エクストラ Ep:間宮柳子

幕間 敗績の英雄 ※演奏シーンあり

 私は天才だった。

 幼い頃からそう呼ばれてきた。私はそれを少しも疑わなかった。私が誰よりもクラシックに近い人間だと、そう信じていたから。初めてピアノを弾いた時、私はかつての古き演奏家ピアニストたちと、そしてすべての時代、瞬間に存在したであろう音楽クラシックたちと、ひとつになるような感覚を得た。それはだった。自分という存在が融け落ちて、音楽と混ざりあう。私が音楽になり、音楽が私になる。鍵盤を叩いている時、私は音楽そのものだった。

 ──そう、彼女あいつと出会うまでは、私は他に何も必要としていない、完全な存在だったのに。


「……何故っ、どうしてっ、私の演奏を最後まで聴かないんですかっ!?」


 私は、部屋を出て行こうとするそいつを怒りの限り怒鳴りつける。許しがたいことだ。私の演奏だ。他のピアニストじゃない、間宮柳子わたしの演奏なんだ。それをどうして聴かずになんてことが許される。私は憤慨していた。

 きっかけは、私の演奏に惚れ込んだとかいう、偉そうなピアノの講師が、そいつを私の家に連れてきたことだった。生まれながらにしてクラシックであった私にとって教師などは蛇足にしかならないと思っていたが、あまりにも周囲に勧められるので、試しに一度会ってみることにしたのだ。思えばそれが間違いだった。そいつは激昂する私を見て何の感慨も無さそうに平然と言ったのだ。

「──聴く価値がない。のほうがまだ面白い演奏をします」

 私は呆然として、怒るのさえも忘れてピアノの前に立ち尽くした。彼女はそれを無感情に見つめると、たった一言「明後日、また来ます」とだけ言い残して、本当に帰ってしまった。

 ──無茶苦茶なやつに出会ってしまった。私は心の底からそう思った。


      ◯


 私の生家は、お世辞にも豊かであるとは言えなかった。それこそ個人でピアノを買うどころか、毎日の食事にすら困るような貧しい家だった。しかし私は、そんな枯れきった家に生まれた、才能の泉だった。自分は他の子供より賢いのだと気がついたのは三歳の時。そして、自分が両親よりも賢いのだと気が付いたのは五歳の時。私は小学校に入るまでの間、家の近くにあった小さな図書館で日がな一日本を読んで過ごしていた。母も父も手のかからない子供を喜びこそすれ、一人っ子を一日中放っておくことに何の心配も無いようだった。いいえ、私には解っていたのだ。彼らは私に興味がないのだと。ついぞ私は両親から愛されることなく育ち、そしてこれからも決して愛されることなく死んでいくのだろうと本気で信じていた。しかし賢かった私は、一度もそれを悲しいなどと感じたことはなかった。私は誰に助けられずともありとあらゆることが出来た。だからこそ、愛されずとも私は生きていけるのだと、心からそう思っていた。

 初めてピアノというものを見たのは図書館の本の中でだった。そして、実物と出会ったのはそれから一年が過ぎた小学一年生の時、図書館の蔵書をあらかた読み終えてしまって、暇を持て余して次の遊び場に選んだ公民館の児童室だった。本で読んで弾きかたを知っていた私は、戯れに鍵盤を叩いて遊んだ。図書館で読んだ本は楽典グラマーの教則本で、かねてより和声というものに美しさを見出していた私は、覚えてしまった和声をいくつも実際に試してみるという新しい遊びを見つけたのだった。やがて私は和声の中で自ら旋律を作ることを覚え、六歳にしていくつものピアノ独奏曲を作曲した。作曲遊びはしばらくの間、私をもっぱら楽しませる遊びになった。そうしているうちに、私は公民館を訪ねてきた若いピアノの講師とかいう男に勧められて、ピアノコンクールに出ることになった。そして、今思えば独学で指回しの練習曲(それもしっかりしたものではない)を半ば遊びながらこなしていただけの私に初めからそんなものを渡すなどまともな講師ではなかったのだろうが、ともあれこの中から曲を選びなさい、と彼に渡されたショパンの練習曲集は、私にとってある意味、運命的な動機モチーフとなった。

 ショパンは詩人ポエトだった。遊びであっても、作曲をしていたからこそわかる──彼の書いた音楽は実に美しい。私は練習曲だけでなく彼の他の曲も貪るように読み、特に気に入ったのはポロネーズだった。彼の楽譜はまさにひとつの芸術だ。ひとつひとつの音を見るだけで、頭の中に典雅クラシカルなリズムと詩的ポエティックな旋律が蘇る。彼の楽譜ことばは読む者にすべてを伝えてくれる。私が生まれるよりずっと前に死んだ人のはずなのに、私はまるで彼と直接に対話しているような錯覚さえしていた。

 それから私は今まで読書に費やしていた時間をすべてショパンの読譜に使うようになった。それも肝心のピアノを触る時間は練習曲を復習さらうための僅かなもので、ほとんどすべての時間をただ楽譜を読むことに費やしたのだった。そしてワルツ、ノクターンの数々を満足がゆくまですべて読み尽くしたと自分で思えてから初めて、私はコンクールでそれを弾いた。ショパンの練習曲に見えるような流麗なる技巧や表現もさることながら、私がもっとも愛したのは彼の詩想、曲想であったことは言うまでもない。私は初めジュニアコンクールに出ていたが、すぐに年齢層が上のコンクールに出るようになり、やがてコンクールに出始めて一年足らずで、私は高校生と同じ舞台で弾き、当然のように一位入賞するようになっていた。

 両親にとって、突然コンクールで成績を残し始めた私は金のなる木に見えただろう。私に恵まれたピアノの才能があることがわかって、父親と母親はどちらの血が遺伝したのか口論さえしていた。私はコンクールで勝ち取ったリサイタルやコンサートにおいても愛するショパンをとにかく弾き続けて、それによって副次的に得られた賞金で生活が少しだけ安定した。やがて両親は上機嫌になり、ついに私に高価なピアノを買い与えるまで(当然、資金は私の弾いた賞金から出たのだが)になった。

 けれど──私はコンクールに出るのをやめた。、と気付いたからだ。コンクールで私を審査するのは、私よりも劣る弾き手、しかも私の音楽を食い物にするやつらだ。そんなやつらに音楽わたしをやってなるものか、と思った。父や母は何度も気持ち悪い猫撫で声を出したり、脅したりして私を無理やりにコンクールに出そうとしたけれど、私は決して弾かなかった。ただ一人ピアノを弾き、育ち盛りの子供にしては少ない食事をして眠るだけの日々。父と母は初めのうちはなんとかして私で金を稼ぎたいと考えていたようだったが、私が意地でもコンクールで弾かないと決めていることを理解すると、流石に諦めたようでうるさく言われることはなくなった。

 私は、ひたすらに孤独の中で、より近く、よりそばに、ショパンへと手を伸ばしていった。彼は何よりも近くに居て、そして何よりも遠い、私の音楽だったのだ。

 ──それでも、コンクールに出なくなった私にしつこく付きまとうのが一人だけ残っていた。

「……また来たの? 私は弾かないと言っているでしょう」

 自分の狭い部屋に無理やり押し込んだピアノ椅子に座って、私は部屋に入ってくる男に悪態をついた。見慣れた、いいえ、見飽きた顔だ。かじとかいうピアノ講師。公民館で弾いていた頃の私に声をかけてきた、私の才能を食い物にしようとする男だ。私は断固として断り続けているのだが、

「いや、言っただろう? もうコンクールに出てくれとは言わないよ。だが、練習ぐらい見せてくれ。俺も君ぐらいの才能を放置してみすみす潰すようなことはしたくないんだ」

 こんなことを言って相変わらず私に付きまとってくる。小学二年生につきまとう男なのだから、当然しかるべき機関に連絡して助けを求めることもできるのだろうが、私はかえってそのほうが面倒になるだろうと考え、あえて放っておいていた。

「私のピアノは私だけのものよ。他の誰にも奪われたりしない。あなたにはショパンを教えてもらった恩があるから、こうして見逃しているだけ」

「……わかってるさ。だから、もう少しだけ見逃してくれ」

 彼はそう言って、いつもただでさえ狭い私の部屋の、隅の隅の隅っこで、黙って私のピアノを聴いているのだった。

 梶は毎日やってくる。随分お暇なのね、とか馬鹿にしてみても、いつも変わらず愛想笑いをするばかりなのだ。こちらも張り合いがなくなって、やがて揶揄うのをやめた。

 そして梶が私の部屋に出入りするようになって半年が過ぎようとした頃、突然に彼がを連れてきたのだった。


      ◯


「──梶っ! もう、もう……もうっ、もうもうもうっ! なんなの、あの女はっ!!」

「モーモー言ってると牛になるぞ?」

「ならないッ! 貴方私の話を聞いていて!?」

 私は珍しく冷静さを欠いていた。言うまでもなくあの女のせいである。あの女が私の演奏を勝手に聴くようになって二日目。そして──無礼にも私の演奏を中座する無法者が現れて二日目。私は心底ウンザリしていた。今まで、私がピアノを弾いて聴き手を圧倒しなかったことなどなかった。それなのに──

「どういうつもりなのよ……梶っ、あなたが連れてきたんでしょう!?」

「いやあ、俺は知らないけど……」

「────梶っ!!」

「ひっ!?」

 私が凄むと梶は情けない声を出す。小学二年生を怖がる成人男性はみっともなさを通り越していっそ清々しい。

「……あー、あいつは俺の同期なの。俺が音大にいた頃の数少ない友人ってわけ」

「どうして、私のピアノを聴かないの!? 他の誰でもない私が弾いてるのよ!?」

 らしくもなく私は、怒りのままに目の前の冴えない男を怒鳴りつけた。梶はなおさら私を恐れて萎縮する──かと思えば、

「……その間宮さんが、どうしてあいつに聴いてもらえないのか、わからないの?」

「…………っ!」

 ぷっつり、と。私は自分の中の何かが音を立ててのを感じた。私はその日、そのまま梶を部屋から追い出して日が暮れるまで弾き続けた。


      ○


「時間の取り方が甘い。フレーズに意味の違いがある時は変遷を感じられるように弾きなさい」

「ミスタッチを怖がりすぎて演奏の幅が狭くなってる。だからつまらないのよ」

「自分勝手なテンポ進行をしないで。聴衆を置いていく演奏はホールの外でやりなさい」

強弱記号ディナーミク速度記号アゴーギクも大袈裟に取って。伝わらなきゃ表現じゃないのよ」

「暗譜してるでしょ。楽譜を見るな!」


      ○


 ひどい頭痛だった。

 私は久し振りに来た公民館の待合ベンチで俯いて黙っていた。考えるのはあの女のことだ。私は今まで、私のピアノを私のために弾いてきた。他の誰に聴かせるためじゃない。ただ、私が音楽に近付くための音楽。音楽のための音楽アブソリュート・ミュージック。初めて音楽に出会った時から、私の音楽はずっとそうだったのだ。今更、自分じゃない誰かのために弾くことなんて、出来るはずがない。

「大丈夫かい?」

 ふとした声に顔を上げると、いつもの冴えない顔が私を覗き込んでいる。私がきっと睨みつけると梶はたじたじになりながらも恐るおそる一本の缶ジュースを私に向かって差し出した。

「……あなたに、心配される必要はありません」

 私は彼の手を黙殺して、両手で抱きしめるみたいにぎゅうっと、圧し潰すみたいにぎりぎりと、自分のお腹をきつく押さえつけた。

「…………っ」

 唇を噛む。古い痛みも新しい痛みもみんな、身体に閉じ込めて圧し殺す。長い年月をかけて刻まれてきたその傷たちは、私の強さであり、私の恐怖そのものでもあった。

「間宮さん、君は……」

「余計なことに口出しするなッ!」

 とっさに反発して、口を噤んだ。梶は水滴のまとわりついたオレンジジュースの缶を私の隣に置くと、黙って公民館を出て行った。

 冷え切った柑橘の味は、口の中の咬み傷に少しだけ沁みた。


 五度目のレッスンであの女はとんでもないことを言ってきた。

「コンクールに申し込みしたって……私は出ないと言っているじゃないですか! どうしてそんな勝手なことを……」

 梶は始終申し訳なさそうな顔をしていたが、肝心の女は悪びれる様子もなく返事する。

「一人で弾いているかぎりあなたの演奏はいつになっても上達しません。いつまでも井の中の蛙でいいならこれ以上、あなたには何も言いませんし二度と私はあなたのピアノを聴きません。しかしあなたに音楽への志向があるのならば、次のコンクールであなたにできるだけの演奏をなさい。そのために必要なことは今までにすべて伝えてきたつもりです」

 平然とそれだけ言い残すと、返事は次までに、とか付け足して、あいつは私の部屋を出て行った。私は呆然とした。

 ──コンクールでピアノを弾く。たったそれだけのことなのに、それをしなければならないと考えるだけで胃の奥から酸がこみ上げる。

 梶は何か言いたげに部屋に残っていたが、私は彼を問答無用に帰すと、一心不乱にピアノを叩き続ける。和音に溶けてパッセージに埋もれてようやく恐怖を忘れられる。その日は読譜もせずにピアノを弾き倒して、疲れ切ったまま倒れるようにして寝てしまった。

 結局、私はプライドが傷つくのを恐れてコンクールに出ることになった。


      ○


 ピアノを弾けなくなってから、彼女が俺を呼び出すなんてことは本当に久しぶりだった。音大にいた頃は毎日のように通っていた彼女のお気に入りのカフェ。事故があってからは滅多に行かなくなって、俺たちが顔をあわせる日も極端に少なくなった。俺は駅を出て少しだけ急ぎつつその店の姿を認めると、変わらない内装やインテリアをしみじみと眺めながら自動ドアをくぐる。きょろきょろと見回すと、昔の彼女の特等席だった窓際の二人用の席に座って、彼女はティーカップを傾けていた。窓の外を眺めてばかりで俺が来たことには気が付いていないらしく、俺は驚かせてやろうかと妙な悪戯心を膨らませて、彼女の死角からそっと近付いては小さな声で「みゃあ」と呼んだ。

「みゃ……!?」

 案の定、深山みゃあは小さな声で俺の声を復唱するみたいに驚いて、

「……なんだ、梶くんね」

「なんだってなんだよ。俺じゃ不満?」

 ふざけてもじとっとした目で黙殺される。昔からこういうやつなのだ。

「あのね、もうそのみゃあって呼び方やめてっていつも言ってるでしょう」

「へいへい。深山みやま美也みや大先生」

「……子供なんだから。もう幾つよ、あなた」

「若いって言ってほしいね」

 俺たちが軽口を叩いているうちに店員が注文を取りに来る。俺は適当にブレンド、深山はミルクティーのお代わりを頼んだ。

 俺は深山の向かいの席に腰掛けて深山の目線を窺う。わざわざ呼び出すぐらいなのだから、何か俺に用事があるのだろうが、深山はじっと座って黙ったまま、変わらず窓の外を見つめていた。俺も黙って深山が口を開くのを待つつもりでいると、とうとう店員がレトロなスチールのトレイに二人分のカップを載せて、危なげなく運んで来た。会釈のやりとりがあって俺と深山の前にはひとつずつ湯気を立てるカップが置かれ、深山の古いカップは片付けられた。そこまで、会話はひとつも無し。流石に焦れた俺は自分から話題をぶつけてみることにした。今日俺が呼ばれたことについても、実はだいたい見当がついているのだ。

「……あの子のこと、どうするつもりなんだよ」

 口の中をコーヒーで濡らして、ほどよい苦味と酸味に思考を澄ませて、俺は恐るおそる尋ねた。深山は変わらず窓の外を見ている。彼女の新しいティーカップにはまだ手がつけられていない。しばらくの間、考え込むような素振りも見せず、俺に一暼をくれることもなく、彼女はただ黙っていて、しかし俺はこういう彼女がきちんと言葉を探しているのだということを知っているから、同じく黙って返事を待つ。俺のコーヒーが半分ほど無くなってようやく、彼女は口を開いた。

「……コンクールで弾かせる。あの子には、間宮柳子の音楽には、絶対にそれが必要だから」

 返ったのは確かな言葉で、しかしそこには少しの迷いが孕まれているように聴こえた。

「わかってるさ、お前が必要だって言うならそうなんだろ。だがな、あの子の態度はただ、わがままでコンクールに出たくないって言ってるようには、どうしても見えない」

「……それは、私にもわかる。だからこそ迷ってるのよ。だけど、あの子のはただ、膨大な練習量に基づいた技巧とか、天性のセンスによる曲想表現とか、そんななものじゃないの」

 悩ましげにため息をついた。長くウェーブのかかった黒髪が頭の揺れに合わせてうねる。深山はらしくない長台詞に喉が渇いたのか、ようやくミルクティーに口をつけた。

 昔は、ピアノを弾いていたころは、こんな風に話すやつじゃなかった。ピアノを失った彼女は、少しずつ言葉を手に入れているのかもしれない。口下手な彼女なりに少しずつ。俺はそれを喜んでいいのか、あるいは寂しく思っていいのか、彼女の言葉を感じるたびに困惑する。

 ともあれ、彼女の言葉は巧くないなりに真摯で正直だ。きっと深山は間宮柳子に何かを見出しているのだろう。しかし──

「そもそも、どうしてお前はそんなに間宮柳子に執着するんだ。初めてコンクールであの子の演奏を聴いて、わざわざ俺を使って声をかけさせるなんてめんどくさいことまでして。確かに間宮柳子は上手いかもしれないが、他の上手いジュニアとそう変わるとは思えない。お前の言う通りがないんだよ。初めてあの子の演奏を聴いた奴は例外なく圧倒されるだろうが、。迫力はあるが、逆に言えばそれだけだ。ショパンと同じ六歳でいくつもピアノソロを作曲したことだって、教師抜きの独学で書いたことはすごいが、訓練を受ければどの子にだって出来ることだろ。なあ……お前にあそこまでさせる間宮柳子の才能って、一体何なんだよ」

 俺にはそれが何なのか、わからなかった。結局のところ、俺にあるのは中途半端に弾けるだけの指と、大事な人の大事なものも守れない弱い腕だけで、何もかも、演奏者としても指導者としても中途半端なのだ。抱え込んだコンプレックスは燻ったまま言葉を濁らせるけれど、幸いなことに深山はそれに気付かない。深山は自分の言葉を探すのに一生懸命で、けれど確かに、彼女の考えをひとつずつ答えた。

「あの子にも、見えてるのかもしれない。いつか私が見ていたものが……」

「……何だよ、それ」

 彼女の声は、どこか上擦るようなところさえあって、視線はゆるく焦点を結び、しかしその目には強い力があった。

「あの子、ピアノを弾くときに鍵盤を見ないの」

「……は?」

 訥々と話し始めた彼女の言葉に、にわかに困惑する。演奏するときに鍵盤を見ない、どんなピアニストだって教わり、実践することだ。鍵盤を見ているだけでは弾けない。時には膨大な量に及ぶ楽譜の指示から常に目を離さず、それを表現しなければならないのだから。最低限、難しいパッセージの部分は鍵盤を見ても、他の部分では常に次演奏するパートを楽譜で確認しておかなければならない。それを俺が指摘しようとすると、深山は遮ってさらに続ける。

「違うの。あの子は演奏中、一度たりとも自分の指も鍵盤も見ないのよ」

「……どういうことだ?」

。それもあの子はピアノを弾いていない間、ずっと読み続けているぐらいに譜面を見ているのだから当然、ワルツやノクターンぐらいなら暗譜できているはずなのよ。それでも絶対にスコアから目を離さないの。ショパンの技巧はベートーヴェンともリストとも違う。ハノンやツェルニーなんて弾いたってショパンは弾けるようにはならないの。なのに彼女は、あの若さで平然とショパンを弾きこなしている。いくらショパンの練習曲集をいくつかこなしたからって、弾けるようにはならないのがショパンの難しいところなのよ。あの程度のミスタッチで済んでいることがもう異常なの。それに加えて、彼女は鍵盤を見ていない──これがどういうことかわかる?」

「……わかるように説明してくれ」

 深山は興奮したように話し続けて、思い出したみたいにティーカップを口に運んだ。それから間髪入れずに話を再開する。

「並のピアニストが楽譜から瞬時に得られる情報量は大体、演奏するのに最低限必要な情報を百パーセントとして、五十パーセントくらい。その分野の音楽を弾き慣れたプロでも七十から八十パーセントが限界。あなたにも経験があるはずよ、楽譜を見て簡単だと思っていたパートを実際に弾いてみると思いのほか難しかった、なんてことが。だからこそピアニストは事前に楽譜を読み込んで、何度も練習して、予備知識として演奏に必要な情報を取り込んでおくことで、演奏に使える情報量を百パーセントまで引き上げるの。プロのクラシックピアニストが初見の演奏を避けたがるのは、初見では瞬時に楽譜から読み取れない部分は当然、表現することもできないからよ」

「そんなことは俺にだってわかる。それが、間宮柳子と、どう関係してるんだよ?」

 とうとう焦ったくなった俺は少し語調を強めて彼女を問い質した。彼女はミルクティーの残りを飲み干してしまって、


「あの子は、弾きながら読もうとしてるんだわ。を」


 そう、言った。俺はその一言で途端に頭の中をぐるぐると形を持たずに漂っていたものがすべて、一度にひとつにまとまって稲妻のような音を立てるのを聴いたような気さえした。

 つまり、間宮柳子は。

「そんなの……そんなの、だろ」

 俺たち凡人のピアニストが楽譜と、鍵盤と向き合って何度も何度も血の滲むような練習を繰り返してようやく手にするものを、たった一瞬ステージの上で楽譜を見つめるだけで、いとも容易く手に入れてしまうというのか。そんなことがあっていいのか。だけの、たったひとつの誰にだって出来るようなことで、も、も、それらを、すべて簡単に否定されて、いいものかよ──

「……あの子はまだ子供よ。きっと楽譜から読み取れるものがあるってことには気付いているでしょうけど、それが何なのかまでは手が届いていない。私だって楽譜のその先を見つめるだけで精一杯で、手を伸ばそうとすらできなかった。けれど、彼女なら、彼女がいつか、たった一曲の楽譜からを読み取れるようになるなら──」

 それきり彼女は押し黙った。俺は打ちのめされたような感覚が消えなくて、拷問に耐え続ける罪人のように、その場に縛り付けられていた。

 やがて冷め切ったコーヒーと空にされたティーカップを店員が片付けてしまって、残ったのは、大いなる得体の知れないものを前にしたちっぽけな凡人の、弱々しい沈黙だけだった。


      ◯


 コンクールの日。私は最悪の体調を抱えてホールに向かっていた。もう夏になったのかと錯覚しそうなほどに照りつける太陽と温められた空気に反吐が出そうになる。胃の奥からおぞましい何か、私じゃない何かがもぞもぞと這い上がってきて、喉を食い破って出てくる。私はなす術もなく食い荒らされて、肉一片も残らない。そんな妄想に取り憑かれて、何度も喉を掻きむしった。それでも、私はホールに向かっていた。

 負けるわけにはいかなかったのだ。私は他でもない間宮柳子なのだから。

 ホールの化粧室の洗面台で思い切り顔に冷たい水をぶちまけて、ショパン以外、彼の楽譜ことば以外を頭から叩き出した私は、いずれ来るべき演奏順を待った。その日は何故か梶も、あの憎たらしい女も私のところへはやって来ず、私は演奏前の貴重な時間を、たった一人で集中して読譜することに費やすことができた。やがて、演奏順が近付いたことを知らせに控え室まで呼びに来た男を睨みつけて、私はステージの裏に移った。

 木製のステージ裏には観客席とステージの静かな熱気と、静かに出番を待つ人々の冷たい緊張とが混ざり合っている。微かな木材の匂いと自分じゃない息遣い。何度も感じたはずなのにそれは私を異様なまでに不安にさせる。あるいは不安では不適かもしれず、信じられないことにそれはまるで恐怖のようだった。

「……やあ、間宮さん。調子は?」

 影になった暗がりから話しかけられて目を凝らすと梶だった。今日は来ないと思っていたうちはいないことに違和感もあったが、結局いればいたで鬱陶しい。私はあからさまに不機嫌な顔をして見せて、悪態をついた。

「ステージ裏は私語厳禁ですが」

「少しだけさ。君の講師から伝言を頼まれてね」

 梶は私が睨みを利かせてもさほど気に留めない様子で言葉を続ける。

「今日の君の演奏を最後まで聴きたいんだとさ」

「……ッ、何様のつもりですか。散々勝手に帰っておいて最後まで聴きたいって!」

「ちょ、おい、声を落して……私語厳禁って言ったのは君だろ」

 私ははらわたが煮えくりかえるような思いで梶を睨みつけた。

「…………それで、伝言はそれだけなの?」

「いや、もう一つある」

 梶はどこか得意げな顔をしていて腹が立った。

、だってさ」

 私は思わず舌打ちした。

「……本当に、最後の最後まで私を舐めきった女ですね。見てなさい、私の演奏を……」

 私は誰にでもなくそう呟くと、有無を言わさぬ目で梶を退出させた。

 ──やがて、私の演奏する順番がやってくる。


『──二十二番。ショパン作曲、作品番号34-1。ワルツ第2番変イ長調。演奏、間宮柳子さん』


 私の名前が読み上げられて、にわかに聴衆が騒ぎ始める。私はステージが静まり返るのを待って深呼吸をした。

 聴衆のために弾け──そんなこと、あいつの口うるさい話を聞かされていれば、直接口にされなくたってわかる。やつは私に聴衆のための音楽をやらせたいのだ。それは私の音楽を売り渡すことであって、到底私に許せるものではないのに、あいつは私にそうしろと言う。それでも、何度も何度も、あの女に最後まで私の演奏を聴かせてやるために演奏するうちに、わかってきた。あいつは決して私の音楽を利用しようとしているのではないのだと。むしろ私の音楽に足りなかった聴衆の視線を指摘して、より良い音楽を作ろうとさえしてくれているのだと。けれど、私は──

「……ううん、私は弾くのよ。今日こそはあの女に私の演奏を聴かせてみせる」

 私は、ステージに立った。ローファーを鳴らしステージの中央にあるピアノだけを目指し歩く。ピアノ椅子をそっと引いて、落ち着いて座った。よし、ここまでは上々だ。私は譜面台に並んだ楽譜を見つめる。愛するショパンは今日も変わらずに私を見つめている。そうだ、そう恐れることはない。いつも通り弾けばいいだけなのだから。

 私は譜面から一度目を離して、ゆっくりとステージの上から聴衆を眺めた。最前列の席にあの女がいる。これから私はあいつのために、聴衆のために弾くのだ。そうすることがきっと、私の演奏のためになるのだから。ショパンに近付くためには必要なことなのだ。だから──

 私は息を呑んで、観客に向かって礼をした。ざわついていた雰囲気がすっかり静まって、ステージは静寂に落ちる。ようやく、私はいつも通りの平静を取り戻せたように思った。

 ピアノの前に座る。ショパンと目を合わせるけれど、今日はそればかりではダメだ。聴衆のことを考えて、どう聴かせるか、表現を工夫しなきゃならない。私はじっと目を閉じた。

 大丈夫、あの女だけに聴かせるのと変わらないはずだ。私は私の演奏をするだけ。他の人間は関係ない。私のピアノは私だけのもので、他の誰のものにもならない。けれど、少しだけ私の音楽を他人に貸してやるだけなのだ──

 私は目を開けて、ピアノに触れようとした。そしてその時、慣れないことを考えたせいで、不意に視界の端にステージの下の、聴衆たちの姿が映ってしまう。

 ──彼らは、私をじっと見つめていた。


 弾け!────弾け──弾くんだ────さあ弾け!──弾け──ピアノを弾け────弾け!──弾け!────弾け!──弾け!──弾け!


 ──ピアノを弾かないお前に何の価値がある?


 黙れ、黙れっ、黙れ黙れ黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れっ、黙れっ、黙れ黙れっ、黙れ──っ!!

 指が震える。何が、何を恐れている。私は間宮柳子で、私のピアノは、音楽はっ、

「…………ッ」

 口の中に鉄臭い味が広がって、唇の端を自分で噛み切ってしまったことに気がつく。何だ、何が恐ろしい。私は──

 ピアノを弾かないと、ピアノを──


 指は、自然とある曲を選んだ。目の前に迫る恐怖オーディエンスに、あらん限りので対抗するために。

 喘ぐみたいに、無理やり空気を呑み込んで──


 第一音──力強いオクターヴを静謐に落とす。続けて右手四度左手単音の半音階を滑らかに昇り、明らかなハイテンポに聴衆が騒めく。当たり前だ、これは行儀のいい。不規則に崩れる和音も弾き損なわない。ショパンと繋がってさえいれば、私はミスタッチなどしない。ありったけの力で鍵盤を叩く。誰でも知っているメロディだけに観客は戸惑いを隠せず、こそこそ話をする奴も見えた。けれど私は、私の演奏を聴かない奴を許さない──

 クレッシェンド──序奏を終え、あえてテンポを落とさずに、勢いのまま華やかな第一の動機モチーフ。私は胸の内で、高らかに叫ぶ。


───────ッ!!』


 鍵盤を叩く、叩く。鍵が吹き飛んで壊れてしまいそうなぐらいに思い切り、指で殴りつける。観客が黙る。誰もが圧倒的な演奏に打ちのめされているのを感じる。高く、彼方まで駆け上がるパッセージ。誰一人、私の演奏を聴いていない奴はこの場にいない。。音楽で、お前ら、全員、一人残らず叩き潰してやる──!


 高らかに奏でる第一主題は、ショパンの愛国心そのものだ。出身国ポーランドへの強い愛を持った彼は、自国の伝統音楽であるポロネーズをいくつも書き上げた。その中でも『軍隊アーミー』、『幻想ファンタジー』と並び称される、作曲のみに専念し黄金時代と呼ばれた晩年の『ピアノの詩人ル・ポエト・ドゥ・ピアノ』ショパンによる、正真正銘の最高傑作マスターピース──作品番号53『英雄ヒロイック』ポロネーズ。著作に名前をつけることを嫌ったショパンだが、特に優れた楽曲には彼を愛するピアニストが呼び習わす名前がつく。そしてこの曲は、言わずと知れた輝かしい『英雄』の名を冠するもの。であるから旋律は極めて荘厳にマエストーソ。燦々たる祖国の栄光をその手に掲げて、絢爛かつ堂々たる英雄の生き様を高らかに謳歌する。


 華やかな主部を終えて──トリオに移る。左手は軍馬のように軽やかに、しかし力強く地を踏み締める。指が軋む。オクターヴの繰り返しは次第にテンポを上げていく。もっと──もっと早く、もっと遠く──きっと他の誰も、ついて来られないところまで──

 第一ラウンド。エスカレートしていくテンポに無理やり指を走らせる。殴る、殴る、指が悲鳴をあげる。構わない、走り切れるならば、このあしが折れたって構わない──第二ラウンド。右手のパッセージにも一切の容赦なく、深い蹄跡を残して一気呵成に駆け抜けた。


 そして──ト短調から始まる静かなパート。もはや酷使した指は死に体で、ぴくりとも動く気がしない。それでも目だけは、自分でも驚くほどに、取り憑かれたように楽譜を凝視する。強勢部こそが『英雄』の最も強い動機ではあるが、ショパンの真骨頂はその豊かな楽想にあるのだ。そして、こうした弱奏部にこそ、彼の美しい世界は最も顕に現出する──指を動かす意識などはとうに消えていた。ただ、執念のように楽譜を見つめ、ほとんど力を入れずに弾き続けていた。連符──汗が滴る──やがて、低く下り降りるクレッシェンドを経て、演奏は再び主部を迎え──


「────────ッ!!」


 指を叩きつけて──音が途絶えた。

 私は混乱していた。頭の中では求める音が鳴り続けているのに。目は楽譜を、ショパンの影を見つめ続けているのに。どうして音が、聞こえない。耳がおかしくなってしまったのか、そう思って耳を触ろうとして、指に違和感があった。

 ──ああ、これで限界なのだな、と悟る私と、そんなはずはない、私はまだ弾ける、と憤慨する私が紛糾して、脳内を一瞬のうちに駆け巡った。神に縋りつくように楽譜を見つめて、彼が変わらず私に微笑みかけているのを見て、噴き出すみたいに目が熱くなった。

 ──ああ、ショパン。あなたは──

 ぴしり──と。

 何かが入るような感触があって──刹那、私は左手を抱えて椅子から崩れ落ちていた。


      ◯


 近くに小学校があるにも関わらず、公民館にはほとんど子供が来ない。いつ行っても私ひとりきりで、けれど好都合だとは思っても寂しいだなんてことは思ったことがなかった。夕暮れの光が窓から差し込んで、ピアノに反射する。そもそもピアノ以外にものが置かれていないような部屋だ。当然子供向けの玩具などはひとつたりともない。だから子供の足が向かないのかもしれない、と改めて思った。どうして公民館はこんな殺風景な部屋を児童室にしたんだろう。

 ともあれ、今日はピアノ椅子には座らずに、それなりに柔らかいソファに腰掛けていた私は、窓の外を眺めて、眩しい夕日に目を細めたていた。光から目を覆う指には、厳重にテーピングが為されている。医者に外すなと厳命されてはいるが、私はこのカサつくテープが死ぬほど嫌いだった。

「はあ…………」

 私はため息をついて──

「ため息なんてついて、どうしたのさ」

 ────。

「はあ……………………」

「ねえ無視? 俺のこと無視?」

 ため息を、ついて、見るのも嫌な顔にほとほと嫌気がさして、私はとうとうソファのクッションを思い切り蹴っ飛ばした。

「──あだっ!?」

「何の用ですかっ、ピアノなら弾けないって言ってますよね? こんな指なんですからっ!!」

 カサついて鬱陶しくて、なおかつ湿布くさい最悪のテープまみれの指を思い切りつきつけて叫ぶ。そいつは柔らかいクッションがちょうど頭に当たったらしく大げさに額をさすって、

「……ひどいよ間宮さん。俺はせっかくお見舞いにきてあげたのに」

「頼んでません余計なお世話ですっ!!」

 涙目になる情けない男を見て、また私はため息をついてしまった。

「ほらまたため息なんて。幸せが逃げるよ?」

「あなたのせいでしょうっ!?」

 ああもう、と呟いてソファに座り直す。知り合ってそう短くないだけに、こいつは何を言っても仕方ない相手なのだと悟ってしまった感がある。

「ごめんごめん。でも間宮さんの指が大事なくてよかったよ。本当に」

 その言葉に思わず反応する。

「……大事ない、ですって?」

 梶はまたギクリと固まったような顔をして、

「大事ないならあの女にあれほどこっぴどく説教されることがありますかっ! もう……どうしてあの女は……っ、コンクールで弾けと言ったのはあの女のくせに……!」

「い、いや、あいつも心配してたんだよ?」

「まさかっ! 信じられません……!」

「全治一ヶ月だって聞いて泣いてたし」

「は…………!?」

「梶くん! 余計なことを言わないで……!」

 顔を上げると、児童室の入り口にちょうど入ってきたところの、あの女がいた。

「……や、やあ、深山?」

「…………っ」

 信じられないことに、あの女は何か顔を赤らめて、というかあんな顔するのか、全然、知らなかった。私は戸惑って、結局何も言えなかった。

「深山もお見舞い? 俺も間宮さんにはリバビリ頑張ってもらわなきゃだから、今から元気付けておこうと思ってね」

 余計なお世話だ。私は今日一番のため息をついてから、言った。

「あの、私、曲がりなりにも怪我人なんですから、用がないなら帰って……」


「ねえ、脱いで」


「……………………はあ!?」

 一瞬硬直して、リアクションに時間がかかってしまうぐらいに唐突で、けれど当のあいつは平然とした顔をしていて腹が立つ。こいつは何を言い出すんだ。

「おま、何の話だよ!?」

 さすがに梶も戸惑ったのかあの女を問い質す。けれどやつはそのまま「女の子が着替えるんだから外に出てて」とか言って梶をひっぱって部屋の外に連れ出して、自分だけ戻ってきた。

 困惑が収まらないどころかなおさら強くなる私に構わず繰り返す。

「間宮さん、脱いでくれない?」

「い、一度言われたらわかります! いやわからないけど!!」

 何が目的なんだ、この女は何がしたいんだ。ほとほと困り果てた私はソファに倒れこむ。それでもやつはぐいぐい近付いてきて、ソファの上から両手で逃げられないように囲い込まれてしまう。──何だ、何だこの状況!?

「脱がすよ、いい?」

「だ、め、いや……なんで、ちょっと、待っ! こ、ころの、準備、が……っ!!」

 やつは白くて細い指先で、しゅるしゅると音を立てて私のブラウスのボタンを外して、見る間に剥かれる私の身体は、お世辞にも豊かとは言えない発展途上で──


「……やっぱり、間宮さん。あなた、これをんだ」


 私の身体には、腹にも傍にも、腕にも背中にも当然のように刻まれた、内出血を繰り返して赤黒い染みのようになったがいくつも残っていた。

 咄嗟にブラウスを奪い返して身体を隠す。それはもう手遅れだった。私はもう見られてしまった。だから、なんだというのだ──

「……あなたに、何の関係があるんですか」

「両親から、のね? コンクールに出るようにって、脅されて?」

「……れ、黙れ、黙れっ、黙れ黙れ!!」

「お金が目的なのね。だからあなたは、あそこまで頑なに他人のために、聴衆のために、そして何よりにコンクールで弾くことを嫌がった。そうでしょう?」

「黙れ……黙れっ、聞きたくない、聞きたくない……嫌だ、もう嫌なの……っ!!」

 ソファにうずくまる。かぶっただけのブラウスでは肌寒くて、コンクールの日はあんなに暑かったのに、まだ夏は遠くて──

「逃げないで。間宮さん、ずっと我慢してきたのよね? いつから、何がきっかけで暴力を受けるようになったの?」

「黙れ────ッ!!」

 壁を殴りつけようとして、手首を掴まれた。深山の顔は──涙ぐんでいた。

「な、んで……なんで、あなた……」

「つらかったよね。苦しかったよね。誰にも相談できずに、大切な音楽を人質にされて……その音楽さえも売り渡せって迫られて。そんなにつらい思いをして、それでもあなたはひたすら音楽のために頑張ってきたのよね……」

「あ、あ……あ……! あ……、っあ……!!」

 喉の奥からおぞましいものがこみ上げて、吐きそうになる──私は絶叫しそうになって、


…………っ!」

 それを押し留められるように、強くあたたかく、抱き締められていた。

「私、わた、し……誰も、必要ない……一人で、十分で……生きて、いけるから……」

「そんなのは強がりなの。人は一人なんかじゃ、生きてられないんだからね……あなたも、私も、誰だってみんなそうなんだ」

「……そんな、の、だめ……だって私、誰からも愛されない……あいして、もらえ、ない……!」

 深山は、私を抱きしめたまま、くすっと微笑んで──柔らかな胸から伝わる微かな安心。

「……そんなことないわ。だからね、間宮さん。これからは──?」

「……あなたの、ため、に……?」

 顔を上げると、深山は優しい顔で微笑みかけてくれている。私はそれだけで少し、救われたような気がして。

「そう。私のために……そうしてくれたら、私はその代わりに、あなたを、あなたの音楽を、他の誰よりも愛してあげるから……ね?」

「っ……ぅ、ぅう……ぅああぁ………っ」

 私は、生まれて初めてというぐらいに、人前で大声で泣いてしまった。

 私の心は生まれて初めて温かい水に満たされたような心地がして、ずっと張り詰めていた弓がゆるめられたような、不協和音が協和したような、そんな感覚があって──

 しばらくの間は深山が背中を撫でてくれるのに任せて、子供みたいに泣き続けていたのだった。あるいは、私はようやく子供になれたのかもしれなかった。


 泣き声を聴いて部屋に飛び込んできた梶が、ブラウスを脱がされて泣いている私を抱き締める深山を見て卒倒しかけたというのは、また別の話。


      ◯


「よろしくお願いします。

「ええ……久しぶりの柳子ちゃんの演奏だから、すごく楽しみにしてたのよ」

 私たちのレッスンの定番の場所になった公民館の児童室。以前と変わらない殺風景な部屋は、けれど深山先生がいるだけで、すごくあたたかい景色に見える。私はあれ以来、児童施設に預けられる話もあったものの、公に注意を受けた両親が反省しきっていることもあって、結局は元の家に留まることになった。もう暴力を受けることもないし、それにたとえまた虐待を受けるようなことがあっても、私には深山先生がついていてくれる。そう思えるだけで、私は数倍も強くなれるような気がしていた。

 景色を少しだけ眺めてからピアノの前に向き直って、自分の指を見つめる。少し前にテーピングが取れてから、必死にリハビリをしてきた。指が鈍っている部分も、凝り固まってしまった部分もあったけれど、梶にも手伝ってもらって少しずつほぐしていって、今ではもう以前と変わらないぐらいに動かせるようになった。鍵盤の上にのせて、愛おしく鍵を撫でる。結局のところ、私を悩ませるのはピアノだけれど、私を喜ばせるのもピアノでしかない。これからどんなにつらいことがあっても、ピアノと、そして深山先生と一緒に、向き合っていくのだ。いつか私が、本物の音楽になれる日まで──。

 私は第一音を落とす。それは愛に満ちて、静かで穏やかな優しさに包まれた、私の音楽だった。

 その日、私は初めて、深山先生に最後まで曲を聴いてもらうことができた。この喜びは生涯忘れられない思い出になるだろう、と私は思った。


      ◯


 バスターミナルを抜けて空港の構内に入ると、人でごった返していた。人混みは嫌いだ。けれどこれから向かう先のことを考えると、嫌でもわくわくしていた。機械的なアナウンスが航空機の発着をひっきりなしに伝えて、それにあわせて人々が忙しなく動き回る。私はその隙間を縫うように進んで、ロビーに向かった。

 珍しく、ロビーには備え付けのピアノが一台。私がじっと見つめていると、親に連れられた小さな子供がピアノに駆け寄った。自然と微笑ましくなって、私はそっと見守った。

「ねえママ! あれ! あれ弾いてよっ!」

 小さな女の子は、不安定だけれどもすごく楽しそうに、フレーズを歌う。それを聴いて母親は、

「ママにはちょっと難しいかなあ? ごめんね、またコンサート観に行こうね?」

 そう言ってなだめようとする。すると女の子は泣き出してしまって、母親は困り果てた顔をしてしまっていた。

 私は女の子にそっと歩み寄って──

「お姉ちゃんが弾いてあげるから、ちょっとだけピアノ貸してね?」

「……ほんと?」

「ほんとだよ。お姉ちゃん、すっごくピアノ上手なんだから」

 泣き止んで笑顔になってくれた女の子を見て、母親が申し訳なさそうにこちらを見た。私は構いませんよ、というふうに会釈をして、ピアノの前に座った。偶然だけれど、何度も練習してきた曲なのだから、きっと満足してもらえるはずだ。

 全曲通すと飛行機の時間に間に合わなくなってしまうから、女の子のためにだけ。

 第一音──指を落とすと、人々が足を止めた。みんなが私のピアノを聴いている。それを感じてますます輝かしく──主題は荘厳にマエストーソだ。

 ひと通りを終えて女の子を見ると、満面の笑顔になってくれていた。周りのお客さんからもぱらぱらと拍手がもらえる。私がステージの上みたいにくるりと見回してお辞儀をすると、女の子はますます喜んだ。母親は、

「中学生の方ですか? 本当に、ピアノがお上手なんですね……!」

 と、そう褒めてくれるけれど。

「いや、あの、高校生なんです……あはは」

 答えるといつも、誰もが申し訳なさそうに謝ってくる。背も伸びないし、胸も、まだまだ先がある。けれど小学生だった頃はずっとまっすぐに伸ばしていた髪を、高校生になってバッサリ切ったのは新しい。これも新しい私を迎えるためにだ。

 飛行機のチケットを確認する。行き先は間違いなくワルシャワ。私の愛したの故郷だ。そこで行われる、フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール。私はそれに出場して、あの時のポロネーズのリベンジをするのだ。

「見ていてください。深山先生……」

 私は一人、搭乗口に向かう。離れてしまっても変わらない。私はいつでも深山先生のために、聴いてくれるすべての人々のために弾くだけだから。誰よりも音楽に、ショパンに近付くための音楽という目標にだって、あの頃から少しも変わりはないけれど。

 それに──日本では、私よりも少しだけ若くて面白いピアニストが育っているようだから。私は密かにその成長を楽しみにして、ワルシャワ行きの飛行機に搭乗した。

 春を待つ空は、きっとこれからの明るい未来を運んできてくれるだろうか──

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