023 暗黒性インタビュー
■ 1
友人が私を紹介してくれる時、主に使われるフレーズは三つある。
一つは「巫女」。本職の巫女ではないのだけれど、神職の家の娘なので、冗談めかしてそう説明されるのである。これは概ねウケがいいが、男子がまれに鬱陶しい。
次に「新聞部」。天門大学新聞部は歴史ある部で、天門大学の各教授陣に対してそこそこの発言力を持っている。大学構内の話題だけでなく、近隣のトピックも取り扱う、新聞というより雑誌社のような機関だ。学内で目立った活動をしている人物とは大抵顔見知りだし、取材を頼まれることも少なくない。私は自分でネタを見つけるのほうが好きだけれど、頼まれれば取材するのはやぶさかでない。
最後に「本の虫」。私は本を読むのが好きである。……本の虫と言われるほどの読書家だとは、自認していないが。
もうすぐ夕焼けに街が染まる頃だ。小説を読みながらゆっくりとした時間を過ごすには、丁度いい。今日は天気もいい。私は身支度をするために積み重なった服の山をひっくり返して、一張羅の秋コートを引っ張り出した。
秋風が心地いい夕方だ。藍色の空が耳を澄ませる。
待ち合わせ場所は Vent Arriere(ヴァンタリエル)。木乃香のお気に入りの喫茶店だ。オレンジ色の照明で照らされた店内が、狭い窓から覗く。到着するころにはほとんど日が沈んでいて、空は紫色に染まっていた。西の空を見ると、星がまばらだ。
文倉市の夜は暗い。
騒がしい通りもある。けれど、きちんと眠る街だ。
ドアベルの音を聞きながら、店に入る。一番奥のボックス席に座って、コーヒーを飲んでいる木乃香を見つけた。先にマスターにモカブレンドを注文した。
「やっほ。久しぶり、ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてない。ん、読んでいいよ」
渡されたのはコピー用紙の束だ。レーザープリンターで印刷された活字を、頭から辿っていく。
ミステリーだった。殺人鬼の独白で、彼がいかに凄惨な殺人を繰り返したのかが描写される。そうして、散りばめられたヒントが収束し、彼が殺人を犯すに至った経緯が明らかにされる。
コーヒーの香りで包まれた店で、友人の書いた小説を読む時間は、私の幸福そのものだ。(たとえ読んでいるのが血みどろの殺人描写だったとしても)
読み終える頃には、当たり前だけれど、完全に日が落ちていた。
「うん、面白かった。特に、主人公が三人目、目撃者を手に掛けるところが良いね。決定的に殺人者になる瞬間が」
「それは良かった。あそこは私も力を入れたんだ。やはり人が決定的に変わる瞬間こそ美しい。この世のほとんどすべての人間は生まれた時から精神の硬直を受け入れてしまっているが、極稀に変質する者がいるのだよ。私のような硬直してしまった人間からすると、そうした変異体にこそ惹かれるというものだ」
「あー、うん。そうだね」
そこからは木乃香の熱弁に付き合う時間になった。
木乃香は変人に憧れる一般人を自認しているが、実際のところ無自覚な変人だと思う。自覚のない変人と関わるのは面白い。ただ、勘違いしないでほしいのは、木乃香が面白い人だから友人でいるんじゃないってことだ。私は木乃香を友人に選んだから、木乃香の友人でいる。
人との関わりは決意だ。
関わろうと思う気持ちだけが、人と人とを繋ぐ。
ときには傷を引き受けることさえ飲み込まなければならない。
木乃香は原稿を私にくれた。必要ならまた印刷すればいいし、気が向いた時にでも読み返してほしいとのことだ。いつもそう言って渡される原稿の束が、家に溜まっている。木乃香の小説を読み返すのは好きだけれど、やっぱり、新作を読むのが一番楽しみだ。
すっかり夜遅くなって帰宅する。夜食は Vent Arriere(ヴァンタリエル)で食べてきてしまった。喫茶店だけど、マスターに頼んだらなんでも作ってくれる。夕食には十分なメニューを平らげて、お腹いっぱいだ。
いい気分で街を歩き、いい気分で家に着く。まだ酔いが回っていた。部屋には最近買った大きな本棚がある。私は片付けがぜんぜんできなくて、すぐに本と服を散らかしてしまうので、後輩のススメで本棚を買ってみたのだ。よくよく考えれば、本を大量に平積みにしているのは、そりゃあ片付かないのも道理である。木乃香には「本を大切にしろ」と怒られるけれど、私にとって大事なのは書いてあることで、本という形状そのものには魅力を感じていないので、適当に積んでおいたのだのだが、いよいよ限界が訪れたというべきかもしれない。大学四年になるまでよくもった方だと思う。引っ越しのときに本を運ぶのが大変そうだ。
私は木乃香からもらったコピー原稿を本棚に突っ込んだ。最近購入した本棚は私のお気に入りで、大学のレポートもここに突っ込んでる。両開きの扉を閉じる。重厚な木製で、四つある扉には連結して一つに見える彫刻が施されていた。中央にある太陽のようなシンボルを取り囲むように、変な格好の動物が描かれている。上二枚の扉の動物は上下逆さまを向いていて、真ん中が空で上下が地面というわけだ。夜に街を歩いていたらたまたま見つけた家具屋さんで購入したのである。
ほしいと思ったものはすぐに買おう。
明日にはなくなっているかもしれない。
私は部屋着に着替えて、寝支度をして、ベッドにダイブする。こういう満たされた夜は、誰かと一緒に眠りたいものである。
■ 2
二日後。ぎょっとしたのは、大学近くの古い中華料理店でランチの
「本日朝五時頃、
ぶわ、と。変な汗が出た。
なんてことはない殺人事件だけれど、これは木乃香の小説に書かれていた最初の殺人の状況と酷似していた。
……酷似しているからなに? 自問する。なんとなく、言いようのない不安を感じてしまっていた。新聞部の勘、というやつだろうか。
「どうしたんすか、
問われて、はっとする。食事の手が止まっていた。
「ん、うん。別にどうもしないよ。大丈夫」
落ち着かない。
祁答院くんは、天門大学オカルト研究会の部長くんである。三年生なのに部長を務めているのは、四年生――というか、言ってしまえば私が、部長の立場を拒否したからだ。それに、実力というか、オカルト分野の知識の幅広さ、そして人脈と経験の豊富さを鑑みても、彼のほうが適任であるのは間違いない。
祁答院くんは部長の立場を悪く思っていないみたいなのだけれど、私としては面倒事を押し付けたような引け目があったりなかったり。こうして食事に誘われたりするので、もちろん悪く思われたりはしてないのだろうけれど。
祁答院くんは私を観察するのをやめて、手元の本に視線を戻した。
追求を免れたことに安堵して、私は食事を再開した。
帰宅して、パソコンで調べてみると、刺殺された女性の身元がわかったという続報を見つけた。
イニシャルが同じ。
殺害方法が同じ。
遺体が発見された状況が同じ。
偶然の一致だと、言えるのだろうか。むしろ見立て殺人――のようなものだと、そう考えるほうがいくらか腑に落ちる。
木乃香が殺人犯に自分の小説を読ませたとは考えづらい。また木乃香が殺人犯であることも考えられないだろう。自分より大きな女性(被害者の体格を詳しく知っているわけではないけれど、たいていの女性は木乃香より大きい)を殺害するなんて、木乃香にはできない。
だとしたら、喫茶店で誰かに読まれたのだろうか? いや、あの時、私たちが座っていたのはボックス席だった。読まれたという可能性も低いだろう。じゃあ――、と、そこまで考えて、はっとする。
本棚の扉を開いた。
コピー原稿。私が持っているそれが、だれかに盗まれたのかもしれない。直感的にそう思ってのことだった。木乃香からもらった紙束を引っ張り出すと、べっとりと赤黒い液体が滴り落ちて、同時に、ごとりと重たいものが床に転がった。
固まりかけた血液と、大振りなナイフだった。
「…………」
声が出ない。なにこれ、どういうこと?
血液がべっとりついたコピー原稿と、大振りなナイフ。……ハンティングナイフに分類されるものだろう。そして、木乃香から受け取ったコピー原稿の束の中に、つい先日受け取ったのミステリーはなかった。
失われた。コピー原稿のうち一部が。木乃香からコピー原稿を受け取ったのは先日だけではない。しかし数十部あるそれらの中から、つい先日のミステリーだけが失われていた。
狙ったように、そこだけが抜けている。
とりあえず血で汚れないように、周辺に散らばっていた服をどかして、いらなくなったコピー用紙(自分の原稿を印刷したものである)を広げる。その上に、血まみれの原稿とナイフを置いてみたものの、さてどうしたらいいだろうか。
やっぱりこれ、凶器なのかな。
松高菱子殺害の際に使われた凶器。警察に届けたほうが良いのだろうけれど、なんと言えば良いのか。
腕組をしてうんうん考えていると、電話が鳴った。木乃香からだ。
私は少し迷って、電話を取った。
「もしもし、木乃香?」
「おはよう、祈。あのさ、ニュースみた?」
「……見た。あれってさ、やっぱり」
「そう。私の書いたアレ……あー、タイトルなかったな。じゃあ、暫定的に、殺人の旋律とかにしておこう。あの殺人の旋律が模倣されている可能性はかなり高いと思う。ただ、アレを読ませたのは今の所、祈だけだから」
「やっぱり私だけなんだ……」
「うん。公開する予定も特になかったからね。気が向いたらネットにアップするかなーとは思ってたけど。じゃなくて、祈、あなたまさか殺してないよね」
「殺してないよ!」
失礼な友人だ。
私がなぜ人殺しをするのだ。
「ていうか、無理でしょ! あんな大きなナイフ、どこで売ってるのかわかんないし」
「え、大きなナイフ?」
「あう」
失敗した。
私はとっさの返しで間違える。
「なんで凶器のこと知ってるの?」
「それは……。その、説明が難しいというか、信じてもらえるかわかんないんだけど。あの、家に、たぶん凶器だと思われるでっかいナイフがあったんだよね。血まみれで」
「はあ? なんで? どうして?」
「わかんない……。それにね、あの、謝らないといけないんだけど」私は深呼吸した。「もらったコピー原稿、探してもどこにもないの」
……沈黙。
ああ、心が痛い。
「ごめんね木乃香」
「……ううん、いいの。それはいいんだ。なくなったものは仕方がない。けど、それってもしかしてけっこうまずいんじゃない?」
「まずい?」
「だから、もし犯人が、私たちの思ってる通り、殺人の旋律になぞらえて人を殺しているなら、失われたコピー原稿は確実に犯人の手元にあるってことでしょう?」
「う、やっぱり犯人が捕まると、木乃香が疑われるよね」
「私じゃなくて、祈だよ。あのね、もっかい言うけど、犯人はコピー原稿を持ってるんだよ。
つまり、犯人は祈の部屋に入ったってことじゃないの?」
■ 3
ところで、私は鍵はきちんとかけるタイプ……というか、ほぼ開けないタイプだ。ワンルームなのでベランダと玄関しかなく、ベランダに洗濯物を干すことはほぼない。ドラム式洗濯乾燥機は現代における産業革命だと断言しよう。もちろん木乃香と電話してすぐに施錠を確認したけれど、破られた痕跡もないしきちんと鍵はかかっていた。それに、帰宅時にも鍵を開けた覚えがある。鍵をかけたということは、鍵はかかっていたいたということだ。当たり前である。
要するに、部屋は密室状態だったことになる。したがって犯人は、私の部屋の鍵をもっているか、相当に熟達したピッキングの技術を持っている。たぶん。
内部からコピー原稿を引っ張り出して、ナイフを置いて出ていく。しかも血まみれのものをだ。本棚の中以外に血液はなかった。ほんの一滴すら血を落とさずに本棚の中にナイフを入れるのは難しいように思う。
まとめると、技術か合鍵によって私の部屋に侵入し、殺人の旋律のコピー原稿を盗んだ上で、それになぞらえた殺人を犯し、凶器のナイフを血まみれのまま持ち歩き、しかし一滴の血も落とすことなく、私の部屋の本棚に隠した。
無理だなぁ。不可能犯罪だ。いや、そもそもそんなことをする動機がない。
なんなんだろう、これは。どこかに思い違いがあるのだろうか。
「ねえ、どう思う。祁答院くん」
「はあ、知らないですけど……。ていうかもうちょっとプライベートなお誘いを期待してたんですけど、なんなんですかこの相談。めちゃくちゃがっかりしたんですが」
「ごめんね……。けど、頼れる人は他にいなくて」
祁答院くんに事情を説明して、アドバイスを求めてみたところだった。
私個人としては彼の助力を乞うのは不本意なのだけれど、木乃香曰く「一人か二人くらい事情を説明しておいたほうがいい」とのことで、ならばと考えたのが彼である。瑞鳥さんに相談することも考えたけど、なんとなく祁答院くんにした。深い理由はない。
「俺はミステリー専門じゃないですが」と祁答院くんは前置きする。「そもそもすべて状況証拠に過ぎないわけですよね。コピー原稿が盗まれたのも祈先輩の勘違いで、ナイフだって殺人事件とは無関係かもしれない」
「それはそうだけど……。じゃあ、この血まみれのナイフはなんなの?」
私は本棚から引っ張り出した無骨なナイフを見る。赤黒い血に濡れたそれは、蛍光灯の光を反射して艶かしく光っていた。たしか、心臓を刺されたんだったか。自分の心臓にこのナイフが突き刺さる想像をして、気分が悪くなる。微かに漂う血の匂いが生々しい想像に駆り立てるのかもしれない。
「殺人事件と無関係なら、何と関係してるっていうの」
「それはわからないですが、もし祈先輩の仮説が正しいなら、犯人は二度も先輩の家を出入りしたことになります。一度目はコピー原稿を手に入れた時、そして二度目は殺人を犯した後。
コピー原稿を手に入れたタイミングはともかく、先輩がナイフを発見したのは殺人が起きてから数十時間しか経過していません」
そういえばそうか。
松高菱子はおそらく、遺体が発見された日の前の夜に殺されている。遺体発見日の夕方には、身元が判明したというニュースがネットに出ていた。そしてその直後に、私は本棚のナイフを見つけている。長く見積もっても、殺人からナイフの発見まで二十四時間は経過していないだろう。
私はもちろん大学に行っていたし、昼はそれこそ祁答院くんとランチタイムだったわけで。当然、夕方少し前くらいまでは家を空けていたことになる。その間に侵入することは不可能ではないだろうけれど……。
「白昼堂々、凶器のナイフを血まみれのまま持ち歩いて、しかも他人の家に侵入する。先輩の部屋ってたしか八階建ての四階でしたよね。屋上からの侵入も、地上からの侵入も手間がかかります。……先輩の部屋に侵入するのは、殺人犯としてはリスクが高すぎる」
「そんなこと言われても……。そもそも、血まみれのナイフを他人の家に置いて帰る意味なんてないんだから」
「それはそうですが……。ん、あ? ああ、本棚の中にあるって言いましたっけ、ナイフ」
「そうだけど」
「本棚って、他のものはどうなってます? ナイフが増えて、原稿がなくなった以外」
言われるまで思いつかなかった。私が気づいていないだけで、他にも変化があるかもしれない。血まみれのナイフのおかげで、他の本にも血がいっぱいついちゃったんだよね。なんかちょっとムカついてきちゃったな。
スマホを肩で支えて、本棚の扉を開く。
「あれ?」
「どうしました」
「血がもっといっぱいついてたと思うんだけど、なくなってる……? ような?」
あれ? 拭き取ったっけ?
んんんん、ていうか、ちょっとなんか本もなくなってる……?
「青い炎と悪の教典がない……」
「その本棚って、いわゆる門じゃないです?」
「門?」
祁答院くんの説明に耳を傾けつつ、本棚に詰まっているあれやこれやを調べていく。乱雑に詰め込まれているが、私はここまでがさつではないし、きちんと並べて本棚に立てた覚えがある。これは――そう、だれか別の人がいじくったような印象だ。
私は本と本の隙間に挟まった、小さな木箱を見つけた。安っぽい桐箱はへその緒入れを連装する。開くと、指が入っていた。
「――――ッ」
無音の悲鳴というものを、自分が発する機会があるとは思わなかった。
親指ではない指の、第一関節から先だけが収められていた。丁寧にガーゼのようなものが敷いてあり、その几帳面さに反して小箱の内部は血まみれだった。丁寧に箱を用意した上で、切り取ったものを即座に放り込んだような不均衡さを感じる。
不均衡。
荒くなった呼吸を落ち着かせる。
私は今、どこに立っているのだろう。ぐらぐらと平衡感覚が失われる。いつの間にか取り落していたスマホを掴むためにしゃがんで、そのまま尻餅をついてしまった。小箱を落とすと、指が床を転がって、脱ぎっぱなしにしていた私のシャツに当たって止まる。スマホからは祁答院くんの声が聞こえる。
「もしもし、大丈夫ですか」
「大丈夫……だけど、」
私はしどろもどろになりながら、指のことを説明した。けれど、その途中で再び恐ろしいことが起こった。本棚の戸がひとりでに閉まったのである。ぱたんと音を立てて閉まった。
とにかく見たものを整理したい本能が働いて、祁答院くんにまくしたてる。
「祈さん、とりあえず落ち着いてください。もし俺の思いつきが事実なら、とにかく家を出るべきです。ネカフェでも、友達の家でもいいので、本棚から離れてください」
呼吸が浅く、荒くなっていることを自覚した。喉が引きつって痛みすらある。
「わ、わかった」祁答院くんに返事をする。「すぐに、家を出るから。また連絡するから」
なんとかそう言って通話を終える。スマホをジーンズのポケットに突っ込んで、ジャケットを羽織った。財布やら通帳やら化粧品やら最低限の荷物をまとめる。
異臭。
異臭を嗅ぎ取った。不安な心がとっさに周囲に視線を走らせる。違和感はない。けれど、なんだこの――すえたような――匂い――いや、そうじゃない……これは、煙?
木材が燃える匂い、だろうか。
煙が上がっていた。
本棚から煙が漏れていた。見る間に炎は大きくなり、本棚の全体に火が周り、そしてカーペット、壁紙、洋服、床板、天井が燃え始める。カーテンに火が移る前に家を出た。煙を吸い込んで肺が痛い。目にも入ったみたいで、涙が出た。なんとか酸欠にはならずにすんだみたいだった。
近所の人たちが慌ててでてきて、消防車を呼ぶ。隣に住んでいるおばさんが私を助け起こしてくれて、下の階のサラリーマンは迷惑そうな顔で舌打ちをした。よくわからないショックで混乱して、過呼吸になる。
どれくらい時間がたっただろうか。放心していた私は、マンション前の植え込みにもたれかかるようにして座っていた。
「
声をかけられた。見上げると、柔和な笑顔の男性が立っていた。黒っぽいスーツ姿で、手には白い手袋をしている。
「はじめまして、
空崎と名乗った男が視線をそらしたので私も釣られてそちらを見ると、消火は終わりの兆しを見せていた。私は空崎に曖昧に頷くと、空崎は私に手を差し伸べた。助け起こされて、されるがままに彼の車に、後部座席に乗り込む。
「シートベルトを。最近、厳しいですから」
カチャリ、と不吉な音をして、シートベルトの金具がロックに差し込まれる。
「では行きましょうか」
運転席に座って、車を発進させる空崎。
……そういえば彼は、どうして私の名前を知っていたのだろう?
■ 5
「そういえば、綿貫さん。綿貫祈さん。あの小説のタイトルはなんというのですか? 私、あれに非常に感銘を受けまして。思わず人を殺してしまいました」
脳が一気に覚醒した。
こいつだ。
こいつが、木乃香の小説になぞらえて人を殺した連続殺人犯だ。
三人目は――目撃者殺し。
「あ、――」
言葉が出ない。何を言い返すのが正しいのかわからない。とっさにシートベルトを外そうとするが、なにか細工が施されているのか、外れない。
「本当はあなたも小説になぞらえて殺したかったのですがね。まさか、私も創造の埒外だったのですよ。最初は単純に、以前の持ち主の残したものだと思ったのです。それがまさか――二つの本棚の内容物が共有されているとは、思いもよりませんでした」
「ど、どういうこと」
「気づいていたのではありませんか? どこかおかしいと思っていたでしょう。凶器のナイフが失われた時は誰かが部屋を荒したのかもしれないと思いましたがね。それにしても不可解だった。私が侵入者に気づかないなんてことは、やはりおかしかった。実験しましたよ。本棚を開け放って、それからわざわざ被害者の指を入れてみたのです。ずうっと待っていると、本棚がひとりでに閉じて、開かなくなった。やっと開いたと思ったら、今度は指がなくなっている。ね、これで確定です。誰かが別の場所から、本棚にアクセスできるのです。素晴らしい、魔法の本棚!」
発想が飛躍している。
けれど、現実に説明をつけられる飛躍ではあった。
空崎は叫ぶ。
「私をあの名作と出会わせてくれた素晴らしい本棚だった! 燃やしてしまいましたがね。本棚にあったレポートの持ち主がどこかにいることはわかっていましたが、それがどこにいるのかはわかりませんでした。手っ取り早く火をつけたんです。そうするとビンゴ! やはり、空間を超える本棚ということで正解だったようですね。時間を超えるという可能性も考慮したのですがね……」
「な、んで――」呼吸ができない。「殺した――? 人を、殺すなんて」
「別に人を殺すのは初めてではありませんよ」
ひらひらと白い手袋をした手を振ってみせる空崎。
バックミラー越しに見える男は、笑ってもいなければ、気負ってもいない。自然体で、平常心だった。インタビューをする相手として、一番良い状態だ。だめだ。思考が正常に作動していない。
異常をきたしている。
エンジン音が最悪に不吉な音に聞こえる。すでに街は夜だ。車はさっきから都市高速に入っていて、信号で停車することも望めそうにない。薄暗い車内で、空崎の白い手袋だけが奇妙に浮かび上がって見える。私を永久に闇に連れ去る手。革張りのシートは、私の体を優しく支える。
私は乖離していた。
闇は優しい。いつだってそばにいるのだから。昔、私にそう言ってみせたのは木乃香だった。なるほど、たしかに空崎の物腰は柔らかく、狂気や暴力など殆ど感じさせない。そのことがかえって空恐ろしかった。
底なしの穴を覗き込んでいるような不気味さを持つ男だ。
「昔からね、ずっと人を殺しているんですよ。最近は難しくなりましたがね。これでそろそろ、この体ともお別れでしょうか」
思わず、インタビューアーの習性が働いた。
「……ずっと昔というのは、どれくらい前のことですか?」
空崎の気配が変わった。私の発言を楽しむような雰囲気になり、微かに笑う。
「そうですね。もう八十年ほどになるでしょうか」
空崎の外見はどう見ても二十代後半だ。どういうことだろうか? ……いや、そうか。本棚がどこでもドアになってる、なんて発想、凡人のそれではない。何かそういう突拍子もないことを信じるだけの下地が彼にあるのだとすれば、年齢の秘密はそこにあるのだろう。
「最初に殺したのは誰ですか?」
「母親ですよ。私の母は美しい人でして。私が粗相をするとよく叩かれました。ふふ、そうして怒っている母の顔が、鬼気迫る顔が特に綺麗で。鬼のように血走った目が宝石のように思えたのです」
「では、なぜ殺人を続けるのですか?」
言葉が勝手に出てくる。頭の中でインタビューを組み立ててしまう。今になって思えば、これは防衛反応だったのだろう。限界を迎えた私の精神が、拠り所を求めた結果。現実逃避の一種。
「死ぬ人は美しいからですよ。私は単純に、美しい人が好きなのです。綿貫祈さん、あなたも美しい人だ。あなたが死ぬときは、きっともっと美しい」
陳腐な理由ですみませんね、と空崎は謝罪した。
「いえ、ありふれた動機は、それだけ万人に根ざしている感覚ということですから」
死ぬ人が美しいという感覚は、万人に共通するだろうか? 頭の片隅でそう思ったけれど、それが表層意識に現れることはなかったように思う。
「小説――あの小説から、インスピレーションを得たとのことですが。なぜ、あの小説だったのですか?」
「変容――」空崎は言葉を選ぶように言いよどんだ。「それが、描かれていたからでしょうか。私は、自分が変化することを上手くイメージできない。ところがあの小説は、変容をこそ描いてみせた。身近な題材で未知のテーマが描写されると、やはり惹かれるものがあります」
やがて高速道路を降りた。この辺りは港だ。
空崎の運転する車は私を乗せたまま埠頭まで走り、
そのまま海に飛び出した。
海水面に車が突っ込んだ衝撃で体が揺れ、平衡感覚がぐちゃぐちゃになって混乱する。すごい勢いで水が侵入してきて、あっというまに私の下半身は海水に漬かった。空崎が座っている運転席の浸水はもっとひどいだろうに、彼は器用にも後部座席に移動してきた。隣りに座った空崎は、悠長に顎に手を当てて私を舐め回すように見る。
「実は次の肉体にはすでに当たりをつけていまして」
空崎は言う。
「この肉体を捨てるついでに、溺死というものを見てみたかったのですよ」
ああ、だめだ。頭おかしいわこいつ。知ってたけど。
シートベルトを引っ張ってどうにかスペースを作り、脱出しようとするが、体に絡みつく海水が邪魔で上手くいかない。窓ガラスを破壊しようとこぶしをぶつけてみるが、びくともしなかった。潮の匂いで苦しくなる。顎まで海水に浸かった。暗闇でよく見えないが、空崎がこちらを見ていることだけはわかった。
焦燥感が思考を加速させるが、なんの打開策も与えてはくれなかった。思わず空崎を殴りつける。彼は私の腕を掴んで、まるで小動物でも見るかのような優しい目をした。
「あなたの黒い瞳が絶望で歪むのは、本当に美しい」
それが私が聞いた彼の最後の声で、あとはもう水の音でぐちゃぐちゃになって何も聞こえなくなった。
鈍い音がする。ガラスを誰かが叩いている音だった。海水の中で目を開いたが、激痛で開けていられなくなってしまう。不明瞭な音だけを頼りに手を伸ばすと、誰かが私の体を引っ張った。シートベルトの拘束はなく、私は何度も引っかかりながら、社外に引っ張り出される。
誰だろう。
私の腕を掴む手があった。手袋の感触。空崎だ。目を薄く開くと、暗闇の中に彼の白い手袋が浮かび上がった。私を闇の底に誘う手だ。
どんなに優しくとも、私はそちらがわにいくわけにはいかない。
思いっきりその手を蹴飛ばしてやると、手は私を離した。何かを求めるようにふらふらと彷徨う手は、きつく瞑った瞼に隠されて、もう見えない。
■ 5
海水から引っ張り出してくれたのは祁答院くんだった。
命がけで私を助け出してくれた彼に、感謝してもしきれない。
海中から引き上げられた車に乗っていた男の名前は、
その男の名は、しかし架空のものというわけでもなかった。
八十年前……古い記録を探し回ってようやく発見したその男は、たしかに母親を殺していた。第一次世界大戦よりも前の話だった。
私は彼に出会って以来、夜の街を歩けないでいる。
夜空が空虚な穴のように見えて、そこからあの白い手が現れ、私をどこかに連れ去るのではないかという妄想が、拭い去れないでいる。
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