026 無貌性ドール
■ 1
「あのさ、坂上って人形持ってるってマジ?」
髪を赤く染めた目立つ容姿の男の名前を、ぼくは知らなかった。だから、名指しで声をかけられたことも、人形について言及されたことも、どちらにも驚いた。
講義が終わった直後、講堂を出る前に肩を叩かれたのである。仏頂面で考え込むようにして人がいなくなるまで待ってから、彼はそう言ったのである。
「いるよ、一体だけ」
「そか……」再び言いづらそうに黙りこんだけれど、すぐに意を決したように顔を上げた。「あのさ、人形、もらってくれねえかな。こないだ死んだ婆さんの持ち物だったんだけど。手入れとか、全然わかんなくてさ。分かる人にもらってほしいんだ」
ぎくりとして、思わず息を止めてしまった。それはつまり、遺品ということなのだろう。それを他人に譲るというのは、果たしてどうなのだろうか。
「持っておいたほうが良いんじゃない。おばあさんも、見ず知らずの他人の手に渡るのを喜ぶかな?」
「遺言なんだよ」
そう言って、彼は周囲を見渡した。
「なあ、どっか腰を落ち着けて話そうぜ。暇か? いい店知ってるんだ」
「良いけど……あの、悪いけどさ。君、名前なんだっけ」
嘘だろ、と思い切り表情に出してから、彼は名乗った。
「
「そうだったっけ? 全然覚えてないや」
「頼むぜ、坂上……。俺はお前のこと、只者じゃねえって思ってたのによ。ちょっとショックだわ」
悪かったよ。記憶力がないんだ。オカルト絡みのことなら覚えてるんだけど。
ぼくと本庄は大学を出て(この次の講義は四限なので、昼はかなり暇だ)、彼のオススメだという細い路地にある半地下のダイニングバーに入った。昼なのでランチ営業だけれど、こういうところは高いんじゃないだろうか……。
「心配すんな。金はあるから」
「なに、本庄って金持ちなの」
「いいバイト知ってるんだよ」
とりあえず飯を食おう、という流れになったので、ぼくは控えめにパスタを注文し、本庄はそれに加えてなにやら肉を注文していた。
一段落して食後のコーヒーが運ばれてくると、本庄は一枚の写真を差し出した。人形が写っている。てっきり日本人形かと思ったけれど、うちにいるのと同じタイプの球体関節人形だった。真っ白な髪と紫の瞳が人間離れした印象の、端正で幼い顔立ちをしている人形。いつ頃作られたものかわからないが、よくできていると思った。
「これが、婆さんの人形なんだ」
「綺麗な人形だね」
「そうか……? 俺は、人形ってどっかしら不気味って思うんだが。そういうのあるだろ、不気味の谷だっけ」
「ああ、聞いたことある」たしか彩智に教えてもらったんだっけ。「えーと、人間と見分けがつかないものは人間に見えるし、人間に似せようとしているものには親しみを感じるけれど、人間に限りなく似ているものには好感より違和感の方が先立つ、って話だよね」
違和感というよりは、つまり、不気味さなのだろうけれど。
この人形に、ぼくは不気味さを感じない。本庄よりぼくのほうが、「人間」の範囲が広いのかもしれなかった。
苦味の強いコーヒーを飲みつつ、本庄に続きを促す。
「でさ、まあこの人形を引き取ってくれる人を探してるんだよ」
「葬儀のときに一緒に火葬しなかったの? 見た感じだと、大事にしてたみたいだけど」
「それが遺言なんだよ」渋面でミルクを入れたコーヒーを飲み込む本庄。音を立ててカップをソーサーに置いて、息を吐いた。「人形は燃やさないでほしい。できれば、表に出して、丁寧に扱ってやってほしい、ってさ」
なるほど。それが故人の望みというなら、叶えてやりたいのもわかる。ぼくも似たようなものだしな。
「とはいえ、俺は一人暮らしで正直人形の手入れなんて気が進まないし、親父は実家にいるけど仕事柄留守がちだから、どっちも婆さんの希望に叶うとは言い難いと思うんだ」
「それで?」
「坂上のところなら、人形がいるんだろう? 手入れの仕方もわかってるだろうし、ぞんざいに扱うこともなさそうだ。なにより、人形も友達がいたほうがいいんじゃないだろうかと思ったわけだ」
友達がいたほうが良い、というのは多分、本庄の意見だろう。ぼくはできれば友達は作りたくない。友達になってしまえば、守らなくちゃいけなくなってしまうからだ。ぼくから離れていくのなら良い。間違って死んでしまったら、ぼくは……
「で、どうだ。引き取ってくれないか」
「いいよ。ただ、
「助かる。さすが坂上だぜ。……瑪瑙って? 彼女か?」
彼女、という発想が面白かった。話の流れでわからないものかと思ったけれど、多分、わからないのだろう。
「人形の名前だよ」
本庄は目を瞬いた。
■ 2
紫の瞳の人形は、
都合が良かったのは、瑪瑙と瑠璃のサイズが同じだったことだ。以前気になって調べたところによると、1/4サイズという分類にあたるらしい。身長でいうと、40cmくらいだろうか。
やはり作者が違うからだろうか、顔の造形が全く異なって見える。……それに、材質も違うみたいだ。瑪瑙は
瑪瑙の顔立ちが恐ろしく整った人形のそれだとするならば、瑠璃の顔立ちは血の通った人間もどきという印象だろうか。
「なんかさ、引き取ってもらうって話なのにこう言うのもどうかって思うんだが――その、不気味なんだよな」
本庄の言葉を思い出す。
「まるで生きているみたいにっていうと陳腐だけど、本当にそんな感じがするんだ。血が通ってるっていうか、生々しいっていうか。時々、意思みたいなものを感じることもあって。気の所為だってのはわかるんだけどよ」
ビビりすぎかな俺。婆さんが死んでナイーブになってんのかも。本庄は最後にはそう言ってごまかすように笑ったけれど、ぼくは彼の言葉を一緒になって笑うことはできなかった。
実際のところ、瑪瑙もそうだからだ。
生きているように感じられる人形。そういう人形が実在することを、ぼくは知っている。朝目覚めた時、何度瑪瑙の視線を感じたことか。バイトが忙しくて家を留守がちにしていると、表情が冷たくなっていくと思ったことも何度だってある。見るものの心の持ちようなのか、あるいは本当に瑪瑙の表情が変わっているのか、それははっきりとはしない。いや、本当ははっきりしている。瑪瑙の顔の造形は変わってはいない。ただ、受ける印象が明確に違っていることが何度もあったと、正直に言うのならばそういう話になる。
だから、ぼくは本庄を笑えない。
最初、本庄の話を聞いた時、この人形も瑪瑙と同じ作者によるものかもしれないと考えたけれど、こうして見比べてみるとまるで違う。顔の作りが全く違うのである。一見すると似ているけれど、方向性が似ているだけで、目指しているものが違うような……そういう風に感じる。
写真では気づかなかったけれど、瑠璃の目元には泣き
……革、なのだろうか。
はっきり言って、革を人形の材料に使うのは珍しい。単純に手入れが大変だし、手入れを繰り返すうちにメイクも落ちていくだろうから、都度直す必要も出てくるんじゃないだろうか。そうすると、本庄のおばあさんは相当な手間をかけていたのだと予測できる。
瑪瑙用のブラシで両方の人形の髪を整えてやって、服からもホコリを払ってやる。革の手入れは――すこしやり方を調べて見ないといけない。おばあさんがどう扱っていたのか、本庄に聞いてみる必要もあるだろう。そんなことを考えながら、ふと瑪瑙を見ると、なんとなく、怒っているような顔をしていた。
■ 3
ロッキングチェアというものをじっくりと観察したこともなければ、当然、じっくり座ったこともない。椅子の足の左右にカーブした板が取り付けてあるその椅子は、座るものの重心にそって前後に揺れる。
故に
果たして人形に座らせるのにそんな不安定なものが適しているのかと思ったけれど、座ってみるとこれはこれで独特の安定感がある。
ぼくを見下ろしているのは誰だろうか。あるいは、ぼくの持ち主かもしれない。服を脱がされ、ウィッグを外され、頭部にクリームのようなものを塗られる。それからゆっくりと磨かれて、丁寧に化粧を施されてから、再び服を着せられ、最後にウィッグを被されてブラシで整えられる。そこまでが、週末の日課だった。
……奇妙な夢だ。
瑠璃を引き取ったから、それに引きづられてこんな夢を見ているのかもしれない。そもそも、ぼくが夢を見ることも珍しい。それが明晰夢であることも。
夢。夢。夢だとするなら、こういうのも悪くないかもしれない。ロッキングチェアに座って、ゆっくりと揺られながら、長閑に時間を潰す。そう考えてみると、ぼくの身の回りはいつもどこか慌ただしい。
薄暗い部屋でゆっくりとロッキングチェアに揺られながら過ごすのも、悪くないのかもしれない。
悪くない。
悪くない、
本当にそうだろうか?
■ 0
もうずっとこうしているような気がする。もうずっと、こうして過ごしているようなきがする。ロッキングチェアに揺られながら、薄暗い部屋で持ち主にすべてを委ねて暮らしているような気がする。人形が暮らすというのもおかしな話だ。どんなに人間を真似ても、どんなに人間が人間扱いしてくれても、人形は動けないのだから、自ら動けないものに暮らしという言葉は相応しくないだろう。
暮らしとは、継続的な生の営みそのものなのだから。
それはやがて死ぬことも意味しているのだから。
人形が廃棄されることはあっても、人形が自然と死ぬことはない。せいぜい、朽ち果てることしかできない。
死んでみたい。
いつか人間のように、わたしが看取ってきた数多の人間のように、死んでみたい。
持ち主が床に伏せるようになって、わたしは思った。
羨ましい。
今すぐその体をわたしに与えてほしい。そうすれば、わたしはあなたの代わりに死んで、あなたはわたしの体で生きることができるのだから。
■ 4
ぼくを見下ろすぼくの顔には、見覚えのない泣きぼくろがあった。
■ 5
瑪瑙がぼくを見ていた。
焼け焦げるぼくの手、服、肩、お腹、首、顔、ウィッグ、芯材、手足を胴につないでいた紐、睫毛、それら諸々が焼け焦げていく。隣りに座った瑪瑙は、ぼくを見ていた。どうして瑪瑙がぼくと同じくらいの背をしているのかと思ったけれど、どうやらぼくの背が低くなっているらしい。
焼け焦げているぼくに、痛覚はなく、痛みはなかった。
それで目が覚めた。
ぐっしょりと汗をかいていて、体が冷たくなっていた。はあはあと、肩で息をしていた。
体を起こす。深呼吸して、顔を洗おうと立ち上がると、焦げ臭い匂いにぎょっとした。夢で体が焼け焦げたのは、この匂いからの連想だったのだろうか。隣近所が火事にでもなったのかと思ってベランダに出てみるが、寒いだけでそんな様子はない。
空は晴れていて、子守唄が聞こえそうな夜――いや、もう早朝だろうか。空が白みはじめている。
拍子抜けして部屋に戻ると、相変わらず焦げ臭い。
照明をつけてみると。
瑠璃が、黒焦げになっていた。
「…………」
やばい――本庄になんて説明しよう。
瑪瑙がやったのか?
恐る恐る近づいて、触ってみる。ざらざらとして硬質になってしまった革の下には、白っぽい組織が覗いていた。……もしかしてこれは、生き物の骨だろうか?
火葬場で見た、焼けた骨にどこか似た印象。
少なくとも樹脂や磁器ではない。
生き物の骨で作った頭部に、何かの革を貼り付けて作っていたってことなのだろうか。全身が真っ黒に焦げているが、白い組織があるのは頭部だけのようだ。不自然なことに、ロッキングチェアは焦げていなかった。あくまで瑠璃だけが、綺麗に焼け焦げている。
気分を切り替えるために、瑠璃の焦げ残りを放置して顔を洗った。さっぱりすると頭が回ってくる。やるべきことは、とりあえず本庄に連絡して――いや、連絡するべきか? ひとりでに焦げたと言って、信じてもらえるのか? 本庄はオカ研じゃない。たしか、文化研だ。オカルト研じゃない。
悩んだけれど、結局、八時ごろに電話をかけた。
「ふあ……、なんだぁ、坂上。朝早いなお前」
八時はそんな早い時間でもないだろう。
ぼくは人形が破損してしまったことと、できればなにか、おばあさんと一緒に弔う方法があればそうしたいことを伝える。
こうなってしまった以上、処分しないわけにはいかないだろう。そして、処分するのなら、生前大切にしていたという本庄のおばあさんと結びついた方法を採るのが良いと思ったからだ。
「あー」本庄は言いづらそうに間を開けた。「まあ、そういうことなら仕方ないな……。どんな風に壊れちまったんだ?」
「壊れたっていうか……。ごめん、うまく説明できないんだけど、原型がわからないくらいには。泣き黒子もわからなくなるくらいに」
本庄は怒るかと思ったが、ぼくがそう言った瞬間、絶句したようだった。短く息を呑む音が、スピーカー越しに伝わった。
…………。
「泣き黒子なんて、ないはずだ。お前に見せた写真には、なかっただろ」
「は?」
なんだ? どういうことだ? 泣き黒子が特徴の人形だったはずだ。本庄に最初に見せられた写真に写っていた人形には、泣き黒子はなかっただろうか? 正直なところ、覚えていない。
「――婆さんだよ」
そこでぼくは初めて、不気味な寒気に襲われた。足元が崩れるような気がして、棚の縁に手をついた。瑪瑙がぼくを見ていることに気づく。
「泣き黒子があるのは、婆さんだよ。人形じゃない」
瑪瑙は優し気に微笑んでいた。
■ 6
結局、人形の処分は
「これね、人間の骨と皮が使われてたよ。二十世紀中頃のドイツの作家に、そういう趣味のやつがいたかな。その作品の生き残りだろう。ろくでもない品なのは、間違いないさ」
不思議なことではあるのだけれど、焼けた人形の顔はもう思い出せなかった。泣き黒子があったことだけが薄ぼんやりと記憶に残っている。
消えた人形の代わりに、ロッキングチェアには瑪瑙が座っている。
文倉佰物語 深知識乃 @shino_gamer
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