エクストラ Ep:王城季理絵
幕間 ジャズ・ミー・アップ ※演奏シーンあり
転がるようなキータッチ。甘美。陶酔。華やぎに音が踊る。ひとつひとつ花開く薔薇。
そして豊饒な響きのコントラバス。弦の唸りはじっと空間の密度を上げ、軽妙なピツィカートは耳の奥を重く確かな存在感で叩く。単調なリズムはトリオを前へ前へと誘導し、ピアノを時に諌め、時に鼓舞する。走りがちな演奏で、自信もあまりないような表情ではあるが、彼女の指捌きは実にプロに引けを取らない絶技だった。
スネア、ハイハット、そしてシンバルは完璧にそれぞれの役割を果たしている。繊細なビートはそのとき最も求められているボリュームを貪欲に感じ取り、冷静に見極められた打点と音色で注意深く発音される。情緒的なタムの唸りも完璧に制御されたデュナーミクにも、確固たる技術が息衝いている。トリオでは誰より年上の青年には、それだけの実力が確かにあるようだった。
しかし──
「……わお。絶望的に、あってないね」
演奏を聴き終えた神代ムジカは、思わず苦笑いしてしまっていた。
「うっさい。俺はちゃんと弾いてるだろ!」
ムジカの声にすかさずピアノから顔を出したキリエが突っ込むと、ドスの効いた脅迫に驚いたベース奏者が小さく、ひっ、と声を上げる。ガラの悪い少女よりもずっと年上であることが、その豊満なプロポーションからも見て取れるほどであるが、性格はどうやらずっと気弱なようだった。
「まあまあ。キャロルさんが怯えてますし、それくらいにしてはどうですか、ムジカさん」
ドラムの青年が穏やかに声をかけて、それにもまたキリエは噛み付いていく。二人より一回りは年下であるはずなのに、一切物怖じしない。
「お前! 本当にいけ好かない男だよな! いい加減にその傍観者ぶった態度、やめたら? 俺もお前も、そこの乳女も合わせてトリオだろうが」
「ち、ちち……っ!?」
キャロルが絶句する。ムジカは笑いをこらえられずに噴き出して、
「乳女って、そりゃさすがにひどいんじゃないのキリエ? ふふ、いくら自分の胸が足りないからって……嫉妬はダメだよ? っふ、くふっ」
「お前は黙ってろ! 俺はそもそも何も気にしてなんかないからな!」
「あ、あの……喧嘩、はっ、その……」
「お前もなんとか言え、乳女!」
「ひぃ……っ!?」
完全に萎縮して何も言えなくなってしまう哀れな子羊のような女は、涙目でうつむいた。
ピアノ、
ベース、キャロライン・アンバーフィルド。
ドラム、
一人ひとりは当代を背負って立つほどの巨大なルーキープレーヤーであるが、その
のちに幻のトリオと呼ばれる三人はしかし、現状のところ、まったくと言っていいほどに、協調性を持っていなかったのである。
◯
マサチューセッツ。バークレー校を出て、ボイルストンストリートを行けばボストン公共図書館の瀟洒な建物が見える。そのまま明るいストリートを抜けて、いくつかバックベイの路地を入ったところに、そのジャズバーはあった。
観光名所であるストリートのごく近くにありながらもまったく人気がないのは、いまだに硬派なスタイルと媚びない内装で貫いているからか、店主の異様なまでの強面か、あるいはその両方か。
キリエが重い木の扉を開けると、出迎える男がいた。面長で頬骨の張った文句なしのドイツ顔。
「……ただいま、ミカドさん」
返事はない。が、一瞥をくれるその目にはキリエを出迎える暖かく静かな光が満ちていた。
楽譜を雑に突っ込んだバッグを適当にソファのうえに放り出すと、キリエはバーの中央のステージにあるピアノの前に座る。そして傍から柔らかいクロスを取り出して鈍く照り輝くピアノに優しく布を走らせた。
御門はカウンターの向こうでキリエを見ながらグラスを磨く。営業時間前は毎日こうしていた。
キリエがひと通りピアノの手入れを終えると、御門がカウンターにグラスをふたつ置く。キリエは珍しいと思いながらもピアノから離れて、無骨な男のひとつ空けた隣の席に座った。
御門の前のグラスにはイーグルレア。キリエのグラスにはもちろんウイスキー──ではなくジンジャーエールがロックアイスを揺らしていた。
キリエが喉を濡らして、何気なく尋ねる。
「今日のレパートリーのこと?」
御門は返事をせず、わずかに首を揺らした。
「俺のピアノに何かあるのか? いいとこ、悪いとこ、何でも言って」
その素直な言葉にも首を振る。
「じゃあ……何?」
御門はじっとグラスを見つめて、わずかに傾けてから、少しだけ頷いた。
「ああ、大丈夫だよ。大学ならうまくいってる」
永い時間をかけて透き通った琥珀色に変わったウイスキーが、微熱い照明を散乱して、古い木造テーブルを彩った。キリエは顔をしかめる。
「心配しないで。せっかくあんたにもらったチャンスなんだ、ちゃんとものにするよ」
キリエのその言葉を聞いて、御門はじっと考えている様子だったが、しばらくして、一度だけ、キリエの髪を軽く撫でると、立ち上がってカウンターの向こうに戻った。
「……あー、わかった。きょうは明るい系ね」
キリエは少し照れながらも、じっとされるがままに撫でられて、照れ臭い頬を冷ますようにグラスを空けて、それからピアノの前に戻った。
日本の中学に行かずあてもなく一人、渡米したキリエを拾ったのは御門だった。それから一年間キリエは御門のバーでピアノを弾き、いつしか父のように御門を慕うようになっていた。
重いドアが軋む音が今夜の一人目を告げて、キリエは指慣らしのため、懐かしいクラシックでも手始めに遊んでみるのだった。
◯
「世界中の甘いものが、みんなここに集まってくればいいなって……おもうんです……」
純白の粉砂糖に覆われたラヴァ・ケーキにフォークを刺しながら、
「ふふ……えへへ……チョコレートの火山です」
ケーキの隙間から流れ出すガナッシュの
「うわ、どろどろ……甘い……あまぁい……」
にへら、にへらと笑うキャロルをしかし、キリエは頑なに無視する。
はたから見れば、大学生のお姉さんが中学生の女の子をお守りしているようにも見える。何しろ年齢差は六歳。十四歳と二十歳のふたりを見ても姉妹だと思いこそすれ、対等な関係だとは誰も、想像しないだろう。と言っても、キャロルの短いブロンドとキリエの黒髪では、姉妹という勘違いはそうそう起きそうにないが。
「んん……っ、んふ、んふふ……チョコのかかったとこからがいいかな……それとも、ケーキから食べようかな……」
悩みに悩むという顔でケーキをつつく。頑ななまでにキリエは漫画を読み続ける。どうやら妹のほうは無愛想らしい、手にするのは日本の少女漫画だ。あくまでそこは年相応というべきか。
「んー……まずはケーキだけで……やっぱりガナッシュと一緒に……」
ちら、ちら、と寄せられる視線にも、気づかないふりをして。とうとうしびれを切らしたのか、キャロルはおずおずとつぶやくように言った。
「き、キリエちゃんは……どっちから食べるのが好き……?」
一瞬、硬直する。
というのも、
「あの、な……」
「な……な、なに……?」
さっきまでほのぼのとした空気に包まれていたはずの、小洒落たレストランの壁際の一席は、不意に恐ろしい緊張状態に飲み込まれていた。
「っ……、っ、お、お前……」
聴く人が聴いたならば、いますぐそこに迫った噴火の音が、はっきりと聞こえていたであろう。しかし──
「…………好きなように食え。俺は甘いもの好きじゃない」
「ぅ、うん……」
キャロルはほっとした表情で、壁に立てかけてある大きな布ケースのコントラバスに触れた。
「や、遅れてすみません。キャロルさんもキリエさんもお待たせしてしまいましたね」
と、良いのか悪いのかわからないタイミングで三人目が現れる。黄月シグロ、キャロルと同じくバークレーの職業音楽科の二年生である。
その軽い物腰を見て、不意にキリエは堪忍袋の緒が切れたように鋭く非難する。
「テメエは遅いんだよ! そもそも、こんな頭がお花畑な女とケーキ食うなんてのはお前みたいな軽薄な男の役目だろうが!」
「えぇ!? キリエちゃん、私とじゃ楽しくなかったですか……?」
キャロルは急に泣きそうな顔になる。キリエはまるで子供みたいなやつだ、と狼狽えながらも、しぶしぶ否定した。
「…………いや、退屈ってほどじゃない」
「よかったぁ……キリエちゃんに嫌われたらどうしようって、思いました……」
「……そういうとこがやりにくいんだっつの」
知り合ったばかりの頃と比べればかなり打ち解けたと言えなくもない二人のやりとりを見て、シグロはわけ知り顔で言う。
「……なるほど。随分と仲良くなれたようです。僕としては仲間はずれみたいで寂しいような」
──きっ、と漫画から顔を上げて、
「なっ──」
「はいっ!」
なってねえ、と即座に反論しようとして、それよりはやく満面の笑みで答えられてしまう。シグロはますますにこやかにキリエを見て、キリエは誰を恨むわけにもいかず、横から注がれるキャロルの熱い視線を必死で受け流しつつ、恨めしげにシグロを見返すだけだった。
「ハロー? あれ、みんなもう集まってるにゃ」
そこに一番遅れてやってきたのは、三人を呼び出した当の本人。神代ムジカ。
バークレーの側、カレッジ生で賑わう昼のレストランにいるには、少し違和感がある外見の幼さはキリエと同じくしながら、どこか馴染むオーラの少女は、キャロルより幾分もボリュームのあるもっさりした金髪を後ろでひとつに束ねて、キャロルに負けず劣らずふわふわしたフェミニンなスカートに革のジャケットなんかを合わせていた。
「お前……俺を呼び出しておいて最後に来るとはいい度胸してるよな」
途端、シグロに向けられていた憤懣の視線がムジカにそっくり切り替わる。キリエのイライラは思いのほかフレキシブルであり、つまりは発散できればそれでよかった。しかし、
「そうかな? なんだかよくわかんないけど、サンクス!」
「…………お前な」
ムジカという女には、およそ皮肉というものが通用しなかった。空振りしたキリエは、かえってやる気をなくして力無く尋ねる。
「それで……今日はどうすんの?」
気付けばもふもふケーキをほおばっているキャロル、几帳面に手帳に何か予定らしきを書きつけているシグロ、そして少女マンガを流し見つつもいちおう今日の集合の意図を慮るキリエに、呼び出しの主であるムジカは──
「もっちろん。
そう言って、いたずらっぽくにやりと笑った。
◯
「あ、あのぅ……もうそろそろ、きゅ、休憩っ、に、しませんか……?」
キャロルが泣き言を言うまで、三人はひたすらセッションし続けていた。それをじっと聴いているのはムジカだけ。大学の空き教室を借りてのセッション練習は一向に進展を見せなかった。
「ダメ。だってまだできてないじゃん」
笑って茶化すような声。しかし、ムジカの表情からはいつもの軽薄さが抜けきって、空虚な笑みの抜け殻だけが残っていることを、その場の誰もが感じていた。
「で、でも……このまま続けても仕方ない、っていうか……できない原因を話し合うほうが、有意義かな、なんて思ったり……」
そんなことは誰だってわかっていた。それでも何も言い出さなかったのは──
「僕らはアマチュアですが、いずれプロになる。少なくとも僕はジャズで生きていこうと思ってここにいます。だから……自分のできないことを自分で研究すべきだ、と考えていました。そのためあえて何も言わなかったんですが」
ふと、シグロが口を開く。その口調はお世辞にも明るいものではなく。
「ま、そんなこと言ってる場合じゃないかもにゃとは思うね。面白いことできないなら、やる意味ないよ」
引き継いだムジカの言葉はずっと冷たく、突き放すようなもので、場の空気は顕著に凍った。
「……そもそも、こんな即席のピアノ・トリオで
キリエが呆れたような、興味がないような口調で言った。全員の姿勢が一気に集まる。キリエの言葉はそれだけ、重かった。
じっ、場の空気が停滞しかけたとき──
「僕は奏者として呼ばれる限りやれるだけのことをやるだけです。キャロルさんもそうでしょう」
シグロのひと言が控えめに、しかしきっぱりと発されて、弾かれたみたいにキャロルも首を何度もこくこく頷かせた。
シグロはいたって真剣な顔で、ムジカはいつの間にかにやついた顔を取り戻して、キャロルは今にも泣きそうな顔でキリエを見ていた。
しばらく、キリエはバツの悪そうな顔をして。
「……ま、他にやることもないし? つまんないわけでもないから……いいよ。べつに」
ようやく出たその言葉に、キャロルは大げさにほっとした様子で、ムジカは仕切り直すように、手を叩いて注視を促し、言った。
「よし、それじゃあこのトリオが権威あるタングルウッド音楽祭でちゃんとジャズを演奏できるように、何をすべきか……ってことだけど」
じっと続きを待つ三人に、ムジカはとびきりのいたずらを思いついたような顔をして。
「とりあえず、デートしてみよう!」
さっきまでの淀んだ空気が嘘のように底ぬけに明るい声で、そう言った。
◯
「で、なんでこうなる……」
よく晴れた休日。キリエは
右隣を見やると、キャロルがぼうっと宙空を見つめている。キリエは呆れて視線の先に手のひらをひらひらとさせてみるが、キャロルの瞳はうすぼんやりと焦点を結ばず、それでいてきらきらと照明の光を照り返して輝いている。
「……なあ、こいつ寝てんの?」
今度は左隣を一瞥して何とはなしに尋ねてみる。コンパクトな文庫本を読み耽る男は、たいして聞いていないという顔で返した。
「さあ? しかし、キャロルさんはこういうことが多いですね。白昼夢というんでしたっけ」
「はあ……」
キリエはまた大きなため息をついた。キャロルはそれにもまったく反応せず
「おいおい、これでデートって……冗談だろ」
ましてや、言い出した
キリエはにやにやしながらプランだけ押し付けて自分はドタキャンした女を内心で憎らしく思いながらも、これがまさかジャズに役立つかよ、とウンザリしていた。
しかし、地下鉄は着実に目的地へと近付いてゆくのだった。
「わ、おいしそう……! これもっ、これも……! うぅ……たべたい……っ!」
クインシーマーケットにいくつも軒を連ねる
「……あーもう。食べたいんならそうすりゃいいだろ? 好きにしろっ」
その上目遣いに耐えかねたキリエが、しぶしぶ了承すると、キャロルは心底うれしそうにこくこくと頷いて、小さなポシェットから財布を出して、今にも踊りだしそうな足取りでその菓子を買いに行った。
めまいがしそうになったキリエが目頭を押さえると、
「キリエさんもたいがいキャロルさんには甘いですよね。僕にもそのぐらいやわらかく接してくれるとありがたいんですが」
ムジカのそれとはまた違った温厚な笑顔で、笑いながら言う男。黒を基調に選ばれた落ち着いた私服は今までのイメージと寸分違わない。きっちりと、かっちりと。几帳面さが見た目からさえ伝わってくるようだ、とキリエは半ばうろたえる。
「は? なに言ってんの」
「はは。冗談です」
「ぐ……」
にこやかな表情を崩さないシグロに恨めしげな視線を向けて、
「……お前にはもう、ぜったい優しくしてやらないからな」
「それは残念です」
心無い言葉と鉄壁の笑顔にキリエがますますウンザリしていると、菓子を買いに行っていたキャロルが浮ついた足取りで戻ってきた。
「みてくださいっ! かんのーろ? っていうお菓子なんですって! 外側はカリカリで、中はこんなにとろとろのクリームがいっぱいですっ!」
かじったあとのあるそのパイ生地からは確かにあふれんばかりのクリームが見える。ついでに、キャロルの口端にも同じ色。分かりやすいやつ、とキリエは思った。
「お、ありがとうございます。ふむ、これはリコッタチーズですかね。酸味もあってなかなか」
で、何ちゃっかり食ってるんだこいつ。
「ん、んん……キリエちゃんも食べますか?」
ただでさえアホらしい顔なのにクリームのせいでもう神がかり的にアホだ。呆れて物も言えないから、仕方なくひとくちかじった。
「……まあ、甘さ控えめって感じでいいんじゃないの? 普段食べないから良し悪しなんか、俺にわかんないけどさ」
「……! えへ、えへへ……喜んでもらえて、とってもよかったです!」
思いのほかおいしかったペストリーに照れくさい感想を手早く述べると、キリエは顔を背けた。しかしキャロルはニコニコしてキリエにべたべた引っ付いてくる。
「おい……うっとうしいからやめろっての!」
それでもキリエはいつもするように無理やり実力行使してでもキャロルを離そうとはしなかったから、シグロはそれを見てニヤついていた。
イタリア人街を抜けるとフリーダムトレイルが見えてくる。ボストンコモンからバンカーヒル記念館までを繋ぎ、道路に書かれた赤い線をたどればボストン市内の主要な観光地十六箇所を巡ることができる、ボストンでは一番人気の観光名所。
ボストンはアメリカ建国史にも深く関わる歴史のある街だ。十七世紀、イギリスから渡ってきたピューリタンたちの街。あちこちに赤レンガでつくられたヨーロッパ風の建物がまだ多く残されている。
一年前にここに来たキリエはともかく、キャロルもシグロもボストンは庭のような町であって、観光する場所ではない。そのうえキリエこそ観光に興味を示す女ではない。
ひと通り道並みを見た三人があっさりフリーダムトレイルから外れて、気の向くままに向かった先はというと。
小気味好い金属音を立ててカッ飛んだのは150キロの豪速球。おー、という無感動な声と共に手のひらを額にあてて、飛んでいくセンター返しを眺めるのは、王城キリエ。
周囲の利用者が唖然として開いた口をふさがらなくしている中、なにげなく言う。
「バッティングセンターなんか初めて来たけど、けっこう気持ちいいもんだな」
キャロルなんかは取り乱しすぎてあわあわ言ってしまって、シグロは呆れたようにぼやいた。
「……滅茶苦茶ですよ。キリエさん」
信じられないほど細い腕で打つ。打つ。打つ。シグロは相手がピッチングマシーンでよかった、と心底から思った。もしも本物のピッチャーであったら、プライドを完膚なきまでに打ち砕かれて、選手生命を絶たれていたかもしれない。
「ふー、満足した。なんだかんだ打てるわ」
「いや普通は打てないですから」
シグロが座る三人掛けのベンチにわざわざ一人分の間を空けて座るキリエは、さっき買っておいたボトルのペプシをあおる。キンキンに冷やされたそれは滴る水を湛えていた。
「おーし、キャロル。行け!」
「ひゃいっ!?」
さっきからこっそり逃げ出そうとしていたキャロルが声をかけられて弾かれたように振り向く。ロボットみたいな挙動。シグロはその哀れな子犬のような目に内心で同情した。
「えー……えー……ほんとに、やるんですかぁ? わたし、こういうの向いてなくて……」
「向いてるも向いてないもあるか。そんなに難しくないからやってみなって」
キャロルがガクガク震えながらバッターボックスに立つ。
「き、キャロライン! 打ちまぁすっ!」
明らかに打てる姿勢じゃないまま、150キロの直球が空を切る。音に怯えて腰でも抜かすかと心配したシグロだったが、キャロルは果敢にもフルスイングした。
「ひぃん!」
──まあ、掠りもしなかったが。
明後日の方向に振り抜かれたバットはそのまま力ない手から抜け落ちてカラカラと高い音を立てる。それでもキャロルは諦めない。
またバットを拾っては唇をぎゅっと噛み締めて変な構えをする。空振り。カラカラン。涙目で拾う。空振り。カランカララ。ひんひん言いながら拾う。空振り。カララン。
「……ダメみたいですねこれ」
「……マジで向いてないのな」
キリエが密かに笑いを堪えているのを見てシグロは悪趣味ですよ、とぼやいた。
キャロルが無限に空振り続けるのを二人で眺めるだけの無言の時間。少しの間隙をもって、シグロは何気なく話し始めた。
「キリエさんにとって、ジャズとは何ですか?」
「は?」
唐突な質問に思わず険が出る。シグロはたいしたことじゃないんです、と前置いてから続けた。
「僕が聴いた限りですけど、キリエさんの演奏は誰かのための演奏なんです。あなたより年上のキャロルさんだって
「はあ……まあ俺はここ一年くらい、顔馴染みのジャズバーで弾いてるからな。直接客相手の音楽やってる奴ならみんな、多かれ少なかれわかってることだろ」
「そうかもしれませんね。でも、それをわかっているのといないのとでは大違いです」
「そうか? 大して変わらねぇよ」
何でもないことのように否定するキリエに、シグロは苦笑いをした。
「いいえ。違うんですよ……
シグロは首を振る。眩しいものでも見るように目を細めて、自分でも処しかねているような複雑な感情を覆い隠すように、言った。
「ムジカさんはそれだ。彼女は誰かに理解される音楽なんて、初めから求めていないんですよ」
◯
僕はこっちなのでと断って別れたシグロは律儀に今日のお礼を言って電車の中に消えていった。
すっかり日は暮れて、店々の灯りが煌々と照らすボストンの街は昼間とは別人のように違う顔をみせる。キャロルはバッティングセンターを出てすぐこそへばっていたが、今となっては鼻歌なんか歌うほど上機嫌だった。
帰りの車内でもさして話すことはなく、キャロルが変わらずぼうっと宙空を見つめたりニコニコしてみたりを繰り返すのに、呆れながらも慣れつつあるキリエがいた。
シグロは大学とは違う方面に住んでいるようだが、キリエとキャロルは揃って大学の近くなので、必然的に降りる駅も同じになる。
キリエはちょうどいい頃合いで別れるつもりだった。明日もレッスンがある。本番の音楽祭までは時間がないのだ。だからこそ早く帰って身体を休めるべきだと考えた。
図書館の灯りが見えてきたとき、キリエがなんとなくはっきり別れを告げるのも気恥ずかしくなって、ふらっと向きだけを変えて、キャロルには手を挙げて挨拶する。
それで、煩わしかったはずの今日のデートもどきは晴れて終わり──と思われたのだが。
「……あ、あのっ、うちに来ませんか?」
キリエの服の裾のはじっこをおずおずとつまんで、上目遣いに覗き込んでくるキャロルの顔を見たとき、
「ま、まあ……別に用事もないし、いいけど」
はじめて会ったときからいずれ悪い男にひっかかるのではないかと心配していた女が、まさかじっさいはひっかける側だったのではないかと、キリエは自分の錯誤を呪った。
シックな黒やブラウンの木目調に落ち着いたシステムキッチン。IHのクッキングヒーターで料理をする女は相変わらず鼻歌まじりのご機嫌である。
手持ち無沙汰に座っているダイニングテーブルからは彼女が忙しく行ったり来たりしているキッチンが覗ける。すぐできますから待っててくださいね、と言われたものの、正直言って落ち着かない。
忙しく時計などを気にしているうち、不意に呼び出しチャイムの鳴る音がした。思わずびくっと反応するキリエ。
「あ、もしかして帰ってきたのかな」
キャロルはヒーターを止めて濡れた手をエプロンで拭うと、ちょっと待っててくださいなんて言いながらキッチンを出て行こうとする。玄関はダイニングを出て廊下の先だが。
まさか、来訪者はキャロルのいわゆる男ではあるまいか──
帰ってきた、と言うのだから宅配なんかではないだろう。玄関に迎えに出るときのヤツのニコニコ顔からして、相当親しい間柄の人物であることは想像に難くない。
キリエの心中を、自分をなし崩し的に部屋へと連れ込んだ女の魔性の目がよぎった。
ごくり、と固唾を飲んで恐るおそるながらも少しだけ廊下に顔を出す。キャロルが向かった玄関のほうを見ると──
「おかえりなさいっ!」
キャロルが、中年の男とハグしていた。
急いでテーブルに戻って勢いあまって足をぶつける。脳裏に走る痛みのノイズの中でなかばまとまらない思考をかき回した。
要するに、よりによって中年かよ、といったことである。
キリエは頭痛に耐えきれずテーブルに突っ伏す。ますます混乱してきた。廊下を歩く二人分の足音は少しずつ大きくなる。焦りは次第に
「あれ? キリエちゃん、寝ちゃったの?」
変わらない呑気な声に呼ばれても頭を起こす気にならなかったキリエは、死にそうな声で言う。
「いや、俺はお前が気にしないならいいんだけどさ、せめて一言くらいな……」
「そうだ! 彼を紹介しなくちゃでした!」
いや紹介されても、と言いかけて、不意に聞こえた覚えのある声にキリエははっとした。
「紹介も何も、そんな必要ねえだろ」
ゆっくり顔を上げると、そこにいたのはキリエら急造のピアノトリオにタングルウッド音楽祭で無理やり弾かせようとした張本人。
キリエは一瞬にしてウンザリして、目の前の男がキャロルの恋人か何かで間男じみた気まずさを感じたほうがよほどマシだった、と思った。
「グッドイヴニング?」
バークレー職業音楽科の講師にして、キャロルの正真正銘の父親、ノーマン・アンバーフィルドが、にやついた顔でキリエを見た。
「うちの娘の料理は絶品だぞ? なんたって俺が料理なんかしないからな」
「偉そうに言えたことかよ」
「ヤハハッ! 違いない!」
しかしノーマンの言う通り、食卓に次々と並べられる料理はどれも実に美味しそうだった。キャロルは父親のばかげた褒め言葉に心底から嬉しそうにニコニコしている。
「お父さん、パンはいくつ?」
「二つでいいや。それよりこの前のワイン開けてくれ」
ローストビーフを口に運んでいたキリエの手が止まる。キャロルは、はぁい、と答えるとキッチンに下がった。
シーザーサラダをつまみながらキャロルを待つノーマンに、キリエは言う。
「夜も飲むわけ?」
「まあな。ワインは俺の血液だから」
どこか娘の面影を見るにへらっとした笑いかたにキリエは嘆息する。
「昼間はバーボンだろ」
「バーボンは俺の骨肉となる」
「……テキトーなやつ」
そう、実にテキトーな男なのだ。ノーマンは変わり者の多いバークレーでもひとつ抜けて有名なレッスン中に飲酒する講師だった。
はやく大学はこいつをクビにするべきだ、とキリエは初めて会った時から思っている。
「そういや、キリエ。そろそろ音楽祭も近付いて来たよな? トリオの調子はどうだ」
「どうもこうもねえよ。お前の無茶振りのお陰でめちゃくちゃだ」
「ヤハハ! いいことじゃないか」
「もう酔ってんのかよ……つか、あのバカトランペッターは出るの?」
「ムジカのことなら、出ないよ。そもそもお前らがタングルウッドに出るのはあいつの代わりだからなあ……」
「は? 初耳なんだけど」
「まあ、初口だからな」
「おい」
「いや、そのままの意味だよ。音楽祭の運営から直接オファーしたが、ムジカが蹴ったんだ。いちおうあいつはバークレーに在籍扱いだから、こっちは体面を保つために代役を用意しなきゃならなくなった。それがお前らトリオ」
「はあ……あいつ、そんなふざけたことしてんのかよ。代役として俺を弾かせようとしてることにキレようと思ったが、あいつのやり方のほうがずっと気に食わねえ」
「まーまー! 色々あんだろあいつにも」
ぐちゃぐちゃと無駄話をしているうちにキャロルがワインと三人分のグラスを持ってくる。
「おい、未成年者に酒を飲ませるつもり?」
「そうだぞキャロル。女の子に酒を飲ませて連れ込もうなんてのはまだ、お前には早い」
「え、あ! そうでしたあ……キリエちゃんは、まだお酒飲めないんですねえ……」
「馬鹿野郎。そこじゃないだろそこじゃ!」
よく見るとキャロルの目が据わっている。手にはすでに濡れた彼女のぶんのワイングラス、そしてワインボトルからはグラス二杯以上のワインが失われている。
「うわ、さすが俺の愛娘だ……もうへべれけじゃないか。俺に黙って俺のワインを飲んだのかよ、ええ?」
ノーマンは呆れたような声を出しながら、自分のグラスにもワインを注いで、キャロルに悪絡みした。キャロルは親譲りのにへら笑いで応える。
「お父さんがもらってくるお酒はいっつも美味しいんだよお〜」
「ヤハハ! 俺の知り合いはみんな酒にうるさいヤツばかりだからな!」
「ロクでもない集まりだな」
そうこうしているうちに、キャロルは自分の席に座ると、ばったりテーブルに伏せて、すんすん寝息を立て始めてしまった。
ノーマンはゲラゲラ笑いながら自分のグラスにもワインを注ぐ。そしてまるで水のように飲み干すと、またゲラゲラ笑った。
「……あのさ、俺帰っていい?」
「せっかくお前のために腕をふるって作った料理だぞ? 残して帰るのかよ」
「うっ……」
目の前に並べられた料理の数々は、確かに気合が入っているように見える。少なくとも残り物であるはずがない。
「作ったのお前じゃないだろ」
「俺の娘が作った」
「わかったよ……もう少し食べる」
「よろしい。物分りがいい生徒には得点をやる」
「うるせえ……まあ、美味いしな」
仕方なく、というか、どうしようもなく、キリエは面倒な酔っ払いの相手をしながら料理に手をつける。どれも店で出るようなものじゃないが、温かみのある家庭の味だった。
「俺の娘が出るんだから、ひどい演奏をして恥をかかせるんじゃねえぞ」
「黙れ。誰に言ってんだ」
「キリエ……お前は上手いが、他のプレーヤーのことをもっと信用しなきゃダメなの」
「余計なお世話だ」
キャロルの寝顔を眺めながら、ノーマンはワインを飲む。気付けば日付が変わるほどに夜が更けていた。
「そろそろ帰るぞ。ミカドさんに心配かけたくないんだよ」
名前を出すとノーマンは酒に溶けた目を少しだけ見張る。そして徐ろにスマートフォンを操作し始めた。
「……ハイ、デュード!」
キリエは内心、おっさんが若者ぶりやがって、みたいなことを思うが、流石に電話中に言うほど常識がないわけではない。
「ええ、そう……うん。ちょうど今、ウチにいるんだよ。だから……」
電話しているうちにあらかた片付いた料理の皿を運んでしまう。するとさっきまで酔い潰れていたキャロルがむにゃむにゃ言いながら起きてきて、片付けを手伝い始めた。
「……よし、じゃあそういうことでな。心配しないでくれよ、娘もいるから……おい、ツケは近いうち払うってば。常連の俺をちょっとは信用してくれ……」
テーブルを片付け終わると、ちょうどノーマンの電話が終わったようだった。
「じゃあ、俺は帰るぞ。今晩は世話になった」
「これぐらい気にしなくていい」
「お前じゃねえよ。キャロル、まあ、その……美味かったよ、わざわざありがと」
「いえいえぇ、喜んでいただけたらわたしもしあわせですからぁ……うふ、ふふ……」
さすがに酔いが残っているのかキャロルの声はまだふわふわしている。キリエは呆れながらも辞去の挨拶をしようとした。
「お、おう……じゃあ、帰るわ。また大学で」
と、玄関に足を運びかけたところで。
「ところで、ボストンはこんな深夜だから、ガキが一人で外に出たら危ないだろうな」
「ガキ扱いすんなボケ!」
反射で言い返すが、キャロルまでもが父に同調する。
「確かにそうです、車で送ってあげられればいいんですけど……」
「あー、困ったなあ。俺も娘も酒が入ってるから、運転ができないぞ」
「んん〜困りましたぁ〜」
「…………お前らな」
あまりにわざとらしい演技に、キリエは思わずため息をついた。
「じゃあ、ミカドさんに訊いてみるからちょっと待ってくれ」
「あ、それならさっきもう電話したから」
「は?」
そう言えば、ノーマンはさっき誰かに電話していた。ウチにいるとか、心配するなとか言うのはつまり、キリエのことだったのだ。
「じゃあじゃあ、キリエちゃんは今晩お泊りするってことですかあ!?」
「仕方ねえよなあ……もう深夜だぞ」
「やったー! やったやった!」
「子供みたいにはしゃぐなよ……」
と言いつつ、なんだかんだで泊まることになっても、それほどに抵抗を感じていないらしい自分を、キリエは不思議に思っていた。自分はそれほど簡単に他人に気を許すタイプの人間ではない、という思い込みはキリエの中に根強くある。
しかしキャロルに連れられてシャワーを借り、パジャマまで借りたキリエはもうどうにでもなれと割り切った。パジャマの胸囲が妙に緩いことが無性に我慢ならないことを除けば、だが。
◯
赤やピンクで飾られた、年齢にしてはやや幼いと思われる少女趣味に飾られた部屋。ベッドの上にはいくつものぬいぐるみが主人の帰りを待っていた。キリエは一種、感動的な気持ちになった。ボストンの女子大学生の部屋とは、まるでちょっと思えない。
日本の家であれば布団の一枚や二枚、備えてあるだろうから、急な泊りの客人にはそれを貸して与えれば良いが、キャロルの部屋には当然布団など置いてあるはずもなく、またベッドの代わりになるソファなんかもない。
必然的に、キリエはキャロルと同じベッドで身を寄せ合って寝ることになった。当然、本人はまったく乗り気じゃないのだが。
「ごめんなさい……せめてもう少し広いベッドならよかったんですけどぅ……」
「わかった。もういいから早く寝よう……明日も大学あるだろ、つか酒臭い」
「えー! ごめんなさい……ちゃんと歯磨いたのにぃ……まだお酒の臭いですかぁ? やな臭いですか? キリエちゃんは、お酒飲む女の子なんかきらいですか……?」
「ちょっと待て。話が脱線してるだろ!」
うーとか呻きながら涙目になって擦り寄ってくるキャロルを押しのけながら、キリエは自分のスペースをなんとか確保する。内心ではキャロルの無駄に柔らかい肉に辟易していた。
「ライト落とすから」
「えー! まだお話ししましょうよぅ」
「ダメ。眠いから寝る」
キリエが部屋を暗くしたうえに背中を向けてやるとしょんぼりした様子で黙る。少しの間、部屋は静寂に包まれた。
「……キリエちゃん、もう寝ました?」
「寝た」
「んもぉ、寝てないじゃないですか……」
思わず舌打ちすると、いつもなら怯えてしまうキャロルも酔いの勢いからか、抗議するようにキリエを背中からぎゅっと抱いた。
「暑いんだけど」
「んー……キリエちゃんはどーして、ジャズをやってるんですか?」
「話、聞いてるか?」
ため息をつきながら、キリエは仕方なく考えてみることにした。そういえば今日はシグロからも同じようなことを訊かれた気がする。
「なんでっつっても、大した理由はねえよ」
「えー、ほんとですかぁ?」
キャロルは少しだけ、キリエをつかまえる腕を緩める。
「小説じゃあるまいし、誰でも音楽に信念を持ってたり、大きな目標があるわけじゃないだろ」
「そりゃあ、そうですけど……」
「つまらない?」
「うーん、でも、キリエちゃんのお話を聞けるのはとってもうれしいですから」
キャロルの腕は、優しくキリエを包み込んでいる。その優しい体は、いつでも研ぎ澄まされた刃物のようなキリエの感覚を、どこか鈍くしてくるからこそ、キリエはキャロルが苦手だった。
「……じゃ、つまらないけどひとつぐらい話してみるか。少しくらいつきあってくれる?」
「もちろんですよ。喜んでお付き合いしますっ」
何から話したもんかな、と前置いて、キリエは誰にも話したことのない、ひょっとすると自分でも深く考えたことのない、彼女自身の話を、少しずつ紐解き始めた。
「……初めてジャズに触れたのは、物心が付くよりも前のことだ。父親がジャズピアニストでなあ……でも、大した人気はなかったよ。CDをいくつか出してたみたいだが、まったく売れないって自分でぼやいてたからな。でも、俺はあいつの音楽が大好きだった……いいや、俺にとっては父親の音楽が世界のすべてだった。俺には母親が居なかった。俺を産んですぐに死んだらしいよ。記憶もないから悲しくないけど、俺には父親しかいなかった。小学生も中学年の頃か、俺は初めて父親に殴られた。拳じゃなかったから本気じゃないだろうが、娘を殴るんだからひどい親だよな。俺はあんたみたいなジャズがやりたい、って言ったんだ。あいつは、絶対に許さない、と言った。大喧嘩したよ。普段はよく喋るヤツで酒を飲んでなくとも酔ってるみたいな明るい人でね、だけど怒ると無口になるんだな、その時初めて知った……。何度も何度も頼んで、ジャズをやらせてもらおうとしたけど、あいつは言葉通り、本当に許そうとしなかった。何を考えてるのか当時の俺にはわからなかったけど、今ならわかるよ。あの時に父親の忠告に従ってジャズなんかやめちまえばよかった、と思ったこともある。あまりにも俺がしつこいんで、父親は折れたのか俺にピアノを買い与えた。これでジャズが弾ける、と思った。だけど父は俺にジャズなんかひとつも教えてくれなかったよ。最後の最後まで抵抗して、その一環として俺にクラシックの講師をつけたんだ。ひどいだろ……自分がジャズだけで生きてきたからツテも何もないくせに、必死で方々に声を駆け回って無駄に有名な講師を呼びやがった。俺はまんまと乗せられて、しばらくはクラシックピアノを練習させられる羽目になった。俺はそのクラシック講師にもジャズがやりたいって何度も駄々をこねて困らせたんだ。でも、ジャズがやりたいならこれぐらいは弾けるようになりなさい、絶対に無駄にはならないから、って説得されて、嫌々ながらもクラシックをやってた。別にクラシック自体は嫌いじゃなかったし……どうしても古臭いのは肌に合わなかったけど。そうして、俺が不本意にクラシックをやってるうちに、俺のジャズの憧れそのものだった、音楽の原型だった、父親が死んだ。もともと治らない病気で、長くなかったらしい。それでも晩年は国内で客も集まらないのにコンサートなんか演って、俺はすっかり元気なんだと思ってたよ。バカだよな……養生すりゃいいのに、死に際に必死で弾いたんだ。ホタルみたいな死に方だった。俺は、何かがスッカリ抜け落ちたみたいな気分だった。父親が死んだことはそりゃ、悲しかったが……それよりも漠然とした喪失感のほうがずっと強かった。父親と、音楽とは切って切り離せなかったから。ピアノをやめようと思った。じっさい、しばらく弾くのをやめたんだ。そうしたら、すべてから解放されたような気持ちがしてずっと気が楽になった。どうして俺は、そもそもジャズなんかやろうと思ったんだと考え始めるまでになった。クラシックの講師もしばらく休みをくれて、俺は一人になった。それまでは興味もなかった学校や勉強もしてみた。友達は面倒だったが、それなりに話をしてみようともした。でも……なあ、俺には無理だったよ。それに気がついて、初めて泣いた。父親が死んで初めて、涙が出た。俺はジャズが好きだった。父親のことが大好きだったんだ、って。俺はもう一度ピアノを始めた。クラシックにも文句を言わず必死で練習した。しばらくして、講師が父の遺言とかいう手紙をくれた。自分が死んでからもピアノを続けていたら渡すように、そうでなければ燃やして処分するように頼んであったらしい。中には、ボストンの知り合いの連絡先と、大学への紹介状があった。俺は講師の制止も気にも留めずに、アメリカに渡った。それからはずっと、父親の知り合いだったバーのマスターに世話になりながら、ジャズに浸かって生きてる。バークレーで学べるのはジャズプレーヤーにとって大きなアドバンテージだ。俺は在学中に手応えを掴んで、父親よりもずっと優れたピアニストになるつもり……なんて、ね。これが俺のつまらない昔話だ。小説なんかじゃない、ありふれたガキの身の上話。どう……期待どおりつまんないだろ?」
キリエがそっと振り返って、キャロルの顔を見つめる。暗い中でどんな表情をしているのか読み取れなかったが──
「──は、はは。マジかよ、おい」
すー、すー、という気持ちのいい寝息が聞こえてきて、こいつは寝ているのだと実感した。今まで何のために長い昔話をしたと思ってるんだ、と憤りそうになって、
「はあ……まあ、いいや。いい演奏をしよう。キャロル……」
キリエは自分をぎゅっと抱きしめながら眠る彼女の目尻に浮かぶ、小さな涙を見つけてしまって、何も言えなくなった。
結局すっかり白んだ空を見つめながら、自棄になりつつ寝ようとするのだった。
◯
ドラムロールが一瞬、素早く駆け抜けて演奏が始まる。疾走するようなシンバルの揺れは幾度とフレーズを繰り返し、踊り手を待ちわびる。シグロは十分に愛想を振りまくように叩いて、それから濡れた瞳で二人に目配せをした。
そして、ピアノが踊り始める。
初めは試行錯誤でもするようにステップを踏む。ダブルベースはリズミカルにピアノをエスコートする。二人の舞踊はシンバルの雨の中を優雅にかい潜り、やがて激しさを増してゆく。時には強く、時には恐るおそる運ばれる脚さばきは、初心者のように、また玄人のように、なめらかに踊ってみせる。あるいはつんのめってみせる。愛らしい踊り子の姿は観客の目と耳を釘付けにした。
『
ベーゼンドルファーの97鍵盤を縦横無尽に駆け回るその豪快なピアノは、キリエの小さな手のひらによって信じられないスピードで再現される。本来であれば恵まれた指の大きさでしか為せないその離れ業を、鍛え上げられた指の速度だけで熟すそれは、クラシックの早弾きにも通ずる基礎技術の高さから来ることを、この場のどれだけの人々が理解しているだろう。
あるいは指につかえて走ったり、転びそうになることさえ計算であるかのように弾く。その姿はまるでまだ十四に満たない少女とは思えない、老練した指捌きだった。計算され尽くした危うさ。それはもはや、ピアノを始めて数年の若いピアニストに出せるものではない。これは天性の才能。あるいはセンス、とでも呼ぶべきものだった。
ピアノが自然に道を開けて、深くて重いベースの音を披露する。キリエより年上のキャロルは年齢で驚嘆されないが、それでも十分に視線を集めているのはその技術のためだろう。キリエが異常に熟練しているせいで目立たないが、その腕は大学生の域ではない。指弾きは糸弾きに一分も劣らないほどに恐ろしく洗練された豊かな音色を持ち、完璧に制御された
キリエはベースの動きに合わせて
ロールが独特のリズムを繰り返し、
少しずつ寄せる波が大きく、高くなる。ごく僅かに幅を広げる音の波は、大きく伸びて収束してを繰り返しながら空気に染み込む。その快感に身を寄せると、一瞬で音が消え去って、再び慣れ親しんだダブルベースとピアノが復帰する──クライマックスの再現部。
盛り上がりは最高潮に達している。キリエも、キャロルもシグロも、お互いがお互いを誰よりも深く感じていた。
それがいま、終演を迎えようとしていた。
タングルウッドの野外会場のずっと隅、興奮と熱狂と静寂とに代わる代わる支配される
「んふ、んふふぅ……にゃは、にゃはは……こんなにいい演奏してくるなんて、ねえ……」
彼女にとって、じっさい即席ピアノトリオの演奏は期待すべきものではなかった。個人の技能はずば抜けて高いことは初めからわかっていたが、音楽というものはそれだけで成り立つものではないからである。むしろ個人の演奏技術が高ければ高いほど、それが集まった時の合奏はまとまりづらいのだ。プロでもないアマチュアの奏者が、たった数日間の準備期間で仕上げられるはずはないと思っていた。しかし──
「こんなのもらったら、あてられちゃうよ……」
ムジカはじっと群がるオーディエンスの中からたった一人を見出す。そして躊躇なく手首を掴むと人ごみから引っ張り出した。
「ちょ、なに、何!?」
「ハロー♡ 今から私とイイコトしない?」
「……はぁ?」
心底迷惑そうな顔をするのはヴァイオリンのケースを持った中学生ほどの女の子だ。ムジカとは同い年くらいになるので、容赦なく嫌な顔をする。まあ年上でも嫌な顔をする女だが。
「あの、そっちのケはないので他を当たってもらえます?」
「やーだなあ。ちょっと私のトランペットの伴奏をして欲しいってお願いしただけじゃん」
「はあ……」
少女はますます困惑する。自分の持った木製のケースを掲げて言った。
「見て貰えばわかるだろうけど、私はヴァイオリニストよ!ㅤピアノは……」
「弾けないわけない。私だってその指を見ればわかるよぉ? 今でもピアノ弾いてるんでしょ?」
「ぐ……、なんで私があなたの伴奏なんかやらなきゃならないのよ! というか、私の専門はクラシック! ジャズの伴奏なんか……」
「お願い」
「な、に……」
たった一言。それだけで、彼女は黙らされてしまっていた。彼女自身、自分が何に威圧されているのかわからなかった。
「……後悔、させないから。ね……?」
無茶苦茶だ。そう思いながらも、逆らえないそのオーラを何よりも、少女は恐ろしいと思った。
◯
会場はむせ返るほどの熱気に包まれ、聴衆の誰もが思っていた。このトリオは紛れもなく一流だと。いずれまた、ジャズシーンに戻ってくると。
キリエはピアノから立ち上がって、熱に浮かされたように手を挙げた。彼女は演奏中、頭が真っ白になるタイプだ。演奏のことをまったく覚えていないことさえあるのだ。
続いてシグロもキャロルもそれぞれ聴衆に挨拶して、いよいよ
トリオが浮かされたようにゆっくりとステージを降りる。そして、観衆の熱も冷めやらぬその時に、ステージに飛び乗る影があった。それに遅れてもう一人がおずおずと登る。
聴衆はほとんどがそれに気がついていないか、気がついていたとしてもそれがプレーヤーだとは思わなかった。さっきまでの演奏に熱を上げていたからであり、その二人があまりにも幼過ぎたからである。キリエも同じほど幼いが、トリオには大学生のシグロとキャロルがいた。だからこそ、その二人は異質だった。
誰よりもその影に驚いたのは、演奏を終えて舞台の袖で息を整えていたキリエだった。
「な、んで……あいつは」
続きを口にする前に、会場を一閃貫くトランペットの音圧。すべてを切り裂くような鋭い音色に聴衆は思わず傾注させられる。それこそがその女の能力──誰よりも優れたモノ。
「ハロー! 突然だけど、ジャズってのはどんなものだろう? ここにいるみんなにとって、ジャズって何? 音楽のジャンル? それとも自己表現のやりかた? コミュニケーションツール?」
ステージの上のマイクを使って、彼女は心底愉快そうに語りかける。会場を覆う熱でさえも消しがたいほどのより大きな熱をもって。
「──どれも違う! ジャズはエンターテインメントだよ!」
ひと息に言い切る。その言葉はまるで、幼い少女のものではなかった。
「あのトリオの音楽は、
ピアノの少女がいくつか鍵盤を試し弾く。ブーイングが起きてもおかしくない予定外だ。こんなトランペッターの演奏は、プログラムにないのだから。
「もちろん、そんなジャズは否定しない。だけど私はこうも思うんだよにゃあ……」
トランペットを高く掲げて、黄金の曙光を会場すべてに注ぎ込むその声は──
「私のジャズは、お前らのためなんかじゃない! 私は私のためにジャズを演る! 理解されなくて結構! わかる奴だけ聴いていけ!」
誰よりも、高らかに。
「……にゃあんて、ね♡」
興奮を抑えられないといった様子の少女の合図をもって、ピアノ伴奏は無理やり引きずり出される。彼女のトランペットを持ってすれば、自然とリズムが出来上がり、滑らかな
キリエは今にも叫びだしたくなった。
誰にも媚びないジャズ。自らの音楽を芸術だと言い張って譲らないような、他の誰でもない自分にしかできない音楽を聴かせてやる、とでも言いたげな、その演奏──自信と実力に満ちた、その威風堂々たる姿に、キリエはおぞましいほどの不一致を感じたのだ。
自分とは違う。あいつは、違う世界の人間だ。
シグロの言葉が蘇る。初めてその意味を理解したキリエは、薄気味悪いほどに嫌悪していた。
自分はこんな音楽を許せるのだろうか。今にも心を打ち壊されそうなほど、キリエはムジカのトランペットに動かされている。彼女の演奏は掛け値なしに素晴らしい。練習なんてしていなかったはずなのに、伴奏者だって急に見繕っただけの相手のはずなのに、ムジカの音楽は変わらぬ輝きを放っている。
水を含んだ重たげな枯葉が目の前に浮かぶような凄まじい臨場感。そして艶。すべてが超越した演奏だ。悔しいけれど、今の自分にはこんな演奏はできないと思った。それでも──
「こんな、こんな演奏が……」
トランペットはやがて終焉に向かって走る。その足取りは重く、また軽やかだ。聴衆は新たな興奮にすでに飲み込まれている。たとえ当のプレーヤーがいっさい彼らのことを考えていなくとも。貪欲に、ただ自分の信じる音楽だけをひたすらに追い求めていたとしても。
キリエはムジカの演奏が終わってから、しばらくの間も立ちすくんで動けなかった。これは王城キリエが神代ムジカを明確に敵対視した、初めての出来事だった。
その年のタングルウッド音楽祭は、後年まで知る人ぞ知る伝説のセッションとして、語り継がれることになった。
コンチェルト くすり @9sr
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