高校生編 ブルー・ノート・スケール
フロム・ザ・ニュー・ワールド
春の風が甘い木々の匂いを運んで、空は青々と広がっている。春の空だ。暖かい空気は肌に優しくて、歩くリズムも徐々にテンポを上げていく。見頃の桜を眺めながら歩いていれば、いつまでもどこまでも歩き続けられそうだった。
桜並木を通り過ぎて、電車に乗ってひとつ乗り換える。東京向きの電車じゃないから朝の時間もそんなに混まなくて、それが結構嬉しい。わりと大きめのターミナル駅を出て、駅ビルのガラスに映った自分を見て制服の乱れをチェック。入学初日はイメージが重要って雑誌に書いてあったし、新しい友達にいい印象を持ってもらうためにも身嗜みには気を遣わなきゃいけない。と、そうこうしているうちに私に話しかけてくる人がいた。
「……みかちゃん、だよね?」
私はその眼鏡の女の子にもちろん見覚えがあって、というか中学生の頃は別の学校になっちゃったけどずっとメールのやり取りを続けてた子で、久しぶりに見るその子の顔は当然だけれど小学生の頃よりずっと大人びていて驚いた。
「もしかして、あいちゃん?」
「そう! あたし! 久しぶり、みかちゃん!」
艶のある黒髪を二つ結びにおろして、赤ぶちの眼鏡の奥の大きな目は驚きに見開かれて、イヤフォンを外しながら私に話しかけてきたのは、小学校の頃の同級生だった
「え……あいちゃん、もしかして音高なの?」
「そうっ、学校で会うまで内緒にしようと思ってたんだけど、こんなとこで先に会っちゃうなんて思わなかったよ!」
同じ高校に通える、なんて今の今まで知らなかったし、当のあいちゃんも一言も言っていなかったから、私はとても驚いた。それと同時にあいちゃんと高校生活を送れることをすごく嬉しく思っていた。私はあいちゃんの手を掴んで、
「えへへ、三年間よろしくね?」
ちょっと照れくさく笑って、そう言った。あいちゃんは突然、少しだけ感極まったみたいな顔をして、ずびっと洟をすすってから、
「……うんっ、よろしくね!」
恥ずかしそうに手を握り返してくれた。はにかんだあいちゃんの顔は、色白で、だけど少し赤らんでいて、小学生の頃よりもずっと綺麗になったなあ、と私は思った。
◯
「……はあっ、はあ、ふうっ……ぎりぎり、なんとか間に合った、ね?」
校門を時間すれすれに通り抜けて、私とあいちゃんはため息をついた。入学初日に遅刻なんて、漫画みたいなこと本当にしちゃうところだった。あいちゃんは笑って、
「あたしが思い出話してたら歩くの遅くなっちゃったね、ごめんね?」
「やー、私も一緒になって盛り上がったんだし、お互い様だから」
お互い、せっかく身嗜みを整えてきたのに、最後のダッシュでひとたまりもない。髪の毛もくしゃくしゃだし制服もちょっとよれてしまった。額には少しの汗さえ浮かんでいるのを見て、二人で笑いあった。あいちゃんがそろそろ体育館に行かなきゃ、と言って、私たちは入学式が行われる体育館に向かった。新設校なだけあって校舎も体育館も真新しく見えた。校長先生の格式張った、長々しい式辞が終わって、舞台の上には長い黒髪をひとつに束ねてポニーテールに下ろした女子生徒。制服のリボンの色を見ると三年生らしく、間を置かずに司会の生徒の案内が入った。生徒会長、
「新入生の皆さん、入学おめでとうございます。私たち在校生は皆さんを歓迎し、皆さんの良き先輩として皆さんをよりよい高校生活へと導いていきたいと思います。生徒会は皆さんのためにありますから、いつでも相談にいらしてくださいね。新入生の皆さんの新しい生活に幸多かれと願って、式辞と代えさせていただきます。敷島高校生徒会長、雪村沙夜香」
大きな拍手があって、新入生がみんな生徒会長を熱のこもった目で見ているのを肌で感じる。雪村会長はなんというか、強そうで、女の子にモテそうな人だなと、私は思った。
入学式は満開の桜の中に終わった。入り口でつけてもらった胸の花飾りがどこか誇らしかった。
敷島音高は三年前に出来た新設の私立音楽高校で、作曲家や演奏家を目指す生徒が多く集まっている。新設であるから未だ実績やネームバリューに欠けるものはあるが、私立だけあって充実した設備とベテランの講師が売りの学校施設だった。だから器楽コースと作曲コースと分けられているものの、クラスはひとまとめにされているらしく、体育館前に張り出されたクラス分け表には、運のいいことに、器楽科の私と作曲科らしいあいちゃんが同じクラスになったと記されていて、なんだか幸先のいいスタートだと私は思った。書いてあった一年A組の教室に向かうと、既に集まっていた生徒たちが各々に自分の席を探して座り始めているところだったので、私とあいちゃんも一度別れて席に着くことにした。出席番号は名前の五十音順に並べられていたから、席が離れなきゃならないのは少し寂しかったけれど、それでも同じクラスになれただけでもすごく嬉しかったので我慢する。しばらく周りを見渡してクラスメイトの顔を確認していると、やけにぜえぜえと息を切らした女の子が私の前の席に座ってくる。彼女は私と同じで教科書もまだ入れていないからスカスカに軽い指定の鞄を机の上に放り出して、椅子にどさっと座って、大きなため息をついた。私はその様子が何故だか気になって、恐るおそる声をかけていた。
「……どうしたの? そんなに急いで」
彼女はずばっと振り向いて、そのままの勢いであたふたし始める。
「えっ、わっ! お、おはようございますっ! ていうか、はじめましてっ!? どもですっ! あたしは
「え、ああ、そっか、はじめまして。私は
私があわせて自己紹介すると、和歌山さんはこぶしを手のひらにあてて、ぽんっ、てするやつをして、というかそんなポーズ本当にする人初めて見たんだけど、とにかくそれをやって、嬉しそうに笑って言った。
「黎元さん、ですかっ! あたし、あんまり人のお名前おぼえるの得意じゃなくてっ、だけどがんばっておぼえますからっ! えと、これからよろしくおねがいしますっ!」
和歌山さんと名乗った女の子は、忙しそうにぺこりぺこりと頭をさげて、私もなんだか一緒になって頭をさげてしまった。二人してぺこぺこやっていたら周りの人がくすくす笑っているのに気が付いて、私と和歌山さんはお互い笑いあって、やっと頭をさげるのをやめた。なんだか仕草がみんな、どことなく可愛らしくて、愉快な子だな、と私は思った。
「……それで、どうして急いでたの?」
私が改めてそう訊くと、
「それは、その……せんぱいを追いかけてたからですっ!」
「えっ……入学式、さっき終わったばっかりなのに、もう上級生と知り合いなの? もしかして、入学する前から仲良しだったとか?」
私が少し驚いて、そう訊くと
「なか、よくはないですけど……っ、あたし、せんぱいと、なかよくなりたいんです!」
そこまで答えを聞いて、私はなんとなく察してしまった。つまりは、和歌山さんは──
「……ひょっとして、一目惚れ?」
「あう!? あう、あぅあう、あぅ……ひ、ひとめぼれってなんですかっ? おこめ!? ごはんですかっ! あたし、その、あぅ……」
あからさまに動揺して口がふさがらない和歌山さんは、壊れたおもちゃみたいにしばらくあうあう言い続けて、私はなだめるように言う。
「あー……わかった。いや、大丈夫だよ? 私応援するからね。ちなみに、どんな先輩なの?」
「……う、あの……三年生の、雅楽部のせんぱいなんですっ! すっごく、かっこよくて……クールで……グルーヴィーで……っ」
「それ全部意味おんなじだからね?」
ていうかグルーヴィーって。要するにかっこいいとしか言ってないからものすごく語彙がないような気もするんだけど、なんだかものすごく語彙があるような気がする。なんだろうこれ。やっぱりちょっと面白い人だ、和歌山さん。
私がそんなこと考えている間にも、和歌山さんは机に突っ伏してぽわぽわしていた。耳まで赤くなっているから相当惚れ込んでいるのだろうけれど、そこまでかっこいい人ならなんとなく見てみたい気もする。雅楽、って言ったら和楽器の音楽だよね。私は昔からクラシック漬けだから、聴いたことは無いけれど。
「ほわぁ……
「……うわあ、完全に出来上がっちゃってるね」
私が前の席で時折くねくねしながらぽわぽわしている和歌山さんを見ていたら、教室の前の扉が開いて一人の男の人が入ってくるなり、両手をぱんぱんと鳴らして声をかけた。
「おーい、もう時間だぞ。入学式初日から騒ぐなんて元気なクラスだな。出席とるから席ついて」
ざわついていたクラスがそれで静まって、みんなそれぞれの席に着いた。それを見た担任の先生らしい男の人は、おもむろに黒板に何か書き始めて、わりと端正な字で書かれたそれを読み上げながら、
「あー……とにかく、ホームルームが終わったらとりあえず午後は自由時間です。部活の勧誘もあるだろうし、各々好きなところを自由に見学に行って構わないよ。ただし! きみたちはもう中学生じゃないんだから、正しい高校生らしい振る舞いを心がけること! わかった?」
はあい、とか、へーいみたいな返事があって、なんとなくこの先生はすでにちょっと舐められかけてるんだなってわかってしまって同情せざるを得なくなったところで、ちょうどよく終業のチャイムが鳴った。
再び堰を切ったようにざわざわと教室が騒がしくなり始めて、なんとか梶先生がそれを押し留めて、ようやくホームルームを終える挨拶をした。
梶先生は初日からちょっと疲れていた。
◯
「サッカー部どうっすかー! ストレス発散になりますよー!」
「一緒に合唱部に入りませんか? みんなで歌うと気持ちいいですよー!」
「野球同好会どうよ! アウト? セーフ!?」
「軽音楽部だよっ! じゃじゃあーん、じゃかじゃかじゃきぃいーんっ!!」
「卓球部で一緒に汗を流しませんか! ついでに部室には山ほど漫画がありますよ!!」
新入生を待ち受ける校門前の長い通りにはたくさんの部活の勧誘をする上級生が列を成していて私とあいちゃんは思わず立ち止まる。ちなみに和歌山さんはまた先輩を追いかけるとかなんとかで一緒には来なくて、あいちゃんと二人きり。どの部活に入ろうとか決めていない私にとっては悩ましい道だった。それにしても、
「けっこう普通の部活も多いのね。音高って言うぐらいだから、音楽系の部活ばかりなんだと思っていたけど」
私がそう言うと、あいちゃんは頷いて、
「授業でも音楽ばっかりなんだし、ストレス解消のためにスポーツしたりって人は多いみたい。みかちゃんは気になる部活あった?」
「気になる部活、かあ……」
私はそう言われて、なんとなく朝のことを思い出す。別に入りたいとかいうわけじゃないけど、興味があるのは嘘じゃない。
「えっと……雅楽部、とか?」
だから私がそう言うと、あいちゃんは信じられないものを見るような顔で私を見た。そして恐るおそると言った感じで忠告してくる。
「悪いこと言わないからやめときなよ……」
「えっ、なんで?」
「……新入生でも知ってるよ。うちの雅楽部が、その、やばいって話」
声を潜めるあいちゃんに、首を傾げる私。
「やばい? それって、どういう……」
「ほら、あそこ……あれが雅楽部だよ。きっと」
そう言ってあいちゃんが指をさした先には、心なしか人が避けて通っているような、言うなればエアポケットのような、そんな空間があって、その中には──えっ、あれなに。なんなんだあれ。
一歩ずつ近付くにつれて静謐な音色は耳に鋭く飛び込んでくる。その音は蒼く澄んだ水底のような色をしていて、深い海を眺めているような気分になってくる。綺麗な音楽だ。素養がないから、どんな曲だとかはわからないけれど、波立つ心を落ち着かせてくれるような、静かで穏やかな音楽の水面が、そこにはあった。
──そしてまた、藍色の無紋の袴に角帯を前に結んで首に袋をかけ、そして何より深い編笠をかぶって竹らしきで出来た縦笛を吹き鳴らす男の人の姿も、そこにはあった。あってしまった。
その方面に全然詳しくない私でもわかる。紛うかたなき虚無僧だった。けれどよく見ると傍に置かれた箱みたいなものに『尺八部』と書いてある。雅楽部じゃなかったのかな。ぶるぶる震えて嫌がるあいちゃんをひっぱって、私が虚無僧に近付こうとすると──
「あっ、いた! 草壁せんぱい! こんなところにいたんですねっ!」
「あ、和歌山さん」
「わっ、黎元さんですかっ! えへへ、お久しぶりですねっ!」
「いや全然お久しぶりでないと思うけど……」
すごい勢いで走り込んできたのは、和歌山さんだった。そうなると、やっぱり
「──しからば御免ッ!」
あ、逃げた。私たちがなんだかくだらない会話をしているうちに
「待ってーっ、草壁せんぱいーっ! あたしを雅楽部にいれてくださいよおっ!」
「雅楽部ではない! 我々は尺八部だッ!」
「われわれって、せんぱいひとりしかいないじゃないですかあーっ!」
「言うなッ!」
和歌山さんと
「くさかべせんぱぁーいっ!!」
「やめろッ! ついてくるなぁーッ!」
二人はそのまま全速力で、校舎の中に消えていってしまった。なんだったんだ本当に。
「……やばいっぽいね、雅楽部」
「やばいよ……雅楽部」
私とあいちゃんは呆然としてその場に立ち尽くすしかないのだった。
◯
あいちゃんは見たい部活があると言って一人で行ってしまったので、結局私は一人で学内を回ることにした。たぶん和歌山さんはまだ追いかけてるんだろうし邪魔したくないというか、正直に言って関わりたくなかった。あの人に積極的に関わりたいと思える人はすごいと思う。本当に尊敬するよ、和歌山さん。変な宗教じゃないといいんだけど。あれ、虚無僧って宗教的なあれじゃなかったっけ。大丈夫なのか和歌山さん。
ともあれ、和歌山さんのことは一クラスメイトとして本当にヤバそうになったときは止めようという意識を新たにしつつ、私は部室棟のドアをくぐった。部室棟には新入生勧誘をしていないような部活が活動しているらしい。敷島音高は部活動がかなり盛んな学校らしくて、たくさん部数があって、みんなが一斉に勧誘しては大騒ぎになるから新入生勧誘も許可制なのだそうだ、とあいちゃんが言っていた。つまりは勧誘の許可が下りなかったか、あるいはそもそも勧誘する意思がない部活がここに残っているということになる。部室棟は基本的に学部棟よりも小さく手狭で、迷路を探検しているような気分で私はなんとなくワクワクしていた。まずは手近にあった部屋の表札を見てみる。『囲碁将棋部』とある。次、『数学研究会』。うん、『クイズ研究会』。なるほど。わかってきた気がする。そういう感じで表札を見て唸りながら歩いて行くと、一番奥の一番埃をかぶった表札に、よくわからないことが書いてあった。いや、意味はわかるのだけれど、部の名前にしてはいささかシンプルに『コンチェルト』とだけ。うーん、本当にコンチェルトを演奏しようという部活なのかな。それにしては、部室のスケールが小さ過ぎる気がするけれど。しかし、よく考えてみれば私には、運動部で活躍できるような運動神経もないし、他の文化部に入りたいと思うような興味もないので、入るとするなら結局、音楽系部活に入るしかないのだ。そう思っていると、脳裏に浮かんだのはあの日のことで──
『何度でも言うわ。私はあなたのピアノが好き。だから、いつか……あなたと
「そうだ……コンチェルト」
途端に、私は目の前の部室に興味が出てきた。いつかコンチェルトを演るために、ここで経験を積んでおくのも悪くない。そう思ったのだ。この部活がどんな部活であるかも知らないままに。私は木製の重いドアを、音を立てて開けて──
「……あの、『コンチェルト』って」
そう言いかけて、突然の甲高い声に遮られた。
「え、え、えええ!? もしかして、入部希望者なのっ!? やば、やばい……待っててね!?
突然声をかけてきたのは明るい茶髪を頭の両サイドで結っておろしたいわゆるツーサイドアップの女の子だった。身長は私と同じくらいか少し低くて、けれど制服のリボンの色で上級生だとわかる。私たち一年生のは青くて、二年生のは赤い。そうこうしているうちに瑛二と呼ばれたらしい男の人が部屋の奥のほうから出てきて、私を見て驚いた声を上げた。この人も二年生らしい。
「びっくりだよ、一年生が来るなんて思わなかったから! ね、瑛二!!」
「本当だよ……おい、ちょっと待て。
「あ、ごめん……ついうっかり」
私を放って二人でわちゃわちゃしだしてしばらくして、ようやく私の方に向き直る。瑛二と呼ばれた男子の先輩は、私をじっと検分するようにひと通り眺めてから──
「あー、入部希望じゃなくても、とりあえず、ひとまずはだな──ようこそ『コンチェルト』へ」
そう言って、手を差し出してくる。私はおずおずとそれを見て、香奈と呼ばれた女子の先輩に目配せして、にっこり微笑まれて、そしてようやく、その手を軽く握った。
私の高校生活は、今、始まろうとしていた。
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