コンチェルト
くすり
幼年編 メジャー・スケール
メジャー・スケール Ⅰ
「ジャズってのはさ、きっと私たちみたいな生き物なんだよ」
防音室に綺麗な声が響いた。彼女の声が好きだ。彼女の音みたいに透き通っていて、だけど力強いの。何もかもを震わせてしまう音だ。
彼女はこういう話をよく聞かせてくる。私はそれが嫌いじゃなくて、時に興奮して、時に悲しそうに話す彼女の顔を見ていると、自分も彼女と同じ世界に生きているような気がして、なんとなく嬉しくなる。
「アフリカ音楽の力強いリズム……鼓動なの。命の強さ、しなやかさ……わかる?」
私は黙って頷く。気分のままにピアノをぽろぽろ弾く。彼女は目を瞑る。
「西洋音楽の正確な理論……和音の概念。これは理性だわ……あなたみたいに」
「光栄ですわ」
私が少しふざけて、畏まったようにそう返すと、ふふっと鈴が鳴るように笑う。彼女は幸せそうにピアノを聴いている。
「
指は勝手に動き出す。こうして感情に任せてピアノを叩くことを覚えて、長くないけれど。不安だって高揚だって幸福だって絶望だって、すべて音楽にすることの快感はもう忘れられない。
「……私はあなたの心に相応しいのかしら」
不意に心に翳りを認めて、私が尋ねる。彼女は答えない。代わりに黄金の言葉を掲げて、口許に添える。唇をぺろりと舐めて、少しだけ光沢して艶かしい。私は息を呑んだ。
「私たち、ジャズになりたいね……」
最後にそう、ひとつだけ囁いて、彼女の肩がすうっと動いたのを見て、私の意識は漂白した。指は愛撫みたいに熱心にピアノを叩いて、耳はセックスみたいに彼女の音を
私たちは、こうして語らう以外に、言葉を持てない生き物だ。そうしていればきっといつか、私たちはジャズになれるのかもしれない。
◯
親にピアノを買い与えられたのは、私が三歳の時だった。まだ言葉だって覚束ないのに鍵盤を叩くことを覚えた私は、押せば音が出る
クラシックは幼い私にとって空気みたいなものだった。母の演奏会に何度も連れて行かれたし、父は頻繁に音楽と音楽家の話をした。私にとって音楽のすべてはクラシックで、いつか私もその一部になるのだと、幼い私は信じて疑わなかった。五歳になる頃にはハノンやツェルニー、ブルグミュラーを弾きこなしていた私は、いつしか両親の期待を満身に背負っていた。
演奏家としての活動で忙しかった母が直接私を教えることはなく、練習は専ら家庭教師の先生と一緒だった。彼女は深山先生と言って、若い頃にコンクールでいくつも賞を取って前途を嘱望されていたが、指の怪我が原因で演奏家人生が挫折。以降は指導者として熱心に活動してきた有名な先生らしかった。当時、有名なピアニストも幾人か輩出しているとのことで、母が伝手を頼って特別にレッスンをお願いしたのだそうだ。
深山先生のレッスンは母とは違うベクトルに厳しかった。何よりも、弾けないということを認めないのだ。練習が足りない、才能が足りない、そんな平凡な言い訳は当然、指の未発達さえも許さない。彼女のレッスンはまず、課題曲を完璧に弾ける状態からでなければ始まらないのだ。他の子供より少しピアノが弾けるだけの子供だった私には、彼女のレッスンについていけるはずもなく。しかし私は彼女から、一言の叱責も受けなかった。彼女は教え子の不手際を前にしたとき、たったひとつ、しかし致命的なことをするのである。それは何も難しいことではなく、ただその後のレッスンをすべて放棄して彼女の家に帰るのだ。レッスン料は受け取らない。だからこそ
そしてついに二十回目のレッスンで、初めて最初の通し演奏を終えて、深山先生が帰らなかった。幼いながらに私は歓喜した。彼女にようやく認めてもらえたのだと思った。結局はその後、細かい指摘を山ほど楽譜に書き付けるよう指示されて、それをやっと覚えたばかりの字で書き写し終えた頃には、彼女は帰ってしまっていたのだが。しかしこの経験は私にとっての、初めての「成功」の経験になったのだと思う。このときの興奮と感動は幾つになっても忘れられないし、これ以上の喜びは私の人生に未来永劫、訪れないだろうと思っていた。
深山先生に帰られたり、きちんと聴いてもらえる日があったり、レッスンを重ねるうちに私の演奏技術は日進月歩に上達した。そして、そうしているうちに少しずつレッスンでは運指のための練習曲から、曲想を感じるためのバッハやショパン、ラフマニノフを弾くようになり、そしていつしか、彼女が聴いてくれる日は増えていった。私は彼女を母と変わらない、いいえ、母に向けるものとは違う感情でありながらも、心から敬愛するようになり、彼女も私を実の娘のようにかわいがってくれていたと思う。
──そして、私の十歳の誕生日。何の前触れもなく、深山先生が突然、私の家庭教師を辞めると言い出したあの日。初めて見る薄い笑みを浮かべた彼女が私に言い残した言葉は、私の心にいつまでも焼き付いて、それを忘れることを許さない。記憶の中の彼女だって、現実の彼女とちっとも変わらない。酷しくて、何よりも優しい私の先生。
「私が今もまだ弾けていたとしても、あなたほど上手に弾けるかどうか、自信がない。これからもがんばってね、
私が深山先生に、初めて名前を呼んでもらえた日だった。
◯
初めてコンクールに出たのは十歳になってすぐだった。E難度やF難度のクラシックを完璧に運指するようになった私は、それからいくつものコンクールを総なめにした。今では信じられないようなことだけれど、当時の私は「神童」とか「現代クラシックの申し子」とか、恐ろしく畏れ多い名前で渾名されていた。少年少女コンクールとは思えないほどの聴衆がホールに押し寄せ、コンクール史上初めて整理券を配るようなことにもなった。ピアニストとしての私の評判は、瞬く間に広がっていった。そして、私は彼女に出会った。
「あなたぐらい弾ける子なんていくらでもいるわ。私はあなたと違って、年齢とか、親の七光りなんかで弾いてない」
初対面の第一声は、呆れるほど冷たい声音で吐き棄てられた。私には興味がなかったので、知ったのは後になってからだけれど、彼女は
私と水澄さんが知り合ってから、私たちは何度もコンクールを争った。何度もなんども同じステージでピアノを弾いた。私には水澄さんの演奏の美しさが手に取るようにわかった。それが嬉しくて、私は未熟ながらも誰かを感動させられる演奏を目指した。意識し始めた当初はちっとも上手くいかなかった。今までの自分がいかに運指だけに精一杯になっていたかを思い知らされるような経験だった。しかし、それでも私のライバルは弾き続ける。誰かの心に届けるような音楽を。物心つく前にピアノを与えられたときのことを思い出した。水澄さんのピアノはきっと言葉と同じくらい、いいえ、言葉よりも雄弁に彼女を語るのだろう。私は憧れた。そして諦めずに水澄さんの真似をした。正確無比で機械的で無機質だった音楽に色が付いていく。私の音楽が鮮やかになっていく。それがたまらなく嬉しかった。水澄さんという目標は、私をますます成長させてくれたのだ。
そんなある日、水澄さんはピアノを辞めた。
いつもと変わらない気持ちでコンクール会場に向かった私は、その名前が出演者の名簿に見つけられないことに困惑した。今日のコンクールには著名なピアニストが審査員として参加する予定なのだ、彼女がエントリーしないはずがない、と。私は待った。私の演奏順がやってきて、いつものように演奏して、それから最後の演奏者が弾き終えるまで、ずっと待っていた。それでも、水澄さんは来なかった。一位入賞して登壇したときにも、ステージから水澄さんを見つけることは、ついにできなかった。
おかしい、と思って水澄さんを教えていたはずのピアノ講師の先生を訪ねた。偶然他の受け持ち生徒の付き添いでコンクールに来ていたのだ。私はどうして水澄さんが来ていないのか、病気や怪我なのか、いつ戻ってくるのか、そんなことを矢継ぎ早に質問したと思う。
先生は、淡々と答えた。
「水澄さんなら、本人の希望でレッスンを打ち切りました」
「……どうして? あんなに上手だったのに」
思わず訊き返した私の質問に、恨むような、哀れむような目をして答えたあの先生の表情。
「あなたも残酷なことを言うのね。あれだけ圧倒的な差をつけておいて、どうして辞めたのか? なんて。本当にわからないのだとしたら、あなたはひどい人だわ」
私は不意に頭をがつんと殴られて、暗闇に放り込まれたような錯覚に陥った。私のせいで水澄さんがピアノを辞めたのだ。その事実を正視できなくて何度もなんども喘いだ。過呼吸で医務室に運ばれた私はそのまま、たまたま近くに居たため迎えに来てくれた深山先生の車で家まで送られた。
翌朝目を覚ました私は、あんなに好きだったピアノが、まったく弾けなくなっていた。
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