メジャー・スケール Ⅱ

 セックスより濃密な音楽を終えて、私たちは荒くなった息もそのままに全身で余韻を味わった。この瞬間だけ、弾いている間は夢中で他のことを考える余裕などないけれど、弾き終えたこの僅かな時間だけ、私は目の前の女とひとつになれたような気がするの。

神代かじろさん……」

 名前を呼んで、初めて彼女と演奏したときの感動が背筋を這い上がって、甘い激情とぞっとするような執着に思わず吐きそうになる。オレンジがかった照明が照らしている彼女は、長い金髪ブロンドが大粒の汗に額へ張り付いて艶めかしく、黄金のトランペットの煌めきに負けず劣らず、この世のものとは思えないくらいに美しい。

 彼女との演奏に最適化された思考が少しずつ煩雑なものに、熱くて濡れた部屋の空気に、彼女の物欲しげな息遣いに、満たされていく。私は興奮していた。それは性的な欲求だった。

「……音楽ムジカ

 彼女は、そう答えた。何度も耳に焼き付けた彼女の名前は、彼女の本質そのものだ。彼女はまさしく、音楽musicaそのもの。

 神代音楽は、私にとっての音楽なのだ。


      ◯


 私を叱ると思っていた母はしかし、一度も声を荒立てなかった。私がピアノを前にして指と膝の震え、発作的な過呼吸、強迫性障害ノイローゼ、それらの症状に逃げ出すのを見ても少しも慌てずに、「今までが順調すぎたのよ。弾いている以上はこういうことだって起きる。美鍵はまだ若いんだから、少し休みましょう」と、そう言った。当時、十一歳になったばかりの私にとっては「まだ若い」なんて言葉は到底理解できるものではなく、焦燥と絶望と、それから何よりも後悔が、幼い私の中に厚く、深くまで降り積もっていた。

 コンクールとピアノの練習のためにそもそも休みがちだった小学校を完全に休学した。昔の私は小学校なんてクラシックやピアノに比べればつまらなくて低俗なところだと思い込んでいた。今の私はそんな低俗な場所にすら恐くて行けないのだ、と思うと、惨めさでいっそ死にたくなった。私は日がな一日自分の部屋で寝ているだけの怠惰な子供になった。それでも部屋にあったピアノが恐ろしくて、父に頼んで別の部屋に移してもらった。とにかくピアノというものが恐くて恐くて仕方なかった。憧れを、大切な音楽を、一人のピアニストを殺してしまったピアノが、自分の演奏が、憎くて憎くてたまらなかった。初めは私を放っておいてくれた母も、部屋に篭って一ヶ月が経った頃、見兼ねて私を連れ出した。それはクラシックのコンサートだった。母曰く弾けなくなったときは聴くのが一番なのだと。演目はモーリス・ラヴェルのボレロ。昔、父のレコードで何度か聴いたことはあっても、オーケストラの生演奏を聴くのは初めてだった。母だけでなく忙しい父までもが、雑誌の取材を断って一緒に演奏を聴きに来てくれた。私は何年ぶりかの両親と一緒の時間を手に入れた。思いがけない幸福に私は浮き足立って、辛い気持ちを忘れて今日だけは、昔みたいに純粋な気持ちでクラシックを楽しめるかもしれないと、愚かにもそう思っていた。

 コンサートが始まって、少しの間は平気だった。母も父も隣で私の手を握っていてくれて、生まれて初めて両親の温かさを感じられたような気さえした。

 それでも、私は駄目だった。

 ラヴェルのボレロ。秀逸な主題を何度も繰り返し演奏することで有名なこの曲は、世界一長いクレッシェンドと呼ばれることもある。その異名の通り、オーケストラはしつこいとさえ言えるほどにひとつの情念を繰り返し繰り返し訴えてくる。そしてそれは次第に熱を帯びていき、やがて大きく、厚くなる音に聴衆は呑み込まれていくのだ。エントロピーが増大するように、少しずつ音楽が膨張していく。何度もそれを聴いているうちに、私は自分の中に異変を見た。見てしまった。

 父と母に何度も謝って、お手洗いに行く、とだけ言ってホールを出た。父も母も戸惑ったような顔をしていたが、演奏が続いている以上は叱りつけるわけにもいかず、黙って見送ってくれた。私はトイレに駆け込んで、胃の中のものをすべて、吐き出してしまった。


 頭の中でピアノが鳴るのだ! どこにも無いはずの私のピアノが! 彼女を殺したピアノが!


 結局、何度も立ち上がろうとしても私はホールロビーのソファから動くことができず、演奏が終わってから出てきた両親に咎められても、頭を抱えて、無様に涙をぼろぼろ流して、壊れたように笑うことしかできなかった。次の日から、私は心の病院に通うことになった。


      ◯


 お医者さんの勧めで、私は小学校に通うことになった。母は新しい環境のストレスで私が悪化したらどうするのかと心配していたようだったけれど、私は別にどうでもよかった。結局は、父の説得で私は小学校を復学した。家に篭ったままでいるよりはずっとマシかと思った。幾つも知らない薬を飲むことになった。私が弾けなくなってから、水澄さんがピアノを辞めてから、あと少しで二ヶ月が経とうとしていた。

 初めはいわゆる保健室登校を繰り返していたのだけれど、気を利かせた担任の先生が私のためにクラスの生徒を何人か保健室に連れて来てくれるようになった。私はその時になって初めて、ずっとクラスメイトとして名前は知っていたのに、一度も話したことがなかった人たちのことを本当の意味で知った。私がなかば見下していた人たちは、私なんかよりもずっと強くて、優しかった。相変わらずピアノの音は聴けるものじゃなかったけれど、私は少しずつ体調を取り戻していった。

 復学して一週間、普通教室に登校するようになって、私が入り浸ったのは図書室だった。単純に音楽室から一番遠い場所だから、と選んだような理由だったけれど、たくさんの本とその匂いは、思いのほか私の心を落ち着けてくれた。私が図書室にいるときは、いつも逢野おおのさんという図書委員の子が一緒にいてくれた。彼女は私が保健室登校していた頃からよく話しかけてくれていた子で、いつもは物静かなのに好きな本の話になると途端に饒舌になる女の子だった。彼女は初めて会ったときから、ピアノなんて聴いたことも触ったこともないけどきっとすごいことなんだね、と私を褒めてくれた。内心の私はちっとも自分がすごいだとか偉いなんて考えられなかったが、物を知らないように見える彼女の気楽な言葉はむしろ私を楽にしてくれた。私は極力音楽、特にクラシックやピアノが出てこない本が読みたかったので、いつも彼女に本の選定を頼んでいたのだ。彼女はそれを喜んで引き受けてくれて、私たちは放課後いつも二人で本を読んでいた。だから、てっきり彼女が、私が音楽から、ピアノから離れていくことを応援してくれている子なのだと思い込んでいた。

 ある日の放課後のことだった。私がいつものように教室を出て図書室に出ようとすると、先生に呼ばれて席を外していた逢野さんのバッグからこぼれ落ちそうになっていた音楽プレイヤーを見つけたのだ。そこで素直にそれをバッグに戻すだけにしておけばよかったのに、私は垂れ下がっていたイヤフォンを耳にはめて、再生ボタンを押してみた。単なる好奇心だった。今までクラシック以外の音楽なんて聴いたことがなかったから、が聴くような音楽に興味があったのだ。けれど、私の耳に飛び込んできたのは、あろうことか私自身のピアノ演奏だった。すぐにイヤフォンを外してなかば逃げるように音楽プレイヤーから離れた。私は耳を疑った。自分の演奏が耳に入ってしまった苦しみとか、思い出される辛い記憶とか、そういうものよりもずっと、逢野さんの音楽プレイヤーになぜ私の演奏の録音が入っていたのか、それだけが気になった。私はわけがわからなくなって、無我夢中に走った。気が付けば体育館の裏にある体育倉庫に居た。暗くて湿った空気が気に入っていた。図書室の次にだったけれど。

 日が暮れて、そろそろ家に帰らなきゃ、と思う頃になって、体育倉庫に逢野さんが来た。彼女はひどく息を切らしていて、図書室に来なかった私を探して学校じゅうを走り回ったらしい。運動は苦手だって体育の時間にはいつもぼやいているのに、どうしてそんなに必死になるんだろう、と私はぼんやり思った。私は逢野さんのことが、正直に言って少し恐くなっていた。だから恐るおそる訊いたのだ。

「……逢野さん、どうして私のピアノなんか聴いてるの?」

 逢野さんはハッとしたような顔になって、それから泣きそうになるのをじっと堪えるみたいに唇を噛んだ。私は逢野さんの表情を見て息を呑んだ。逢野さんは何度も息を吸うのに失敗するみたいにして、けれど一生懸命に話した。

「ごめんね、黎元さん……あたし、黎元さんのピアノ、ずっと好きだったんだ……黙っててごめんね、騙すみたいにして、ごめんね……だけど、ほんとに好きで……黎元さんの音が聴きたくて……うらぎりものだよね、あたし……」

 上手な説明とは言い難かったけれど、それでも要約すればこういうことだ。逢野さんはクラシックやピアノが好きで、同年代の子たちのピアノコンクールを観るのが趣味だった。そこで私のことを知って、ずっと私の演奏を聴いてくれていた。それから私が弾けなくなって、学校に行くようになって、クラスメイトだったことを知った。どうしても私に近付きたかった彼女は、ピアニストとしての私を知っていることを隠して、私に話しかけた。彼女はそれだけ告白するとずっと泣いていた。私は馬鹿らしい、と思った。だから言ってやったのだ。

「ありがと、逢野さん」

「…………え?」

 不意に逢野さんの涙が止まって、訝るように私を見る。私はできるだけ優しい顔をして、笑顔なんてずっとしていなかったからどうすればいいのかわからなかったけれど、それでも懸命に笑顔を作ろうとがんばって、続ける。

「逢野さんが謝ることじゃないよ。私を傷つけないようにって、ついた嘘なら、私のためだから」

「……でもっ、あたし」

「正直言ってこれからまたピアノを弾けるようになれるのか、まだわからないけど、私がんばる。逢野さんみたいに私の演奏を聴いてくれる人がいる限りきっと弾き続ける。ううん、弾きたいの」

 逢野さんはまた泣き出していた。そんなつもりじゃなかったのに。

 私は、自分の犯した罪、誰かの、水澄さんの大事な音楽を壊してしまった罪を、許すことなんていつになってもできないかもしれないけれど、それでも弾きたいのだ。そう、初めて思えたのだ。それは紛れもなく逢野さんのおかげだった。だから、むしろ「ありがとう」だ。

 逢野さんが泣き止むまで、私は逢野さんの手をそっと握っていた。それはきっと、まだ震える私の手を逢野さんに解ってもらうためでもあって、私はまだちっぽけで、ひどく弱かった。

 逢野さんとは変わらずに図書室で一緒に本を読めるようになり、たまにはクラシックやピアノの話もできるようになった。それでも体調のいい日に少しの間、という制約はまだつくのだけれど。小学校に通い始めた私の症状は、日に日に良くなっていった。初めは幾つも飲んでいた薬も、気付けばひとつかふたつにまで減っていた。私はある程度まで今までの生活を、ピアノを除いた普通の生活を取り戻したのだ。


 それから、私は水澄麗花と再会した。

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