025 徘徊性ゲイザー
■ 1
梨々華と二人で次の講義のため構内を歩いていると、どこからともなく現れた茉莉に声をかけられた。後ろから覗き込むように現れた彼女は、目をキラキラさせながらわたしたちを見る。
「ねえ、ねえ。この間二人と一緒に歩いてた男の人、二年の先輩だよね。どういう関係、どういう関係?」
「ええ? この間っていつ?」
わたしが問うと、代わりに梨々華が応じた。
「アーケードで? だったら、坂上先輩だよ。関係は……三角関係。坂上先輩が私のことを好きで、
「昼ドラだー!」
嘘を教えるな。わたしは梨々華の後頭部をひっぱたいた。茉莉は本気にしかねない。
「違うよ。普通に先輩後輩の関係だよ」
ていうか坂上先輩を好きなのは梨々華であってわたしではない。いやもちろんわたしも坂上先輩のことは好きだけど、恋愛感情ではないのだ。頼りになるお兄ちゃんみたいな"好き"だ。……あれ? もしかして、わたし、梨々華よりキモいのでは……?
「えぇー、なんだあ。つまんないの」
「ていうか茉莉、アーケードにいたなら、声かけてくれたら良かったのに」梨々華が言う。
「無理だよぉ。わたし、アーケードの端っこにいたし。二人はアーケードの真ん中歩いてたし。五〇メートル十二秒だし」
「遅ッ!」
「小学生……」
「いいの。わたしは優雅に紅茶を楽しんでたの。貴族だったの、貴族。わかるぅ?」
騒ぎながらキャンパスを歩く。茉莉も、この後の講義は一緒なので。
空が大きく見える晴れ模様だった。天門大学のキャンパスは少し涼しくなりはじめた風が吹いていて、もう秋が始まる。わたしたちが向かう棟は小さい講義室がいくつか設置されている場所で、そこから渡り廊下で別の建物に接続されている。講義棟はここから見ると奥に向かって伸びていて、その端にある渡り廊下は当然だけど百メートル弱くらい先にあるだろうか。
「あれ、あの人じゃない。二人と一緒にいた先輩」
だから茉莉がそう言った時、びっくりした。ここからあの渡り廊下の人が識別できるのか? 本当に坂上先輩だろうか。わたしは目を凝らしてみるけど、人がいる、ということしかわからなかった。しかも結構数は多いので、坂上先輩らしき人さえ識別できない。茉莉の勘違いかもしれないけど。
思わず梨々華を見る。梨々華も首を傾げていて、わたしの視線に気づくと首をブンブンとふった。やっぱ見えないよね。
「なんか女の子と一緒に歩いてるよ。あの人、オカ研の人じゃない。ふわふわしててかわいい先輩」
「一歳先輩だ」
本当に見えてるんだ。しばらく目を凝らしていたが、全くわからなかった。ともあれ、わたしたちはわたしたちで講義があるので、いつまでもこうしているわけにはいかない。三人で講義棟に入る。
「茉莉、目が良いんだね」梨々華が言った。「いいなぁ。梨々華、コンタクトだから。たまに困るんだよ」
「そういえば眼鏡にはしないの。坂上先輩の周りに眼鏡っ子いないよ」
「その手があったか……」
衝撃を受けて真面目に懊悩しはじめた梨々花。冗談のつもりだったんだけど。
「昔からわたし、目が良いんだよねえ。目が良いっていうか、遠くのものでもすごい見えるって感じなんだけどさぁ」
茉莉がしみじみと(?)言った。
「だから講義室で最後列に座っても、黒板の字がきれいに見える」
「わたしたちは見えないからもっと前に座って」
言いながら、三人で固まって席を取る。講義室の左側の端っこ、窓から外が良く見える場所だ。
「そういえばさ」
梨々華が声を潜めた。わたしと茉莉は反射的に身を寄せる。講義室の一角、内緒話だ。
「知ってる、天門大学の噂話。隅っこくんの話」
「なにそれ、知らない」「初めて聞く」
「あのね、視界の隅に男の子がいるんだって。白っぽい肌の、ボサボサ頭と真っ黒なベンチコートの男の子。視界の隅にいるんだけど、そっちを見るといなくて、振り返っても振り返っても視界の隅にずうっといるの。そういう都市伝説」
「なにそれ。その男の子を見ると呪われる、みたいな話?」
尋ねると、梨々華はからからと笑った。
「あはは、そんなことないよ。ただ見えるだけ。それで、不気味だよねって話。しばらくすると見えなくなるって。二、三回見えたら、もう見えないらしい」
何気なく私は茉莉を見た。会話に参加してなかったから、ふと意識が向いたのである。そしてぎょっとした。茉莉は、顔を青くして、唇を結んでいた。
「茉莉……?」
「え、あ。うん。なんでもないよ。大丈夫」
私は茉莉の様子が気になったけれど、大丈夫と言われてしつこく追求するような関係ではない。それに、すぐに講義が始まってしまった。
■ 2
「あのさ、さっきの話だけど」
梨々華が用事があるというのでそれを見送って、なんとなく茉莉と二人になって一緒に歩いていた。
「さっきの話?」
「視界の隅に見えるっていう男の子の話」
茉莉が立ち止まったので、私も立ち止まった。茉莉はまっすぐ私を、険のある目で見つめる。
秋晴れはどこに消えたのか、湿っぽい空気と空を覆う雲が雨を報せていた。今朝の天気予報では夕方から雨とのことだったけれど、この調子だともうすぐ降りはじめそうだ。傘を――愛用の
時間は夕方には早いけれど、昼というのは遅い。この後は講義もないので、どこかに出かけてもいいのだけれど。茉莉は身を固くしていて、どうもそんな呑気な雰囲気ではない。
わたしはそんな茉莉のほっぺたを引っ張った。
「ひ、ひはい! 何するの!」
「いやなんか、深刻そうな顔だったから和ませようとおもって」
ていうかこの女、ほっぺためっちゃやわらかいな……。わたしは思わず自分の頬を確認してしまった。
「比べるな」
「いや、びっくりしちゃって。茉莉、ほっぺたやわらかいね」
「だれがぽっちゃり系だ? ああ? 食っても太らないスレンダー体質は羨ましいですねえ」
「誰がまな板だって?」
「は?」「あん?」
…………。
不毛な争いは止そう。
「とにかく」わたしは手を叩いた。「何があったかしらないけど、深刻になっても仕方ないよ。それに、深く考えすぎるのが良くないってこともあるから。私はこれでもオカルト研究会の人間なので、何でも相談にのるよ」
茉莉を安心させられるよう、努めて明るく言う。彼女はすこしだけぽかんとして、それからニコリと笑って肩をすくめた。
「ありがと。じゃあ、相談があるんだけど」
わたしたちはとりあえず、学食近くのカフェテリアに移動した。適当にドリンクを頼んで、二人がけのテーブル席に座る。天気が良ければテラスに出たい気分だったけれど、生憎、雨が降りそうな天気なので、屋内で。
「それで、男の子の話って、視界の隅に見えるっていう、梨々花の話?」
白っぽい肌の、ボサボサ頭と真っ黒なベンチコートの男の子。
「そう。その男の子がね、今も見えてるの」
いきなりの先制パンチに思わずのけぞってしまった。
え? 今、見えてるの?
「本当に?」
思わず茉莉の目を覗き込む。嘘を言っているんじゃないかと思ったからだけれど、茉莉は真剣な目で頷いた。
「今、わたしは紫の目を見てるでしょ。それで、視界の隅のほうって、意識を向けないと認識できないじゃない。そういう場所に立ってるの。黒いベンチコートの、やたら青白い肌の男の子。わたし、目がいいから。はっきり見えるんだ」
「……今、どこにいるの。その男の子は」
「入り口」
わたしは即座に、カフェテラスの入り口を振り返った。ダークブラウンとホワイトで統一された内装、くっきりと磨かれたガラス張りの扉のあたりには、誰もいなかった。
茉莉に向き直る。彼女は所在なさげに肩を落として、困ったように笑った。
「そっちを見るといなくなるんだ。目を動かすと、消えるの。今までは全然、そういうものだと思ってなかったというか、見えてたけど意識してないっていうか。けど、梨々花の話を聞いて、突然、いつも見えてる男の子だ、って思っちゃって。それからは、ずっと認識してる」
「ずっと……ええと、いつ頃から? 認識したのはついさっきから、っていうのは、わかったけど。視界の隅に、その……いるのは」
そう聞いてみたものの、実際のところ、わたしは迷っていた。怪異の中には言及してはならないものもいると、部長に教えられている。こうして話を聞くことで、黒い男の子を刺激してしまわないだろうか。
わたしは坂上先輩や瑞鳥先輩みたいに、怪異に対処できるわけではない。だとすると、対処できる人に相談したほうが良いだろうか。
「いつから見えてたのかは……わかんない。意識してなかったんだ。けど、ずっといると思う。……少なくとも、夏休みを明けてからはいる」
「大学の外でも見えるの?」
「うん、見えてる、と思う。ごめん、自覚したのがついさっきだから、はっきりとはわからなくって」
「ううん、大丈夫」
……わたしとしては、こういう話は真面目に受け取るだけの経験があるので、疑ってもいなかったけれど、本当のところ、これが茉莉の冗談という可能性もある。一応、そのことは聞いておいたほうがいいのかもしれない。
そう思った時、スマートフォンが振動する音が聞こえた。私のスマホだ。ブー、ブー、という音が静寂の中、浮かび上がった泡みたいに聞こえた。通話の呼び出しだった。
「先輩からだ」わたしは茉莉にそう断って、応答する。「はい、
「やっほー。紫ちゃん、元気かな? 面白い話聞いちゃったから、紫ちゃんにも教えてあげようと思って」
瑞鳥
「わたしいま友達と一緒なんです」
「だったらなおさら聞いておきなよ。それで、友達にも教えてあげたら良いと思うな」
遠回しな拒絶をざっくり受け流されて、わたしはため息をついた。窓の外はぽつぽつと雨が降り始めていて、分厚い雲が太陽を阻んだ空は陰鬱な影を際立たせている。
「最近、学内で流行ってる噂、知ってる? 最近といっても、夏休み前からなんだけど。視界の隅の男の子の話」
鳥肌が立った。どうして今、その話をするのだろう。どこかでわたしのことを見ているのだろうか。……いや、そんなことはない。もし誰かがわたしを見ているなら、わたしがその視線に気づかないはずがない。
わたしは視線過敏症だ。
誰かにずっと見られていると、体調が悪くなってくる。
「知ってますよ、その話。ついさっき、梨々花から聞いちゃいました」
「あら、そう。じゃあ、結末も知ってるんだ」
「結末? いえ、それは知らないですね。梨々花からは、そういう男の子が見える、って話しか聞いてないです」
「最後には神隠しに遭うんだって」
「え? なんです?」なんだか突拍子もない単語が聞こえたような。
「神隠し」
瑞鳥先輩の奇妙に揺らぐ声が、通話越し故に音を削られて聞こえるその声が、奇妙に生々しく頭に残った。神隠し。それは、人が消えるってことじゃなかったっけ。
そうだ。千と千尋の神隠し。子供の頃に見て、すごく怖かったのを薄ぼんやりと覚えている。
「神隠し、って、いまじゃあ化け物にひとが連れ去られることの例えだけれど、本来は神域に人が消えることを言うんだよ。昔は、神域と現世の境という概念が一般的で、その向こう側に迷い込んだものは戻ってこれないと考えられていたの」
「そんな……だって、見えるだけですよ。しかも、ベンチコートを着た男の子。神様とか、そんな感じじゃないと思うんですけど」
ぶつ、と。
通話が切れた。いや、違う。スマートフォンの電源が落ちたみたいだ。画面が真っ暗で、電源もつかない。
カフェテラスの外では土砂降りの雨が降っていた。ざあざあざあざあとわたしの精神をざらつかせる音。薄暗いカフェテラスで、わたしと茉莉だけが座っていた。照明はいつの間にか消えていて、ほかの学生も、カフェテラスのお姉さんも、いなかった。
「茉莉、ねえ、聞こえる?」
わたしは呼びかけながら茉莉を見た。かちかちと歯を鳴らして、わたしをまっすぐ見ている茉莉は、可哀想なほど震えている。寒いのか、あるいは恐ろしいのか、両方かもしれない。雨のせいだろう。気温が下がっている。
茉莉はわたしを見ている。そして、首を振った。ぶんぶんと。
「近づいてくる……」
そう、茉莉が口にした瞬間。わたしが茉莉の言葉を認識した瞬間――
ぞ、ぞぞ
と、視線がこちらを見た。わたしの右側からだった。そちらは、カフェテラスの入口側だ。今まで感じたことのない視線。わたしはとてもじゃないが、そちらに顔を向けることはできなかった。
「茉莉、そのまままっすぐ、視線を動かさないで」
「で、でもっ! こっちを見ろって! 絶対、そう言ってる」
「わかってる!」
わたしは立ち上がって、胃が震えるのを無理矢理に押さえつけて、引きつる肺を宥めて、鞄と一緒に置いておいた蝙蝠傘を取り出した。茉莉の隣に立ち――つまり、視線に背中を向けて――なにか痛みのない針で突き刺されたような不気味な視線を感じながら――その蝙蝠傘を開いた。
視線は消えた。視線の圧力が、完全に消えた。
蝙蝠傘。わたしの蝙蝠傘は、わたしをどんな場所でも一人にしてくれる……。雨の日は、特にそうだ。雨音が遠くなって、わたしは孤独になる。
「茉莉、大丈夫? まだ、見てる?」
「……ううん、もう見てない。探してるみたい。見失った……の、かな」
ほっと一息ついた。蝙蝠傘があってよかった。この傘は、きっとわたしを視線から守ってくれる。
■ 3
神域、と瑞鳥先輩は言った。
それがどういうものなのか、曖昧なイメージしか持っていない。入っちゃだめな場所、というのはなんとなくわかるけれど。当面の問題は、ここが神域なのか、だろうか?
蝙蝠傘を差したまま薄暗いカフェテラスから出た私たちは、おっかなびっくり建物の外、雨が降っているキャンパスに出た。普段わたしたちが歩いている場所と変わらない景色が広がっている。雲は分厚く、薄暗い。傘を傾けて空を見上げる度胸はなかったけれど、遠くを見れば平らな雲が街を覆っていることはわかる。
「ここ、大学じゃないよね」
「わからない。わたしも……ごめん、なんにもわかんないよ」
雨が蝙蝠傘に、そしてアスファルトの地面にぶつかって弾ける音。それだけがあたりを包んでいた。歩くものはなにもない。
「人、いないね」
わたしが言うと、茉莉は信じられないものを見る目になった。驚きと恐怖の目だ。
「当たり前じゃない……。あんな、あんな真っ黒なのがいっぱいいるのに、人が普通に歩いてたら、意味わかんないよ!」
「真っ黒なもの?」なんだそれ。わたしは周囲を慎重に見回すが、何もいない……。「どんなやつ?」
「男の子みたいなやつ。なんか、もやもやしてるんだけど、顔に白い布みたいなのつけてて、目が書かれてるの。目のお化けだよ」
要領を得ない。布に目が書かれているなら、それは目のお化けではないと思うのだけれど。ううん、そんなことは重要ではない。いや、重要だろうか? けれど、わたしには見えなくて、茉莉にだけ見えるというのが気になる。
「あの、一応聞くけど。茉莉は、霊感とかないよね。いままで、幽霊とかお化けとか、見たことはないんだよね」
「ないよそんなの!」
茉莉が叫んだ。
「あるわけない! わたし、お化けなんて信じてないもん! そりゃあ、怖い話は大好きだけど! それは怖い話で盛り上がるのが好きなの! 怖い目にあいたいわけじゃないもん!」
頭を抱えてしゃがみ込む茉莉。かなり追い詰められている。けど、わたしもいっぱいいっぱいだ。正直、何もわからない。永久にここから出られないかもしれないのだ。どうやって入ってきたのかがわからないんだから。
「落ち着いて、茉莉……。大丈夫だから……。傘の中にいれば、見つからないから……」
「どうしてそんなことわかるの!?」
鋭い目で睨みつけられて、わたしはびっくりして硬直してしまった。
「なんで、紫はそんな事知ってるの!? ここに来たことがあるから? オカルト研究会だから? ねえ、わたしをここにつれてきたの、紫なんじゃないの!?」
「ち――違うよ! そんなことない」まずい。とにかく弁解しなければならない。ここでバラバラになったら、茉莉が死んじゃうかもしれない。「その、ちょっと怖い目にあうくらいは慣れてるけど、こういうのは初めてだよ。どうしたらいいのかもわからない。けど、茉莉がいるから……ひとりじゃないから大丈夫なだけだよ……」
しゃがみ込んだ茉莉に寄り添って、肩を抱く。小さな肩が震えているのがわかったけれど、それはわたしの震えだったかもしれない。寒かったし心細かった。すすり泣く茉莉をどうにか立たせて、キャンパス内に設置されているベンチにつれていく。お尻が濡れるのも気にせず座った。どうせ、地面から跳ね返った雫でべちゃべちゃになっているのだ。
「寒い」
茉莉が言った。
「自販機に飲み物売ってるかな……」
「……いや、飲みたくないよそれは。流石に」
それもそうか……。
それきり、沈黙が降りた。ざあざあと降る雨が、わたしたちだけを取り囲んでいる。たった二人の世界だった。わたしは正直、茉莉のことをよく知らないし、茉莉だって、わたしのことをよく知らないだろう。それが二人でこんなところに迷い込んで――どうしろというのだろう。
「ねえ紫、さっきはごめん。ちょっと、怖くなって。八つ当たりした」
「いいよ。怖いときは仕方ないよ。わたしは少し慣れてるだけだから、気にしないで」
「慣れてるって、何があったの? 聞いても良い?」
「ああ、うん。えっとね――」
わたしはかいつまんで、最初に借りた家の話や、理沙のことを語って聞かせた。あまり上手い語り口ではなかったろうと思うけれど、そこは実体験の生々しさで補強できたと思いたい。
茉莉は良い聞き手だった。相槌を打って、ところどころ質問を交えつつ、話を邪魔せずに最後まで聞いてくれる。カウンセラーに向いてるんじゃないだろうかと思ったけれど、そういえば茉莉は教育学部だったっけ。
蝙蝠傘が私たちを守ってくれている間、わたしたちはいろいろな話をした。どれくらいの時間が経ったのかはわからない。空は薄ぼんやりと明るいままで、時間の経過を教えてはくれなかった。雨も止まなかった。私たちは両親の話をして、初恋の話をして、最近読んだ本の話をして、大学で聞いた噂話を共有して、それから茉莉が実家で飼っている猫の話をして、わたしはオカルト研究会の話をした。
「そういえば坂上先輩、人探しが上手なんだっけ。わたしたちも見つけてもらえるかな」
「どうだろう。坂上先輩でも、この傘に隠れたわたしたちを見つけられるかな」
あの人の人探しはあくまで失踪者を探すとか、目撃者を探すとか、そういう現実的なアプローチだろう。詳しくは知らないけれど、神域に迷い込んだ人を見つけるとしたら、いくらなんでも人間離れし過ぎているんじゃないだろうか。
「……ねえ、最初にわたし、言ったと思うんだけどさ」茉莉が何か、決心したように話す。「いままで、幽霊とかお化けとか、見たことないって」
「うん、聞いたよ」
「あるかも。見たこと、はっきりと見たことがあったかも」
「そうなんだ」
「驚かないの?」
「まあ、少しは……? だけど、オカルト研究会には幽霊見たことある人、いっぱいいるから。わたしはまだないけど」
いや、あるのだろうか。結局、あの人は幽霊だったのだろうか。蝙蝠傘の柄を弄びながら、あの雨の日を思い出した。
「……小さい頃にね、おじいちゃんに連れられて地域のお祭にいったんだ。そしたら、つるんとした体には赤い斑点があった、虫みたいなものが空を飛ぶのを見たの。周りの人は誰も見てなかったし、それを見たって言っても信じてくれなかった。けど、おじいちゃんだけが、それは嫁入りだって。神様に見初められた子が、お嫁に行ったんだって」
「へえ……。おじいちゃん、物知りだね。その話、部長にきかせてあげたら喜ぶかも」
「でね、それからなの」
「…………? なにが?」
「目がよく見えるようになったの」
さぁー、と鳥肌が立つ。どうしてそんなことが起こったのだろう。わたしの思考より、茉莉の言葉が早かった。
「わたしは知らなかったの。全然、見えてなかったから。だけど、よくよく思い出してみると……思い出してみると、そこかしこにいるの。
私の思い出の中に、黒っぽい影がたくさん。わたしの視界はちゃんと、みんなと同じ景色を見てるんだと思う。でもそれはわたしが、普通じゃないものを認識していなかったから。見えていたけど見ていなかったからで、一度見えてしまったら、ずっと見えてたことに気づいちゃったの」
茉莉がわたしを見る。その目は――その瞳は、赤く染まっているようにも思えた。錯覚か、本当にそう変質してしまっているのか、わからない。きっと錯覚だと言い聞かせて、茉莉を見つめ返す。
「ごめんね、だから、わたしが紫を巻き込んだのかもしれない」
「そんなことないよ!」
わたしは叫んだ。
それは絶対に違う。そう思ったけれど、そのことを説明する手立てがなかった。実際、茉莉が黒い男の子に気づいたから、わたしたちはここにいるのだ。因果関係がそれを明白に説明している。
「だから、たぶん、紫は大丈夫だから。わたしは、きっと神様にお嫁に行くんだ」
茉莉はそう言って、傘の外に出た。
■ 4
茉莉を捕まえたのは、真っ白な手だった。
「あー、ようやく見つけた。随分探したよ、ふたりとも。坂上くんに感謝しないとだめだよ」
白い手はどこからともなく現れていて、その先からは瑞鳥先輩の声が聞こえる。わたしたちが状況を掴めないでいると、もう一本の手が現れる。
「紫ちゃん、こっちの子の手を握ってあげてて。離したら連れて行かれるからね」
「あ、はい」
言われて、茉莉の手を掴んだ。
とたん、全身を痛みのない鉄パイプで何度も貫かれたような気味の悪い感触に陥って、吐いた。脳がぐにゃぐにゃになったような錯覚。目の奥がつーんとして、体のいたるところが自分のものではないように痙攣した。
ざざざざ、ざざざざ、
体をざらついた舌で舐めあげられるような気色悪い感触。皮膚の裏側から肉をこそぎ落とされるような錯覚。
倒れてベンチから落ちて、それでもなんとか茉莉の腕を離さないよう、力を込めた。傘がぱしゃりと雨に濡れたアスファルトに落ちる。
「紫! 大丈夫?」
茉莉が心配そうにわたしの背を擦ってくれた。雨で冷えた茉莉の手は冷たいほどだったろうけれど、わたしの体も冷えていたのでおあいこだった。擦られた感触だけがすこし吐き気を落ち着けてくれる。
重い頭をもたげて白い手を見ると、それは二本に、というか両腕になっていて、パンと拍手した。
わたしたちは星空の下にいた。
正面には瑞鳥先輩と、それから心配そうな顔をした坂上先輩が立っている。瑞鳥先輩が体を傾けてニコリと微笑むと、ツインテールが揺れた。
「ふたりとも、怪我はない? 変なことされなかった?」
「大丈夫です、たぶん」
深呼吸してから立ち上がる。茉莉の腕は握ったまま離さないでいた。離せなかった。多分もう大丈夫なのだろうけれど、あまりに心細かった。わたしを貫いた視線はもうない。それでも、いつあの不気味な感覚に襲われるのかと思うと膝が笑う。
「あ、あの」茉莉が瑞鳥先輩を見て、それから坂上先輩を見て、言った。「紫は、大丈夫なんですか?」
「本人が大丈夫って言うのなら、大丈夫じゃないかな」
瑞鳥先輩は気軽そうに言ってから、茉莉に近づいた。そして、するりと茉莉の背に回って、目隠しをする。
「え? え、ええ?」
「厄介なものをみないためのおまじないだよ。まだ見えてるんでしょ、神様」
視線は感じない。
けれど、見ているのだろうか。いや違う。逆なのだ。茉莉が神様を見ていたから、それが良くなかったのだ。
「さすがに目隠しじゃ生活が不便だろうから、そこは後々どうにかしてあげるよ。サービスだと思って甘んじて受け入れてね。文倉市の平和を守るわたしたちからの、小粋な贈り物ってやつ」
瑞鳥先輩が茉莉になにやらいろいろと説明しているが、疲れていたわたしはそれを全部スルーすることに決めて、茉莉から手を離した。代わりに、いつの間にか隣にきていた坂上先輩が手を差し伸べてくれる。
「立てる?」
「……ありがとうございます」
手を取ると引っ張り上げられた。坂上先輩の手はとても熱かったけれど、これはどちらかといえばわたしの体が冷えているのだろう。もう安心だ。好きな人に触れて安心するなんて、わたしも単純だな、なんておかしく思った。
「見つけられてよかった。三日も探したんだよ」
喉が引きつって、変な悲鳴が出た。
■ 5
茉莉は眼鏡をかけはじめた。なんでも、坂上先輩のお母さんの伝手で特別に作ってもらった眼鏡らしい。
「
というのが、坂上先輩のお母さんからの伝言だそうだ。
何者なんだろ、お母さん。
その日から、わたしと梨々花と茉莉はよく三人で一緒にいるようになった。茉莉もオカルト研究会に入ったのである。曰く、「自分の身は自分で守れるように、少しくらい勉強する」らしい。
果たして、そううまくいくのかどうかわからなかったけれど、すくなくとも、わたしは友達が増えて、嬉しいと素直に喜べたのだった。
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