メキシコ翡翠の謎
光田寿
メキシコ翡翠の謎
『ホワイダニットは新しい殺人の動機を見つけ出そうとはしません。おそらく新しい動機など存在しないでしょうし、間違いなく、古くからある動機こそ、現在でも、極めて力強いものなのです』
――エラリー・クイーン『クイーン談話室』より
* *
【主な登場人物】
* *
犯人はそれまでその言葉を信じていなかった。俗世間が言うところの「初対面で電撃が走った」という言葉である。
従来、女性も男性も愛したことが無かったのだ。しかし彼を見た瞬間、電撃が走った。感覚的にどの様なものかと問われると、言葉では言い表せない。
だが、このことは誰にも言えないだろう。何故ならば一種倒錯的な、あるいは禁断の愛といえるのだから。それ以来、犯人は彼の信望者となっていたのかもしれない。
* *
警視庁公安部の
「父も二階で寝ておりますし、今日のところはお引取り願いたい。令状も持たずに、教団のことを調べさせてほしいとは……。施設内に、信者の方々も残っているのですよ? 外の方々の入室は禁じているのです」
「重々承知しております。でも、調べさせてください。貴方方が何をやっているかは、こちらもある程度の情報をつかんでおります。被害にあわれた方が出ている以上、一刑事として疑いも晴らしたいのです」
英二は黙り込んだ。これ以上、玄関で粘っても仕方が無いと思ったのか、あるいは駅前のため通行人の目を気にしたのか、「フゥ」とため息をついた。そして嫌々ながら大牙の方を向き、「わかりましたよ。ただし、これは貴方一人の単独捜査であり、違法だということもお忘れなく」と言い放った。
大牙は一階にある翡翠の間に案内された。
* *
『緑石の会』教祖である、前園英二はなんとかして、目の前の女性を追い払いたかった。警視庁公安部の田中と名乗った彼女の下の名前は忘れてしまった。女性には相応しくない、仰々しい名前だったのは覚えているが、今すぐにでも自分のテリトリーから追い出したかったのだ。教団の内部に潜入されると、自分たちがやっている汚い部分も明るみに出る。
「わかりましたよ。ただし、これは貴方一人の単独捜査であり、違法だということもお忘れなく」などと苦言はしておいたが、ここは早々とお引取り願いたい。
「今日は父にストーンパワーを浴びせるため、ここにある我々の神はあちらに移動させてもらっているのですよ」などと、差しさわりの無い会話をする。
この後は、差しさわりの無い資料を、差しさわりの無い程度に渡しておこう。翡翠の間から廊下へ出て、階段を上がる。自身の父親の部屋が見えてきた。彼はこの部屋を見るたびに嫌気がさす。自分が小さい頃からタバコを吸い、酒も止められなかった男、
英二が三十五歳の時に父は糖尿病になりインスリンが欠かせない体になった。食事制限が設けられたが、父はその後も
その醜態から、長男の
半年前に医者から肺ガンの告知を受けた。余命残り半年あれば良い方……。自分以外、ほかの家族にも見捨てられ、何もかもを捨てた男に宣告された宣言。
自業自得だ。英二はそう思った。だが、やせ細った父の姿を見るたびに彼は反省した。自分はこれで良いのだろうか? 世間からはカルト教団などというレッテルをはられている宗教の教祖だ。あながち間違いで無いのは自分が一番よく分かっている。父は自分が起こした宗教に何の口も挟まなかった。何者にも自分の信仰を邪魔させてはならないというプライドもあったかもしれない。英二はそんなことを考え、父が寝ている部屋の横――書類室に入った。
* *
『緑石の会』の信者の一人、
もちろん翡翠の力やストーンパワーなど信じてはいない。信者が読まなければならない聖典も読んでいなければ、集会にもほとんど参加していない。
掃除が終わり、ふと入り口の開けっ放しになっているドアに目を移した。彼が恋心を寄せている、そのもう一人が翡翠の間に入っていくところだった。
* *
『緑石の会』広報担当である
「また、アンタか! 田中さんとか言ったなぁ。いい加減、我々を詮索するのは止めたらどうかね。こちとら、何も
「私は教祖である前園さんに案内されただけです。きちんと許可も取りましたよ」
「教祖様が……糞ッ!」
全く、あの若造め。何を考えているのか。浦和の頭の中には金儲けのことしか考えていなかったため、毒づいてしまい、ハッと我に帰る。
「あ、いや……教祖様が案内されたのなら仕方が無い。普通は外の者を入れたくは無いのだが。特に刑事などという心が腐りきった連中は」
「心が腐っていても正しいことは正しいといえますよ。貴方はどうですか?」
皮肉をいったつもりだったのだが、皮肉で返された。嫌味な女だ。いつの間にか額に大量の汗をかいていたのでハンカチで額を拭う。ふと廊下側のドアを見る。教団特有のローブをまとった少女がいた。
「あぁ、妃さん。貴方もいらっしゃったのですね」
「はい……お部屋のお掃除が終わったので……。瞑想をしようと、ここにきたのですがお邪魔でしたでしょうか?」
「いや、邪魔なのはそこにいる刑事さんだけですよ」
1
「来年は正月初めから皆既日食が起こるらしいですね」
二〇一一年の十月最後の日、私は何かの話題は無いかと思いそう語ったが、運転手の刑事は顔を前に向けたまま、何も返さなかった。ただ、バックミラーからチラリと私の方を見ただけである。同じような歳の私が上司であることが相当気に食わないらしい。こんなところでも、キャリアとノンキャリアの妬みが出るのか……。
警視庁の警視正である私――
「マル害の遺体がある宗教施設には、まだかかりそうですか?」
「へぇ、
皮肉を返された。私に悪意を持っているのか、あるいは自身のコンプレックスに悪意を持っているのか、彼は「フンッ」と鼻息を鳴らした。ちなみに私は警視ではなく警視正だという返答をしてやろうと思ったがやめた。
仕方なしに窓の外を見る。
2
大宮駅が見えてきた。国道十七号線を桜木町の交差点で右折する。妖怪土蜘蛛が自分の縄張りを主張する巣のように張り巡らされた、歩道橋が頭上を横断している。二号線伝いに、高架線の下を通り抜け、陸橋の上を渡り、線路をまたぐというのは違和感のある光景だ。地下道をくぐり外に出ると、いきなり空中だったような奇妙な幻視感がある。
右折し、商店街を抜けると、時計の上から百合の花が生えたような電灯のモニュメントに行き着く。その横、左側にハンバーガーショップがある。店の前には、資本主義の権化とも言える不気味な赤鼻道化師の看板があった。ハンバーガーショップのすぐ隣。そこに今回の犯罪現場となった、宗教法人『緑石の会』の施設が建っていた。私を乗せた車はそこに停車する。大宮駅の屋根に太陽が沈もうとしていた。淡い光が幾層にも重なり合い、巨大デパートの建物側面に奇妙な形の影を作っている。
そんなハンバーガーショップとデパートの間の建物は、見ようによっては、無国籍のテーマパークだった。外見はカナダのロッジ風の作りをしているのに、玄関に吊らされているのは中国風の提灯。ごった返す人ごみとマスコミ郡の中を分け、扉を開けると、待っていたのは東南アジア風の原色交じりのロビーだった。これでは本当に無国籍だ。入り口ドアの上には監視カメラがついており、その部分だけ現代風なのが違和感を感じる。
左側はストーンパワーアイテム各種と商品の写真が並べられていた。どうやら売店のようだ。ショーケースがあり、中にはイオライト翡翠各種や、『天然翡翠の浄化におすすめ!』と書かれた謎の水。マイナスイオン翡翠に、教団アイドルHSI28が歌う『緑石の会教歌』、とここまでくればもはや何でもありだ。
ロビー中央にあるドアを開けると、祭壇がある部屋があった。二〇一二年一月一日(日)昼一時半。『緑石の会』例祭並びに月例例祭。祭典後、教祖教話と書かれたポスターが貼られている。これまたカナダ風ロッジの椅子が、教会風に並んでいる。
ここでは鑑識員が作業をしていた。初動捜査の段階なのだろう。私は彼らを尻目に、部屋から廊下へ出た。廊下奥の階段は普通の民家風。無国籍からやっと開放され日本民家に変化したようだ。この施設に長期滞在すれば、世界の建築様式全てが一気に味わえるのだろう。そんなことを考えていた。
被害者の部屋は階段を上がったところにあった。引き戸を開け中に入ると、一般の人間ならまず目を逸らす光景が入ってきた。
ベッドの上にはやせ細り、頭は髪の毛が一本も無い七十代の被害者の姿があった。横には囲いがついておりベッドの上の機械からチューブが伸び、男性の鼻に差し込まれている。二十八歳という若輩者の私は否が応でも老いというものを感じさせられた。末期のガン患者という情報は入っていたがここまでのものとは……。不謹慎な考えかもしれないが、
別の意味で酷いと言えば、死体の損傷具合である。頭は血まみれで、そこだけに巨大な穴が空いているようにも見えた。犯人が何度も叩いた……というより押しつぶしたように感じる。表情は両目を限界にまで見開き、口を歪め、歯を噛み締めている。頭を何度も殴打された苦痛のためか、食いしばった歯の一本に細かいヒビが入っているのが見てとれた。
「凶器はこれのようです」
一人の鑑識員が持ってきたそれを見やる。袋の中には、血まみれの尖った……短剣のようなものが入っていた。しかし、どこか歪な形だ。その短剣には柄の部分も無ければ、刃が研いであるワケでも無い。もう一つ、私が不審に感じたもの。血に濡れたその短剣は奇妙な、
「これは?」
私が聞くとその鑑識員は顔を歪めた。
「ここの教団の神様ですよ。入り口近くの売店で胡散臭いグッズが売られていたでしょう……
「翡翠……」
3
「やぁ! でかい図体のキャリア警視総監君」
唐突に後ろから声をかけられた。懐かしい声だ。私が振り返り見下げると、ベージュ色のトレンチコートを羽織り、下はパンツスーツという出で立ちのショートボブの女性がいた。今回の事件における、警察組織での死体第一発見者。彼女が施設内に案内されていた、まさにその時に事件が発生したのだ。
「久しぶりだな、
我々の仲間内では彼女は伝説の一つになっていた。その昔は一応にも日本の最高学府などと謳われた、東京大学法学部を卒業したのに、キャリア組には走らず、ノンキャリアの県警一巡査として刑事生活をスタートさせようとしたのだ。本人に理由を聞くと、小説の中の刑事に憧れただけという解答が返ってきた。だが、親が許さなかったのか、あるいは国が彼女の才能を欲したのか、二十八という若さで警視庁の隠密、警視庁公安部に配属されている。あと可愛い。結婚したい。
「まだ、ビートたけしとかいう刑事に憧れてるのか?」
「
「わかったわかった、それでどうだ? 小説の中の憧れの一匹狼になれたのか?」
「わかってるくせに……よく言うよ。小説と現実は全然違うのよ。一人で単独捜査も出来ない、靴底すり減らして北海道に出張も出来なけりゃ、ドでかい物理トリックを快刀乱麻に解くこともできない。あぁぁ! そもそも、そんな事件に遭遇しないんだよ」
大牙はフフと笑うと、「ところで、サイカツ君」と聞いてきた。警視総監の皮肉から、大学時代に彼女が私を呼んでいたあだ名に変わっている。
「うちの課長が怒鳴り散らしてたよ。初動が済んだら、さっさとこっちにも現場を
初動捜査のうちは、いくら隠密部隊といえども、現場保存だけに勤めている……が、こいつの事だ。
「忍び込んだだろう?」
彼女はギクリとして、一言。
「何故バレたの!?」
所轄の刑事たちに紛れ込んで現場を一度見ているらしい。
「やっぱりか……。現場の物に手をつけていないとはいえ、隠密の公安警察が所轄に紛れるなんぞ、目をつけられたら事だぞ。しかもお前は事件当時現場にいた関係者だ。ただでさえ、軋轢があるというのに……」
「その時はよろしく頼むよ、警視正様。尻拭いしてよ」
「お前な……」
「それで、サイカツ君。君の見聞だとどうなの? この現場」
声が一瞬だけ低くなった。大牙は私の顔を凝視していた。鋭い眼光が一層光をおび、まさに事件という巨大な龍に牙を向く虎のようになっている。
「一見しただけでわかった。現場自体が不可解すぎる。翡翠という凶器もそうだが、マル害は肺ガンを患っていたそうじゃないか。こういってしまえばなんだが、あと数ヶ月も、いやひょっとしたら一ヶ月も持たなかったのかもしれないんだ。何故、
「マル害に
「その皮肉、今日だけで二度目だ」
「でも、
大牙はまたひと笑いすると、目を細くした。
「おかしな点はまだあるよ。あの現場に入った時、マル害が寝ていたベッドの後ろ。二メートルちょっとくらいの高さのところに変なもの、見なかった?」
「あの目立つ巨大な機械のことだろう。肺ガン患者のための呼吸器か何かじゃないのか? チューブがマル害の鼻まで伸びてた」
「ビンゴッ! いい、よく聞いて。あのチューブを引っこ抜く、あるいは呼吸器を壊せば簡単に殺せるはずのものを、なんで犯人は見す見す見逃したと思う? そう、その翡翠で頭をメッタ打ち。なんであんな凶器にならないものを凶器にしたんだろうね」
大牙は鋭い事をいう。現場に足を運ぶだけでは分からない、その事件の構図を俯瞰し、推測を交えつつも、ほかの刑事には出来ない盲点をついてくる。これも経験とヨシキ某の影響かもしれない。頭が良く、いい女だ。結婚したいな。
「そうだな。どうせ俺は捜査会議の管理官補佐を任されている。そこのところも色々突っ込んで見る。ただでさえ難しい宗教関連の事件、それも世間ではカルト教団なんて噂されている新興宗教だ。何が動機になっているかわからん。宗教施設のほうは、お前らに任せる。どうせ出張ってくるんだろう? 二課もマークしていたそうじゃないか」
「ねずみ講……詐欺罪の疑いがあったというからね」
「二課からはこちらから情報交換を持ちかけて見るが……お前らはどうなんだ?」
「それはまぁ、隠密ということで」
大牙はニコリと笑い、顔を伏せた。大学時代、私は彼女に告白し少しだけ付き合っていた。だが最後は玉砕したのだ。あの時の印象が今と重なる。
「わかった。今更公安に何を言っても無駄かもしれんがな。出来るだけ情報はほしい。ただ……」
私は大牙を見据える。
「教祖からして、一筋縄ではいかん人物のようだ。それは今まで調べ上げていたお前らが一番良く分かっているだろう。無理は……するなよ」
「なにそれ? 心配してくれているの?」
ブフォッと大牙が吹き出す。
「心配じゃない。あくまで仕事さ」
「ふぅん、ありがと! じゃぁ、初動では分からない、今まで私たちが調べ上げた資料コピーだけ渡しておくよ。事件の中にいた被疑者たちのプロフィールみたいなもんだけどさ。みんなには内緒だよ」
大牙はそういうと、大きな封筒を渡してきた。やはり結婚したい……。
4
新興宗教というものは集団心理学と大脳生理学の応用に過ぎない、などと考えていたが、その想像は間違っていなかった。再び祭壇がある間。信者内では翡翠の間と呼ばれているらしいが、今この場所にいる人間たちのファッションセンスは頭がおかしいとしか言いようが無い。エメラルドグリーンを白で薄めたようなローブをまとい、服の下に鈴が付いている。事件の渦中、教団施設内にいた人間は被害者である前園裕貴と大牙を除けば、五人。
目の前にいるのは被害者の息子であり、『緑石の会』の教祖でもある前園英二。実に濃い顔付きだ。私も身長百九十以上の巨人といわれるが、この男も百八十センチ後半はあるだろうか。ガタイが良いのはローブの上からでも分かる。首には加工した翡翠のネックレスをつけており、腰に鈴を巻いている。
「やぁ、大きな方だ。貴方が警察の代表ですか?」
「えぇ、まぁ近いところです。今回捜査陣、指揮の補佐を担当させていただきます。本庁警視正の催川です」
わざわざ手帳を見せるまでも無いだろう。私は名刺を渡した。
「ほう、これはこれは。警視庁の方でしたか。いや、朝からこの状況でね、大変でした」
父親が殺されたというのに、妙に落ち着いている。それどころかニヤついているのが癪に障る。だがこの男がほかの信者たち四人を牽制しているのは、今、この状況の中では助かっている。四人といっても、信者に暴動やパニックを起こされると捜査がやりにくくなる。マスコミが施設の外を取り囲んでいる今では尚更だ。
「教祖様、神聖な場に外の者たちを入れてよろしいのですか?」
初老の男が声を掛けてきた。
「大丈夫ですよ浦和さん。この様な事態になってしまった以上、仕方ありますまい」
「あたしはねぇ、どうもイケすかんのですが」
「僕も浦和さんの意見に賛成ですよ。正直、外の者が最近教団内部に入りすぎてる気がするなぁ。さっきも公安の人が何か調べにきていたしさぁ……」
浦和の後ろにいた、小太りの若者がニヤニヤとした顔つきで登場した。ロン毛で、オチョボ口。一昔前のサブカルチャーオタクのような男だ。顔が正面から見ると「風」という漢字の形に似ている。この男が
「アレ? さっきまでいた名前的に、
大牙のことか? というより釘宮理恵って誰だ? どうやらこの男は007《ダブルオーセブン》もジェームズ・ボンドも知らない世代らしい。公安で田中大牙なんていう名前なのだから、普通はそちらの方を連想すると思うが……。
「ねぇねぇ、そう思わない? 出ておいでよ、
川口が声をかけたほうを見ると、祭壇横の柱に隠れながら、清楚な容姿の小柄な少女がこちらを見ていた。教祖の英二を含め、今までの三人とは違いセーラー服を着ている。黒い髪の毛が腰辺りまである。一瞬、私の体の半分ほどの身長しか無いかと思えたが、そんなことは無いだろう。目が怯えており、透き通った白い肌の色がより一層青白くなっている。
「こ、この様な場合ですから仕方がありません。教祖様もそう仰っておりますし、私は教祖様のお父様が、亡くなられたという事が……」
今にも消え入りそうな声でそっと呟いている。
「妃さん、警察の方々がすぐに犯人を捕まえてくれるので大丈夫ですよ。今は彼らの行動を信じるのです。そう、信じる心が大切です」
教祖である英二がやさしい声で語りかけた。彼女はコクリと首を下げただけだった。
しかし、被疑者一同を一気に出すとは、それこそ大牙が好きな推理小説のようだ。私が小説の登場人物で、読者が私の一人称を読んでいるとしたらどうだろう? 私自身は恥ずかしいが、被疑者たちに関してはこう覚えてほしいと言うしかない。前園英二=ソース顔。浦和哲也=中年iPod。川口透=「風」形デブ。妃法子=幸薄セーラー服と。
「まぁ、教祖様がそう仰るなら、あたしは何も口を挟む権利は無いので……」
中年iPodは渋々といった表情でため息をついた。デコには汗が浮かんでいる。きちんとデコの画面の汚れを取れ。フリック入力しにくいだろうが。
「こちらも仕事ですので。皆様の邪魔は致しませんよ」
あえて、自分の大きな体を二人に押しやった。浦和と川口は「おぉぅ」という声を上げ、一瞬引きつった後、「ま、まぁ、教団側にあまり迷惑がかかることをしないという条件でお願いしますよ」と言った。
浦和の意見に川口もコクコクと頷いている。だが、大牙の資料や所轄の刑事の意見だと、事件当時、施設内には英二を含め五人の関係者がいたという。こんなユニークな人物がもう一人いるわけだ。
5
「あら? 事件のときにいた女刑事さんじゃない。貴方も容疑を掛けられているんでしょ? なのに捜査に参加してるのね」
一通りの捜査が終わった大牙と共にたずねた、ユニークな人物最後の一人。
「
「いいわよ、それにしても貴方、大きい刑事さんね」
「警視庁の催川と申します。ちなみに身長は百九十六センチです」
別に答える義理は無いが、一応相手に合わしておく。
「あらあら。でも、そういう人間に限って下の方は……いいえ、なんでもない。あと、私を教団の人間と思わない方がいいわよ。秘書の仕事はあくまで副業で本業は芸術家なの。メソアメリカ文明、特にマヤ文明の古代彫刻をパソコンで現代風にして蘇らすのが趣味なんだ」
「パソコンでというとCGなどですか?」
「CGか……3Dもやるけど、どちらかというと壁画にあえてワイヤーフレームをひいて、形そのものの美しさを見てもらうのがテーマかな。古代文明と現代科学の融合、それが私が目指すところなの。壁画っていうと、エジプトなんかが有名だけどさ、マヤの壁画もすごいし、結構面白いのが多いのよ。覇者ティカルとか、チャクモールの像なんかは……」
「あ、すみません。えーと、その芸術と『緑石の会』とどう関係があるのでしょう?」
大牙が芸術関係の話を断ち切った。そう、それで正解。私も現代アートマニアに薀蓄を垂れ流されるのは辛い。
「あら、話が脱線しちゃったわね。そうね、さっき言ったマヤ文明。そのお勉強をするために入信しているだけよ。簡単に言っちゃえばこの教団は研究材料。大体、宗教なんて信じていないわよ。事件が起こった日にもあったじゃない、翡翠の間の祭壇に飾ってある大きな翡翠。あんなものを本気で神様って思ってる連中よ? 個人秘書になっているのだって、あの教祖様が気に入ったからじゃないの? じゃなかったら、私なんてすぐに悪い因子として取り除かれてるわ」
まるで、新興宗教の信教と支配のシステムそのものに興味があるといった発言だった。捜査会議が思いやられる。
6
以下、その夜、埼玉県警で開かれた捜査会議で分かった事を報告しておこう。『緑石の会』の施設には、入り口、屋上、出入り口に監視カメラが付いている。
外部犯の可能性については、地取りの結果がものを言った。大宮駅東口は昼時でごった返していたらしいが、聞き込みの結果、怪しい人間の目撃情報は無し。人ごみに紛れ込み逃げたという可能性もあるが、監視カメラの映像、そしてあの現場を見ていれば可能性はゼロ。つまり施設全体が完全な密室状態、大牙を含め六人の人間の中の誰かが犯人という事になるのだ。
凶器は先述の通り、被害者の部屋に置かれていた、翡翠。厚みはないが、力のかかり具合から、被害者はベッドの左横から何度も頭を叩きつけられたと考えられる。撲殺……と言わせてもらうが、殴打傷は二十四箇所。
生活反応も見られたため生きたまま殺害されたと見るべきだ。血があれほど出ていたのに、ルミノール反応が容疑者の誰からも出なかったという点も不可能性を高めていた。もちろんと語るべきか、凶器の翡翠には指紋が付いていなかった。この点から捜査本部は計画的犯行の線で捜査を進めている。
つづいて被害者である前園裕貴の印象。病気になる前、周囲の印象は真面目で率直な人物という意見である一方、アルコールとニコチンに溺れ、一部の周囲に迷惑をかけていたという証言もあった。
二人目の息子の宗教思想に対しても何も口を挟まなかったらしい。親子関係が冷め切っていたという噂も出てきた。
被疑者たちの動きはどうだろうか? まずアリバイ。これは大牙を含め、全員に無いに等しいといってよかった。犯行時刻は大牙を案内した英二が父の死体を発見する前、一時間前後。
浦和は事務室にて事務作業をやり、法子と川口は同じく一階にある二つの客間の掃除をしていた。廊下の奥にある「白の間」を法子が、手前にある「緑の間」に川口という構図だ。
英二は大牙を翡翠の間に待たせたあと、教団内部の情報を記述した書類を纏めるため二階の書類室――事件現場から向かって右隣の部屋――にいた。
残る一人、朝戸邑里は刑事が来たということで、喜び勇んで、内部情報を暴露してやろうと企んでいたらしい。秘書室――事件現場から向かって左隣の部屋――にいたと証言している。英二や浦和が聞くと絶句することかもしれないが、あの変わり者の女性らしいと私は想像した。
次に凶器となった翡翠。この教団の宝ともいえる、神様だが、いつもの
だが、これで全員に殺害の機会が与えられていたことになる。公安の刑事が単独行動により容疑者の一人になっているのが、本庁に良い印象を与えていないのか、大牙は会議室の横で、カマキリのような顔の刑事に叱られていた。おそらく公安部の連中だろう。
7
翌日、再び『緑石の会』の事務室。大宮署まで来るのを嫌がった信者たちのため、急遽ここが取り調べ室となっている。目の前には教祖の濃い顔がある。日本は無宗教と言いながらも輪廻天性の概念や天国の概念がある。だがそれを心底から信じている人間はどれだけいるのか?
「多くの人はね、知識として話すだけなのですよ」
こちらの心を見透かさしたように、英二が声をかけてきた。横にいた大牙が返答する。
「え? でも信じている人もいませんか? 日本人って曖昧なだけになんかあるんだろーなーってだけ考えてる人が多いような気もしますよ」
「縁起を担ぐことと、信仰することは別次元の行為ですよ。やってみたらもしかしたら……という心理です」
「でも、縁起を担ごう、と思う時点で広義の信仰じゃないのでは?」
「女性刑事のお方は手厳しいですね。そもそも私自身は、縁起というものを信じてないですし、そうしようとは思わないですよ。ただ、信者たちの心が豊かになれば良い。それが私の信教です」
その結果が、寝ていても金が入るという事をうたい文句にする詐欺では話にならない。金で幸福が買えるなら、この国の人間は全員が金を払うのではないだろうか?
「現代日本人には切実さがないのです。追い込まれた人間しか神仏にすがりません。一般的な人間はせいぜい受験だとかのために神社に願掛けをしに行き、意味もわからず葬式を開き、ひどい場合は寺社の区別もつかず、自身の宗教がないことを無神論だと嘯く。どこに信仰がありますか? どうです、警視正さんは?」
英二はまだ続けているが、当の本人が日本人であることを理解しているのだろうか。仕方なしに答える。
「私は、例えば先程あげられていた縁起のような場合によっては無自覚に持っている思想を広義の信仰、自覚的に神を求めたりそれと自らの存在との関係について見出そうとしたりするなどの行為及び思想を狭義の信仰と捉えていますかね。まぁ、そいつも人から見れば無自覚かもしれませんが……。ですから、そういう意味でしたら、日本人の多くは狭義の信仰を持ち合わせているとは言い難いというのには同意ですよ」
「信仰とは神仏を信じ、その教えを
馬鹿な教団かと思ってはいたが、筋の通った宗教観はあるようだ。少なくともこの教祖に関しては。正しい宗教かどうかを判別する確実な手法は無い。プラシーボ効果も疑似科学も自己暗示を信じれば、それが人間の信教となってしまうのかも知れない。
「では、我々の教団の集会を見学していかれませんか?」
「はぁ? ちょっと待ってください。貴方方は今重要参考人として、ここに集められているのをお分かりですよね? 昨日の今日ですよ。まだ外出の許可もこちらは禁止している。なのに、集会など……」
私は憤慨した。
「しかし集会は月に一度、必ず
「あぁ、いや、もう結構。わかりました」
ここで、妙な薀蓄を垂れ流されても困る。ようするに英二は今日中に教団の集会を行いたいのだ。会議主任と連絡を取ると、施設内にいる信者たちの間だけでなら良いという条件付きで許可をもらえた。公安も持ち合わせているこの案件、あまり拒否ばかりしていると、重要な情報が聞き逃すという考えもあるのだろう。
8
どこかで
軽快な音楽が流れ始めた。ヘルマン・ネッケの『クシコス・ポスト』だ。小さいころ、運動会のリレーでよくかかっていた曲だ。メロディに合わせ教祖と信者たちが登場した。登場するなり、一人の教祖と四人の信者たちが奇怪な動きをし始めた。踊りでは無い。動きだ。腕を前に出し、ヒラヒラさせる姿は、汚い回遊魚そのものである。同時に歌を口ずさみ始めた。
翡翠~翡翠~ひーすーいっ♪ 翡翠の色は緑色♪
ど~んな翡翠も お茶より緑♪ みんなで入信 緑石に~♪
貴方の心の気が晴れる♪ 詐欺じゃないよー♪ 法律的には問題ないよー♪
ねずみ講じゃないよー♪ ねずみ小僧でもないよー♪
さぁさぁさぁさぁさぁさぁ♪ 人柱になって入信だ♪
名前を出せば惹ーかーれーる♪
なんと
(間奏)
まだ終わらないのか……。相変わらず目の前のステージでは地獄の
もう一人、中年の浦和が舞う姿は、見ているだけで目に毒だ。乾き物を極限まで乾かすとここまで干からびたものになるというのを地でいっている。腕を頂点まで伸ばし、人間には出来ないような奇妙な踊りをつづける。オランウータンに無理やり酒を飲ますと、このような動きが出来そうだ。音楽が終わった。百鬼夜行が終了し、私はため息をついた。
「フゥ……」
翡翠~翡翠~ひーすーいっ♪
二番があるのかよ!
翡翠の色は緑色♪
この、緑色押しは一体何を意味しているんだ?
小さな翡翠も お茶より緑♪
何故比較対象が緑茶なんだよ!
あなたも入信 緑石に♪ ストーンパワーで湧き上る♪
石だ♪ 純一~♪
ただの駄洒落じゃないか、馬鹿野郎!
幸運の石が20%引きで買える♪
歌の中で宣伝をしているんじゃない!
今ならお得~♪ 祭壇つけて更に得♪
明らかに詐欺だろう!
神への供物として人身御供になって~♪
だから、信者を人身御供と言うな!
イエーーースッ!♪
ノーーーッ!
地獄絵図が終わった……。酷いものを見てしまった。大牙の方を見ると、「ふぅん……いい曲ね」と呟いた。
ここにも馬鹿がいた。
9
「酷いものを見せられたな……」
何故、事件現場でこの様なことを許してしまったのか。私も教祖である英二の宗教談話に取り憑かれていたのかもしれない。後で責任を取らされるだろう。そんな自分に腹が立つ。不可解な事件に不可解な宗教集団……。
「こんな時、こんな馬鹿らしい現場で起こった、こんな馬鹿らしい事件に最適な人間が一人だけいる……」
大牙に対し、私はある人物の顔を思い出しながら呟いた。
「え?」
「いや、そいつは所謂、警察機関の人間では無い。俺の知り合いの民間人だよ。ただ、今回のような尋常では無い事件には鼻が効く奴でな。もし、非公式の極秘捜査という形を取るなら……」
悩みつつ後を続ける。
「協力はしてもらえると思う。一応、俺の権限でそいつが例え事件を解決できなかったとしても……何とかもみ消せるだろう」
本当はこんなことをしたくなかった。結局警察内部の軋轢を生む原因を作っているのは私自身じゃないか。大牙も悩みつつ考えている。
「うーん、それなら安心していいんじゃないかな? 公安当局も許すと思う。さっき、知り合いって言ったけど、警察に協力する民間業者向け団体さんか何か?」
「いや……そのな……団体では無いんだ。業界に巣食う
「まさかマスコミ関係者じゃないよね?」
「違う、なんというかな……本人は、その……」
私はその単語をいっていいのかどうか迷う。一瞬口籠もる。
「名探偵を自称しているんだ」
「え?」
「だから、名探偵だ、名探偵。お前の方が詳しいんじゃないのか? ほら、よく小説やドラマにあるだろう。シャーロック・ホームズや、
言いながら恥ずかしくなってきた。しかし大牙は意外な顔をした。子供のときから憧れていたアイドルに会ったファンのような顔をしている。
「名探偵! いいね! すごいじゃんサイカツ君。名探偵と知り合いなんて」
「知り合いというより高校の同級生なんだけどな」
十年一昔と言うが、遠い過去の記憶だ。私がまだ高知の地方都市である、商業高校に通っていた時代、私の友人には二人の頭のおかしな男たちがいた。
一人が先ほどの自称名探偵。名を
だが、同じ年、もう一人だけ東大に合格した男がいた。それが天水であった。自画自賛では無いが、地方の商業高から東大に現役合格した人間がいるというだけでもすごいのに、そんな人間が二人いるとなると、町、否、市を挙げての大騒動であった。市長が直々に墨で書いた『祝・東京大学合格者二名輩出』という垂れ幕が校舎にぶら下がり、我々二名は発表合格後以降、学内、学外問わず注目の的であったのだ。どこからかぎ付けたのか地方新聞まで来た時はさすがに仰天したが……。
しかしこの後、天水の行動は、これまた市全体を巻き込む大騒動につながった。なんと奴は東大合格を蹴ったのだ。一浪し、地方の大学で記号論理学を学びたいと言い始めた。もちろん地方の大学といえども、偏差値ランキングでは上位にくるランクだったが、さすがに知名度の問題もあり校長や市長も慌てたのか、私をも巻き込み、天水の家に押しかけ何とか説得しようとしていた。
その時の天水のわけの分からない返答は今でも伝説になっている。
「市長に校長先生……。僕は、いくら名探偵と言えども、
この時の市長たちのアングリとした顔は忘れられない。変人であり、天才。そんな男だった。
話ついでに、もう一人の変人のことも語ろう。彼の名は
何故この二人のことを思い出したというと、高校時代、私がある事件に巻き込まれ容疑者にされた時に、それぞれがそれぞれの方法で助けてもらった恩がある……とだけいっておこう。小説風にいうならば、それはまた別のお話というやつだ。
天水周一郎の話に戻そう。そんな高校時代以来、ほとんど音信不通だったが、最近ついに故郷で事務所を構えたらしい。数ヶ月前に久々に連絡が来た。封筒の中には名刺が一枚だけ入っていた。どこかおかしなもので、私立探偵事務所などではなく、何故か『
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「なるほど、殺人状況が必要では無い状況下での殺人事件というわけか。実に興味深い」
事件は長引かせないほうが良い。長引けば長引くほど手がかりは失われていく。私はその日、名刺に書いてあった電話番号から、早速、天水に連絡をとってみた。携帯電話の向こうから聞こえる声は、間違いなく天水の声だった。堅苦しい喋り方は学生時代から変わっていない。
「あぁ、前例は無い。だから捜査本部や、当の教団側も戸惑っているんだ」
「前例はあるさ。死刑囚が死刑直前に毒殺された例もあれば、……宗教関連で言うならば、そうだな、ビルの地下室でまもなく拳銃で処刑される異端者が、これまた毒殺された例もある」
「馬鹿な!」
そのような異常な事件が起きていれば警視庁のデータベースに記録されているはずだ。
「あとは、寒村で末期のガン患者が次々に殺されていく話もあったな。もっともあちらは本格ミステリというより警察小説よりだったがね」
そこまで聞き、この男が口にしている『例題』とは全て虚構の物語の中の出来事だと分かった。しかし、ものは試しだ。この事件に少しでも光が差すならば聞かなければならないことがある。
「それら探偵小説の中で、今回の事件と似通っている動機はあるのか?」
「探偵小説では無い、本格ミステリだ」
いちいちうるさい。
「僕の感想としては思いつかないね。先ほど挙げたものは全て特殊状況下で起こった事例だろう。今、君たちが遭遇している事件も特殊といえば特殊だが、前例には当てはまらないよ。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「凶器が気になる」
「翡翠か?」
「あぁ。たとえ後一ヶ月で死ぬ人間を殺す状況になっても、これが計画的犯罪だとすると、常人ならまず間違いなく被害者の延命装置を壊すか外すかするだろう。何故、わざわざ殺しにくい翡翠という凶器で殺したのか。しかもご丁寧に指紋は残していないときている。ルミノール反応も意味が無かったんだろう?」
「そこは会議でも上がった議題だな。犯人は出入り口の監視カメラに映っていないとしたら、まず間違いなく『緑石の会』の連中だ。信教の塊と言った馬鹿なカルトだぞ。どんな動機が隠されているかわからん」
「大分、深刻なようだな。だが、迷うことはあるまい。フレーゲ曰く深刻なものは
「起承転結で終わらせられないから困っているんだ。いいから今すぐこっちにきてくれ。交通費などは
「君はまだ勘違いしているな。名探偵とは探偵のヴァージョン・アップ版ではなく、別ソフトだという事だ」
「悪かった、
「よろしい」
馬鹿なやり取りだと思ったが、なんと天水はその数時間後に大宮駅の東口に立っていた。十一月、最初の日の夜、秋風が冷たく、ほぼ日が傾いた中、都内から帰宅する大勢の客の中でも一際目立っていた。
「早すぎるだろ!」
ギリシア彫刻風の顔付きの癖に、目だけは子供じみている。身長は私から見れば低いだろうが、百八十センチジャストは世間一般から見ると高いほうであろう。白い縦縞模様のYシャツに黒いネクタイと黒いベスト。その上に黒いコートを一枚だけ羽織っている。楽団の指揮者のような出で立ちだが、手に持っているのは指揮棒ではなく、ハイライトが一本と携帯用灰皿だった。
「実を言うと、奥多摩の寒村にある旧家で起こった首切り事件を頼まれていてね。先ほど解決してきたところだ」
「なんだ? 同じ県内にいたのか……」
「同じ県内だが、同じ県とは思えなかったよ。なにかね、あの山奥の村は。僕の事務所がある高知の田舎よりも酷い。本気でヒバロ族の末裔が住み着いて、人の首を切りまわっているのかと想像したぜ」
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「名……探偵?」
さすがの『緑石の会』教祖もこれには面食らったらしい。突然目の前に自称名探偵が現れ名刺を渡された。名刺の肩書きは『本格論理研究所 名探偵』などと書かれている。そんなもの誰だって驚くだろう。
正直な話、天水には、あくまで警察の人間として振舞ってほしかった。刑事の肩書きを利用するわけではないが、そちらのほうが捜査も聞き込みもやり易いからだ。
だが、天水は翡翠の間で、英二に会うなり、名刺を渡し、自分が警察機関の人間では無いこと、名探偵などという
「あの推理小説家の
その様な力説をされ英二はポカンとしていた。大牙もホォーという顔で天水のほうを見ている。なんだか悔しい。あと、大牙と結婚したい。
「さて、今回、僕はあくまで一般市民として捜査に参加させていただきます。そこにいる催川警視正と、田中刑事が許してくれました。もっともよく聞きたいのは翡翠のことです。そして、貴方方、信教者の方々が常々口にしている、来年の一月初めに起こる皆既日食のこともです」
そういえば、来年元旦に皆既日食が起こり、マヤ文明がどうのや、翡翠のストーンパワーが最大限に高まるだの馬鹿げたことを聞いていたことを私は思い出した。
春に東日本全域で巨大な大地震が起こったというのに、同じ自然現象の皆既日食一つで騒ぐとは、色々な意味でお気楽な日本人の人間性といっても良い。自分もその中の一人であるのは、案外幸せなことなのかもしれないが、これが宗教集団となると意味合いが突然変わってくる。ミクロとマクロの違いだろうか? そんな考えをしていると、英二が口を開いた。
「古代マヤでは太陽が東から生まれ、天上界の十三界を通り西に沈んだと伝えられております。即ち東は誕生と生命の歓喜を表す赤、西は沈没後の暗闇と死を表す青と捉えられていたのです。ですが我が『緑石の会』では寧ろ太陽が隠れる皆既日食の日こそ、翡翠様のストーンパワーが我々人類を守ってくれるのではないかと信じているのです」
来年の元旦、ちょうどその時だ。
「なるほど。太陽の光が届かないその日こそ、翡翠の力がもっとも効力を増すのだと。逆説的な理由ですね」
「あら? 新しい方がいるじゃないの」
唐突に会話に入ってきた女性。朝戸邑里だ。天水はサッと彼女の前に出ると、例の名刺を渡した。だから空気よめ、と叫びそうになったが、邑里は興味深そうに天水をジロジロと見回していた。
「ふぅん、名探偵さんね。私も推理小説はよく読むよ。古典だと、カジタツ……あぁ、
前衛芸術家は私を指していった。かなりの記憶力の良さらしいが、大きなお世話だ。
「でもさ、私から言わせてもらえるならば、推理小説内……作中のお話ね。そこでの名探偵の立場って何だと思う? ただの収束装置の擬人化なんだよ」
「ふむ、名探偵に対し、なかなかユニークな定義をお持ちだ。僕の知人も名探偵は推理役、探偵役は収束役などという定義を持っていましたよ」
「面白いねぇ、アッハハ、面白いよ。名探偵さんもその知人君も。それで、貴方はどのような定義をお持ち?」
「僕ですか? 作中、唯一の不可知論者……とだけ定義しておきましょうかね」
「お二人の話は実に興味深い。一昔前の科学と宗教の論争を思い起こさせる」
変人二人の中にまた変人が入ってきた。大牙助けてくれ。あと結婚しよう。だが大牙はこの場にいなかった。また一人で実地検分だろうか。
「無神論者や不可知論者が百八十度方向転換をし、新興宗教の教祖となる例があります。わかりやすく言えば、科学者がオカルトなどに手を染め始めるなどです」
その話は聞いたことがあった。エジソンを皮肉った、ニコラ・テスラのことだ。彼は晩年、霊界との通信装置の開発に乗り出すなど研究にオカルト色が強まっていた。その発明品などもカルト団体や疑似科学方面から熱い注目を集めることがあった。科学者は疑うところから始める。テスラは疑う事に疲れ、信じるものを見つけたかったのではないかと私は考えたことがある。
そんなテスラが嫉妬していた相手、偉大なる電気オタク、トーマス・エジソンも例外では無い。来世というものを信じ、神智学とかいう謎の会合に出席したこともある。ただし彼の場合はテスラと違い、心そのものを科学しようとした節があるが……とここまでは、大学時代興味本位で調べただけのものだ。
「論理と科学の方が宗教よりも実績があるからですね。懐疑論者は誰よりも心の拠り所を求めているのかもしれない。疑う事を前提としているから、人の事まで疑ってしまうのでしょう」
「えぇ、ですから我々が必要なのですよ」
天水と英二の会話を邑里がニヤニヤしながら聞いている。私もいつの間にか、真剣に聞き入っていた。信教と懐疑。相対する二つの心理は、どちらか一つから何かが欠けると、もう一つの心理に行き着くのかもしれない。人を見たら泥棒と思えなどという
「霊界ですか……。テスラやエジソンや
私が口を挟むと、三人が三人ともこちらを見た。なんだ? おかしなことを言っただろうか? 丹波哲郎なめんな! ジェームズ・ボンドとも風呂に入ったことがあるんだぞ。
一度、英二と邑里から別れ、客室の『緑の間』に入った。薄緑色の壁に、濃い緑色の家具たち。確か事件当時、川口が掃除していたのがこの部屋だ。現場は当時のまま保存されており、床には酸性の掃除洗剤が転がっていた。川口がいかに慌てていたかがわかる。英二の叫び声を聞き、「プヒィピヒィ」と飛び跳ねたのではないだろうか? そこで天水が唐突に口を開いた。
「催川君、疑うために信じるのが宗教であり、信じるために疑うのが警察。では疑うために疑っているのは何者だろうか?」
「わからん」
「それが名探偵なのだよ。それはそうと、朝戸邑里……なかなか頭の良い女性ではないかね。いや、頭を良く見せていると言った方がいいかな」
「おっと、お前にもとうとう春が巡ってきたか?」
私がからかうと、「僕には十二歳年下の
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エラリー・クイーン、クリスチアナ・ブランド、ジョン・ロード、キリシャタクミ……後部座席ではわけの分からない単語を喋る二人がいる。天水と大牙は同じ趣味を持つもの同士か、すっかり意気投合していた。『緑石の会』施設から私のマンションに向かっている。所轄の刑事からキャリアへの愚痴を聞かされるのは嫌なので今回はタクシーにした。
池袋の自宅までこのミステリ談義を聞かされるのか。後ろでは後期クイーン問題がどうのと五月蝿い。後期クイーン問題ってなんだ? Queen《クイーン》のアルバムで、どこから後期とする問題などだろうか? 『ジャズ』などは一九七八年なので後期という人間もいれば、八十年最初の『ザ・ゲーム』を後期と捉える人間もいる。いや、もしくはフレディ・マーキュリーの両性愛者問題かもしれない。ジョン・ロードの話題も出ているが、ディープ・パープルは確かに最高だ。『Sarabande』が個人的に好みだが、グレン・ヒューズのギターテクニックに憧れていたのは内緒にしておく。キリシャとかいうのもどこかのアマチュアプログレッシブ・ロックバンドにありそうな名前だ。
うーむ、やはりロックは世界共通の音楽なのか。このようなミステリオタクの人間も話題にしているとは嬉しい限りである。
そうこうしているうちに池袋についた。外はすっかり暗くなり、小雨まで降っていた。秋も後半戦、十一月初めではすっかり肌寒い。繁華街からほど遠い、私のマンションは不気味な影を作っていた。早く、酒でも飲もう。
「だからさ、まずは動機なんだよ」
私の部屋に入るなり、大牙はそう宣言した。私はノンアルコールビールと焼酎を混ぜ、簡易ホッピーを作ると、大牙と自分の前に置いた。天水は酒は飲まないので、インスタントコーヒーを入れた。タバコを吸って良いかと聞いてきたので、許可するとハイライトを胸ポケットから一本取り出し加える。フゥーっと一息煙を吐いてから切り出してきた。
「動機動機と言うが、大牙君、君は犯人の動機から考えるのかね?」
天水の大牙に対する呼称が、田中さんから大牙君になっている。胸糞悪い。あと、大牙と結婚したい。
「いえ……それはまだですけど。天水さんは何か考えられているのですか?」
「ちょっと待てよ。動機動機というが、人間の心なんてわからんぜ。それを特定しようという方が間違ってる」
そう言うと天水は、「例えば、被害者を殺すことにより好きな人間に会うことが出来る。ただ会えるだけだ。そのために殺した。どうかね?」と答えてきた。
「馬鹿な! 狂っている」
「狂ってはいないだろう。
大牙もうんうんと頷いている……。この男のいう現代の
「今回は、殺人状況の必要の無い場合での殺人……つまり犯人は何故、あと一ヶ月以内で死ぬ人間を殺したかという問題だ。一種の特殊犯罪だが、ある程度の分類をしてみた。さて、講義といこうか」
そういうと、ゆっくりと煙を吐き、天水は鞄から何かの紙を取り出した。ハイライトを携帯灰皿の中に入れ消すと、今度はペンを取り出し、『殺人が必要無い状況下での殺人分類』と書いた。ややこしい。
「1、犯人側の事情というのは、被害者の属性というものが重要になってくる。そこで……」
1、犯人側の事情。
1-A-1、欲望。
「なんだこれ?」
「例えば犯人が、被害者に盲目的なまでの愛情を抱いていた場合。美しいまま死なせてやりたい。病気で苦しみボロボロになって死んでいく姿を見たくなかったというならば犯人側の事情になる」
「異常ですね……でも、今回の事件には当てはまりません。被害者の前園裕貴は言っちゃえば失礼ですけど、ヨボヨボのお爺ちゃんですよ。過去に何らかの事情で彼に恋をしていた女性がいたとしても、私も含め、息子の前園英二や男性陣の中にもいないと思いますよ。もっとも、妃法子と朝戸邑里の場合はわかりませんが」
「フム、良い返答だ。まぁ、もしあの五人の中に該当する人物がいたとしても可能性としては少ないだろう」
「断言していいのか?」
「あぁ、もし被害者を綺麗なまま殺したいなら翡翠で何発も頭を殴打なんて、僕だったら絶対しないぜ」
なるほど。ここでも凶器が問題となってくるわけか。私と大牙の表情から察したのか天水が再びペンを走らせる。
「よって次」
1-A-2道具。
「これは簡単なものだ。1-A-1と似ているが、犯人の動機対象が被害者自信ではなく、全く別の第三者である場合。例題を挙げると、先ほども述べたが、人物A氏に会いたい。だがA氏は音信不通である。だがA氏の親であるB氏を殺せば、そのニュースを聞きつけA氏が戻ってくる。ここまでくればもはや狂気かもしれないが、犯人側の
確かに今回の事件はセンセーショナルだった。世間ではカルト教団と呼ばれ、怪しい崇拝者の父が殺されたのだ。しかも不可解な状況で。マスコミには緘口令を出しているが、インターネット上ではどこかの馬鹿が流したのか、既に相当な情報が出回り
「それで、前園裕貴が殺され、信者以外で尋ねてきた、もしくは連絡などが入った人物は?」
「一人もいない」
「一人もいません」
私と大牙がほぼ同時に答えた。確かに大宮署、埼玉県警、警視庁に、教団に良い印象を持たなかった人間のイタズラ電話の類はたえないらしいが、その様な情報は皆無だ。
「被害者の属性が何らかの道具だった、というと考えられる可能性は無限にあるが、ホワイダニットは蓋然性の高い解釈しか出来ないのだ。よってこれは保留という事にしておく。次はこれだ」
1-B、凶器。
「犯人がその凶器で本当に被害者が死ぬのか確かめたかった場合のものだ。凶器が胡散臭いものだったとする」
「胡散臭いもの?」、と私が訪ねると、
「催川君、君は知識と身長だけはあるが、応用力が無いな。なんでも良いんだ。拳銃でも刃物でも毒物でもね。身も蓋も無い言い方になるが、被害者はどうせあと数日で死ぬので、殺しても大丈夫だろうという理由付けが成立するのではないかね? あくまで犯人の中だけだが」と返答してきた。少々カチンときたがあえて黙っておく。
「ただ、今回に例に限ると、この事例も無いな。凶器を思い出してみたまえ。翡翠だ。被害者の延命装置を壊すなどなら、まだ理解できるが、犯人はあえて翡翠での撲殺を選んでいる」
「また凶器がネックになっていますね。凶器になり得ないものを凶器にするという考えが……」
「大牙君は飲み込みが早い。まさにその通りだよ」
またイライラしてきたが、天水が何やら書き始めたので口を閉じた。大牙はさすがだ。あと可愛い。
2、被害者側の事情。
2-A、
「被害者が殺してくれと頼んだ場合、これ以上苦しみたくないと感じた時、あるいは他人に迷惑をかけたくは無いといった状況で、第三者に対し自分を殺してもらう。現実にも事例はある。ドクター・キリコ事件を持ち出してみなくても分かるだろう」
「ありえないです。あの……殺害方法なら……」
「あくまで例題の一つだよ。ちなみに逆に犯人が被害者に同情し、被害者の許可を取るまでも無く安楽死させた場合は1-A-1になるのだよ。単なる欲求の不満解消でしかあるまい。よって次」
2-B、自殺。
この可能性は私でも否定できる。
「まず、無いんだろう。推理オタクのお前ら二人以上に、刑事事件に関わっている俺でも分かるんだ」
「もちろんだとも。明らかに他殺だ。全てにおいてあの状況、あの凶器、あの現場が物語っている。さて、こちらの手札はまだいくつかあるが、君たちの意見はどうだね?」
こちらは八方が塞がっているのに、この男は何故ここまで
「私はやっぱり翡翠を凶器に使ったというところが引っかかるんです。信教的な何かじゃないかと。一番最初、私が一人暴走して乗り込んでいって第一に現場を見ているからいえる事なんですけど……。やっぱりあの人たちってどこか変な心理……っていうのかな。狂った論理を持っているんですよ。きちんとした宗教感を持っている前園英二や、後は予想ですけど……あのお金の事しか考えていなさそうな浦和って人は犯人じゃないと思いますし、そう言っちゃうと朝戸って秘書も違うかもしれませんけど……」
「催川君、彼女はなかなか良い観察眼を持っているではないかね。僕の助手にほしいくらいだ」
黙れこの逆ブサイク野郎。だが、川口と妃の共犯ならどうだろう。いや、駄目だ。私は、信者数人にしろ全員にしろ共犯という説に対しては否定論しか出せない。
彼、彼女らにはアリバイが無い。もし共犯なら、最低二人はアリバイを主張するはずだ。行き詰った。まるで袋小路に迷い込んだ気分だ。名探偵でもこの有様だ。私は内心、ざまぁみろと思っているのかもしれない。自分で自分が情けない。
「聖典だな……」
天水がそっと呟いた。大牙が身を乗り出す。
「聖典って……当時、翡翠の間にあったっていう教団の本ですか?」
「あぁ、それが鍵になっている。凶器の翡翠と同じようにね。明日にでもあの教祖様に頼んで見せてもらえないかね?」
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翌日。十一月二日。
「あの聖典は信者の皆様の中でも選ばれた方々にしか読ませていないのです。それを……」
チラリと大牙と天水を眺め、「公安の方や、ましてや一般人の方にまでお見せするというのは……」
「事件をいち早く解決する鍵なのです。僕の推測が正しければ、貴方の父上を殺害した殺人犯を特定できます」
天水が言い切ったことにより、仕方ないといった表情で、祭壇から古びた薄い本を持ってきた。表紙は元は薄い緑色だったのだろうが、今では日に焼けて少し茶色くなっている部分もある。我々三人は一ページ目を見た。
* *
『緑石の会、マヤ聖典』――第一章――。
翡翠と言えば、東洋、中南米では古くから人気が高い宝石であり、金以上に珍重されたものである。古くは
メキシコ南東部からグアテマラ、ベリーズに広がっていたマヤ文明は、メキシコ盆地の最大勢力であるアスカポツァルコであるが、太陽神と呼ばれた男、ヒド・ラン・ジアク二世をご存知であろうか。彼はアステカ文明の偉大なるパカル大王と並び称される征服者であったが、その死に様もまた壮絶だったといわれている。
メキシコ中央高原の新天地、カカシュトラの支配権を巡り当時の王であった、ゴッツ・アン・ムビ王の娘、アボ・ミミー・ザミン女王と駆け落ちし、モレーロス盆地の一角で共に死んだとされる。しかし、自身が死ぬ前、なんとアボ・ミミー・ザミン女王にゴッツ・アン・ムビ王の暗殺を命じたとされるのだ。文献には、これを自身が好意を持った女性に父を殺害させることで、自身の権力を誇示させたのではないかと記録されているが、果たしてそうだろうか?
ゴッツ・アン・ムビ王の死体は翡翠の
マヤの精神世界には「人間の行いが悪いと神は世界を滅ぼす」という言い伝えがあった。ここから、アステカ人は「太陽の不滅」を願い、生け贄を捧げてきた。
「太陽の不滅」とは、是即ち日食の事でもあり、また、死んだ恋人と太陽になり、あの世で不滅に結ばれるという伝説からである。また、インカでも、同種の太陽信仰に絡む人身御供を行う風習があったが翡翠を使っていた――。
* *
「おい……天水……」
「……天水さん」
私と大牙は同時に名探偵の名を呟いた。冷水を浴びせられたように、汗が出てくる。こんな動機が……有り得るだろうか? 胸中で呟く。
「どうやら、最後のピースが見つかったようだ」
「動機は……推測が付く。糞がつくほど、馬鹿げた理由だがな。だが、俺にはその先が分からん……」
「そこから先は僕の仕事だ」
「犯人が誰か分かったというのか?」
「あぁ、あとは簡単なプロセスをたどり、真相に到達するまでだ。もう一度、容疑者全員に聞き込みをする必要がある。その前に大牙君」
「は、はい?」
「君はこの聖典を見たのは今日が始めてだったね。ではほかの人物、即ち信者たちが聖典の存在を知っていたのはいつからだろうか?」
天水の質問に、多少躊躇しながら大牙が答える。私と同じように汗を流していた。
「教団の信者たちは――教祖も含め――全員内容を知っていたと思います」
「ふむ、良い答えだ。輪は閉じたよ。悪いが、翡翠の間に関係者全員を集めてくれないかね? 君たち二人もだ」
「いや、今ここで俺に話せよ。悪いがお前は民間人なんだ。公務として事件を散々引っ掻き回したんだ。後は俺がなんとかする。なんなら、ここに書記官を呼んで筆記させてやってもいい」
私の申し出を天水は信じられないという顔で聞いていた。
「君は何を言っているのかね? 僕は名探偵だぞ。最後は容疑者全員の前で事件の真相を公にするのが常識ではないか」
「どこの常識だよ。いいか、もう一度言うがお前は民間人なんだ。確かに捜査を依頼するのに、俺の特権をフル活用させてもらったが、あくまで一般人なんだ」
「君は僕を私立探偵の類か何かと勘違いしていないかね? もういい。だが、容疑者全員の前での解決をさせてもらえないなら、今までの名探費は上乗せで、倍にさせてもらうぞ」
「な、なんだと? 正気か?」
「あぁ、事実、僕は事件が密室だと密室費用を上乗せしている。見立てだと見立て費用だ。故に解決編では一間に全員集めやるのが礼儀であり、犯人指摘はそこでしか行わない。安楽椅子探偵の場合はシチュエーションにより上乗せ金額になる」
これほど馬鹿げた条件があるだろうか?
* *
【読者への挑戦状】
どれだけ古臭いと言われようと、フーダニットパズラーを愛憎する一推理小説読みとして、この挑戦状をここに挟んでおかなければなるまい。このページまでの記述において、前園裕貴を殺害した犯人を指摘するためのデータは全て出揃っている。そこで勇気を振り絞り例のあの言葉を書いておく。
<<私は読者へ挑戦する>>
外部犯の可能性は無く、殺人犯は、今まで登場した人物の中にいる。翡翠と聖典という二つの手がかり。そして異常な動機の上に存在する犯人を、論理の糸を辿り、読者諸君には指摘してもらいたい。
作者より。
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「さて、皆さん」
翡翠の間。容疑者一同が全員に集まった中、天水は張りのある声で聴衆の注意を惹きつけた。
「今回、これから僕が行う、ささやかな非公式尋問は文字通りの非公式なものであります。一民間人、否、名探偵である僕のした事は、本来なら違法捜査の範疇に入ることですが、警視庁の催川勝則警視正の委任に基づくため、責任は全て彼にあります」
チラリとこちらを見る天水。嫌味な男だ。
「この『緑石の会』で起きた奇妙な殺人。即ち、何故、長くは生存できない前園氏の命を奪ったのか? 何故、凶器に翡翠というものが選ばれたのか、そしてその殺人犯は誰なのか?」
自らが宣託を下す神にでもなったつもりでいるのだろうか? きっとそうだろう。この男は昔からずっとそうだった。論理の糸で束縛し、論理の刃を相手に突き付ける。捜査を担当している警察側の意図も気にしない。そう、これがこの男のやり方なのだ。一刑事としてみればこんなやっかいな人物はいない。
「またユニークな事に、事件全体が犯人の心理、即ち動機で支配されていたといっても過言ではありません。ここにいる方々はそのために容疑者となり、僕の前にいるのですから」
「おい、天水。小うるさい前置きはそのへんにしたらどうだ? 俺たちが知りたいのは前園氏を殺した犯人だけだ」思わず注意をしてしまう、が、彼は臆さず、
「
「わかっている、だが、できるだけコンパクトに……手短に頼む」
「それでは改めて……先程、そこにいるヒグマのような刑事が言った通り、手短にいきましょう。今回の事件において、監視カメラの有無、また現場が荒らされていないという観点から外部犯の線は除外されております。また、この異常な動機の面、状況から見て殺人発生時、現場にいた人物の中に犯人がいることは確定的であります」
彼の口振りに迷いは欠片も感じさせなかった。前園英二は動揺している。浦和哲也は胡散臭い目で天水を見ている。川口透はフゥフゥと息が荒くなっている。妃法子は震えている。朝戸邑里は……この前衛芸術家は、その冷たい目でじぃッと天水の方を見据えていた。私と大牙だけが早くしてくれという思っているに違いない。
天水はおもむろに語調を強め、「この事件においての不可解な点はいくつかありますが、一番は翡翠が凶器に使われた理由と、その動機、即ち犯人の心情の問題となります。しかし、所詮は深層心理であり、可能性としては無数に存在し得るものの、真相というものがロジックだけでは想定できえないという事です。主に蓋然性の高低がその指標であり、これ唯一の解答とは断言できないのが現状です。しかし、例えばこの『緑石の会』の内部においては、即ち何を信じているかというかが蓋然性の高いものとなり得るのではないでしょうか」
相変わらず、屁理屈の多いやつだ。私としては早く結論を述べてほしい。
「余命幾許も無い前園氏は何故殺害されなければならなかったのか? という問題は、殺人の必要無い状況下で発生した殺人、また犯人は何故凶器に翡翠というものを選んだのかという問いは逆に重要なファクターとなり得るのでは無いでしょうか」
「名探偵さん、前置きは良いから先に進んでよ」
邑里が天水を促した。私は彼女に賞賛を送った。頼むから、早く犯人を指摘してくれ。天水は一瞬だけムッとした顔をし、つづけた。
「わかりました。では今回の事件の被害者、前園氏の属性というものについて考えてみましょう。前園氏は最長で残り一ヶ月の命でした。犯人側の事情といえるでしょう。生きているうちに必ず殺さなければならなかった、という事であり、その殺人を実行するには、犯人にとって凶器は翡翠で無いと完遂しなかったということであります」
「……」
今、この場にいる被疑者、刑事全員の表情が青くなっている。生きているうちに殺さなければならなかった被害者の属性。その言葉を使うなと、暗に否定しているのかもしれない。そうだ、ここまで説明されると全員が理解したらしい。英二だけは自分の父が記号的に表されているのが気に入らないらしく、少し顔を歪めている。
「前園氏が殺された理由。そうです。文字通り、生け贄であります」
「なんですって!」
英二が天水を睨み、大声を上げた。
「あのですねぇ、探偵さん」
「名探偵です」
「……っ。名探偵さん。貴方は今まで微弱さがあったとはいえ、物証などを頼りに論理的に捜査や聞き込みをしてこられたではないですか。それが、そ、そんな……」
「おや? どうされましたか? 教祖様。僕の論証を信じる事ができませんか? 今まで信じる事だけを生きがいにしてきた貴方が? おせっかいな詭弁家の
天水がニヤニヤと笑いながら英二と対じした。信じる事だけを信じていた男が、疑う事だけを疑う男に真正面から睨みすえられ怯えている。
「翡翠を崇め、称えてきた『緑石の会』の教祖としても信じられないと? ほかの皆様も、教団理事、教祖の秘書、教団員の立場としてならどうでしょう? 生け贄という動機は、この奇怪な不可能犯罪を一気に解決出来る、実に蓋然性の高い犯人の心因的要素に想定されるのですが」
その場にいる全員が――黙っていた。前日に見た聖典の内容が思い浮かんだ。
「だからこそ、犯人は凶器に翡翠を使った、いや、使わざるを得なかったのです。被害者である前園裕貴氏の属性を生け贄と定めた。自身の欲望のために」
「欲望だと?」
ハァというため息をつき、天水は私を見てきた。その冷たい目で。
「あの聖典にも書いてあったでは無いかね。マヤのヒド・ラン・ジアク二世とアボ・ミミー・ザミン女王は、自身の父を翡翠で殺すことにより、皆既日食の日に二人は結ばれたと。つまりはそういう事さ。二ヵ月後、来年の一月一日に皆既日食が起こるんだろう。事件は一昨日十月三十一日に起こった。皆既日食まで残り約二ヶ月。前園氏に残された命は一ヶ月も無かったかもしれない。となると、生け贄の意味合いを察するに関し、生きているうちに殺害するのが先決になってくるのだよ。催川君、論理学に起き、最も初歩的な誤謬を教えてやろうか? 論理を日常的、現実的なものとみなすことだよ。今回の場合は犯人の心理の中にあった、ただそれだけだ」
諭され、声が出なかった。前園裕貴を殺した動機は、昨日の聖典を読んだときから、なんとなく察しがついていた。問題のその先が私には分からなかったのだ。
「つまりあの聖典を読むことが出来、内容を信じている人物は誰にでも犯人になりうるということであります。さて、ではここからが問題になってきます。まずはあの聖典を見ることが出来る手段を持った人物です。皆様は知っての通り、聖典は僕や催川君、大牙君は今日見たのが始めてであります。よってこの三名に含まれる大牙君は除外。では次、前園英二氏はどうでしょう?」
自分の名前を挙げられた教祖の顔は青ざめていた。
「結論から述べると、貴方は犯人ではありません。被害者が寝ている横の部屋で書類を纏めていたので機会はあります。ただ、条件がそれに伴っていない。動機面から察するのもそうですが、まず生け贄という前提から考えると、あの聖典に載っていたヒド・ラン・ジアク二世が貴方に見立てられるわけです。故に排除されます」
天水にそういわれると、彼は歯を噛み締めたまま下を向いていた。英二に惚れた人間が、自信の欲望を成就させるために彼の父を殺したのだ。心の中では犯人に対し、どのような感情を抱いているのか。
「さて、次です。浦和さん、貴方は僕が言うまでも無い。犯人ではありませんよ」
「何を……」と言おうとして浦和の言葉は詰まった。犯人では無いと確定されたのだからどうどうとしていれば良いくせに、浦和はエサをねだる鯉の様に口をパクパクとさせた。天水は哀れな目でその姿を見つつ、
「皆まで言わなくてよろしい。貴方がこの『緑石の会』に置いて、金銭目的のために広報までなったのは見越している。もっと具体的な証拠がほしければ貴方が翡翠の間の横にある事務室にいたという事実だ。翡翠の間には公安の田中刑事がいた。そこから階段を通り階段を上り被害者の部屋まで行くという冒険を普通はするでしょうか? 否、それは無い」
浦和は赤面していたが、すぐさま元の青い顔に戻った。額の汗を懸命に拭いている。
「では次、聖典を読んではいたが、前園氏を殺害しにいくとなると機会が無かった人物が一人います。そう、ここで除外されるのが妃法子さん、貴方だ」
天水に指摘された、妃のほうは一瞬だけビクリと体を揺らし、フルフルと震えていた。
「浦和氏と同じような理由です。翡翠の間に大牙刑事がいたため、前園氏殺害の容疑を免れたように、貴方もまたある人物がいたために殺しにいくことができなかったのですよ。事件当時貴方は一階の客間の掃除をしていたと証言をしております。その隣の客間、『緑の間』には川口氏がいた。そうですね」
「そ、それは僕が証言するぞ! 妃さんは確かに『白の間』の掃除をしていた」
「えぇ、分かっております。信者である浦和さんと、公安の田中刑事の場合とは違い、貴方たち二人は信者だ。警察の中には共犯者を疑う人間がいるかもしれませんが……」
天水がそういうと、川口は顔をブルブルと振った。この男は焦るとこのような癖が出るらしい。だがこれも却下できるだろう。
「その反証も有効性を持ち得ません。殺人動機が生け贄という土台がある以上、聖典に書いてあった伝説の見立てという点では、貴方がヒド・ラン・ジアク二世の役どころを演じられたのかもしれません……が、これはもっと物理的な側面で否定できる。アリバイですよ。共犯ならもっと強固なアリバイを用意できたはずです。故に共犯関係は考慮から外しても良いと思われます」
そういう事だ。しかし全員にアリバイが無いという点で事件が難航しているのだからこの辺りは私の口からは何とも言えなかった。
「ではその川口さん。貴方は信者なのですから、聖典を読む機会はいつでもあった。また、『白の間』から前園氏の寝室まで、人物の動きを見る限り、障害物は何も無い。つまり手段も完璧だ」
共犯説を否定されホッとしたのも束の間、川口は再び顔を振った。今度はブンブンと目の前の名探偵を拒絶するように。「風」が本当に風を起こしている。
「貴方も犯人ではありません。何故なら、それは貴方自信が一番良く分かっているのでは無いですか? 貴方があの聖典を読んだのは、事件の後なのですから。催川刑事から聞いて不審に思った点があるのです。事件後、ある時点から、妃さんをやたらと気にしていたことです。気づいたのでしょう? この事件の動機に。そして彼女を犯人と思い込んでしまった。動機から推定し、犯人候補にはもう一人、朝戸さんがいる。『緑の間』にいた自分なら妃さんの犯行に気づくはずだが、もしもという場合もある。貴方はそのもしもの可能性を恐れたのでしょう。実際先ほど妃さんが疑われたときは、真っ先に彼女を庇ったではありませんか」
聴衆は黙り込み、一心に耳を傾けていた。一方の川口はホッと胸を撫で下ろし、法子の方を見て照れくさそうにした。法子は目を逸らした。ご愁傷様。
最後に残った一人、朝戸邑里――この前衛芸術家は天水の方をニンマリとした顔で観察していた。追い詰められているというのに、汗一つかいていない。
「では最後に残ったただ一人。朝戸邑里さんですが彼女こそ我々が求める殺人犯なのでしょうか?」
天水はしっかりと邑里の顔を見返していった。
「違います。彼女もまた、殺人犯たる資格を持たない人物なのであります。彼女が犯行時刻にいたのは、前園英二氏とは逆の秘書室。まさに殺人現場となった隣の部屋でしたし、教団内部を知ろうとしていたため、聖典の事実を僕たちに仄めかしておりました。即ち機会と手段、動機は充分にあります」
邑里が情報室でやろうとしていたことは、教団内部情報暴露のための資料集めだったのだが、信者全員が集まっている今、そのことは黙っておく。下手なことを言うと、暴動が起きかねない。
「ただ、ここで一点、彼女は計画的犯行には都合が悪い、不可解な証言をしております。それは僕が催川君に事件の概要を聞いていたときに感じたことです。彼女は翡翠は祭壇に置いてあると語っておりました。まだ分かりませんか? 彼女はいつもは翡翠がある場所、即ち翡翠の間に凶器が置いてあると思い込んでいたのです。翡翠と聖典の位置関係が変わっていることを知らなかったのです。となると彼女の事件当時の動きが変わってきます。彼女は翡翠の間に田中刑事がいることを知っていた。警察が介入したからこそ、彼女はあることをしようとしていたのですからね。しかし、翡翠の間に凶器を取りに行かなければならない。
つまりです、彼女が被害者を生け贄とし、翡翠を凶器に使うには、秘書室から、わざわざ一階の翡翠の間まで降りる必要が生じてくるのであります。これは一つの矛盾です」
「ちょっといいかな、名探偵さん」
ここで邑里が口を挟んだ。
「もし私が、全てを見越した上で、嘘の証言をしていたらどうする? ほら、ミステリにはよくいるでしょ。名探偵にわざと偽の手がかりを握らせて、事件の方向性を誘導する犯人」
何を言い出すんだ、この女は。自分に嫌疑がかかるのを恐れていないのだろうか? いや、しかしこれでは今までの捜査が全て不意になってしまう。
「貴方らしいユニークな意見だ。では貴方は嘘の証言、つまり偽の手がかりを我々に渡したのでしょうか。しかしそれも却下できます。何故なら、信者の皆さんもご承知の通り、この殺人は生け贄という動機が全ての前提となっております。となれば、本来自分に不利になるような証言は嘘の証言とは言えないのではないでしょうか。そうです、自分が不利になる偽の手がかりは偽の手がかりとは言えないのであります」
部屋のところどころから一斉に、フゥっというため息が聞こえた。聴衆は今では、息を殺し天水の言葉にしがみついているのだ。だが、先陣をきってここは突っ込んでおかなければなるまい。
「ちょっと待てよ! 犯人がいなくなってしまったぞ!」
「落ち着きたまえ催川君。犯人が不在という事実も面白いが、ここでは有り得ない」
天水は信者一人ひとりの顔を品定めするように、辺りを見回した。
「さて、これでは事件当時、『緑石の会』施設内にいた、田中大牙刑事を含める、容疑者六人が容疑の圏内から消え去ってしまいました。これは実に不条理な帰結でありますが、論理の示す結果というものでもあります。では
「一体誰なんだ! は、早く言ったらどうなんだ!」
浦和が額の汗を拭くのも忘れ、怒鳴っている。乾き物だ……。
「わかりました。では動機の上に成り立つ、ひ弱な論理の糸をもう少し辿ってみましょう。聖典の内容を信じる、信じていないを別にし、犯人が聖典の内容を信じたのはいつか? ここが最後の条件です。即ち、今まで信じていなかった人物が、事件当日に聖典を見たことにより、信じるようになってしまった場合。思考が百八十度回転したわけですよ。となるとある人物が犯人候補として復活可能となるわけであります」
「馬鹿な!」
英二が怒鳴った。
「先ほども問いましたが、貴方が馬鹿と言えますか? 『緑石の会』教祖として」
「……」
人間の心理などをそもそも論理的に考えることが間違っているのかもしれない。これが一般の事件なら天水の推理はナンセンスの一言ですむだろう。だが、この宗教施設内では、ナンセンスな論理がまかり通っているのだ。
――無神論者が百八十度方向転換をし神を信じる場合もある。
聴衆たちは相変わらず黙り込んだままだが、それぞれの容疑者には些細な変化が見て取れた。浦和は下を向き黙り込んでいる。川口は周囲を落ち着き無く見回している。法子は神経質に人差し指のツメを噛みながら小刻みに震えている。邑里だけがニヤニヤと奇妙な微笑を浮かべ、天水をじぃっと観察していた。
「つまり一番最初、情報収集の段階で聖典を見ることが出来た人物にほかなりません。この場合、前園氏を殺害する機会があったという点より、聖典を見ることが出来る機会があった人物と挙げるとわかりやすいかもしれません。その日だけ、翡翠と聖典がそれぞれの位置を交換していたことを知っていた人物。聖典を見てしまったがために、懐疑派から信仰派になってしまえた人物。そして、二階にある前園氏の寝室まで階段を上がるだけで行ける場所――翡翠の間にいた人物、突発的犯行でありながら、凶器に指紋を残さずかつ、ルミノール反応まで計算できえた人物……」
やめろ、天水。頼むからその先は――
「そうです、大牙君――いえ、警視庁公安課主任、田中大牙刑事。貴方がこの不条理な論理条件に合致する、復活可能な犯人です」
目の前がグルグルと揺れた。どういう事だ? 私は高鳴る心臓の動悸を抑え、大牙の方を横目で見た。彼女の目はどす黒く濁っていた。法子のように震えるでも無く、邑里のようにじぃっと天水の目を捉えるでもなく、どんよりと光が失われた目は虚ろに天井を見上げていた。自分の立居地が分からなくなりかけているのだ。天水の言葉の強姦がまだつづく。
「大牙君、いや、田中刑事。貴方は先ほど僕や催川君と同じ様に翡翠の間で聖典を読んだと言った。ただ、ずっと以前に読んでいたのではないのかね? そう、事件が起こったあの日、教祖の前園氏に案内されたあの部屋で。となると翡翠と聖典の位置関係が変わっていることも事前に聞いている。聖典を読む機会も手段もあったわけだ。前々からマークしていた新興宗教の教祖に恋心を抱いてしまった君は、聖典を読み、一気に心の中が百八十度回転してしまう。かつてのステラやエジソンのようにね。生け贄だ。生け贄がいる! 時間が無い。今日限りだ。さぁ、あとは翡翠の位置だ。凶器は翡翠で無ければならない。被害者が寝室にいることは分かっていた。これも先ほど教祖自身の口から聞いたばかりなのだから。あとは実行に移すだけで、王子様と結ばれるのだ。理に適っているだろう?」
目の前が真っ青になっている。大牙よ、頼むから否定してくれ。私のマンションで天水が事件の分類をしていたときのことを思い出す。あの時の大牙は目を輝かしながらも、容疑者である英二を真っ先に除外していた。あれは罠だったのだ。天水はどこから彼女が犯人だと目星をつけていたのか。
「突発的犯罪でも、指紋までは一般人でも警戒するだろう。だが、ルミノール反応はどうだろう? 生け贄として生きたまま前園氏を殺したなら、血は飛び散るはずだ。いくら警戒したとしても、数ミリの血痕はどこかに付着しているのかもしれない。だからこそ君は事件発生から初動捜査までの間に、なんとかしたかったのだろう? ルミノール反応は血液のヘモグロビンに含まれる鉄の触媒作用により過酸化水素が還元され、ルミノールを酸化する為に起こる。故に鉄さえなんとかすれば良いわけだ。これも催川君から聞いたが、君は捜査時、現場に忍び込んだり、何度か催川君の傍を離れているね。必要だったのだろう? 緑の間にある酸性洗剤が。酸で綺麗に流し落としたというわけだ」
川口が掃除していた部屋だ。頼む、頼むから否定してくれ。大牙――。
「公安の女性刑事が、カルト教団とも呼ばれている新興宗教の教祖に恋をし、そのために殺人まで犯したのだ。この事実が知れ渡れば、当局も黙ってはいまい。しかしね、実に興味深い心理状態だ! ロジカルだよ! 君の心中は素晴らしい論理で構成されている! そうは思わないかね、催川君」
天水は目を輝かしながらそう叫んだ。黙らせろ。誰か目の前の詭弁家を黙らせてくれ。天水は腕時計を確認し、「QED! フム、ベストタイムだ!」と答えた。
私が頭を抱えていると、どこからともなく声が聞こえてきた。大牙の方を見やる。
「ア……あ……アぁぁぁぁ!」
とても人間が発した声とは思えない。耳を塞ぎたくなる。信じる者が信じた物を失った声では無い。信じる者が信じていた物を根本から叩き崩された声だ。それに見合った形相が目の前にあった。大牙よ……。
目が濁っており、爪で顔の皮膚を
この世のものではない。この顔、この動きはこの世のものではないのだ。吸血鬼が十字架を見せられたこの様な動きをするのではなかろうか? 英二やほかの信者たち――あの邑里も――犯人の……大牙の……形相に怯えている。
――――一瞬の静寂。そして
「ち、違いますけど? 何言ってんですか? 名探偵さん。違うんですよ。私は、私じゃないです。もし私なら、先の推理にも出ていたように、呼吸器を……その貴方が今まで喋ってきた事だって、証拠も無いし……」
そうだ。この男の推理に確固たる、物的証拠は無い。状況証拠としても怪しい。これだけでは裁判に持ち込めたとしても、判決で一蹴されてしまうだろう。
「証拠ですか。アッハハ! 見てください、この前園教祖の冷たい目線が何よりの物的証拠ですよ」
前園英二は恐るように大牙を見ていた。違う。犯人は彼女かもしれない。だが、やり方があまりにも……違いすぎる。もしや天水は物的証拠を見つけられなかったためだけに、この場に全員を集めるように指示したのか? 自分の言葉によってマインドコントロールされた、英二自身に彼女を断絶させるために。
「違ッ……ち……違ッ……うんですよ。ほんとに、ほんとに……」
「いかん!」
ガクガクと震えている。自我が崩壊し、崩れ落ちる大牙。邑里と法子が慌てて大牙を支えた。
「違ッ……私、貴方と一緒に……日食で……あの見立て通りなら……英二……さん」
涙は流していなかった。大牙は無表情のまま、ただカスれた声だけがその口から発せられる。そんな彼女を、
「ハッ!」天水が一笑した。軽蔑したように相手を見下ろす。
「もしかして、貴方はそんな伝説を信じ、自分の心を夢想の海に沈めてきたのですか? ロマンチストに成りきって? 僕は貴方の心理状況は、極めてロジカルで美しいので褒め称えたのに……。そのようなロマンチズムはいらないのですよ。実にくだらない。貴方も人間だったのですね。僕としては記号であってほしかったのですが」
――最後にため息をついた。
――おい、黙れよ……。
――こいつを、この名探偵という名だけの強姦魔を黙らせてやる。頭の中で再び警鐘が鳴り響いた。
「糞がっ! 人をなんだと思ってやがる」
私は天水に駆け寄り、右頬をぶん殴った。天水が後ろの小物入れの方に倒れこむ。ガラガラと物が落ち壊れる音。怒声と悲鳴が重なり合っている。「やめないか!」という声は、ほかの所轄の刑事だろうか? それとも信者の声か?
彼女はこちら側だったのだろうか?
――――私はどちら側だろうか?
<了>
【参考:引用文献】
◯エラリー クイーン『クイーン談話室』(国書刊行会)
◯斉藤直隆『ミステリーファンのための警察学読本』(アスペクト)
◯西島建男『新宗教の神々』(講談社)
◯『古代翡翠文化の謎を探る』(小林達雄編、学生社)
◯森浩一『シンポジウム 古代翡翠文化の謎』(新人物往来社)
◯寺崎秀一郎『図説 古代マヤ文明』(河出書房新社)
◯辻丸純一『マヤ/グアテマラ&ベリーズ』(雷鳥社)
◯『岩波 理化学辞典 第5版』(岩波書店)
◯<ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 絶対に笑ってはいけないホテルマン24時>(よしもとアール・アンド・シー)
メキシコ翡翠の謎 光田寿 @mitsuda
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