料理雑誌と少女漫画
「……いつもありがとうございます」
物静かな男性の
「ごゆっくり」
私もあいちゃんも黙って会釈して、とりあえずカップに口をつけた。親しんだ香りが鼻腔を通り抜ける。やや気温の上がった今では、ホットドリンクじゃ少し暑いくらいだ。
それでも、古い木で作られた店のインテリアはどこか涼しげで、窓からはときおり風が入る。一度も話したことがない寡黙そうなマスターも含めて、私はこの喫茶店が何となく気に入っていた。
「みかちゃん、お砂糖いる?」
「ううん、大丈夫。ありがとね」
入学してから二ヶ月ほどが過ぎ去り、あれほど綺麗に咲いていた桜はすっかり散ってしまった。第一回の学力考査は可もなく不可もなしといったところで、私もあいちゃんも答案返却のたびにいまいち一喜一憂も出来ない微妙な感じだった(あいちゃんの数学と楽典に限ってはすごく点数がよかったのだけれど、あいちゃん自身は満足していないみたいだった)。
そしてまあお察しの通り、ことみちゃんの学科試験の点数には赤くないほうが少なかった。全科の合計点があいちゃんの例の二科目の合計点より低いと言えばわかってもらえるだろうか。
……うん。まあ、なかなかひどいよね。
五月も半ば、すべてのテストの結果が返ってきた日の放課後、私とあいちゃんは、学校の近く、駅前のいつものカフェで、教科担任に呼び出されたということみちゃんを待っていた。
あいちゃんはいつものカフェオレで、私はアールグレイのアイスティー。
店内には軽やかなオペレッタが流れていて、放課後にしては少ない客足とともに心地よい静けさをつくる。あいちゃんが半分ほどになったコーヒーカップを傾けて言った。
「そういやさ、みかちゃんの個別レッスンってどうなったの?」
作曲科のあいちゃんには個別レッスンがなく、代わりに楽典の実習講座があるらしくて、器楽科のレッスンに興味を持っているみたいだった。
私は何気なく答える。
「この前は断られちゃったから、適当に先生見つけてお願いしてるとこ。……でも人気ある先生は初回の講座で予約埋まっちゃってるらしくてね、わりと難しいかも」
言ったとおり、私は何故か最初に希望した私たちのクラスの担任・梶祐介先生にレッスンを断られているのだ。
音楽の世界では、先生の方からレッスンを断ることは、じっさいそんなに珍しいことではないけれど、私たちがいるのは私立高校で、しかも梶先生はとんでもない人気講師、ってわけでもない。
先生に嫌われるようなことでもしてしまったのかな、と自分の態度に思いを巡らすけれど、そんな心当たりはぜんぜんなかった。
「なんで突然ドタキャンなんてしたんだろーね、梶くん。ちょっと無責任じゃない?」
あいちゃんが呆れた声を出す。私はそれを聞きとがめて、軽く注意した。
「梶先生でしょ? もう、失礼だよあいちゃん」
ごめんごめん、と舌を出して謝るあいちゃんだけれど、クラスの中にも梶先生をこう呼ぶ人は少なくないように思う。年はそれほど若いわけじゃないはずだけれど、なんだか童顔なので親しみやすいから友達感覚でつきあっているのかな。
「だけど、ただの無責任で断られたような気は、何故だかあんまりしないんだ」
私が率直な気持ちを口にしてみると、
「えー、当日、途中までレッスンして、もう希望出すなってのはさすがに無責任でしょ?」
あいちゃんは不思議そうに首を傾げる。けれど私にもこの妙な気持ちは説明できなくて、仕方なく笑った。あいちゃんは、変なみかちゃん、と呟いてまたカフェオレを飲む。
そうだ、梶先生は、深山先生のことを私に話したんだ。あれはどうしてだったんだろう。梶先生自身に深山先生との面識があったから?
深山先生と梶先生は、よく考えてみれば同期のはずだし、知り合いだった可能性は十分に考えられる。けれど、あの口ぶりはただの知り合いなんかより、ずっと親しみがあって──
「…………まさか、元・恋人とか?」
「ん? どしたのみかちゃん?」
いやいや、まさかね。なんでもないない、と訝しげなあいちゃんに断って、アイスティーを飲み干すと、ちょうど店に入ってくることみちゃんが見えた。私はあいちゃんに目配せして、ことみちゃんに小さく手を振った。
「ひゃえ……つかれましたぁ……お待たせしちゃってすみません……!」
「大丈夫だいじょーぶ! ココアでいいよね?」
あいちゃんが代わりに飲み物をオーダーして、席に着くなりことみちゃんがこの世の終わりみたいな声をあげた。
「みかさん〜っ! あたし、あしたからまいにち補習だって言われちゃいました……っ!」
「う、うわあ……補習の呼び出しだとは思ってたけど、毎日補習かあ……」
ことみちゃんは今にも泣きそうになっている。まあでも、気持ちはわかるよ。私も毎日補習に来いって言われたらそんな顔するかも。
「えー、なになに、どの教科?」
「うぐ、っ! えぐっ、っぐぅ……」
店員の運んできたアイスココアをあいちゃんがことみちゃんに渡しながら訊くと、ことみちゃんはますますえぐえぐ言って泣きそうになる。
「えっ…………まさか、全教科補習?」
「いやいやあいちゃんそれは流石に」
「──ぼええぇぇええええん!!」
ことみちゃんはとうとう泣き出した。うそ、つまり、それって──
「えっ、ほんとに全教科だったの!?」
私の心中を代弁して、あいちゃんが真面目に驚く。もはや感嘆したみたいに声をあげた。
「すごい……新記録じゃない?」
「何の記録なの。ことみちゃん、大丈夫?」
私があいちゃんに呆れながらもことみちゃんの背中をさすってやると、ぐすぐす言いながらうなずいた。どうしたものかなあ。
「……よし、じゃあさ、みんなで勉強しよう」
私が提案すると、あいちゃんはいいねー、って軽い感じで賛同してくれる。ことみちゃんは俄かに泣き止んだ。
「ほんとですか? あたしにつきあってくれるんですか? みかちゃんさん……あいちゃんさん……あたし、あたし……!」
また感極まって泣きかけるところを、あいちゃんが、もー泣かないでよー、と止めた。私は具体的にどうするか、考えを巡らせて、とりあえずの選択として、これからの計画を発表した。
「それじゃあ、みんなで参考書でも見に行く?」
◯
敷島高校の周辺はわりと拓けている。学生街らしく飲食店やファーストフード、コンビニなど多く立ち並び、ターミナル駅が置かれていることから大きなショッピングモールも併設されていた。
以前からクラスメイトたちが放課後、遊ぶために集まったりするのに使っているとは聞いたことがあったけれど、じっさい私がそのモールに行くのは初めてだった。
大きな自動ドアを通って中に入る。こちらは喫茶店とは違って、さすがに人が多かった。やはり特に多いのは学生で、私たちと同じ敷島の生徒も何人か通り過ぎて行った。
「やっぱり大きいねー! てか、あれ最近流行ってるショップじゃない? わ、あのアウターほしかったんだよねっ!」
あいちゃんが入ってすぐの洋服屋さんにとびついた。私とことみちゃんは顔を見合わせる。
「あいちゃんってば、まずは本屋さんでしょ? 今日はそのために来たんだから」
「すみませんっ、あたしのために……!」
「おっとっと。ごめんごめん、そうだったね……気にしないで、ことみちゃん」
あいちゃんは名残惜しそうに夏色の薄いアウターを見送って、私たちは本屋さんの入っているらしい三階へ、エスカレーターに乗った。
全国チェーンの大きな書店は品揃えがいい。個人書店は置いてある本にばらつきがあって、逆にそこに店主の好みが出るところが面白い。
だから、どんな本が欲しいのか、既に探したい本があるときは大きなチェーン書店へ、なんとなく本屋さんをぶらついて面白そうな本を探したいときなんかは個人書店へ、というふうに、それぞれ使い分けることが本屋さん選びの秘訣らしい。
まあ、これは本好きのあいちゃんの、まるまる受け売りなんだけどね。
ともあれ──
「うわあ、売り場がすっっっごく広いですっ!」
目当ての学習参考書はもちろん、小説、新書、語学書、実用書、雑誌、果てはコミックスまで幅広いジャンルの本が、それぞれのジャンルだけでいくつも本棚を埋めてしまうほどたくさん。
ことみちゃんが感嘆するのも無理はない。そこには普通のショッピングモールにテナントとして入っているような書店よりひとまわりは大きいんじゃないかというくらいの大きな書店があった。
ことみちゃんは目をキラキラさせている。何か見たい本でもあるのか、と思っていると、勝手にふらふらと足が動くみたいで、引き寄せられるようにあるコーナーに向かっていく。
「えっ、ちょっと、待ってことみちゃん! まず参考書だから、こっちの──」
聞いたもんじゃない、ことみちゃんが引力にさからえずにたどり着いた、その先は。
──えほん売り場、だった。
いや、ほんとに『えほん』って書いてあるんだよ。たぶん、漢字を習っていない子供でも読めるように。明らかにことみちゃん向けの売り場じゃないってことは確か。
「わああ……きらきらですっ。すっごくきれいなひょうしです……かわいい……きれい……」
ことみちゃんの視線をたどると、確かにすごく綺麗な装丁の絵本があった。色とりどりの彩色にいくつもの立体的な細かい仕掛けが施された、いわゆる仕掛け絵本というやつらしい。タイトルは『すてきなおはなばたけ』。
……ものすごく、ことみちゃんだった。
「みかちゃん……」
あいちゃんが隣で私と同じ顔をしている。
「……なに、あいちゃん?」
「しばらく、好きな本を見る時間にしよっか」
「……うん、そうしよう」
私とあいちゃんはそっとその場を離れて、別の売り場に向かった。仕方なかった。それを見ただけで、私たちにはわかってしまったのだから──
──えほんコーナーに釘付けのことみちゃんはもはや、てこでも動かないだろうということを。
あいちゃんが次に足を止めたのは、思った通り小説のコーナーだった。絵本の置いてあったところもすごく大きくてびっくりしたけれど、小説の売り場はさらに大きい。あいちゃんは生来の本好きも相まって、久しぶりの本屋さんに少しテンションが上がっているらしく、いくつも小説を手にとっては嬉しそうに私に話す。
「わ、これずっと好きだった作家の新刊だ! しばらく出てなかったのに……ね、みかちゃん、これっ、すっごく面白いんだよ? 恋愛ものなんだけど、じつは主人公の女の子にも、相手の男の子にも、はじめから別々の恋人がいてね?」
あいちゃんはすっかり小説に夢中で、どの本を買うかじっと悩んでいる。そういえば小学校の頃も、あいちゃんは恋愛小説が好きだったっけ。ところで、なんだかその恋愛小説のオチがすっごく、気になってきた。
「……ねえあいちゃん、その小説ってそのあと、どうなるの?」
私がおずおずとあいちゃんに訊いても、
「……うわ、こっちも新刊出てる! わあ、どうしよーっ、どれ買おうかな……んっふふ……」
聞いちゃいなかった。あいちゃんは興奮にずり落ちそうになるメガネをおさえてたくさんの小説を物色して回る。
私はさっきの恋愛小説の結末がどうしようもなく気になるものを、涙を飲んで小説コーナーを離れた。あとで改めて訊いてみよう。
次に目に付いたのは、ファッションとか趣味とか、そういう雑誌がぎっしり隙間なく置かれた売り場だった。私は流行りの服とか、ファッションとかに対して、世間の女子高生よりは遥かに疎いので、しょうじきそういう雑誌を見ても何が何だかさっぱりわからないのだけれど。
あいちゃんは私なんかよりずっと詳しくて、なんとなく、女子高生として置いていかれているような気がして、少し焦る。
夏物ワンピを先取り、とか、今夏はこのコーデで決まり、みたいな。カラフルでポップなフォントで書かれた文句の上を目が滑る。そのままざっと売り場を見回すと、見慣れた後ろ姿があった。
一瞬、いつもは飾り気のないゴムでポニーテールに留められている長い髪が、白い上品な、けれど少しだけかわいらしいシュシュで結ばれていて、しかも服も黒を基調にゆったりと、けれどメリハリをしっかりとつけられたワンピースの私服で、思わず見過ごすところだった。それでも雪みたいに白い首筋や肌と細くてしなやかで均整のとれたスタイルは、きっとなかなかいないから──
「…………雪村、先輩?」
間違えようもない。
そこにいたのは、雪村沙夜香先輩。敷島音高の
「ん……なるほど。これで鶏肉を柔らかく……」
よく見ればその手には、料理番組のレシピがまとめられているらしい月刊の料理雑誌が開かれていた。かなり集中して読んでいるみたいで、私が近付いていることにも気がついていない。
雪村先輩に気付いてもらえるように、今度は少しだけ声を高くして、私は名前を呼んだ。
「雪村先輩?」
「────ひゃ!?」
手から雑誌を取り落としそうになって、慌てて私も手を出して落ちないように押さえようとするけれど、間一髪のところを雪村先輩が空中でキャッチしてくれた。私はため息をついて、雪村先輩の顔をみた。
「……ふう。危なかった、ですね」
「えっ、ちょっと……まって、待っ、て」
何故か雪村先輩は持っていた料理の本を後ろ手に隠して、改めて私の顔を見ると、雪のように白い肌にさっと朱が差した。
「…………こほん。黎元美鍵さん」
「は、はい。何故にフルネームなんでしょう」
雪村先輩はちらちらと目をそらしつつも、仕方ないといった顔になってため息まじりに言った。
「その…………見た?」
「なんですかその風でスカートが巻き上がっちゃった直後みたいなセリフ!?」
「だってっ! 私がこんな本を読んでいることは知られたくなかったのよ……っ!?」
涙目になってらしくなく熱弁する雪村先輩。どうして料理の本を読んでいたことを知られるのがそんなに嫌なんだろう。
「いい趣味だと思いますけど、料理。なんだか雪村先輩ってすごく料理できそうな感じですし」
「…………うっ、黎元さん。貴女まで」
雪村先輩は深くため息をついた。どういうことなのかな。戸惑っていたら、雪村先輩が説明してくれた。
「……あのね、私、料理ができないの」
「え…………?」
かなり真剣に料理雑誌を見てたのに、雪村先輩は料理ができない、と言う。いやむしろ、雑誌を真剣に見ていたからこそ料理ができないと言いたいのかな。それにしても──
「雪村先輩すごくしっかりしてるし、料理ができないイメージなんて全然なかったですよ」
「……そうなのよ。私、完璧主義で……料理するときも、レシピとか熟読して暗記するぐらい読み込んでから料理してるんだけど……」
「いや、それはやりすぎだと思いますけど……」
「そう……なのよね……。最近、宗一郎にも言われたわ……時間をかけて分量を量りすぎたり、焼き目や茹で時間にこだわりすぎたりしてるうちに……いつも台無しにしてしまう」
雪村先輩は本気で落ち込んでいるようだった。それにしても、こういうタイプの料理ができない人は初めて見たように思う。だいたいが適当に作りすぎて失敗するとか、味見をしないとか、そういういかにも初心者らしい欠陥を抱えているのに。こだわりすぎて料理ができないって、どんなレアケースなの。
「もう少し手を抜いてつくれればいいんですが」
「それができたら苦労しません……たぶん、私は料理ができない人種なんだわ」
雪村先輩は耳を赤くしてそわそわしている。そんなに料理のことを知られたのが恥ずかしかったのか、どこか恨めしいような目をしているような気もする。なんだか申し訳ない。
罪滅ぼしじゃないけれど、どうすれば先輩の悩みが克服できるか、しばらく考えてみる。ことみちゃんばりにうぬうぬ唸ってみたら、それっぽい案がひとつ思い浮かんだ。
「……あ、そうだ。いいこと思いつきました」
雪村先輩は私を見て、けれどそうとう失敗してきたのか、望みなどないというように諦めがちな顔をして、どんなこと、と私を促した。
「つまりは、気負わずに、ほどほどに手を抜ければいいんですよね?」
「無理よ……私の性格はもう体に染みついてしまっているし、いまさら適当につくるなんて……」
「先輩、いつも誰のために料理してるんですか」
「誰のため……?」
雪村先輩が首を傾げた。少し考えて、
「……べつに、誰かのためにつくったことはないです。だって、まだ誰かに食べてもらえるような腕じゃないわ。いつもは自分の苦手を克服するために、というか、修行みたいなつもりで」
「たぶん、そのせいですよ。料理ってきっと誰かのためにするものですから」
「……なるほど。言われてみればそうね」
雪村先輩は合点がいったように頷いた。
「それじゃあ、誰か、料理を食べさせたいと思う人のために、つくってみればいいのかしら?」
雪村先輩は心当たりを探すように目を伏せる、けれど──私は、慌てて訂正した。
「いや、逆です。いちばん食べさせたくない人のためにつくらないと」
「…………え?」
雪村先輩は一瞬、呆然として私を見た。
「いや、だって先輩、本当に食べてもらいたい人のために料理なんてしたら、なおさらこだわって、時間をかけてつくっちゃうでしょ」
「……それは、確かに」
今度は雪村先輩が唸った。私は続けて、
「じゃあ、先輩がいちばん料理を食べさせたくない人って誰ですか?」
「宗一郎」
即答だった。
「……あー。草壁先輩、ですか」
草壁宗一郎先輩は、いわくつきの尺八部もとい雅楽部(ことみちゃんも実はその雅楽部にいたりするんだけれど)の部長で、また雪村先輩と同じ『コンチェルト』のフルート奏者でもある先輩。虚無僧姿で部費のお布施を募っているのでヤバい噂は絶えないらしい。目を合わせると問答無用で出家させられるという話もある。ひどすぎる。
「……そっか。そうよね、宗一郎のために料理すると思えば時間をかける気にならないわ!」
雪村先輩はその気付きに嬉しそうに笑って、私はちょっとそれってどうなんですかという微妙な顔になった。自分で言い出したことだけれども。
「……そういえば、雪村先輩と草壁先輩ってどういう関係なんです?」
なんとなく草壁先輩が不憫になってそう聞いてみると、雪村先輩は何気なく言った。
「ええと、そうね……いちばん近いのは、腐れ縁かしら」
「…………く、腐れ」
言葉選びに悪意のない悪意を感じつつも、私は訊き返す。雪村先輩はにこやかに続ける。
「草壁の家とはもともと家族ぐるみの付き合いがあってね。同い年だったけれど、私たちは昔から姉弟みたいにずっと一緒にいたのよ」
「……へえ、仲が良いんですね」
思いのほかいい感じのエピソードが出てきたので私が拍子抜けする。雪村先輩は懐かしむように話してくれた。
「ただ付き合いが長いだけよ。私も宗一郎も小さい頃からずっとフルートを習っていて、同じ先生に
雪村先輩は、少しだけ寂しそうな顔をしていたけれど、何でもないことのように言って私に微笑んだ。私は複雑な気持ちになるけれど、頷く。
「……そう、なんですか」
草壁先輩は、フルートを辞めてしまった。今も部活では変わらずにフルートを吹いているようだけれど、雪村先輩がこう言うのだから、レッスンを受けたりして上手くなろうとすることを辞めてしまった、そういう意味で、本当に草壁先輩はフルートを辞めてしまったのだろう。
「どうして草壁先輩は辞めてしまったんですか」
音楽を辞める理由なんて、それこそ数えるのに両手では足りないくらいある。むしろ、辞めない理由を考えたほうがずっと早いのだ。音楽をやるということは、音楽を仕事にするということ。つまりは自分の腕ひとつで仕事を勝ち取らなければならない。少なくとも自分が師事した先生を超えなければ、間違いなく仕事なんてひとつもない、と母に聞いたことがある。
「……ずっと見てたもの。こうじゃないか、って思うことぐらいならあるけど、本当の理由は宗一郎にしかわからないわ」
「……そう、ですよね」
雪村先輩は少しだけ切なげに表情を曇らせて、すぐに柔らかく笑った。きっと、ずっと一緒に練習してきた草壁先輩が辞めてしまったときの雪村先輩は、とても辛かったはずなのに。
かつて私が、どうしてピアノを弾くのか、何のために音楽をやっているのか、それすらも朧げにしかわかっていなかったころ。
私と一緒に弾いていた子がいた。
私よりずっと巧くて、とても
────水澄麗花。
それでも私が弾くことを辞めないのは、辞めなかったのは、音楽が好きだから。今、私は心から音楽が好きだと言えるから。きっと世界のどこで音楽をしている人もみんな同じ理由を多かれ少なかれ持っているはずだ。厳しくていつ食べていけなくなるかもわからない音楽なんていう世界から、それでも人が離れないのはひとえに、音楽の持つこの魔力のせいだ。
だからきっと草壁先輩は、音楽が好きな気持ちよりも大きい、どうしても辞めなくちゃならないような、何かの理由を抱えているのかな。
私が少し考え込んでしまうと、気遣うように雪村先輩は声をかけてくれた。
「あなたがそんなに気にすることないわ。きっと宗一郎が、自分で選んだことだから」
「…………はい。みんな、それぞれの事情があるって、わかってますから」
私なんかよりもずっと辛いはずなのに、雪村先輩は私を元気づけようとしてくれているのだ。そう思ったら、これ以上は迷惑をかけられないなと思った。私はふうっとひと息ついて、
「……そうだ。草壁先輩につくるご飯、どんなメニューにしましょうか?」
雪村先輩は、雪景色にたった一輪だけ咲いた、小さな白い百合の花のように、そっと微笑んだ。
「そうね……うん。どうせ食べさせるなら、ちゃんと美味しいものをつくってあげたいかな」
それじゃやっぱり意味ないじゃないですか、と私が笑いながら言ったら、雪村先輩はくすくすと、いつまでも優しく、静かに笑っていた。
◯
雪村先輩と別れて、ことみちゃんやあいちゃんのほうへ戻ってみると、あいちゃんは結局選びきれなかったのか何冊も小説の文庫本を抱え、逆にことみちゃんはたった一冊、大事そうに例のお花畑の絵本を胸に抱いていた。どれだけお気に入りなの。買う本を決めた二人と、特に欲しいものがない私は、レジに向かった。
通り過ぎていくコーナーは、かなり面白そう。難しい新書はよくわからないけれど、実際に役に立ついろんな知識の詰まった実用書も、背表紙の色からして女の子っぽい少女漫画の棚も──
「…………あれ?」
その姿を見たとき、私はすごく、懐かしい感じがした。
無造作に切り揃えられたボブくらいの長さの銀髪が目を引く。ただの銀色じゃない、暗い群青の空が透けてみえるみたいな、個性的な色。大胆なダメージデニムのポケットに手のひらを突っ込んで、よりにもよって少女漫画を物色していた。
「どうしたの? みかちゃん」
思わず立ち止まった私に怪訝そうに声をかけるあいちゃん。私は平静を装ってなんでもないよと笑ってみせるけれど。
なんだ、この強烈な違和感は──
そうこうしているうちに銀髪の彼女はいくつかお気に入りを見繕ったようで、棚から抜き取ってレジのあるこちらへ向かってくる。私は不意に、ここにいてはいけないような気がして、慌ててどこかに隠れようとするが、そんな場所はなくて。
「…………っ!」
無意識にどうしてか手に口をあてて、叫びをあげてしまうのを必死でおさえていた私は、ようやく彼女が私を見つけて言ったその言葉に、朧げだった記憶を完全に呼び起こされた。
「……お前、いつかのヘボピアニストじゃん」
濡れたような銀髪をかきあげて、遠慮もなしに平然と言い放った彼女のその凶悪な笑みは、手に持たれた少女漫画の表紙に張り付いたヒロインの呑気そうな笑顔と、綺麗にコントラストして──
「ヘ、ヘボ…………?」
初対面の人に突然ヘボなんてひどい言葉を浴びせた彼女に、あいちゃんもことみちゃんも絶句しているみたいだった。
私も同じ、言葉を失って、ただ立ち尽くすことしかできなかったけれど、それはあいちゃんやことみちゃんとは、ぜんぜん違うことが原因で。
「……何だ。腑抜けた顔しやがって」
つまりは、思い出したのだった。
今、私の目の前にいるのが──
「…………
私と同じクラシックピアノの講師・深山先生に師事したピアニストでありながらすぐさまジャズに転向した変わり者。あの日のセミナーで私に、荒削りながらも、圧倒的に強いジャズという音楽をぶつけた情熱の演奏家。
「んだよ。俺は覚えてたっつうのに、お前は忘れてたわけ」
彼女は──他でもない、
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