引っ提げて第九四回に受賞したアルツハイマー亀岡かめおか、御歳堂々の一〇五歳であった。社会の高齢化と若者の読者離れの煽りを受け、文藝書の市場マーケットは次第に高齢層に移行。老人ホームを舞台に孤独な老人と高校を出たばかりの少女介護士の禁断の淡い恋を老獪な筆致で描いた同作はメガ・ヒットを記録、昼ドラ化されたのちハリウッドから映画化の提示オファーを受けると云う異例の快挙を成し遂げた。青春は若者丈けのものにあらずと云うメッセージが受け、アルツハイマー亀岡は一躍高齢者たちのカリスマとなる。

 他の出版社もこの例に倣い、ただちに高齢作家発掘に心血を注いだ。併しその冬、これぞ運命の悪戯か、悪性新型インフルエンザの猛威が日本列島を直撃、アルツハイマー亀岡を始めとする高齢作家たちは片っ端から肺炎を併発させてバタバタと死んでしまったのである。同時に高齢読者もほぼ全滅したことをいち早く見抜いた敏腕編集者たちは、またさらに新しい時代の作家を探すべく、日本各地に散ることになった。

 それからの一連の受賞作は、文藝誌編集と云う職業の末席に身を置くおれにとって、最早悪夢以外の何物でもなかった。

 関東広域暴走族「ヘルズ・ブッダ」の元総長で元ロック・ミュージシャン、元格闘家、現在十七人の子を持つ大家族パパ、と云う異色の経歴を持つトルエン伊藤が書いた半自伝小説「おれは時代に流されないぜ」は基本的な文法がなっていない上、途中で面倒になったのかクライマックスになるにつれ描写がみるみる削られていくと云う恐るべき小説であった。原稿用紙換算でじつに六枚、ゆとり教育の弊害が如実に浮き彫りになった恰好である。

 つぎの受賞作も酸鼻をきわめた。人権団体のゴリ押しで受賞した、知的障害を抱える池沼いけぬま洋梧ようごの「障害も、個性だよ」。これに至っては程なくゴースト・ライターがいたことが発覚、文壇を揺るがす大問題になった。云うまでもなく池沼をデビューさせた編集者も中黒で、会見で彼は「ゴースト・ライターを使うぐらいのことはこの世界じゃ常識だ! ゴースト・ライターなしでこの不況に喘ぐ出版業界が一日だって成立するわけない! 我が社にだけゴースト・ライターを使わせないなんて、寧ろぎゃくに公平フェアじゃないぞ。狡い! おれは被害者だ! 同情しろ」とふてぶてしく居直り、驚くべきことに賛同、同情の意見が殺到した。

 そのつぎの受賞者はポスト超新本格派の流れを汲むミステリ界のスーパー異端児、若干二十三歳の若き奇才、一流大学院いちりゅうだいがくいん留年丸りゅうねんまる。この世界はたったひとりの多重人格者の内面世界インナーワールドに過ぎず、殺人事件はじつはひとつも起こっていなかったと云う壮大すぎるオチで数多のミステリ愛好家を置いてけぼりにした「六〇億人のビリー・ミリガン」は月9枠でテレビ・ドラマ化までされたが、主演女優が役作りのため撮影途中で発狂すると云う事態に発展して四話で打ち切り。

 ライトノベル界の超新星、アンドロメダ大銀河だいぎんが星雲斎せいうんさいは小説に於ける挿絵、表紙イラストの可能性を更に突き詰め、終いにコマ割りと吹き出しと云う概念を文藝作品に導入すると云うラノベの究極の型を確立、全く新しい時代の文学を文壇に叩きつけ、やるに事欠いて少年漫画誌に連載されると云う驚天動地のメディア・ミックス展開を見せつけた。

 それは果たして文学と呼べるのか、と云うマスコミの疑問にアンドロメダ大銀河は自作をルーペで拡大して曰く、

「一見するとイラストと吹き出しによって漫画と見分けがつかないが、拡大するとそれらのイラストはすべて極小の文字の集積によって形づくられているのだ。詰まりこれは飽くまで文章の羅列であり、文章の配列に凝って視覚的効果を狙った谷崎純一郎大家の手法を継承発展させたもの。これを文学と云わずして、何と云おうか?」

 ヘリクツ捏ねんなや、と誰もが思ったのも束の間、デビュー作でもある「俺のラノベで覚えた女の子の口説き方が現実世界でこんなに通用するはずがない。」がシリーズ七〇巻を超え累計三億部を突破するメガ・ヒットを記録した辺りで何人たりとも文句をつけられない不可触アンタッチャブルな話題と化した。

 続いて路上ストリートから文字通り鳴り物入りでデビューしたパントマイム大道おおみちに至っては、作品云々よりも三台のノートパソコンをジャグリングしながら小説を書き、尚且つノートパソコンのCDドライブから鳩を出したりと云った大道芸が受けて受賞した。

 最早文壇は奇人変人コンテスト、見世物小屋の如き様相を呈していたのである。

今回、第一〇〇回団子坂賞候補者の面々も、まさに凄惨の一語に尽きた。ソフトオンコマンド出版からノミネートされたのは元セクシー女優にして現在十五種の性病とフルコンタクトで闘病中と云う悲劇を前面に押し出す美麗の官能小説家、四十八手しじゅうはってきわめ子。闘病記でもある私小説のタイトルは「ぶっかけ地獄」。

 更に網走あばしり書房が推すのは少年院から出所したばかりの連続大量殺人鬼、ホロコースト榊原渾身の半自伝小説「殺り足りない」。

 自作の千の人工知能ボットを駆使してSNSに一四〇字小説を呟き続ける正体不明の引きこもり、千の文体を持つ男、アルファ鎚鱈ついたら

 宮沢書店は初心に戻ったのか、終いに年齢七歳のナイル川次郎なる若き作家を候補に送りこんできた。 

 ほかにもハリウッド・スターやサッカー選手、メジャー・リーガー等からの引き抜きまで本気で検討する出版社もあったそうだが、そんな上層の人間が今更売れない文藝に身を窶すメリットは皆無だったので、幸いにして実現するには至らなかったそうだ。

 おれは歯痒かった。たしかに、話題性のある作家をセンセーショナルにデビューさせれば、売り上げは上がる。だけど真実、それで善いのだろうか? 自分がこの業界に入ったのは、純粋に善い小説を世に送り出したかったからだ。高校の頃のおれは、同級生の苛めに遭い、鬱病に罹り、部屋に引き籠る日々だった。同級生たちが進級していくのを、置いていかれるような孤独感と共に見ていなければならなかった。そんなとき読んだのが、団子坂文吾の名作「無差別ロボトミー」だったのだ。

 おれは感動した。救われた気分にさえなった。まるで自分丈けの聖書を見つけたかの様な気分だった。

 かれの小説は、おれを激励する様なものではなかった。叱咤する様なものでも、してや慰め様とするものでもなかった。其処には只、おれと同じ弱く臆病な人間が、それでも勇気をふり絞って不条理な世界と戦い続け様とする姿が描かれていた。おれはそのときの感動を契機きっかけに高校を辞め、大検受験に合格し、終いに国立T大学に入学した。いまのおれがあるのはすべて「無差別ロボトミー」の御蔭なのである。

 漫画は慥かに面白い。映画の迫力には目を瞠る。併しそれらは多くの場合、善く出来た娯楽なのだ。それ以上でも、以下でもない。文学は違う。そうじゃない。ギョエテは「若きウェルテルの悩み」の冒頭で、この一冊が読者の友となるように、と祈った。太宰や安吾も弱者の味方であることが文学の在るべき姿だ、といってのけた。小林多喜二は、プロレタリアの盾となって獄死した。小説家のなかでもとりわけ文豪と呼ばれる人種は、娯楽である以上のものを、みずからの文章のなかに常に求めてきたのである。

 だから文学は本来、娯楽を求めるマジョリティのものではない。弱きマイノリティの今日の悲しみに首肯し、明日を生きぬく勇気と強さを与えてくれるもの――尠なくとも、おれにとってはそうだった。

 ベストセラーになる様な本よりも、売れなくとも、真実ほんとうにやさしく力強い作品を世に送り出したい。大量に消費される使い捨て小説よりも、真実に長く愛され、読者の人生の支えとなりうる「文学作品」を送り出したい。時代錯誤かもしれないが、それがおれの編集者としての切なる願いだった。

 併し、年々強まる文藝書全体の市場縮小と共に、マイノリティ向けの所謂売れない文学作品を世に出す体力は、もう何処の出版社にも残っていなかった。新刊の凡てがマジョリティ向けの毒にも薬にもならない中身なき本ばかりと云うのが偽らざる実状なのだ。ブンガク・イズ・デッド。おれは文学を悼む。話題性や人気けで作家をデビューさせ続けた結果、この十年、実力ある作家がただのひとりも育たなかった。挙句、この世界ではゴースト・ライターなど当たり前だと、編集者に堂々と云わせる世界になってしまった。送り手の誇りと共に、文学は、終いに死んでしまったのだ。

 併し、おれは信じている。おれが見つけ出したダイヤの原石、一ツ積神子になら、死んだ文学をもういちど生き返らせることができる。真に実力があり、尚且つ話題性を併せ持つ彼女ならば、失墜した団子坂賞の権威を取り戻すことができる――と。

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