メジャー・スケール Ⅲ ※演奏シーンあり

 防音室を出た私と神代さんは、ちょうど隣のピアノ庫から出てくる二人と目が合った。私はできる限り慎ましやかに会釈をして、神代さんは陽気に歯を見せてニヤリと笑って「ハロー」なんて言った。「クソが」とか、信じられないような罵詈雑言を吐いて、私たちに、突き放すような冷たい一瞥をくれたのは、王城おうじょう季理絵きりえだった。彼女は私にとって初めてではないけれど、隣にいた男の子は初対面だ。私を罵倒した王城さんを放置して男の子に声をかけた。

「はじめまして。今日はよろしくお願いします」

「どうも、黄月きつき詞黒しぐろです。季理絵も歓迎してます。来てくれてありがとう」

 黄月と名乗った男の子が和かに笑って、王城さんがまた舌打ちした。

「季理絵のことはわかってるけど、そんなんじゃいつまで経っても口が悪いの治らないよ?」

「うるせえよ。黙ってろ」

 神代さんが王城さんを揶揄う。王城さんはものすごい目をして神代さんを睨みつける。けれどこれで案外、二人は今になっても仲がいいらしい。ちょっと妬ける。

 そんなことを考えていたら、神代さんが黄月くんが手に持った木製のスティックを見て言う。

「ハロー、シグロ。久しぶりに聴く君のドラム、今日は楽しみにしてるから」

 どうやら神代さんは黄月くんとも面識があるらしい。もう慣れたけれど、こうして目の前にするとちょっと微妙な気持ちになる。

「今日のコンサートは季理絵がメインですから。僕なんて添え物ですよ」

 神代さんが微笑んで、黄月くんが謙遜して、王城さんが痺れを切らして「行くぞ詞黒!」と怒鳴った。というか黄月くんと王城さんってどういう関係なんだろう。名前で呼び合ってるの。

 と、考え事をしていたら王城さんが捨て台詞を吐いて去っていくところ。

「勝つのは俺だ。見てろ」

「いや、今日はコンクールじゃなくてコンサートですから、勝ちも何も……」

 私の困惑した言葉を無視して、つかつかと、そしてにこやかに、私たちの横を通り過ぎて行った二人をよそに、神代さんは私に耳打ちした。

「……ねえ、付き合ってるのかな?」

 顔を見るとにやにやしている。案外とこの人はこういう話が好きで、要するにちょっと幼いの。他人の色恋沙汰になんて口を出さないほうがいい。もっとデリカシーを持つべきだ。私は静かに笑って返事した。

「デリカシーに欠けますよ。でも、王城さんはあんな無愛想で誰よりも情熱的ですから。ありえるかもしれません」

 誤解されがちだけれど、王城さんはあれでいてものすごい乙女なのである。それは私たちなら演奏を聴けばわかることだし、何よりも彼女は少女マンガ愛読者という事実をひた隠しにしている。彼女の知り合いならだいたい知ってるけれど。

 二人を見送って、神代さんが言った。

「ま、それなら今日のコンサートはカップル勝負ってことね?」

 呆れた声で訊き返す。

「……もう、私まで揶揄うんですか?」

「本気だけど。だって美鍵、さっきから発情してるでしょ?」

「なっ…………!!」

 さっと熱が顔に昇ってくるような感覚があって、すぐに耳まで熱くなる。思わず叫んだ。

「してませんっ! というかは、は、発情、なんてそんな言い方、やめてくださいっ!!」

 神代さんは変わらず飄々としていて、私はわなわな震える唇をちょっと噛んで、必死で平静を取り戻した。

 観念して、裏返りそうになる声を抑えて訊く。

「……どうして、私が、その、興奮してるの、わかったんですか」

「いや、見てればわかるよ。さっき弾いてたときからちょっと濡れてるよね。大丈夫?」

「……お手洗い行ってきます」

「にゃは、行ってらっしゃ〜い」

 神代さんには、本当に、もう少しデリカシーというものを持ってもらう必要があると思う。


      ◯


 小学校に通い始めてから少しずつピアノのレッスンを再開していた。それでも初めのうち、私はピアノに触ることすらできなくて、少しずつピアノのある部屋に慣れるところから始めなくてはならなかった。私のレッスンとも呼べないリハビリに付き合ってくれたのは意外なことに深山先生だった。先生に聞けば、彼女も事故で弾けなくなった当時、私と同じようにピアノそのものが恐くなってしまったことがあったらしい。私が、それでも今こうしてピアノ講師が出来ているのはすごい、と言うと、時間はもっとも優れた薬です、と言って、彼女は控えめに笑った。かつてピアノは私にとって無くてはならないものだった。いいえ、無くなるなんてことを考えたことさえなかったのだ。それが今、ピアノは私の最も大きな壁になった。私は毎日ピアノの前に座って、鍵盤を触ろうとして嘔吐したり、音を聞いて目眩に倒れたりを繰り返した。それでも深山先生はけっして私のことを諦めたり、帰ったりしなかった。ずっと私のそばで、時には私の手をとって、あるいは抱きしめて勇気付けてくれた。深山先生がいなければ、ピアニストとしての私は、もう一度ピアノを弾くことさえできずに終わっていただろう。

 私のリハビリが芳しくないことを心配して、深山先生が私をあるセミナーに連れて行ってくれたことがあった。それは様々なジャンルの音楽界で活躍し、日頃は交流の機会を持たない、当時の私と同じくらいの幼い音楽家たちを、ピアニストという共通項で招待した交流セミナーだった。私に何らかのいい刺激があればと深山先生は言った。口下手な先生はそれ以上言わなかったから、私はそのセミナーの主催が他でもない深山先生だということも、それを開くために彼女がひどく苦労したのだということも少しも知らなかった。私はそれこそ気楽なもので、知らない音楽家の顔を見てこようぐらいの気持ちで、貸し切られた小さな会場に足を踏み入れた。初めてそこに入って、まず頭に浮かんできたのは、学校の社会の授業で偶然耳にした、たったひとつの言葉だった。

 それは、冷戦である。

「いつもお世話になっております。今日はうちの教え子も連れてきておりますので、ぜひ演奏を聴いてあげてくださいね?」

「お久しぶりです深山さん。うちの子はあなたに師事していた頃と比べれば見違えるほど……」

 挨拶回りをするから好きに話してきなさい、と私に言い残すと、深山先生はたくさんの講師たちと話すために私から離れていった。私はわけがわからなかった。このお互いに牽制し合うみたいな、殺伐とした空気は何なのだろう。講師の大人たちは形だけでも和やかに会話をしているが、子供たちは黙って楽譜を読んだりしてじっとしていた。ふらふらと歩き回っていたら、近くにちょっとした机と椅子があって、そこには私とちょうど同い年くらいの幼さ、なおかつ私よりもずっと線の細いか弱そうな姿でありながら、周りの子供が寄り付かないようなひとつ際立った雰囲気を持った女の子が、たったひとりで座っていた。信じられないくらい、お人形さんみたいに整った容姿が、なおさら現実感を失わせている。恐るおそる、私は話しかけた。何と言ったかは正直、緊張で覚えていないけれど。


「あなたは何回目?」


 女の子は、そう返してきた。私は困惑して、何の話ですか、とか訊き返す。

「深山先生の教え子なんでしょう? あなたが来るっていうから、私は今日ここに来たの」

 彼女は間宮まみや柳子りゅうこと名乗った。私が、あなたも深山先生に教わったことがあるの、と訊いたら、

「当たり前でしょう。あなた鈍いの? それとも愚かなの?」

 と訊き返されてしまった。私は少し落ち込んで、けれど同じく深山先生に教わったピアニストに出会えて嬉しかった。そう伝えると、

「同じにしないで。だからあなたは何回目なの、と訊いているのよ」

 ここでようやくの意味がわかった私は、二十回目だよ、と答えた。要するにきっと、深山先生に帰られた回数のことだ。他の人のことを知らないから、私が多く帰られてしまっていたのか、あるいは、というのに平均がわからない。けれど確か私は十九回ぐらい、深山先生に帰られていたはず。二十回目が嬉しかったからよく覚えているのだ。すると間宮さんは少しだけ驚いたような顔をして、けれどすぐに平静を取り戻して、何もかもがつまらないような顔に戻って言った。

「そう。なかなか素質があるのね。私でさえあの人に全曲を聴かせるのに九回かかったのよ」

 九回、たった九回で課題曲を完璧に弾けるようになったのか、と私は素直に驚いて、率直にすごい、と彼女を称賛した。

「愚か者。を見なさい」

 彼女は無遠慮に会場にいる子供たちを順番に指差す。その先には私たちよりも少し年上に見える子たちが何人もいて、あれは五十回、あれは七十回、あれなんて百回よ、というように間宮さんは数字を並べ立てた。そして恍惚するように言う。

「深山先生は、本当に素晴らしい講師なのよ。けれど、本当に厳しいかた。それはあなたも知っているでしょうけど、ここにいる以外の子らはみんな、挫折して、深山先生の教えを請うことを辞めた負け犬ども。わかるでしょう?」

 その言葉はひどく冷めきっていた。言葉通り本当に、間宮さんは他の子たちを見下しているようだった。そんなことないんじゃ、と私が言いかけるけれど、彼女はそれを遮って続けた。

「このセミナーは深山先生が昔教えていた子らを集めたもの。それこそ講師の間のしがらみや音楽の違いさえも越えて、無理やり集めた子らなのよ。あの人が何故、わざわざこんな手間をかけてまでこんなことをしたのか、私は知りたいの」

 私はそこで、ようやく気が付いた。この会場に入ってからずっと感じていたこの違和感、というか、冷たい対立感。これは深山先生に複雑な気持ちを持った人たちが集まってるからなのかもしれない。私がそれを間宮さんに訊くと、間宮さんが答える前に、知らぬ間に近付いてきていたもう一人が会話に乱入してきた。

「それだけじゃねえよ。俺みたいにピアノ弾いてる奴と、お前らみたいにピアノ弾いてる奴じゃ、そもそも相容れねえだろ」

 低い声に思わず男の子かと思って少し萎縮するけれど、顔を見ると女の子だった。それも、少しだけ目つきが悪いのを除けばすごい美人だ。かわいいというタイプじゃなくて、かっこいいとか綺麗とか、そういう美人だった。

 と、見惚れていると、間宮さんが信じられないような罵倒を繰り出した。思わず目を丸くする。

「あら、お猿さん。相変わらずキイキイ鳴きながら弾いてるのかしら」

「黙れクソ人形。てめえの演奏は人形が弾いてるみてえで気持ち悪いんだよ」

 二人はそのまま悪口の応酬を始めそうな勢いで、私がぼうっと立ち尽くしたままになりかけると、ようやく気がついてくれたのか間宮さんがしぶしぶ、といった様子で彼女を紹介してくれた。それでも気に食わないのかずっと顔を引きつらせていたけれど。

「……王城季理絵。深山先生のレッスンを終えてすぐにジャズなんていう音楽ですらないお遊戯へ転向した変わり者よ。私に言わせれば論外。愚か者ですらない」

「てめえ! ジャズがお遊戯だと? 笑わせるなよ。ジャズがわからない奴こそ論外だろうが。ピアノって楽器はジャズの為にあんだよ」

「聞き捨てならない。あなたね、いい加減にしないと私も怒ります。ピアノの起源はそもそもクラシックにあって……」

 ヒートアップしてきて、私がついに止めようかと思ったときに、ようやく挨拶回りを終えた深山先生が慌てて近付いてきた。そこで真っ先に間宮さんが口論を止める。突然、優等生のような、あるいは親猫に澄まし顔で甘えたがる仔猫のような顔になって、思わず私はそのギャップに噴き出しそうになった。

「どうしたの、柳子ちゃんも季理絵ちゃんも。喧嘩なんてしちゃ駄目だよ」

「喧嘩なんか……!」

「まさか喧嘩などしていません、深山先生!」

 王城さんにかぶせるようにして間宮さんが言った。王城さんは不満そうな顔をするけれど、口を出すこともできず黙る。

「喧嘩というものは同じレベルの人間たちの間でしか起きないのです。ですから私と王城さんでは喧嘩は起き得ないでしょう?」

「どういう意味だてめえ!」

 結局また間宮さんが挑発して喧嘩が起きそうになる。ほとんど同じレベルだと思う。見兼ねてまた深山先生が仲介に入った。

「ちょっと……ちょっと待って。柳子ちゃん、季理絵ちゃん、どうして仲良くできないの」

「こいつがジャズを馬鹿にするから」

「この方がクラシックを貶めるので」

 ほとんど同時だった。やっぱり二人、すごくよく似てると思うのは私だけだろうか。深山先生はため息をついて言った。

「……言いたいことはわかりました。ジャズもクラシックも素敵な音楽です。それでいいじゃありませんか?」

「よくないっ!!」

「よくありませんっ!!」

 また声が揃う。私は本当は仲が良いんじゃないかなと思った。

「ラヴェルも言ってる。音楽とはまず感情的であるべきで、その次に知的でなければならない。感情を最も即興インプロンプトゥに表現できるのがジャズだ! クラシックなんて再現芸術だろうが、古臭い歴史と伝統とやらに縛られて、腐った干物を水で戻してるような奴らに、ジャズが負けるわけねえ!」

 それを聞いた間宮さんがついに表情を変えて王城さんをキッと睨みつける。

「もう怒りましたっ! 幼稚で単純な和声ハーモニーばかり繰り返して、やれスウィングだ、やれフィーリングだと技術に目を向けず、くだらない遊びに浸っているジャズのどこに音楽があるのですっ! どの音楽よりも古くから研究がなされてきたのがクラシック! すべての音楽はクラシックから生まれた、クラシックはすべての起源なのですよ!」

 白熱する。深山先生が今度こそ声をあげて二人を止めた。私もそばで見ているだけなのに疲れてくる。けれど、彼女たちの言い分は不思議とどちらも筋が通っているように思えた。

「そこまでにしなさい! ……お互いに譲る気がないなら、演奏で決めたらどうです」

 そこで間宮さんが目を輝かせた。

「先生が審査員をしてくださるのですか?」

「……いいえ、私はクラシックの講師です。公正な審査のためにも私でない方がいいでしょう」

 王城さんが舌打ちして、間宮さんはため息をついた。二人とも深山先生のことを慕っているのは本当らしい。改めてすごい先生なのだな、と私が思っていると、思いがけなく深山先生が私の名前を出した。

「美鍵ちゃんはいま、わけあってピアノに対してアレルギーがあるの。それでリハビリをしているんだけど、それを兼ねて審査員を美鍵ちゃんにお願いしましょう。異論はない?」

 二人は頷く。私は困惑する。

「大丈夫。辛くなったらすぐに演奏を止めさせるから、少し聴いてみましょう」

 それから小さな声で、この二人は私の教え子の中でもとびきり上手な子なのよ、と付け足した。


 結局私たちは数分後には小さなホールの座席に座っていた。セミナーの会場がホール備え付けのミーティングルームだったので、すぐに深山先生がホールの担当者に連絡を取ったのだ。幸いというか何というかその日の小ホールの使用予定はなく、ご厚意で貸して頂けることになった。これも深山先生の人徳でしょう、と間宮さんがべた褒めしていた。その間宮さんも王城さんも座席には座っていない。私と深山先生がホールの最前列に座って、後ろにはたくさんの生徒たちと講師が戸惑ったように座っていた。深山先生が少し待っていてね、と私に言って、ステージ脇の階段から登壇する。マイクのスイッチを入れるぶづんという音が響いて、小さく咳払いをした。

「……えー、本日はその、交流会にいらしてくださり、ありがとうございます。つきましては、突然ではありますが……みなさんへの歓迎の意を表明したく、私の教え子の二人に演奏を披露してもらうことにしました」

 深山先生の声はよく聞けば少し震えていて、顔も心なしか赤らんでいる。私のせいで無理させてしまったのかと思うと申し訳なくなる。

「一人目の出演者は、PTNAピティナピアノコンペティション最優秀賞、全日本クラシック音楽コンクール全国大会一位入賞、その他権威ある海外コンテストに入賞して活躍している、間宮柳子さん」

 会場がどよめく。私も正直に言って驚いた。深山先生が口に出したコンクールの名前は、母から聞かされていた国内で最も有名でレベルが高いと言われているもので、それに一位で入賞していると言われている間宮さんの実力は計り知れないということだ。思わず私は息を呑む。

「二人目の出演者は、全日本ジュニアジャズピアノコンテスト、二年連続最優秀賞の王城季理絵さん。……それではよろしくお願いします」

 王城さんも見かけによらず結構すごい人なのかも、と私が感心していると、会場がざわつく。けれど今度のは間宮さんの時とは違って、何故か微かな笑い声も聞こえた。ステージから降りてきて、席に着くなり緊張したあ、とか呟いた深山先生に、私は尋ねた。

「……ああ、小学生くらいの年でジャズピアノなんてやってる子はなかなかいないから、大会自体がすごく無名なのよ。だからあの人たちは権威がないって馬鹿にするの」

 私はもやもやして訊き返す。自分の教え子を馬鹿にされて悔しくないのか。深山先生の人柄なら怒ってもおかしくないと思ったのに、先生はさっきから平然と余裕があるように見える。私の質問に微笑んで、先生は答えた。

「聴けばわかるわ……あの子たちは、私の最高傑作なのだから。それに、とりわけあの子は私にだって持て余した逸材なの。だからああして、不器用に育ってしまったのだけれど」

 それだけ言うと深山先生は黙ってしまった。私が首を傾げているうちに、舞台と客席が暗転して聴衆が少し静まった。

 暫時の猶予があって舞台が明転する。舞台袖から出てきたのは、さっきとまったく同じただの白いワンピース姿でありながら、さっきとはまったく異なる雰囲気を放つ間宮柳子だった。彼女はそもそも近寄りがたい気高さのような、繊細でありながら力強い空気を持っていたのだけれど、今、舞台に立っている彼女はそれともまた違う。彼女を覆うオーラのようにさえ見える空気は、私がこれまで一度も出会ったことのないほどに恐ろしく濃密なだ。彼女は悠然と舞台の中央に歩んでピアノの前に立ち止まる。こちらを見るその目は舞台照明を照り返すだけとは思えないほどに煌めいていた。まるで星の光みたいだと私は思った。間宮さんは行儀よく唇を引き結んで、にこやかに礼をした。それからピアノ前の椅子を音も立てずに引いて、静かに座った。深山先生がたった一言、始まるよ、と静かに呟いたのだけが耳に落ちて、それから完全に静寂した。客席にいる人々もみな、信じられないことに、小学生とは思えない間宮柳子のに圧倒されていたのだ。

 そして間宮さんが目を閉じて、深呼吸をする。たったそれだけのことなのに目を離せない。舞台の上と客席の私とでは、かなり距離が離れているはずなのに、彼女の息遣いさえもがすぐ近くに感じられる気がした。

 圧倒的な、存在感。あれほどにピアノの音を恐れていた私の、その恐怖さえも、彼女の姿はいとも容易く吹き飛ばしてしまった。

 そして、極めて注意深く、限りなくダイナミックに、第一音が落とされた。

「…………っ!」

 それを聴いて、私は唇を噛んだ。

 冒頭に述べられるのはごくシンプルな主題だ。誰でも知っている旋律メロディ。静かに、しかし跳ね回るように、音が、指が躍る。そして幾度か短いフレーズを繰り返して、曲はやがて大きなフレーズへ、小さな流れ星から降れる流星群へ。こぼれた星屑が幾つもぶつかるみたいにトレモロ。巧みに弾きこなされる半音階。震える、震える。胸の中に火が灯る。空から降り注ぐ星々が見える。それはやがて私の胸にただひとつ墜ちてきて、小さな炉を作るのだ。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲・フランス歌曲「ああ、母よ。あなたに申しましょう」による十二の変奏曲。日本ではきらきら星変奏曲という名前で知られた曲だ。当然、私もこれを弾いたことがあるし、コンクールの曲に選んだこともあった。それでも、間宮柳子の演奏はそんなものとはレベルが違う。たった二曲、十二ある変奏曲のうちのたった二曲を聴かされただけで、それがわかってしまう。

 第三の変奏曲、左手の荘重でいて軽やかさを失わないアルペッジョ。彼女の指はまるで、二人の踊り子だ。第三、第四と曲を移るにつれて左手、右手が交互に踊るのだ。聞き惚れていれば俄かに左手が飛ぶ。十度の音を軽々と飛び越えるアクロバット。彼女の顔は乱れひとつなく常に穏やかな笑みを絶やさない。

 第五変奏曲、途端に静まり返る演奏に隠れるのはわずかな不協和音たち。意図されたそれが完璧にかわいらしさを演出している。まるでかくれんぼをして遊んでいるみたいに。小さな不協和音こどもたちを見つけて歩いていれば、圧倒されるようなパッセージに打ちのめされる。少しもつれただけですぐに聴けたものではなくなる第六変奏曲も、まったく危なげなく弾きこなす。左手から右手へ、受け流されるパッセージは彼女の確かな技術を、はっきりと示していた。

 そして、右手の一オクターヴのスケール。これは始まりを告げる歌だ。壮大なメロディの流れる川をやがてハ短調に移し、重々しく進める。しかしすぐにハ長調に戻って軽快さを取り戻す。手が交錯する。彼女が笑っているのが私にははっきりとわかった。けれど彼女は崩れた笑顔をひとつも作らなかった。

 アダージョ。緩やかに、静かに聴かせて、一度すべてをリセットする。温和な母のような旋律の子守唄。優しいタッチで寝かしつける。こうした雰囲気の変化を容易く弾き分ける。

 そして、最終変奏──先に一度ゆったりした指を忘れさせる鋭いパッセージに再び聴衆は目を醒ます。最後には盛大なクレッシェンド。完璧な演奏。かつてのすべての演奏家が目指した、再現しようとした、理想の。それほどまでに美しく見えてしまう彼女が、そこには居た。

 彼女のピアノは星だった。そして空だった。あるいは私たちそのものだった。


 間宮柳子は、

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