024 崇拝性アマリリス

■ 1


 唯峰ただみね探偵事務所は、ぼくのバイト先だ。


 普通、探偵事務所――いわゆる興信所はアルバイトを使わない。ごく当たり前のことだけれど、探偵業において最も重要なのは金でも能力でもなく、守秘義務を守れることだ。普通のアルバイトにそれを守らせるのはなかなかの困難を伴うのだという。


 ではなぜしがない大学生に過ぎないぼくが唯峰探偵事務所でバイトできているのかというと、端的に言えばそれは所長――唯峰所長の眼鏡に適ったからだ。

「坂上くんさ、今日暇かな。よかったらちょっと、残業しない?」

「はあ。残業ですか」

 所長の唯峰さんは椅子にふんぞり返るように座り、煙草を燻らせていた。視線はこちらを向いていない。ぼんやり考え事をしていて、思いついたことをそのまま口に出した、みたいな。

 唯峰さんはこちらが想像もつかないことを考えている人間なので、本当に思いつきを口にしたということは考えにくいのだけれど。

「良いですけど、どれくらいかかりますか?」

 そこでようやく、唯峰さんはぼくの方を見た。

「いや、助かるよ。時間はそうだね……なんとも言えないな。やってほしいことがあるわけじゃなくて、意見を聞きたいんだ。えー、きみは菅原警部とは面識あるっけ?」

「見たことはありますけど、話したことはないです。たまに相談に来る人ですよね」

「そそ。その菅原警部がさ、ちょっとまた相談したいことがあるっていうんだ。よかったら君もどうかなって。ああ、もちろん給料出るし、守秘義務もあるよ」

「まあ、構いませんけど。学生が聞いていいような話なんですか? その、相談っていうのは」

「一般人って意味ならぼくも一緒さ」

 唯峰さんはニヤリと笑ってみせた。それもそうだけど、ぼくが言いたいのは菅原警部がぼくの同席を許可するんだろうか、ということなのだけれど。……まあ、いいか。


■ 2


 菅原警部が持ち込んだのは絵だった。

 六芒星みたいな形の赤い花の絵。

「アマリリス……ヒガンバナ科の植物だ。古代ローマの詩人、ヴェルギリウスの『牧歌』に登場する女性の名を由来とする。それにしても、見事な濃赤こきあか色だね。ここまでの色で実在したならそれだけで心洗われたろうに」

「お前は花にも詳しいのか、唯峰」

「なに、昔付き合ってた女の子が花屋だったんだよ。もう十年以上前の話さ」

「十年以上前の女を覚えてるなんて、随分未練たらしいおっさんだな」

 唯峰さんと菅原警部のやりとりは耳に入っていたものの、はっきり言ってぼくはぜんぜん違うことを考えていた。赤い花の絵といえば、やはり――

「この絵だがな」

 菅原警部が補足する。

「ガイシャ……まあ、遺体の前に飾られてたんだ。一人暮らしのワンルームに飾るにしちゃ、でかい絵だろう?」

 菅原警部の言うとおりだ。

 応接室のローテーブルの上に寝そべるように置いてある絵画は、枠を含めて縦二メートルほどはある。縦長の画面なので、横幅はもう少し小さいが、それにしても部屋に飾るとなると少々大仰なサイズだというのは間違いない。大きな家の居間、といった場所にならば飾られていてもさほど違和感がないだろうけれど、一人暮らしのワンルームとなると確実にオーバーサイズだ。

「まあ、何ってわけでもないんだが……。もしかしたら、ここでなら参考になる意見を聞けるかもしれんと思ってな」

「だそうだよ。坂上くん、なにかないかい」

 唯峰さんがぼくに水を向ける。そう言われましても。

「……ぼくは絵はからっきしで。遺体の前の飾られていた、ということですけど、この絵はその……亡くなった方の所有物だったんですか?」

「そうだ」菅原警部は頷いた。「具体的なことは言えんが、きちんと裏付けは取った。絵についてなら答えられるぞ。作者は紅房べにぶさ桔梗ききょう、市内の画家だそうだ。この間個展をやっていて、そのときに売った一枚らしい。個展が開催された画廊のスタッフに確認した」

 紅房桔梗。

 針金細工のような細身のその男は、人の心を刺激しすぎる絵を描く。……と表現すると至高の芸術家という風だが、実際は他人の心を破壊するだけの男だ。

「個展というと、先々月くらいのですかね。会場の前で女性が飛び降りた」

「よくしってるな。あってるよ、それで」

「ぼくも行ったんですよ。紅房桔梗とも話しました。けど、あの個展で展示されていた絵だったとすると、流石に無関係なんじゃないでしょうか。購入して、二ヶ月近く経過してるんでしょう」

「……なあ唯峰、何の話だ?」

 菅原警部は困惑したように眼を丸くして、唯峰さんを見る。

「ああ、うん……」唯峰さんはこらえきれないという風にニヤニヤと笑った。「菅原と坂上くんの視点がぜんぜん違うんだよ。菅原、彼はね、オカルトハンターなのさ。だから無意識に被害者の死の原因が絵にあるのだと仮定してものを考えている」

「そんなこと、あるものなのか……?」

「おや、不思議なことを言うものだね。菅原、普通ここは、そんなことあるわけ無いだろう、と怒るか呆れるかするべきじゃないかい。それとも、被害者の死因に不審な点でもあった?」

 唯峰さんがそう尋ねると、菅原警部はバツが悪そうに口をつぐんだ。……けれど、唯峰さんの視線に根負けして、結局ため息とともに口を開く。

「言っておくが捜査機密だからな。他言するなよ。死因は、餓死がし……衰弱死だ。それも、不完全飢餓きがじゃない」

「不完全飢餓?」ぼくが口に出すと、唯峰さんが補足てくれた。

「ざっくりいうと、飢餓死には完全飢餓と不完全飢餓があるんだ。完全飢餓というのは、水も含めて一切の食物を摂取していない場合、あるいは水だけしか摂取していない場合をいう。一方、不完全飢餓というのは、特定の栄養素が不足することで起こる飢餓だ。栄養バランスが偏ったり不足したりして餓死するわけだね。ほら、何年か前に大学生が一応毎食食べてたのに栄養失調で死んだだろう。あれなんかが不完全飢餓だ」

 聞いたことがあるような、ないような。毎食カップラーメン食ってたら死んだんだっけ。

「現代日本において、肉体的ペナルティか精神的傷病を負っていない人間が餓死する場合、それは不完全飢餓がほとんどだ。経済的困窮による飢餓も、まず食事から栄養が失われるケースがほとんどらしい」

「要するに、被害者は栄養失調、ってことですか?」

「そういうことだ」菅原警部が頷いた。「といっても、餓死は珍しくはない。怪我で身動きが取れなくなったとか、うつ病で家から出られなくなったとか、そういう餓死はままある。それから、ネグレクトによる虐待死にも餓死は多い」

「……今回はそのどれでもない」ぼくは慎重に言葉を選んだ。「被害者は身動きがとれなかったわけでも、精神的な傷病で家を出られなかったのでもないことは、裏付けが取れているんですね。そのうえで餓死した。餓死する理由がないことを、菅原さんは不審に思っているわけですね」

「ま、そのとおりだ。だから、突拍子もない発想でも、一応聞いてみるか、という心構えができちゃあいたんだよ、俺にはな」

「話を戻そうか」唯峰さんが手を叩いた。「坂上くん、実際のところ、この絵が被害者の餓死の原因であるとしたら、どのような可能性があるかね。まさかこの絵は、人を餓死させる絵だ、なんて安直なことはないだろう」

「その可能性がゼロではないでしょうけれど、確信的なことは言えませんよ。……ぼくだって、専門家というわけでもないですから」

 けれど、人を餓死させる絵、というアイディアが紅房桔梗らしいか否か、と問われるなら、らしいと思う。摂食障害。教養講義で教授が説明しているのを聞いたことがあるのだが、あれは本質的に心因性のものであるらしい。たとえばそこを刺激する絵、というものは、あの男なら描くことができるかもしれない。

 食欲が失せる絵。ただ、そんな絵を購入する者は、事実上の摂食障害に陥っていると言えるんじゃないだろうか。……偶然、そういう絵を買ってしまったという可能性もゼロではないけれど、被害者は一人暮らしだったという。この大きさの絵を飾るには、少々手狭と、菅原警部は言っていたか。

「確認ですけれど、ほかに絵はありましたか? この絵のほかに、なにか飾られているとか、あるいはクロゼットや押入れに別の絵が収められていたとか、そういうことはありました?」

「いいや、ないな。ポストカードくらいはあったが。一応、絵を写したものが多かったか。ゴッホだかなんだかの有名所もあれば、見たことないようなものもあった」

 だとすると、やはり、被害者は相当なモチベーションを持って絵を買ったはずだ。もともと摂食障害を持っていた人間が、食欲が失せる絵に惹かれて購入した。ううん、今ひとつしっくりこない。

 まず食欲が減衰する絵があったとして、被害者はどうやってその事に気づいたのかという問題がある。常に食欲に苛まれていて、この絵を見た時だけそれが収まった、のだろうか。消えたらすぐに分かるほど食欲が溢れて苦しんでる人間が、呑気にマイナーな画家の個展に顔を出す。絶対にないとは言えないけれど……。

 それにもう一つ。ぼくは菅原警部に確認する。

「被害者が摂食障害だった、というわけではないんですよね」

「仮にそうだったとしたら、俺はこんな絵をここに持ち込んでると思うか?」

 そういうことだった。

「この絵は食欲とは無関係でしょうね」

 ぼくがそう結論すると、菅原警部は鼻白んだ。

「なんだ、脅かしておいて、結局のところ絵は無関係ってことか」

「そうは言ってませんが……。ていうか、唯峰さんはどう思ってるんですか」

「ん? ぼくかい? いやぁ、オカルトは門外漢だからなあ。唯峰探偵事務所は一般的な興信所だよ」

「そうじゃなくて……。何か考えてることがあるでしょう」

「まあ、あるね」ニヤリと笑う唯峰さん。「けれど、ぼくの考えは最後に話そう。名探偵、一同集めてさてと言い、なんてね」


■ 3


 被害者の姉だという人物の希望で、絵はしばらく事務所においておくことになった。と聞いている。ぼく自身は、被害者の姉なる人物に会うことはなかった。菅原警部がどういう建前をでっち上げたのか気になる気持ち半分、デリケートな精神状態にあるであろう人物と会話せずに済んだ安堵が半分。

 ともあれ、絵は事務所にある。

「ふぁ〜あ、眠たいなあ。睡眠の秋だねえ」

 欠伸を噛み殺しながらソファで猫のように体を伸ばしているのは、瑞鳥みずどり輪廻りんねだった。ぼくの同輩で、天門大学の二回生で最もオカルティックな女だ。

 事務スペースの隅にある休憩スペースの前に、件の絵は飾られている。アマリリスの絵。鮮やかで深い赤の花びらがこちら側に向かわず、僅かに視線をそらしている。見返り美人図を彷彿とさせる構図はどこか沈んでいた。深海の底に横たわっている鯨の白骨死体のような絵だ。

「坂上くん、一緒に寝ようよ。流石にちょっと寒いんだけど」

 茉莉香さんのブランケットを投げ渡してやった。茉莉香さんの匂いがする! と興奮している瑞鳥は、見なかったことにしよう。ぼくはコーヒーをマグカップに注いで、寝転んでいる瑞鳥の対面に座る。

「つーかさ、なんでお前いるんだよ」

「所長さんに頼まれたんだよ。この絵が曰く付きの品かどうか鑑定してほしいって。私、霊能鑑定士じゃないんだけどな」

「なるほど……? じゃあ、参考までに聞きたいけど。瑞鳥から見てこの絵はどうなんだ」

「鬱陶しい絵だなーって思うけど、それくらいかなあ。何か曰くがあるとか、そんなことはないと思うよ。とくに念みたいなものが込められてる感じもしない。ただの絵だね」

「ただの絵か」

「そ、ただの絵。あー、それにしても眠たい。ん、やっぱちょっと寝よう。坂上くん、所長さん来たら起こして」

 そう言い残して、瑞鳥は完全にブランケットをかぶって眠りはじめた。すうすうと寝息が聞こえてくる。苦いコーヒーを味わいながら、ぼんやりと絵を眺めた。

 ただの絵。

 実際のところ、紅房桔梗はただ絵を描いているだけかもしれない。しかし、ただの絵がただ絵として機能するとは限らないとぼくは思っている。というのも、ぼくは以前、見ただけで死に瀕する呪いに遭遇している。ある形を目撃することそのものが、呪いの始まりになっているわけだ。その忌々しい形象の配列が、絵の形をしていないとは限らない。そういう考えが、ぼくの根底にあった。

 欠伸が出た。どうやらぼくにも瑞鳥の眠気が移ったらしい。ぼくもソファに横になる。

 目を瞑る。

 まぶたの裏には、アマリリスの赤色が広がっていた。


 仄明るい路地の夢を見た。見覚えがあるけれど、ここがどこだったのかはっきりと思い出すことはできない。


 目覚めたのは所長が事務所に戻った時だった。事務スペースの扉を開けて入ってきた所長は、ぼくたちを見て眼を丸くした。

「おいおい、ここは大学生の溜まり場じゃないぜ。寝るんだったら家に帰れよ。それか、せめて仮眠室で寝ろ」

「……すみません、ちょっと横になったつもりだったんですが」

 時計を見ると、二時間半が経過していた。瑞鳥も眠そうに目をこすりながら起き上がる。ブランケットがずり落ちる。

「あー、所長さん。遅かったですね。待ちくたびれちゃいました」

「あ、おお。すまんな。で、絵はどうだったんだ」

 所長が自分の事務机に書類をいくつか放って、残りを鍵付きの書棚に収める。ファイルを取り出して記録を書き加えながらの作業なので、少しだけ時間がかかる。作業しながら、目線で瑞鳥に続きを促した。けれど、瑞鳥は肩をすくめる。

「全然。まったく普通の絵ですよ。これでなにかが起こるとしたら、オカルトっていうより心理学の領分じゃないかなあ」

「そうか……。瑞鳥さんのお墨付きがもらえてよかったよ。どうだい坂上くん、そろそろ菅原警部が絵を引き取りに来るんだが、きみも立ち会うかい?」

「そうですね、そうします」

 ぼくはぼんやりと、ローテーブルの上に放置したままのマグカップを見た。コーヒーは半分ほど残っていて、当たり前だけどすでに冷たくなっている。ぼくはそれを飲み干してから、ソファから立ち上がった。

「所長、最近ここのソファって使いました?」

「ん? それは、どういう質問だろう」所長は少しだけ手を止めて不審そうな目を向けてきたが、すぐに手元に視線を戻した。どうやらまだちょっと怒っているみたいだ。「ぼくは使ってないなあ。そういえば茉莉香くんが、何度か寝入ってたね。ちょうどさっきの君たちみたいに。まったく、いくら睡眠の秋だからって、なにもエアコンの効いた室内で眠らなくても――」

 こんこん、と扉がノックされて、菅原警部が入ってきた。

「なんだ、今日は知らない子もいるな。おい唯峰、学生バイトが多すぎるんじゃないか。機密保持はどうなってるんだ」

「ああ、この子も大丈夫だよ。紹介しよう、瑞鳥輪廻さん、坂上くんの友人だよ。たまに意見を聞いてるんだ。瑞鳥さん、こちらは菅原警部。ぼくの古い友人で、その絵を持ってきたのは彼だよ」

「へええ、そうなんですか。はじめまして、菅原警部。瑞鳥輪廻といいます。輪廻ちゃんって呼んでもいいですよ」

「……おい唯峰、絵はどうだったんだ。あれから、なにかわかったのか」

 ぼくはソファを立ち上がって、瑞鳥の側に移動した。菅原警部がぼくが座っていたソファに腰掛けて、それを見た唯峰さんも書類仕事を中断してこちらに来る。ただしソファには座らず、側の事務机に腰掛けた。

 瑞鳥がブランケットをぼくの膝にも掛けてきた。なにするんだと思ったけど、想像以上に暖かくてびっくりした。膝にブランケット掛けるだけで、ぜんぜん違うんだな……。ていうか冷房が強すぎるんだろうか。

「絵については、とりあえずオカルト観点では何もなさそうだよ。それこそ、ここに座ってる瑞鳥さんが保証してくれた」

「ゔい」瑞鳥が得意げにダブルピースしてみせた。

 菅原警部は一瞬胡散臭そうな目をしたが、絵を見て、それから瑞鳥を見て、とりあえず納得したように頷いた。

「じゃあ、なんでもないただの絵ってことでいいんだな?」

「さてね……それはどうだろうか。坂上くん、なにかあれから考えたことはあるかい?」

「……考えたことというか、わかったことというか、多分これで合ってると思うんですけど」ぼくはそう前置きしてから、菅原警部に向き直る。瑞鳥がぼくの膝の上に寝そべってきたが、無視した。「被害者はワンルームに一人暮らしだったと聞いています。そうすると、多分、ベッドから絵が見えるような配置になっていたんじゃないでしょうか。そして、ベッドで亡くなっていた」

「……まあ、そうだな。餓死といえば、普通はベッドの上だろう」

「そして不眠症――あるいは、それに類する症状を訴えて通院していた。もしくは友人知人にそういうことを言っていた」

 菅原警部が眉根を寄せた。「なんでわかった」やっぱりそうか。

「それで確信が持てました。この絵の正体は、です」


■ 4


「人を眠らせる絵? いや、そんな……そもそも、そういうオカルト関係の品じゃないっていう彼女の見解を否定してることになるが」

「違いますよ」瑞鳥がぼくの膝の上から起き上がって、伸びをした。「私が言ったのは、正確に表現するなら、この絵にという意味です。怨念が憑いているとか、生霊が祟っているとか、そういうことはないって意味です。なので、純粋に超心理学的オカルティックな要素が含まれている可能性はあります」

「おい唯峰、この子は何なんだ?」

「霊媒師の娘だよ。ほら、瑞鳥っていうと、深知さんの旦那の名字だろう」

 それを聞くと、菅原警部は顔を覆って項垂れた。

「お嬢ちゃん、深知の姉さんの娘さんか。クソ、これだからオカルト連中は嫌なんだ。どいつもこいつも得体が知れない」

「あはは、母がお世話になったみたいで」

「……いや、悪かったよ。娘さんの前で言うような事じゃなかった。それに、どっちかというと世話になったのは俺のほうなんだ」菅原警部はバツが悪そうに頭をかく。「で、じゃあ、どういうことになるんだ。純粋にオカルティックな、ってのは」

「オカルトって、時代や人によってその意味するところがぜんぜん違うんですけど、私が今言った意味は、要するに未知の心理学領域ってことですね」

 瑞鳥は少し考えるように人差し指で唇に触れた。

「そうですね、例えば聞いていると眠くなる音楽って言われると、なんとなく想像できると思うんです。クラシックとか。あれにはいろいろ理由があるんですが、その一つに、クラシック音楽にはf分の1ゆらぎが含まれているから、というものがあります。

 人間の体は外界にf分の1ゆらぎを感知すると、自律神経が整えられて精神が安定するとか。まだはっきりした結論が出てませんけど、とにかくそういう現象が起こるらしいという話があり、実証もされているわけです」

「え、f分の1……」

「ざっくり言えば、人がリラックスするリズムがあるってことです。私はこの絵に心霊的な要素は無いと断言できますが、ほかの領域のアプローチが施された絵である可能性については、否定できません」

「……なるほどな。とにかく、呪いとか怨念とか、そういうやつじゃないっていうことはわかるが、それ以上はわからんと」

「そゆことです」瑞鳥がパッと微笑んで手のひらを広げた。そしてそのまま、再び僕の膝の上に寝転がってくる。重い。

「……説明を引き継ぎますけど」

 すごい話しにくい。f分の1ゆらぎ、なんて初めて聞いたんだけど。

「ええと、そうですね。正直に言って、具体的にどんな方法で実現してるのかはわからないんですが。ぼくが言いたいのは、どちらかというと状況証拠でして」

「状況っていうと、絵が発見された状況のことかい?」唯峰さんがそう言ったが、ぼくは首を振った。

「もっと全体像の話です。そもそも、被害者がワンルームにこの大きな絵を飾っていたことも不自然じゃないですか。これは最初から言われていたことですが、これにも多分、説明をつけられると思います。

 まず大前提として、被害者は不眠に悩まされていました。程度はわかりませんが、すくなくとも昼間に街を歩いていても眠気を感じるくらいだったとは思います。そんな中、この絵に出会います。例の個展です。絵を見た彼女は、その場で眠ってしまったはずです。さっきのぼくや瑞鳥のように」

 あるいは茉莉香さんのように。

 瑞鳥がさっきからぼくの膝にもたれかかってくるのも、眠いからだろう。

「この絵の奇跡的な力を発見した被害者は、きっとこれで不眠が解消すると喜び勇んで絵を購入したのだろうと思います」

 もしかしたら、紅房桔梗がなにやら吹き込んだ可能性も否定できない。けれど、そこのことについて言及するのはやめておこう。話が不必要に複雑になる。

「そして絵を飾った。ベッドから見える場所が良いでしょう。そして被害者は眠りを得た。ここまでは順調でした。けれど、致命的な失敗があった。それは、この絵の本質を誤解していたことです」

「……続きを」菅原警部がぼくを促す。

「先程ぼくは、この絵を人を眠らせる絵だと言いました。眠たくなる絵ではなく、人を眠らせる絵。人を昏睡させる絵という意味です。ある程度、強制的に眠りに陥れる絵なんです。

 ぼくや瑞鳥が眠ったのは、眠気に抵抗していたからです。ぼくは眠気覚ましにコーヒーを飲んでいたし、瑞鳥は――おい、瑞鳥。お前昨日、夜ふかししたんだろ」

「あー、うん。正解。ちょっと遅くまでお散歩してた。三時くらい」

「……まあ、そんなわけで。瑞鳥も眠気を我慢してここに来ていたわけです。この絵は普通の状態だと、そういう人にしか働きかけない、そのくらいの力しかないんでしょう。現に菅原警部や唯峰さんはなんともないし、ぼくも最初、菅原警部が絵を持ち込んだ時は平気でした」

「……坂上、お前の言いたいことはわかった。理解した。俺の知識の範疇外で、荒唐無稽な話だとは思うが、そういうこともあるかもしれん。しかし、そのことと被害者の餓死とが、どう結びつくんだ?」

「簡単です。被害者はんです」

 菅原警部の目が見開かれた。瑞鳥も、頭を半分あげてぼくを見る。唯峰さんだけは、ニヤニヤ笑いを崩さなかったけれど。

「眠りによって、最初は体力を回復したでしょう。けれどそれは最初だけで、やがて深い眠りを繰り返すうちに、逆に体力を奪われたはずです。平日は仕事や学校があったため、朝から出かけていたでしょうから、問題はおそらく週末や連休ですね。朝、二度寝をして、昼も眠って、夕方に起きたものの空腹でぼんやりしているうちに再び眠ってしまう。そういうことを繰り返して、少しづつ体力が落ちていく。餓死が具体的にどういう手順で起こるのかぼくはあまり詳しくないですが、どこかの段階でベッドから起き上がる体力と精神力が失われたんでしょう。あとは眠るだけです。

 被害者はそうして、眠ったまま餓えて死んだのだと思います。それが、この絵の意味です」

 菅原警部は沈黙した。、口元を手のひらで押さえて黙考し、そして絵を見た。

「わかった。それで確かに、説明が付いちまうな」


■ 5


 どういう経緯か、絵は瑞鳥が引き取ることになった。

「曰くはこれから付けるから、好事家に高く売れるよ。人を殺す絵ってことにしよう」

「洒落にならないからやめてくれ」

 で、現在瑞鳥の一人暮らしにしてはやたら広い部屋に飾られているらしい。憎悪の対象である紅房桔梗の絵が友人の家に飾られている状況というのは、はっきり言って心がかなり不安定になる。だが、他人の持ち物にぼくが口出しする権利などないので、何も言わなかった。

 後日。

 菅原警部に聞いたところによると、紅房桔梗の行方はわからなかったらしい。といっても、菅原警部が個人的に動員できる範囲で調べただけではあるらしいので、どこかに雲隠れしているのだろうという見解だった。

 同意見だ。

 紅房桔梗が何をしようとしているのか、ぼくはまだ知らない。

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