転校生ブルース/ビバップ ※演奏シーンあり


「──神代かじろ音楽ムジカ。ジャズトランペット。以上」


「え、ええ……………………」


 ものすごく、テンションが低かった。

 彼女はもっさりしてはいるけれどすごく綺麗なブロンドをずるずる引きずるみたいに勝手に席について、いや本当に地面を引きずっているわけじゃないけれど、ばったり机に突っ伏した。


「……えっ、寝てる……?」

「……登校ゴー・アンド・就寝スリープ……」

「……家で寝なよ……」


 ぼそぼそ聞こえるところによればそのままスウスウと寝息を立てているらしい。あまりに唐突な出来事に、その場にいた人全員が、完全に飲まれていた。……ええと、何が起こったんだろう。

 クラスのみんなが、担任の梶先生にすがるような視線を送る。梶先生は梶先生で戸惑った様子で咳払いをひとつした。


「……えー、うん。転校生の神代さんだ。みんな仲良く、してやってくれ……」


 即寝した女の子は、大きくウェーブした髪の毛を抱き枕みたいに抱いて、むにゃむにゃやっているみたいだった。なんだあれ。

 ──転校生、神代かじろ音楽ムジカとの出会いは、あまりにも突然で、どこまでも自由だった。


      ◯


 綺麗なブロンド。女の子から見ても絶妙な、モデルみたいなプロポーション。いつもは何を考えているかわからないけれど時々、何を思いついたのか悪戯っぽい顔をする。それが神代音楽という女の子の、第一印象だった。

 しばらくの間、同じクラスで彼女を観察してわかってきたことは、午前中の授業をずっと寝て過ごしているのはどうやら低血圧でありえないぐらい朝に弱いからであるらしいこと、それから敷島音高に来るまではジャズを学ぶためにアメリカに居たらしいことぐらいで、他のクラスメイトたちがいくら話しかけても、午前中は眠そうで取り合ってくれないし、午後になっても興味がなさそうにスルーされて、ロクに仲良くなることができないとのことだった。ルックスだったり、転校生の属性だったり、何目当てであれ神代さんと仲良くなろうとした猛者たちがことごとく撃沈するのを他所に見ていると、気付けば四月なんてあっという間に通り過ぎてしまい、五月になると楽器ごとの個別レッスンが始まった。

 敷島音高の個別レッスンは基本的に自由に申し込んで希望するレッスンに参加する形式で、出席すれば単位として認められる。(相当にマイナーな楽器でなければ)各楽器ごとに複数人いる講師の中から自分の担当講師を選ぶこともできるという私立らしい自由な制度が生徒にも評判がいいらしかった。私は特に知り合いの講師がいるわけでもなかったので、正式に担当講師を決めるまでのお試し期間のようなものを利用して、数人のピアノ講師のレッスンを体験してみることにした。流石にピアノだけあって、講師の数は楽器の中で一番多くて、迷った私は結局担任の梶先生の名前を書いて、レッスン希望票を提出した。いわゆる、無難な選択というやつだった。

 日程調整に一週間ほどかかるらしくそれを待っていると、『コンチェルト』の立花先輩から部室に来るよう呼び出しがあった。和歌山さんと二人でちょっと久し振りになってしまった部室棟へ。渡り廊下を渡りながら、そういえばと和歌山さんに話しかけた。

「そういえば、あのあと和歌山さんの部活ってどうなったの? ……草壁先輩の、雅楽部だっけ」

 確か、和歌山さんは自称・尺八部(正式な登録部名は雅楽部)の草壁宗一郎へんたいこむそう先輩に一目惚れしたとかで、部に入れてもらえるよう頼み込んでいたけれど断られ続けていたはず。できるだけ明るい口調で、また和歌山さんに泣かれてしまわないように様子をうかがいつつも尋ねると、案外に和歌山さんは嬉しそうな顔で答えてくれた。

「そうなんですよっ! あのあのっ、あたし、雅楽部に入れてもらえることになったんです!」

 私としてもその反応は、和歌山さんには悪いけど予想外で、だって草壁先輩はあんなに新入部員を拒んでいたんだし、尺八以外は絶対吹かないみたいな顔してたし。

「よかったね……でも、どんな手を使ったの?」

 草壁先輩は恐らくとんでもない頑固者だろう。知り合ったばかりでもわかるぐらいに先輩の中には一本の強くてしなやかな芯が通っている。それを曲げて入部にこぎ着けたというのだから、ひょっとすると和歌山さんは只者ではないのかもしれない。そんなことを考えていると、和歌山さんは照れくさそうに、けれどあっけなく答えた。

「あたしが尺八の伴奏をしますっていったら、ちゃんと入部を認めてくれたんですっ」

「あー……なるほどね」

 尺八に勝とうとするんじゃなくて、一緒に尺八をやろうとしたのか。なんでもないようなことに思えるけれど、相手の趣味を認めてあげることって意外とできないもの。私とどっちが大事なの、とか言っちゃう女の子の話はよく聞くし。意外と偉いんだ、和歌山さん。

「ところで、伴奏は何の楽器でやるつもりなの」

「はいっ! 楽箏がくそうやろうとおもってて!」

「そっか。そういえば和歌山さんはハープ専攻だったっけ。楽箏って、おことのことだよね?」

 でも、いくらハープができるからって突然、琴なんかできるのかな。詳しくないなりに心配するけれど、和歌山さんは──

「いえっ! そうきんとはちがいますけど、あたしは、楽箏も古琴こきんも、十七絃じゅうしちげんから、めったに弾きませんが和琴わごんまで、できますので!」

「えっ……ちょっと待って」

 思わず混乱して頭を抱えた。ひらがなしか話しませんみたいな和歌山さんの口からあまりにもたくさんの漢字が一気に出てきて戸惑う。……おっけい、ひとつずつ聞いていこう。落ち着け美鍵わたし

「それ、何が違うの……?」

「箏は大陸伝来の古琴の影響を受けて日本独自の楽器に昇華したツィター型のげんで、琴は日本最古の楽器である和琴をもとに長い年月をかけて発展してきた伝統楽器です!」

「えっ、ごめんやっぱりちょっと待って」

 ダメだった……何だこれ。何だこれ。

「……あ、あのさ、日本最古って言った?」

「はいっ! もはや宮内庁の儀礼的な国風歌舞くにぶりのうたまひぐらいでしか弾かれてませんね!」

「なんでそんなの弾けるの!?」

 和歌山さんは照れくさそうに、えへへぇ、とか言って笑った。これは……これは。

「なんか、わかっちゃったかも。和歌山さんって、草壁先輩に似てるんだね……」

 私がしみじみというと、和歌山さんは途端に嬉しそうな顔になって、全身で喜びを表現した。

「…………ほんと、です、かっ!?」

 うわ、始まった。和歌山さんの嬉しさのあまりほとんど踊り出すみたいにわちゃわちゃするやつだった。うれしいうれしいって顔を真っ赤にしてもぞもぞしている。ここだけ見ると、普通のかわいい女の子なんだけどな──

 とうとう私の手まで握ってぴょんぴょこ跳ねるから、無理に引っ張られて私まで跳ねてしまう。まるっきり、私と一緒に笑いあってはしゃいでいる姿はただの女の子なのに、やっぱり私の手を握る指は何度も何度もできては潰れを繰り返した、の跡でカチカチに固まっているのだ。私はその指を少し撫でて、訊いてみた。

「ずっとやってるの? その、箏って」

 和歌山さんはさっきと同じように笑って、けれどどこか、少しだけ雰囲気を変えて──

「……はいっ! あたしの、たったひとつの取り柄ですから!」

 そう言って、えへへぇ、と笑った。


      ◯


「嫌です。なんで私が、そんなサークルの演奏に出なきゃいけないんですか?」

 ──水を打ったように静まり返る。空き教室を使って話していた私たちは、彼女のそのにべもない一言に呆気にとられた。目の前の女の人は、フルートより一回り小さいピッコロという楽器をケースにしまいながら、興味さえ無さそうにそう言い放ったのだ。慌てて日浦先輩が、まあまずは話ぐらい聞いてよ、と取りすがる。同じ木管のクラリネット専攻で、同学年の二年生であるから、日浦先輩とピッコロの先輩には個人的な親交もあるのだろうが、今ここだけ見ればピッコロの先輩には一片たりとも、日浦先輩への気遣いのようなものは見当たらなかった。

 そもそもどうして、私たち『コンチェルト』の部員が、みんなで揃いも揃ってさっきまで楽器を吹いていた女生徒に話しかけ、あまつさえ門前払いを喰らおうとしているのかといえば、それは十分ほど前に遡る。私と和歌山さんが部室棟に着いて『コンチェルト』の部室に入ると中に居たのは、いつも通りの立花先輩と日浦先輩の仲良しカップル(?)と、手持ち無沙汰な草壁先輩だった。ここで和歌山さんは完全に使い物にならなくなりました。草壁先輩がいると何時間でもぼーっと見つめてるの、流石に異常だと思う。ともあれ集まったのは私含めてその五人で、今日のまとめ役の日浦先輩が言った。

「集まってもらったのは他でもありません。我が『コンチェルト』の幽霊部員の一人と連絡がついたので、今日お話させてもらえることになりました! というわけで、これから行くよ!」

 ──と、言われノコノコとついて行った結果がこれである。正直、目も当てられなかった。特にひどかったのは草壁先輩で、何故かといえば私にも理由がわからないのだけれど、さっきからピッコロの先輩の視線がものすごい勢いで草壁先輩に注ぎ込まれていて、なおかつそれがものすごく険しいからである。流石に気の毒になってきた。

「や、あのさ……氷室さん。うちら、一年生で同じ部活だったじゃん? 『コンチェルト』って、覚えてない?」

 氷室さん、と呼ばれた女の人は、日浦先輩の話なんて聞こえていないみたいに、平然とした顔でピッコロのケースをバッグにしまう。これぐらい小さいとケースをそのままバッグにしまえるらしく、持ち運びが楽なのはかなり羨ましいけれど、今はそんなことどうでもいい。氷室先輩は一度ため息をついて、また草壁先輩をジロリと睨んだ。草壁先輩はさっきから居心地が悪そうに黙っている。なんで来たんだろう。

「……雪村先輩は、どうなさってるんですか?」

 と、氷室先輩がふと尋ねる。頭の後ろに手をやって小さく結ばれたポニーテールを弄ぶ。小柄な氷室先輩には、その小さなしっぽはどこかよく似合っていた。

「沙夜香先輩なら、うちらの活動を応援してくれてるよ? 一緒にやりたいとも言ってくれたし」

 日浦先輩が答える。雪村沙夜香先輩は生徒会長で、意外なことにフルート吹きとしてうちのサークルに入っている先輩だ。つまり氷室先輩は『コンチェルト』のことなんて知らないとでも言わんばかりの態度だったけれど、雪村先輩のことを口にするってことは──

「てか氷室さん、うちらのことちゃんと覚えてくれてんじゃん。お願いだからさあ、一緒に吹いてくれないかな?」

「な、ば……! 私が覚えているのは雪村先輩のことだけです! それに、雪村先輩だってそんな変なサークル活動、煩わしいと思っているに決まってます! 先輩は生徒会の活動で忙しい方ですし、フルートも私なんかよりずっと上手くて、成績も良くて、とにかくすごい人なんですっ! あなたがたみたいな、サークルにはもったいない人なんですっ!!」

 うわ、二回目の『変なサークル』──私はいくら入ったばかりだと言ってもそこまで言われるのは意外に辛くて、それぐらいにはもう帰属意識が芽生えてるのかな、と不思議に思った。だから、説得できるとは思っていないけれど、ダメ元でもお願いしてみる。こういうのはとにかく多人数でお願いするのがいいって、どこかで聞いたことがある気がした。

「氷室先輩、あの、今回のきっかけは新入部員の私なんです……えっと、私は黎元って言います。どうしてもみなさんとコンチェルトが演りたくって、氷室先輩も、一緒にやりませんか?」

「ぐ、ぬ……」

 氷室先輩が少し言い淀む。流石に初対面の私に素気無くするのは悪いと考えたのかな。そうなら氷室先輩はむしろいい人なんじゃないかと思う。けれどしばらく黙り込んで、やっぱり氷室先輩は言った。

「……とにかく、私は吹きませんから」

「あっ、ちょっと待って氷室さん!」

 日浦先輩の制止も空しく、氷室先輩はレッスン室を出て行ってしまった。立花先輩があちゃあ、と目を押さえる。

「ダメでしたね……やっぱり、突然協奏曲コンチェルトやりませんか、なんて言っても怪しまれちゃうだけなんでしょうか」

「だ、ダイジョーブですよっ! まだまだ一人目ですし、それに氷室せんぱいもまた改めてお願いしたら、一緒にやってくれるかもしれません!」

 レッスン室に取り残された私たちは互いに顔を見合わせた。少し弱気になった私を和歌山さんが慰めてくれる。

 はじめから上手くいくとは思っていなかったけれど、正直に言ってかなり出鼻をくじかれてしまった感は否めない。初めての部員勧誘、それも幽霊部員を呼び戻すのに失敗するなんて。ここまでショックを受けるということは案外、心の奥ではそんなに難しくないだろうと高を括っていたのかもしれなかった。

「……まあ、こんな日もあるさ」

 立花先輩が落ち込み気味の日浦先輩を慰める。一人で無駄にダメージを受けたらしい草壁先輩は大きなため息をついた。この人は本当に何をしに来たんだろう。

 和歌山さんは始終、悩ましげにため息をつく草壁先輩をキラキラした目で見ていた。


      ◯


「それじゃあ、あたしはこっちなのでっ! れーげんさん、おわったら食堂でまってますっ!」

「うん。またね、和歌山さん」

 階段で分かれて私はもう一階降りていく。ようやく個人レッスン、私は希望通り梶先生のレッスンが入っていた。まあ、希望ってほど希望してないんだけれど。ともあれ廊下をいくつか渡ってレッスン室に向かう。防音性の重いドアを開けると、私よりも先に来ていたらしい梶先生がピアノの前で腕を組んで待っていた。

「遅いぞ。まったく、講師を待たせるな」

「……すみません」

 明らかに梶先生が早すぎるんだけれど、先生を待たせるのは確かに私も悪いなと思うので、できるだけ早く準備する。ピアノの調子を確かめたら、先生が何でもいいから弾いてみろ、と言う。私はいつもこなしている練習曲をいくつか弾いてみせた。梶先生はレッスン室の隅に置いた椅子に座って、黙ってそれを聴いていた。二、三十分ほどいつも通りのメニューを回していると、梶先生がおもむろに言った。

「ミヤ……いや、深山って講師、知ってるか?」

 その懐かしい名前に、思わずにやけてしまう。梶先生も知り合いなのかな、と思って答えた。

「……深山先生なら、師事したことがあります」

「そう、か。何年も聴いてないが、意外にわかるもんだなあ……」

 しみじみと、梶先生はそう言った。どういう意味だろう、と思って聞き返そうと思ったけれど、梶先生はすぐに椅子から立ち上がって、言った。

「もう俺にレッスン希望票出すなよ、黎元」

「……へ? なんでですか?」

「お前に教えることはもう何もないからだ」

「いや、それって既に何年も師事した先生が言うことなんじゃ……」

「細かいことはいいんだよ。とにかく、俺はお前を見ないし、レッスン希望も突っ撥ねるから。お前はお前の音楽をやれよ」

「えー……」

 どうしてそんなこと言うんだろう、と訝りながらも、なんとなく反論できないような雰囲気を感じて、私は黙ってしまう。梶先生は荷物をまとめてレッスン室を出て行ってしまった。最後に、たった一言「頑張れよ、黎元」と言い残して。


 一時間の予定のレッスンを講師の先生が無理やり三十分で切り上げてしまったせいで暇になってしまったので、私はそのままレッスン室に残って弾いていることにした。次のレッスンまでこの部屋は空いているのだし、それなら自主練に使っても問題ないだろう。

 それにしても梶先生はどうして突然、もうレッスンをしないなんて言ったんだろう。深山先生のことを言っていたけれど、それが関係しているのかな。考えることは散漫としていて、うまくピアノに集中できない。まずいな、と思って頭の中を空っぽにして弾こうと心掛ける。

「集中、集中……」

 黙々とピアノを弾いていたら、レッスン室に入ってくる人影があった。もしかして梶先生が戻ってきたのかな、と思って目をやると、

「えっ……神代、さん?」

 そこにいたのは、ケースに入ったトランペットを提げて、ひらひらと手を振っている透き通ったブロンド。

「にゃは? ハロー、黎元さん」

 転校生──神代音楽だった。彼女はふんふん鼻歌なんかを歌いながら、がちゃがちゃトランペットケースを開けていく。突然のことで、私が戸惑っていると、ピアノの前にひょこひょこ歩いてきた神代さんは、

「──ほら、一緒に演ろうよ。音楽」

 そう言った。その笑顔は、彼女が時折浮かべる、特別に悪戯っぽい顔。楽しいことを考えているような、とびきり面白いことを思いついたみたいな──と、そこで気がつく。一緒に弾こう、って。神代さんの専門はジャズだったような。

「ちょっ!? 待って、私ジャズなんて聴いたことないし! ていうか、楽譜スコアは……!」

 思わず立ち上がって、神代さんに抗議した。こんな突然なんて無茶すぎる。それでも神代さんはことも無げに言う。

「楽譜なんてないよ。あったってまだあなたには弾けないでしょ」

「……それは、そうだけどっ!」

「いいから。ピアノ座って」

 流れるみたいに促されて、思わず私は座ってしまった。……えっ、本当に弾くの?

「いい? それじゃ……あなたは、何が好き?」

「え、と……じゃあ、桜?」

「わお。いいね……私も好きだよ」

 にっこりと、神代さんは微笑む。なんだ、なんだこの子、いちいち、表情がなんだか色っぽいんだけれど──!

「それじゃあ、桜のこと考えて……ほら。綺麗な桜が吹き散ってるとこ、想像してよ」

「うん……」

「じゃあ……弾いて!」

「待っ、いやいや! 即興で作曲しながら演奏なんて無理だから!」

「作曲しろなんて言ってないけど。しょうがないなあ……じゃあ、聴いて」

 トランペットを下ろした神代さんは私の前のピアノに近付いてきて、指で軽く音階スケールを弾いてみせた。ありふれたマイナーコード。メジャーよりも暗めの響きが低いほうから順番に──けれど、第六音だけ、神代さんは半音下げて演奏した。私が流石にそれに気が付いて指摘する。

「……あれ、音階スケール、間違ってる」

「違う。これは旋法モードだからね」

「モード……って、教会旋法のこと?」

 確か、教会旋法はグレゴリオ聖歌とか、そういう特殊な宗教音楽でしか使われてこなかったはずだけれど──そうして訝しんでいると、神代さんは付け足すように言う。

「モードジャズ。好きなんだ……ピアノはキリエの領分だから、ほんとは触れないんだけど。でも初心者にとっては、かえってモードこっちのほうが楽なんじゃないかな」

 そう言ってD軸音のモードをもう一度鳴らしてみせる神代さん。よくわからないけれど、このスケールの中で好きに弾け、ということなのだろうか。そんなの──

「──無理っ! 無理だよ、そんなのやったことないから!」

「いいから。ほら、いくよ」

 そうこうしているうちに神代さんはトランペットを構えてしまう。勝手にカウントを始めて小さくブレスをする。私は何の準備もできないまま、刹那──神代さんの演奏が始まった。

 濡れたような音だ。ひとつの主題をゆっくり、ゆっくりと繰り返している。そして私の目をじっと見つめている。どうしろっていうの。

 とりあえずそれらしい和音を見繕って、彼女の演奏する主題を真似てみる。それらしく、それらしくと必死で頭を働かせて、彼女の音を追いかける。気まぐれな音は私を追いつかせてくれたりすぐに突き放したりして、まるで遊ばれているみたいに感じる。やがて神代さんは私の拙い主題から少しずつズラすように、変則的なフレーズを織り込んでいく。そのきらきらと光る、私を見つめる悪戯そうな目!──慌てて首を振る。私にはこんなの無理だ。無理にやろうとすれば全体の調性を壊しかねない。神代さんは私の言いたいことがわかったらしく、仕方ないという顔で自分だけ多彩なバリエーションを演奏し続ける。私が自分の芸のない繰り返しに嫌気がさす直前になって、神代さんは少しずつ主題の繰り返しからフェードアウトしていくのを感じた。何、これで終わりなの?

 私が同じように音を落とそうとして、神代さんは片手でそれを止めた。このまま続けろということなのか。そうこうしている間にもトランペットは少しずつ音を減らしていって、最後には音がなくなってしまった。私は訝りながらも控えめに主題を弾き続ける。神代さんは一度、手の甲で唇をぬぐって、それからもう一度トランペットを構えた。何をするつもりなんだろう、相変わらずの挑発的な目は、私にこれからすることをしっかり見ているようにと言い聞かせているみたいで。私は演奏する指がこわばるのを感じた。──やがて、神代さんの演奏が再開される。

「────っ!」

 音が変わった。鋭く、突き抜けるような音。けれどそれは長くは続かない。瞬発的に音が放たれて、すぐに消える。また二、三音の嗄れたフレーズが流れて、そして鋭利な音。ぴったりと空所に嵌るような音。今までに感じたことのないような感覚──欲しいところに欲しい音が、必要なところに必要な音が即応的に落とされていく。時には私の演奏する主題の隙間を縫って、あるいはアインザッツを合わせて発する音は、の音だった。そういう風に感じたのだから、そう言うほかない。無駄なものをことごとく削ぎ落として、より鋭くシャープネス、より冷静クールネスに洗練され、限界まで研ぎ澄まされた音たち。私は無意識のうちに笑っていた。それが彼女の音に心地よさを感じているからだと気付いて、俄かに赤面するのを感じた。気がつけば彼女の音に埋没して、私の指はほとんど無意識にテンポを上げていく。胸が熱くなって、喉の奥から熱いものが込み上げるみたいな感覚。彼女のソロが熱を帯びていくほどに、胸の炉は熱く滾る。何度もフェイントのようにスパートをかけながら──最後には何音も跳躍してハイトーン。彼女のトランペットは、まるで彼女に吹かれることを心から喜んでいるみたいに、その突き抜ける音に震えていた。

 彼女がソロを終えて──けれどトランペットを下ろさない。そのまま私の続ける幾分もテンポの早まった主題に加わった。そして、またあの悪戯な目で私を見る。流石にだんだんと言いたいことがわかるようになってきた。

 ──私にも、ソロをやれってことか。

 彼女は巧みにフレーズを揺らして、決まりきって退屈なはずの主題を色鮮やかに蘇らせていく。わかってしまう──彼女は、彼女のトランペットは、私のピアノを求めてくれているのだと。

 無意識に、指を動かしていた。

 初めはおとなしく、教えられたモードの中から音を拾い上げていく。当然、神代さんみたいにはいかないけれど、必死でトランペットの空隙に音を落とし込む。調和──あくまでも神代さんの音に合わせて、けれど少しずつ自分の音を探していく。満足のいく音はその中でもひとつふたつもない。神代さんの、すべてが洗練された音には遠く及ばない。けれど──

 その時、神代さんが、心から嬉しそうに、にやりと笑ったように思った。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。急速にテンポが上がる。無理矢理だ、胸ぐらを掴んで引きずり上げられるみたいに、神代さんは強引なアッチェレランド──いいえ、もうこんなものは途中でテンポ指示を変えられたようなものだ。集中していなければあっけなく脱落していたであろう暴挙に、恨みがましく神代さんを睨んでみる。けれど私の視線にも澄ました顔で、彼女のトランペットは挑発的に幾つかの変奏フレーズを返した。

 ──そっちがその気なら、私だって。

 その思いが突然に私の中に立ち上って、私にピアノを叩かせた。モード風モーダルに、なんてもう考えない。ただ頭の中に生まれた音を、ろくに考える間もなく即座に叩く。何度も和声をミスしたり、そもそも隣の鍵盤を叩いてしまったりする。けれど、そんなこと、私にはどうでもよかったのだ。私は──心の底から、この演奏を楽しんでいた。こんな風にピアノを叩いたことなんて今までになかった。少しずつ慣れてくるにつれて、頭の中に浮かび上がる音が増えていくから、指が追いつかなくなる。嫌になるほどに繰り返してきた指回しの練習曲の記憶を片端から実践して無理を押し通す。考えろ、考えろ、どう指を運べば弾き切れる──テンポは絶え間なく加速していく。頭が熱暴走して回路が焼き切れそうになる。それでも、思い描いた音を全部、叩きつける──!

 途端、膨大な音の奔流が、レッスン室から溢れ出るほどに空間を満たした。

 想起したのは『ピアノの詩人ル・ポエト・ドゥ・ピアノ』フレデリック・ショパン。他の誰よりも和声を熟知した彼の曲はすべて、最もよく響き渡る和音が選び取られているという。今の神代さんの音もそれと同じだ。ありとあらゆる音、音色、発音の中から最適解を躊躇いなく引き抜く。速く、けれど丁寧さを失わないタンギング──

 この人、本気でってるんだ、と思った。ジャズなんか今までろくにやったことのない素人に、こんなソロをぶつけるなんて、という気持ちと、心の底から真剣にぶつかりあってくれたことを喜ぶ気持ちが私の中をせめぎ合う。どちらにせよ──やれるだけやるしかない。私は徐々にギアを上げていくみたいにして意識を切り替えていく。明らかに音質の数段上がった神代さんに、私という音楽を見せつけてやるために。ジャズのことなんかわからない。だって、私は生まれてこのかたクラシックしか演ったことがないんだから──

 今、演れる最高の音を──圧倒的に厚いトランペットの隙間に。完全に呑まれてしまっていたピアノの音が俄かに明るみに出た。神代さんが、幸せそうに笑った気がした。勢いを増すトランペットと、必死で追随するピアノは、どちらともなくクライマックスへ向かっていく。テンポはもはや誰に止められるものか。最高速のまま終演フィーネに突っ込んだ。

 ──どちらが、より速かったのか。演奏を終えた私はようやく頬を滴り落ちる汗に気がついた。


      ◯


「──っは、っ、ふ、ぅ……」

 トランペットを下ろして、息を吐いた。いつしか喉から溢れるのは熱を持った空気で、私は息を整えるのに少しの時間を要した。

 目の前のピアノに座る女の子は、日に焼けたことの一度もないような白い肌を汗で濡らしている。俯いていた彼女が、私を見た。いつもは眠そうな顔をしているくせに、今の彼女は──

「……っ、またね、

 呆然と見送る彼女をよそに早足に楽器ケースをひっつかんで、私はレッスン室を出た。


 つかつかと風を切って廊下を歩きながら、汗でぐしゃぐしゃになった前髪をかき上げる。わずかな風が通り抜けて、それでもまだ暑いから背中に流した髪を持ち上げる。ふぁさっとはねる柔らかい髪の毛はただでさえ暑いのに、汗と熱がこもると、もう最悪──

「……はっ、はあ、っはあ……」

 ようやく落ち着いた呼吸。私は思わず膝に手を当てて屈み込んだ。最後にひとつ、大きく深呼吸する。あ、ヤバい。なんだ──なんで、こんな、

「膝、震えてんじゃん……へへ」

 私が、ここまでさせられるなんて、思ってもいなかった。相手は初心者だった。ジャズなんて弾いたことない、みたいな行儀のいい顔をしていた。だからこそ遊んでみたかったのだし、そういう意味では期待なんかしてなかった。これでも私はアメリカあっちじゃ『帝王の娘エンペラーズ・ドーター』なんて呼ばれたトランペッターだ。ただの遊びのつもりで、クラシック弾きにちょっかいをかけてやるぐらいの気持ちだった。けど、は何だ──

 ビバップ。ジャズプレーヤーなら誰だって憧れるだろう、ピアノもトランペットもサックスもドラムもみんな好き勝手に参加して、互いの音楽に触れ合うジャズ・セッション。決まったフレーズを序奏として吹くこと以外には、自由な音楽。互いの渾身のアドリブソロをぶつけ合って楽しむ。それがビバップのそもそもの始まり。だからこそ、私は彼女との遊びにこれを選んだのだ。アドリブは、プレーヤーの経験と技術、そして何よりセンスが最も顕著に浮かび上がるジャズの魂──それを初めてジャズを弾くピアニストが、あそこまでのクオリティで表現できていいものか。あの子はクラシックのピアニストではなかったのか。そうだ、それこそが問題なのだ──あの子は、紛うかたなきクラシックピアノのタッチで、ジャズのに猛然と食らいついていたのだから。

「……ふふ、面白い子見つけちゃったか、にゃ」

 何よりも、演奏を終えたあとの彼女の目──私のことをじっと見据えた、その目だ。アレは人間の目だった。あんなにも情熱的に求める顔は、初めてかもしれない──そう思うと、おのずと身体が震えた。私は、無意識のうちにあの子と、もう一度セッションがしたいと考えていることに気がついて苦笑する。

 ──あの子は、ひょっとするとの人間かもしれない。

 私はトランペットケースを背負い直して、次の場所を探す。授業は入れていないから、暇を潰せる場所。けれど、この火照りを冷ませるように、音を気にせず吹ける場所がいいかもしれない。

「…………黎元美鍵、か」

 その名前を大事に抱えて、私は足取りも軽やかに歩き出した。廊下の窓の外に見える桜は、もう五月であるというのに、今こそ見頃と言わんばかりの大輪の満開だった。


      ◯


「……あー、クソが。久し振りの日本だってのにつまんねえ天気だな」

 空港を出て、曇り空を見上げるといくつかの雨粒が顔に当たった。舌打ちをして、雨さえ降ってきやがった、と毒づくけれど、相槌のひとつも打つ奴はいない。春の雨は細やかで、霧のようにひんやりとしている。冷静にso coolなんてクソ食らえだ。いつだって情熱的にIt's hot。それだけを胸に燃やして、王城季理絵は生きてきた。

「手間かけさせやがって……のヤツ」

 舌打ちをして、雨に濡れた前髪を片側にまとめかき上げる。持て余した髪を耳にかけると、深い藍の差した銀髪は日本じゃ目立つらしく、そこらの客の視線を感じて辟易した。見世物じゃねえぞ──アイツ、見つけたら文句言ってやる。

 俺がわざわざもう用もないはずの日本に来たのはのためだ。それもクソ気に食わない女が突然「私は日本の高校ハイスクールに行くよ」とかほざきやがって、勝手にチケット取って日本にすっ飛んだのを追いかけて。誰がこんな、最悪の帰国を想像した。アイツは和名こそ持っているが、俺と違って日本出身じゃないから、初めての日本だとか言って、どうせ観光気分で遊び回ってるんだろう。そういう女だ。考えれば考えるほどウンザリして溜息が漏れる。クソ、どうして俺がこんな──まあいい。日本にはアメリカむこうじゃそうそう手に入らないがあるから、そのために来日したと考えればまだマシな気分になれる。ひとまずは、当面の寝床を探さねえと。

「……っ、けほっ、けほ」

 不意に咳がこみ上げて口を押さえた。これ以上濡れるのは、どうやら良くなさそうだ。

 腕を挙げてタクシーを止めた。適当なホテルに向かってくれ、と伝えてから、スマートフォンで電話をかける。あの人と連絡を取るのは日本を発った時以来、何年振りだろう。電話は数コールであっけなく繋がった。昔と変わらない呑気な声。俺は一度だけ深く息をついて、答えた。

「……アンタか。俺だよ。今、日本に居るんだ」

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