メジャー・スケール Ⅳ ※演奏シーンあり

 そこに満ちていたのは純粋な熱量だった。間宮柳子の演奏が終わって、彼女が椅子を立って静かに礼をしても、その場にいた人々は誰一人として拍手はおろか、身動みじろぎさえできなかった。

「……あの子、これだけのポテンシャルがあるのにコンクールで偉い先生の前になると途端に行儀のいい演奏をするの。これだけ自由に弾けるならもっと高いレベルも狙えるのに」

 不意に声が聞こえて隣に目をやると、深山先生だけが平静を保っていた。しかしその、いつもは表情に乏しい顔には、どこか満足げな笑みが浮かべられている。私は間宮さんの演奏に圧倒されたまま、何も言えなかった。

 間宮さんは顔を上げると、誇らしくかつ慎ましやかに、演奏を始める前とまったく変わらない表情で歩き出す。そしてそのままステージの上手へ退出した。彼女の姿が見えなくなるとようやく私は緊張が解けたような気がした。

「……は、あ」

 ようやく息を吐く。そうして身体の固まったのが少しずつほぐれていくのを感じていると、舞台から降りてきた間宮さんが見えた。やっぱりステージに上がっていた時とは違う、さっき王城さんと喧嘩していた時や、私に話しかけてきた時の間宮さんだった。彼女は私の、というか深山先生のほうへとやけにニコニコしながら近づいて来る。深山先生は間宮さんに目配せする。それを見るなり間宮さんは、心底幸せそうな顔をして私の隣の席に座った。

「……わかった?」

 突然声をかけられる。間宮さんは私を見もせずに、演奏後の呼吸を少しずつ元に戻していた。私にも覚えがある。演奏のために身体が、呼吸がそのまま作り変えられてしまうような感覚。それが元に戻るときの身体の動きだ。

「な、何が……?」

 声に出してみて少し震えてしまっていることに気がつく。私はこんなになるまでこの子の演奏に打ちのめされたのかと思って戦慄した。

「やっぱり愚かね。、ということよ」

 それだけ言うと間宮さんは、そっと身体を座席の背もたれに預けて静かに目を閉じた。体力を使ったのだろう、あれだけの集中力なのだから気が抜けて当然だ。私が自分までも集中して聴いていたぶん、少し疲れているようにさえ感じているのだから。

 次の演奏は、ジャズピアニスト・王城季理絵。クラシック以外の音楽を聴いたことがない私に理解できるかわからないけれど、間宮さんの演奏を聴いて、深山先生の言葉通りならば、王城さんもかなりの実力者だということが肌でわかった。深山先生がまたぼそりと呟く。

「次は季理絵さん。きっと驚かせてくれるから、楽しみにしていて」

 私は黙って頷いて、そして舞台袖から出てくる王城さんをじっと待った。間宮さんはまるで王城さんの演奏に興味がないかのように、ただ黙って目を閉じて、座席に深く座っていた。

 しばらくして──王城さんが舞台に現れた。ああいう人だから、ひょっとしたらとんでもないパフォーマンスとか、礼儀を無視した登場をするのかと思ったけれど、拍子抜けするほどに、なんというかだった。背筋を綺麗にぴんと伸ばして、足運びも静かに規則正しく歩いて、王城さんはピアノ椅子の前に立つ。そして、信じられないくらいに行儀よくをすると、そっと椅子に座った。あれだけ間宮さんが文句を言っていたからどんな型破りな演奏なのかと思っていたけれど、案外に手堅いプレースタイルなのかもしれない。私は思わず王城さんの演奏を楽しみにしていた。これは今までの私にはないことだった。

 やがて、王城さんが目を閉じて深呼吸をする。私はどんな演奏がきてもいいように身構えた。

 そして、間宮さんの時とは違うあまり気を遣わない無造作な姿勢で、王城さんは鍵盤に指を落とした。

 柔らかな音。滑らかなタッチは紛れもなくクラシックのものだった。私は間宮さんの注意深く美しいタッチを思い出す。確かに王城さんのタッチングは申し分ないが、それでも間宮さんと比べてしまえば見劣りすると言わざるを得ない。曲調はゆったりとしていて、不思議なビート感とテンポ進行、スウィングは私にとって初体験だった。ジャズってこんな音楽なんだ、と私は感嘆した。コード進行は、どこか聴き覚えのあるような。それもずっと近く、たった今、聴いていたもののような気がして──

 その時、不意に間宮さんが思い切り身体を起こしてかっと目を見開いた。私は思わずたじろぐ。さっきまでじっと席に座ったままだったのに突然、今ではじりじりと火がつきそうなくらいに、憎しみさえこもったように見えるその目を王城さんに注ぎ込んでいた。私よりも小柄で背も低い間宮さんなのに、今の雰囲気、迫力は演奏の時とも普段の時とも違う。私にはのように見えた。

 いったいどうしたのか、と思って間宮さんを見ていれば、王城さんの演奏は少しずつ、その姿を変えていく。巧みに隠されていたその主題が、あまりにも多くのに埋もれていたそれが、音を押しのけて姿を現す。

 その時、私にもようやく理解できた。

 これは──なのだ、と。

 曲が瞬間、停滞して、スウっ、と息を吸う音がホールに響いた。ピアノの残響の奥から目覚めるような。そんな音──そして、


「あ────────ッ!!」


「……!?」

 叫んだ。叫んだ、って、そのままの意味で、誇張とか比喩とかではなく、王城さんは叫び声をあげたのだ。声の限りにホールに響く。こんな、こんなことって──間宮さんの目が血走っている。

 それから──。一気にテンポが速くなる。こんなのメチャクチャだ。さっきまでクラシックのルールに基づいて叩かれていたタッチングも、今では見る影もなくなった。それでも、ただひたすらに、それは私の心の奥を掻き立てる。どうしてこんなにも惹かれるのか、私にはわからない。それでも彼女の演奏には、誰かの胸に衝撃を与える、いいえ、誰かの頭を殴りつけるみたいな、ある種暴力的なまでのが、そこにはあった。こんなの私の知ってるピアノじゃない。

 ただ圧倒されるままに音楽を叩きつけられる。優雅なダンスなんかじゃない、夜の星を目標めじるしに野山を駆け回るみたいな、そんな軽やかな運指。悪戯みたいなトレモロ。こんなのクラシックじゃない。これが、これがジャズなんだ。ホールにいるすべての人々を見事なまでに翻弄しきって、王城さんの演奏は終わった。間宮さんとは対称的に、演奏を終えた王城さんは汗だくになって、肩で息をしていた。

 立ち上がって、倒れるみたいに礼をする。誰も拍手できなかったのは、奇しくも間宮さんと同じだった。


      ◯


 弾きたい。

 弾きたい、弾きたい。弾きたい、弾きたい、弾きたい、弾きたい、弾きたい弾きたい、ピアノが弾きたい。私はピアノが弾きたい。

 弾きたい。クラシックに触れたい。音の渦に沈みたい。ピアノが弾きたい。

 弾きたい、ピアノに触れたい。弾きたい弾きたい弾きたい弾きたい私は弾きたい──!

 私は、ピアノが弾きたい。


      ◯


 魘されて目が覚めた。あの日以来、私は何度も間宮柳子と王城季理絵の演奏を、夢にみるようになった。結局、あの日はあの演奏を終えてセミナーがお開きになり、演奏を終えた間宮さんと王城さんは、クラシックとジャズの勝負を私に審査させるという初めの目的を完全に忘れていて、ただ間宮さんが自分の演奏の後にあんなきらきら星を演ったことを、ひたすら王城さんに怒鳴りつけていただけだった。「これは私に対する当てつけなのよね?」「当たり前だろ人形女。お前の演奏があまりにもつまらねえから俺が耳直ししてやったんだよ感謝しろ」「最ッ低、これだからジャズピアニストはッ!」「どういう意味だ、あぁ!?」──とか、結局演奏をする前よりも喧嘩が激化したらしく、仲裁をするのに深山先生は骨を折ったらしい。私はといえばあの日、二人の演奏に圧倒されて、家に帰って部屋に閉じこもった。胸の中にあったのは言葉にならない曖昧でぐちゃぐちゃな、けれど途轍もなくどうしようもないくらいに熱い、きっと大切な何かだった。

 私はリハビリを再開した。今の私は、きっと誰よりもピアノが弾きたかったから。

 何度もなんどもピアノの前に座る。初めは触ることさえできなくて、けれど少しずつ、音を出せるようになって、それでも自分の出す音が恐いのはいつまでも治らなかった。諦めずにピアノに向き合って、何度も吐き出して絶望する。繰り返し繰り返し、ただピアノと、いいえ、自分と戦うだけの日々が、何日続いただろうか。いつしか、ピアノを弾けなくなってから、三ヶ月が経とうとしていたのだ。

 そんな時だった。深山先生が、私に会いたいと言う人がいるのだ、と言って誰かを連れてきたのは。私は知り合いの心当たりもなくて、初めは戸惑ったけれど、深山先生の言うことだからと信頼して、その人と会うことにした。

 私は、自分の目を疑った。


「どうして、あなたはピアノを弾いてないのよ」


 私の目の前にいたのは、もう二度とピアノを弾かない、弾けなくなってしまったはずの、水澄麗花だった。私が、私のピアノが殺してしまったはずの、ピアニスト・水澄麗花だった。

 あまりの衝撃にこみ上げてきそうなものがありながら、私は息を整えるのに苦労しつつ、何とか声をかけた。声はみっともなく震えていた。

「もう、会えないかと思ってた……」

「私は会うつもりなんか無かったっ!」

 間髪入れずに反駁される。水澄さんの懐かしい高い声。凛とした声はちっとも変わらない。どうしてここに来たの、と訊こうとして、喉に熱いものがあって声を出せなくなってしまった。水澄さんは私をきっと睨みつけていた。私を恨んでいるんだろうな、と思った。けれど、それは私にとって当然の報いなのだ。水澄さんは私のせいでピアノを辞めてしまったのだから。そのことがはっきりとわかるから、私はなおさら辛かったのだ。

「だから、答えなさい。どうしてあなたはピアノを弾かないでいるの。コンクールにだって、ずっと出ていないじゃない。どうしてあなたまで」

 そこで水澄さんは顔を歪める。切れ長の目がなおさら細くなる。私は責められているような感じがして、今にも泣き出しそうになる。

「ごめ、ん、なさい……」

 絞り出すみたいにしてなんとか話す。水澄さんはそれを聴いて、なおさら顔を顰める。

「どうして謝るの」

 ぼろぼろと涙が溢れた。水澄さんの足元に膝をついて、それでも責めを受けないと、と私は顔だけは絶対に下げなかった。もう一度。

「ごめん、なさい……水澄さん、私のせいで音楽やめなきゃ、いけなくなって……」

「…………はあ」

 ため息をつかれる。私は涙のせいで前が見えなくて、水澄さんがどんな顔をしているのかわからなくて、それでもただはっきりと、これは私への罰なのだ、と思っていた。むしろ私は、ピアノを弾けなくなってから初めて、心から安心していたのかもしれない。私は罰を求めていたのかも──

「──自惚れんなっ!!」

「っ!?」

 水澄さんが怒鳴ったのを、私は初めて聞いた。水澄さんの声は悲鳴みたいで、私は胸が痛くなった。彼女は興奮したまま続ける。

「誰があなたのために音楽を辞めたって? ふざけないで、私は私の意志でピアノを辞めたのよ。あなたなんて、あなたのピアノなんて、一切、これっぽっちも、関係ないっ!!」

「……でも、私、水澄さんの気持ちなんて全然考えてなくて、ただ自分が好きなように弾いて、それが水澄さんからピアノを奪っちゃうなんて考えもしなくて……!」

「だから違うって言ってるでしょ! 言ったはず、私はあなたみたいに年齢や親の七光りで弾いてないって。私は私が好きだからピアノを弾いてたの。音楽が好きなの! クラシックが大っ好きなの!!」

「……っ」

 圧倒される。水澄さんはもはや半ば叫ぶみたいにして話している。

「私は、自分の弾くピアノが好きだったから、ピアノを弾いてたんだ! けど辞めたのは、私がピアノを弾くのをやめたのは、私のピアノが嫌いになったからじゃないっ!」

 水澄さんは少し泣いていた。それでも必死な言葉は何度もつっかえながらも続けられて。

「私のピアノよりも、あなたのピアノのほうが、好きになったからなの!!」

「……え?」

「初めて会った時、あなたはピアノをただ弾くだけの機械みたいだった。感情も曲想も何もないクラシック。私は、それが正しい形なんじゃないかって思い込みそうになった。だけどそんなの面白くないじゃない。私は必死で弾いてた。あなたのためよ。クラシックはそんな無感情なものじゃないって。ただ、あなたにわかってほしかった」

 水澄さんの目は赤く、潤んでいる。

「それからずっと、あなたの演奏を聴いていた。吃驚したわよ、あなたは私の演奏を。それに気が付いた時には感動して涙が出たわ。だって、私が好きだった私のピアノを、あなたも好きになってくれたってことでしょ? 私のピアノを誰よりも理解してくれたのはあなたなのよ」

 涙が止め処なく溢れて必死で嗚咽を抑える。

「あなたはどんどん上手くなった。私が何年もかけて磨いてきた表現力を、平気で数日のうちに身につけてくるあなたは、妬ましさなんて通り越して嬉しかった。あなたの成長が自分のことみたいに嬉しかったのよ」

「水澄、さん……」

「けれど、いつだったかしら。思ってしまったの。この子はいつか私を超える。いいえ、もう私を超えつつあるんだ、って。それは何よりも嬉しいことだったけれど、やっぱり悲しいことでもあったの。私はもうあなたのために弾けないんだ、って思ったらね。だから、もう意味はないピアノは止めようって思った。最後に、あなたの演奏を聴いて、納得できたら、って」

 水澄さんがこんなことを思っていたなんて、私は一度も考えたこともなかったのに。水澄さんが私のためにずっと弾いてくれてたなんて。

「……だけど、私はクラシックを諦められなかった。いいえ、本当は欲が出てしまったのよ。あなたのピアノを好きになって、私もいつかあなたと同じステージに立ちたい、って」

 水澄さんは部屋の隅に立て掛けてあった大きいケースから、何かを取り出した。

「だから、これを始めたの。その、本当は上手くなるまで見せないつもりだったのよ?」

 それは、鈍く照り輝くヴァイオリン。

「水澄さん、それ……っ」

「……ピアノじゃ、あなたと一緒に弾けないの。だって私が許せない。あなたと並び立った演奏じゃなきゃ意味がないんだから。今は……レッスン中っ! ものになるまで会わないつもりだったのに、あなたがピアノを弾かなくなったりなんかするからっ」

 水澄さんはまた怒り出して、だけど少し嬉しそうだった。私も嬉しくなってきて、ようやく少しだけ笑えた。

「ごめんね、私、また弾けるようになるから……ぜったいっ! 私も、水澄さんと一緒に弾けるぐらいのピアニストに……きっと、なるからっ!」

 水澄さんは目尻に溜まった涙をそっと拭いて、笑ってくれた。

「何度でも言うわ。私はあなたのピアノが好き。だから、いつか……あなたと二重奏デュオが、協奏曲コンチェルトが弾きたい。私……きっと頑張るから。あなたも頑張りなさいっ!」

 私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑って、水澄さんは私の顔を見て笑った。

 ──ピアノを弾きたい。私はピアノを弾きたいんだ。自分のために、水澄さんと弾くために。

 そして、いつか──私は音楽になる。

 私は強く、そう決心した。


      ◯


 新品の真っ白いシャツに腕を通して、紺色のブレザーを羽織る。どれを取っても新品の制服は、なんとなく私の気分を新しくしてくれる。鏡の前に立って髪型をチェック、寝癖はついてない。オッケー。オッケーなのかな? この歳になって洒落っ気のひとつもないのは、女の子としてどうなんだろう。例えばシュシュとか、アクセサリーとか……よく知らないからわかんないけど。

「って、やばいやばい……遅刻しちゃう」

 洗面台に置いた小さな時計を見て、時間が迫っていることに気がつく。

「よっし、黎元美鍵。よろしくね……っと」

 仕上げに鏡の前で少し笑ってみて、笑顔もチェック。下手にお洒落なんてしても意味ないよね。私は笑顔で勝負するの。よし、今日もいい笑顔。

 玄関を出て春の風に吹かれて、空を見上げる。通学路の桜が見頃だ。時間はないけど、じっくり見ながら歩いていこう。新しい季節、新しい生活に、きっと桜は欠かせない。

 ──私は十六歳、高校一年生になった。

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